「ロシア・ソ連」と「ウクライナ」の歴史① ~「ロシア帝国・興隆編」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

遂に、大変な事が起こってしまった。

2022(令和4)年2月24日、ロシアウクライナに侵攻を開始してしまったのである。

緊迫するウクライナ情勢に、世界中の目が注がれていたが、ロシアのプーチン大統領は、遂に軍事侵攻に、ゴーサインを出してしまった。

 

 

私は、このブログでは、基本的には、あまり政治や時事ネタは書いていない。

それよりも、私が好きな野球とか芸能ネタを書いている方を、呑気に書いている方が好きだからであるが、

流石に、世界平和の秩序の根幹を揺るがすような、ロシアによるウクライナ侵攻という「暴挙」については、何か書いておきたいと思った次第である。

という事で、そもそも何故、こんな事になってしまったのか、緊急特別企画(?)として、「ロシア・ソ連」「ウクライナ」の歴史を振り返り、その歴史的背景から、今回のウクライナ情勢を読み解いて行く事としたい。

それでは、まずは「第1回」として「ロシア帝国・興隆編」をご覧頂こう。

 

<「ロシア」の起源~9世紀にノルマン人が建国した、「ノヴゴロド公国」と「キエフ公国」~11世紀のウラジーミル1世の時代に、領土を拡大し、大国化>

 

 

 

では、まずは「ロシア」という国の起源から書く。

現在、「ロシア」と称している国の興りは、9世紀に建国された、「ノヴゴロド公国」「キエフ公国」に遡る。

地図をご覧頂くとわかる通り、「ノヴゴロド公国」「キエフ公国」は、東ヨーロッパの黒海の北の辺りに建国された。

そして、これらの国を作った民族は、「ノルマン人」である。

 

 

 

ちなみに、元々、その地域(ドニエブル川流域)には、「スラヴ人」という民族が住んでいたが、

9~12世紀にかけて、「ノルマン人」が、ヨーロッパ各地に版図を広げて行き、

その「ノルマン人」の一派が、前述の通り、東ヨーロッパの黒海の北側に侵入し、元々、住んでいた「スラヴ人」を追い払ったり、或いは混血が進んだりしながら、「ノヴゴロド公国」、「キエフ公国」といった国を作った。

 

 

ちなみに、862年に、「ノルマン人」の一派「ルーシ」の首長・リューリクという人物が、「ノヴゴロド公国」を建国した人であるが、この「ルーシ」という言葉が、今の「ロシア」の語源となった。

なお、「ノヴゴロド公国」は、その首都の名が、そのまま国名となったが、

この後、「ノヴゴロド公国」は、結構長い間、存続し、13世紀の「モンゴル帝国」の侵略を免れたが、15世紀になり、「モスクワ大公国」イヴァン3世に滅ぼされた。その事については、後述する。

 

 

一方、リューリクの子・イーゴリを擁した、オレーグという人物が、兵を率いて南下し、

882年、「ノヴゴロド公国」の南の地に、「キエフ公国」を建国した。

そして、オレーグ「キエフ大公」を自称したが、つまり、「キエフ公国」というのは、「ノヴゴロド公国」の一派が建国した国であり、この両国は姉妹関係である。

 

 

 

 

その後、「キエフ公国」は、ウラジーミル1世(在位:980~1015)の時代に、大いに領土を拡大した。

ウラジーミル1世は、周辺のスラヴ民族国家を次々に征服して行ったが、

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇帝・バシレイオス2世の要請を受け、軍事援助を行なった。

その見返りとして、ウラジーミル1世は、バシレイオス2世の妹を妃に迎え、ウラジーミル1世はギリシャ正教に改宗した。

こうして、ビザンツ帝国の「お墨付き」を得た「キエフ公国」は、大国としての地位を確立して行った。

 

<「ウクライナ」の起源~「キエフ・ルーシ」の中の、一部の地域だった「ウクライナ」>

 

 

さて、一方「ウクライナ」の起源であるが、

前述の「キエフ公国」、別名「キエフ・ルーシ」の中の一部の地域こそ「ウクライナ」であり、

つまり、「ロシア」と「ウクライナ」とは、元々、一つの国だったのである。

従って、歴史的背景を見れば、今のロシアのプーチン大統領が「ウクライナは、元々、ロシアの一部だった」と言い張るのも、一理有ると言えば、一理有ると言えなくもない。

それはともかく、「ウクライナ」も、「キエフ・ルーシ」を建国した、「ノルマン人」と、「東スラヴ民族」が住んでいた土地であり、「ロシア」とは、殆んど同じような物であった。

 

<12世紀~小国家に分裂してしまった「キエフ公国」>

 

 

ウラジーミル1世により、大国となった「キエフ公国」であるが、

12世紀になると、小国家に分裂してしまった。

1132年、キエフ大公ムスチスラフ(ムスチスラフ・ヴェリーキー)が死去すると、

「キエフ公国」は、その息子達に分割相続され、ご覧の通り、沢山の公国に分裂したのである。

以後、ルーシの地域が再統一される事は無かったが、

そうやって、ゴタゴタと内輪揉めをしている間に、ルーシの東の方では、史上最大の大帝国が誕生していた。

そう、あの「モンゴル帝国」である。

 

<「モンゴル帝国」に占領されてしまったロシア~「キプチャク・ハン国」として、モンゴル人の支配下に入り、「タタールの軛(くびき)」と称される>

 

 

 

 

1206年、チンギス・ハンが、モンゴル高原の諸部族を統一し、「モンゴル帝国」を建国した。

モンゴル高原に現れた、テムジンという英雄が、次々に周辺の諸部族を倒し、遂にはモンゴル統一に成功したが、

テムジンは、クリルタイという、全モンゴル民族の会合により、ハン(皇帝)の座に推戴された。

そして、テムジンはチンギス・ハンと名乗ったが、チンギス・ハンの死後、その息子達によって、更に帝国の領土は拡大されて行き、東はアジアから、西はヨーロッパに至るまで領土が広がる、史上空前の大帝国が築かれた。

「モンゴル帝国」は、「元」「オゴタイ・ハン国」「チャガタイ・ハン国」「キプチャク・ハン国」「イル・ハン国」などから成り、チンギス・ハンの子孫達が、それぞれの版図を支配していた。

 

 

 

 

そして、前述の通り、内輪揉めでゴタゴタしていた「キエフ・ルーシ」の各国家は、

西に侵攻して来た、「キプチャク・ハン国」に、あっという間に占領されてしまった。

何しろ、当時の「モンゴル帝国」は、世界最強の軍事力を誇っていたが、

それは何故かといえば、モンゴル人は馬を乗りこなしており、移動速度の速い騎馬軍団は、当時の世界では、最も機動力が高かった。

従って、そのモンゴルが攻めてくれば、弱体化していたロシアなど、ひとたまりも無かったのである。

非常に残念な事だが、昔も今も、「力の有る国が、力の無い国を滅ぼす」という構図は、変わらないのである。

 

 

 

 

という事で、13世紀には、キエフ公国の各国家は、モンゴルの支配下に置かれたが、

ロシア側から見て、モンゴルの支配下に入っていた時代は、

「タタールの軛(くびき)」

と、称されている。

ちなみに、「タタール」とはモンゴル人の事であり、「軛(くびき)」というのは、二頭の馬や牛を、荷台に取り付けるための、横木の事である。

つまり、この時代、ロシア人はモンゴル人に支配されてしまったという事を、端的に表す言葉が「タタールの軛(くびき)」というわけである。

 

<15~16世紀…「キプチャク・ハン国」の弱体化~「クリム・ハン国」(1430頃~1783)・「カザン・ハン国」(1445~1552)・「アストラ・ハン国」(1446~1556)・「シビル・ハン国」(1556~1598)などが独立>

 

 

 

 

1395年、新興の「ティムール帝国」の攻撃を受け、「キプチャク・ハン国」は弱体化した。

そして、弱体化した「キプチャク・ハン国」から、

「クリム・ハン国」(1430頃~1783)・「カザン・ハン国」(1445~1552)・「アストラ・ハン国」(1446~1556)・「シビル・ハン国」(1556~1598)といった、各国が、次々に独立して行った。

流石の、史上最強の「モンゴル帝国」も、この頃になると、衰えを見せていた。

なお、「シビル・ハン国」とは、今の「シベリア」であり、元々、「ロシア」と「シベリア」は別々の国であった。

そして、「クリム・ハン国」なる国こそ、今、問題になっている、あの「ウクライナ」の領域である。

 

 

 

 

今の地図に当て嵌めると、ご覧の通りであるが、

「クリミア半島」は、「ウクライナ」の南側で、黒海の方にはみ出している、半島である。

このクリミアを巡って、ロシアは血みどろの戦いを繰り広げる事となるが、その話については、後述する。

話を15~16世紀の、「キプチャク・ハン国」弱体化の頃に戻すと、

現在の「ウクライナ」に相当する地域は、北側は「リトアニア・ポーランド王国」の支配下にあり、南側が「クリム・ハン国」として独立していた。

当時の東ヨーロッパは、「リトアニア・ポーランド王国」が非常に強く、ロシアとは覇を競っていた。

 

<15~16世紀…「モスクワ大公国」の躍進~イヴァン3世(在位1462~1505)、「雷帝」イヴァン4世(在位:1533~1584)の時代に、領土を拡大~「モスクワ大公国」⇒「ロシア帝国」へ>

 

 

さて、時計の針を少し戻して、まだ「キプチャク・ハン国」の勢力が衰える前の時代、

1328年に、イヴァン1世が、「キプチャク・ハン国」からモスクワ大公位を認められ、

イヴァン1世は「モスクワ大公国」を建国した。

まだ「キプチャク・ハン国」の支配下ではあったが、一応、「モスクワ大公国」として認められたのである。

この「モスクワ大公国」が、以後、徐々に発展して行く事となる。

 

 

 

1480年、「モスクワ大公国」イヴァン3世は、当時、衰退の一途にあった「キプチャク・ハン国」への貢納を辞め、

遂に「モスクワ大公国」も、「キプチャク・ハン国」に反旗を翻した。

そして、「モスクワ大公国」は遂に独立を果たしたのである。

「モスクワ大公国」は、「タタールの軛(くびき)」から逃れる事となった。

 

 

1472年、イヴァン3世は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)最後の皇帝、コンスタンティノス11世パレオロゴスの姪と結婚し、イヴァン3世は、ビザンツ帝国から「ツァーリ(皇帝)」の称号と、「双頭の鷲」の紋章を受け継いだ。

これにより、モスクワはギリシア正教の中心地となり、ローマ・コンスタンティノープルに次ぎ、「第3のローマ」と称された。

言わば、「モスクワ大公国」は、ビザンツ帝国の「お墨付き」を得て、権威を高めたのである。

 

 

 

 

 

 

 

そして、「モスクワ大公国」は、「雷帝」と恐れられた、イヴァン4世(在位:1533~1584)の時代に、領土を大幅に拡大した。

イヴァン4世は、1552年に「カザン・ハン国」、1556年に「アストラ・ハン国」を併合すると、

1600年には「シビル・ハン国」をも併合し、イヴァン4世は、「モスクワ大公国」の領土を拡大させて行った。

そして、「モスクワ大公国」は、「ロシア帝国」と称される事となった。

なお、イヴァン4世は、非常に残忍で冷酷な性格の人物であり、部下を次々に粛清してしまったが、遂には自分の息子までも殺害してしまったのである。

まさに「雷帝」であるが、これぐらいの恐ろしい人物でなければ、大帝国など築けないという事であろうか?

今のプーチンも、これぐらい残忍で冷酷な人物だと言っては、言い過ぎであろうか…。

それはともかく、イヴァン4世の生涯は、後世、ソ連映画界の巨匠・エイゼンシュテインによって、『イワン雷帝』として、映画化されている。

 

<1613年…ミハイル・ロマノフが即位し、「ロマノフ王朝」(1613~1917)が誕生>

 

 

 

 

イヴァン4世の没後、「ロシア帝国」は政治的混乱が続いたが、

1613年、ミハイル・ロマノフが、全国会議でツァーリ(皇帝)に推戴された。

ミハイル・ロマノフは、皇帝に即位し、「ロマノフ王朝」の始祖となったが、

当時、ミハイル・ロマノフは弱小貴族であり、この人物は御しやすいと思って、貴族達が皇帝に推戴したようである。

だが、意外や意外、ミハイル・ロマノフは強(したた)かな男であり、皇帝としての地位を固めて行った。

そして、この「ロマノフ王朝」は、1613~1917年まで、実に300年以上も続く王朝となったのである。

 

<「ステンカ・ラージンの乱」(1667~1671)~ロシアの「農奴制」拡大に反対し、「コサック」と「農民」が結束して大反乱を起こす>

 

 

「ロマノフ王朝」は、建国されて間もない頃、

「ステンカ・ラージンの乱」(1667~1671年)という、大反乱に見舞われた。

これは、当時のロシアの「農奴制」の拡大に反対した、「コサック」(※南ロシアに逃亡した農奴が武装し、騎馬戦士として集団化した人達)と、農民達が結束し、ステンカ・ラージンという指導者に率いられ、実に4年間にわたり、ロシア全土で反乱を起こした。

彼らは、最終的にはロシア皇帝軍に鎮圧されたが、「ステンカ・ラージンの乱」は、当時の政府を震撼させた。

そして、これは後世の「ロシア革命」の淵源とも言われている。

「圧政に対し、国民が一致団結して立ち上がる」

という意味では、確かに「ロシア革命」に繋がるような出来事であった。

 

<ピョートル1世(在位:1682~1725)の時代~「ロシア帝国」を大発展させ、サンクトペテルブルクを築き上げた「ピョートル大帝」>

 

 

 

 

「ステンカ・ラージンの乱」を、どうにか鎮圧した「ロシア帝国」であるが。

その後、偉大なる皇帝が現れ、「ロシア帝国」は大発展を遂げる。

その偉大な皇帝こそ、「ピョートル大帝」こと、ピョートル1世(在位:1682~1725)である。

ロシアの歴史を語る上で、「ピョートル大帝」は絶対に欠かせない人物であるが、

ピョートル1世は、当時、まだ「後進国」だったロシアを発展させようと、大使節団を率いてヨーロッパ各国を視察して回るなど、非常に勉強熱心な人であった。

そして、ピョートル大帝は、オスマン帝国との戦争(~1696)や、スウェーデンとの北方戦争(1700~1721)に勝利し、「ロシア帝国」の領土を、大拡大させて行った。

 

 

 

 

なお、ピョートル大帝と同時代に、中国の清王朝は、康熙帝という名君の時代だったが、

1689年、ロシアと清は「ネルチンスク条約」を締結し、両国の領土を確定させたが、

これにより、ロシアと清は、お互いの領分を侵す事なく、それぞれの領土を広げて行った。

ピョートル大帝の時代に、ロシアは、ユーラシア大陸の東西に跨る、大帝国となった。

 

 

 

ピョートル大帝の功績として、よく知られているのは、

何と言っても、サンクトペテルブルクという街を築き上げたという事であろう。

と言っても、当時のサンクトペテルブルクは、全く何も無い湿地帯であった。

そこに、ヨーロッパの美しい街並みに倣った、新たな都を、ピョートル大帝は、文字どおりゼロから作り上げた。

 

 

 

 

 

新たな都の建設は、困難を極めたが、遂に都は完成し、

その都は、ピョートルの名に因んで、サンクトペテルブルクと名付けられた。

ピョートル大帝は、まず最初に、自らが先陣を切って、モスクワからサンクトペテルブルクに引っ越したが、

それを見て、他の貴族達も、渋々ながら(?)サンクトぺテルブルクへと移って行った。

こうして、ロシアでも最も美しい都・サンクトぺテルブルクが誕生したのである。

全く何も無かった湿地帯から、これだけの都を作ってしまう事が出来たのは、紛れもなく、ピョートル大帝の強大な権力が有ったからであろう。

 

<その頃、「ウクライナ」は…?~「ボフダン・フメリニツキーの乱」(1648~1657)⇒「ザポロージャ・コサック軍」というウクライナ人の近世国家が誕生し、ロシアの保護下に⇒「ポルダヴァの戦い」(1709)が鎮圧され、完全にロシアの支配下に入る>

 

 

 

一方、その頃、「ウクライナ」は、どうなっていたのかといえば、

前述の通り、「ウクライナ」は「リトアニア・ポーランド王国」の支配下にあったが、

その「リトアニア・ポーランド王国」からの独立を目指し、

「ボフダン・フメリニツキーの乱」(1648~1657)が起こった。

ボフダン・フメルニツキーに率いられ、ウクライナのコサックや農奴達が、「リトアニア・ポーランド王国」に対し、大反乱を起こし、彼らは、自治地域を拡大して行った。

 

 

その結果、「ザポロージャ・コサック軍」というウクライナ人の近世国家が誕生したが、

「サポロージャ・コサック軍」は、ロシアに対して親和的であり、ロシアの保護下に入った。

そして、この時、「ロシア」はピョートル大帝の時代だったが、

「ロシア」は「ウクライナ」を傘下に入れた事により、勢力を急拡大させ、オスマン帝国やスウェーデンなどの大国を破る事に成功した。

つまり、「ロシア」が大帝国に発展するキッカケとなったのが、「ウクライナ」を保護下に置いた事だったのである。

それというのも、「ウクライナ」は豊かな大穀倉地帯であり、「ロシア」としては、これで国力が一気に増大したからである。

 

 

だが、その後、「ロシア」と「ウクライナ」の関係は悪化し、

1709年に、「ウクライナ」は「ポルダヴァの戦い」で、「ロシア」に反旗を翻したが、

これはピョートル大帝に鎮圧され、「ウクライナ」は完全に「ロシア」の支配下に入った。

こうして、以後、暫くは「ウクライナ」は「ロシア」の下で、隠忍自重の時代を過ごす事となる(※1764年、ロシアにより、ウクライナの自治は完全に廃止された)。

 

<エカテリーナ2世(在位:1762~1796)の時代~ロシア帝国史上、最も華やかな「女帝」の時代>

 

 

1725年に、ピョートル大帝が亡くなった後、ロシア帝国(ロマノフ王朝)は、女帝や幼帝が相次いで即位し、

ロシアは、一時的に不安定な状態となったが、その後、ロシア史上に残る「女帝」が即位し、ロシアの黄金時代を築いた。

その「女帝」こそ、かの有名なエカテリーナ2世(在位:1762~1796)である。

 

 

 

エカテリーナは、元々、ドイツの貴族の娘であり、

ピョートル大帝の孫・ピョートル3世の妃として、ドイツからロシアに嫁入りして来たが、

ピョートル3世は、病弱であり、しかも暗愚な人物だったという。

エカテリーナは、夫に失望したが、彼女は、そんな夫の事は頼らず、ロシア語を習得するなど、熱心に勉強し、力を蓄えて行った。

そして、夫・ピョートル3世「急死」した後、エカテリーナ2世は即位したが、これは彼女の差し金であると言われている。

なお、夫の死後、エカテリーナ2世の右腕として働いたのが、グレゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ、グリゴリー・ポチョムキンらであり、

彼らは、エカテリーナの愛人だったとも言われている。

 

 

 

 

 

 

エカテリーナ2世は、「啓蒙専制君主」として、学芸や文化を熱心に保護したが、

これにより、ロシア文化は花開き、ロシア文化の黄金時代が到来した。

また、教育改革や法治主義を徹底的に推し進め、ロシア国民の知的水準を引き上げて行った。

そして、エカテリーナ2世の時代に、ロシアは、1783年に、クリミア半島に有った「クリム・ハン国」を併合し、

1772~1795年にかけて、3度にわたり、ロシア・プロイセン・オーストリアの3国で「ポーランド分割」を行なうなど、ロシアの領土を更に拡大させて行った。

かつて、あれほど強大だったポーランドは、この頃、すっかり弱体化しており、遂に、滅亡してしまったのである。

やはり、世界の歴史という物は「弱者が、強者に食われる」という事であり、その歴史が、延々と繰り返されていると言って良い。

 

 

 

 

 

なお、ロシアの歴史上、エカテリーナ2世ほど、

後世の時代に、数多くの作品に描かれた人物は、居ないのではないだろうか。

池田理代子が、エカテリーナ2世の生涯を漫画として描いた他、学習漫画の題材になったり、

ロシアでも、エカテリーナ2世の生涯が、ドラマ化されたりしている。

それだけ、エカテリーナ2世という人や、その時代は、多くの人達を魅了しているという事であろう。

 

 

 

また、エカテリーナ2世の時代、日本の漁師・大黒屋光太夫が、漂流してしまい、ロシアに流れ着いた後、

大黒屋光太夫が、エカテリーナ2世に謁見して、日本への帰国を許されたというエピソードが有るが、

この出来事は、緒形拳大黒屋光太夫の役を演じ、『おろしや国酔夢譚』(原作:井上靖)として映画化されているので、ご興味が有れば、ご覧頂きたい。

という事で、ロシアはウクライナなど、周辺諸国を次々に併合し、気が付けば強大な国となって行ったが、この後、ロシアは激動の時代を迎える事となるのである。

 

(つづく)