サザン史外伝【連続ブログ小説】「クワタとハラ坊」㉔(続×③1969)「横浜Lady Blues」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1969(昭和44)年、当時、茅ヶ崎一中の2年生だった桑田佳祐少年は、

それまでの「ムード歌謡」の歌唱法とは全く異なる個性を持ったボーカル・前川清を擁する、「内山田洋とクール・ファイブ」が歌った、『長崎は今日も雨だった』に、「どハマリ」していた。

前川清は、桑田佳祐が初めて憧れた、「ロック魂」を持ったボーカリストであった。

 

 

そして、1969(昭和44)年といえば、いしだあゆみが歌った『ブルー・ライト・ヨコハマ』が大ヒットした年でもあるが、

『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、作曲家・筒美京平「出世作」でもあり、「横浜」の「ご当地ソング」の「定番」となった。

「横浜」といえば、横浜・関内に住む少女、原由子にも、この頃、人生を左右する出来事が有った。

という事で、今回の「【連続ブログ小説】クワタとハラ坊」の「第24話」は、「1969年編」の「最終回」にして、「1960年代」のラスト・エピソードである。

それでは、まずは原由子「お受験」のエピソードから、ご覧頂こう。

 

<1969(昭和44)年2月…原由子、母親の母校・フェリス女学院中学校の入試に挑むが、不合格に終わる>

 

 

 

原由子の実家は、横浜・関内の天ぷら屋「天吉」だが、

原由子の自伝『娘心にブルースを』に、こんなエピソードが書いてある。

それは、原由子の「お受験」のエピソードである。

原由子は、地元の公立小学校に通っていたが、小学校6年生の時、地元・横浜の名門校・フェリス女学院中学の入学試験に挑んだという。

 

 

 

『娘心にブルースを』の、「お受験戦争」という章によると、

原由子の母親は、5人姉妹の3番目の子だったが、何と、その5人姉妹全員が、フェリス女学院に通っていたそうである。

原由子の母親のお父さん(つまり、原由子の祖父)は、早くに亡くなったが、原由子の母親のお母さん(つまり、原由子の祖母)は、頑張って働き、5人の娘を全員、フェリス女学院に入学させたという。

原由子のお祖母ちゃんも、原由子の母親と同じく、「負けず嫌いの頑張り屋」であった。

原由子の母親の青春時代は、ちょうど戦争の時代だったが、彼女がフェリス女学院で過ごした青春の日々は、とても楽しくて、キラキラ輝いていたそうだ。

だから、母親は娘に対し、フェリスで過ごした青春時代について、いつも娘(原由子)に楽しそうに語って聞かせていたので、

原由子も「私も、フェリスに入れたら楽しそうだなあ」と、自然と思うようになって行った。

そして、1968(昭和43)年、原由子は小学校6年生になると、当然のように、塾に入って受験勉強を始め、夏休みや冬休みには、特別講習にも通って、フェリスを目指すようになった。

 

 

 

そして、翌1969(昭和44)年2月、原由子の小学校6年生の冬、彼女はフェリス女学院中学の入学試験に挑んだ。

ペーパーテストは、とても難しかったが、その翌日の面接は、もっと大変であった。

その面接の時、原由子は「生まれて初めて味わう緊張感」で、頭の中は真っ白だったという。

面接官に、「大人をどう思いますか?」という、とても答えにくい質問をされた。

焦った原由子は、「大人は、ずるいから嫌いですぅ」と、口走ってしまった。

「ほーう、どうしてずるいんですか?」と、面接官は更に突っ込んで来たが、

ますます焦った原由子は、「大人は、嘘つきですぅ」と、答えてしまった。

一瞬の間を置いて、面接官は「はい、次の方、どうぞ」と、淡々とした口調で言っていた。

これ以降、原由子は「緊張すると、とんでもない事を口走る」という癖が付いてしまった。

 

 

 

その後、入試の合格発表が有ったが、原由子は、当然の如く、不合格であった。

勿論、面接のせいだけではなく、「ペーパーテストの結果も、もっと悪かったのだろう」と、原由子は述べている。

原由子と、彼女の母親は、発表を見た帰り、重い足取りで歩いていたが、親子が歩く夕闇の道は、暗いムードに包まれていた。

伊勢佐木町まで来た時、母は、重い沈黙を破るように、「映画でも見て行く?」と聞くと、

娘も「そ、そうだね…」と、ぎこちなく答えた。

(※ちなみに、この頃は、青江三奈『伊勢佐木町ブルース』が大ヒットしていた頃である。)

そして、親子は2人して映画(※アクション物のフランス映画だったという)を見たが、原由子の頭には、全く何も入って来なかったという。

原由子にとって、生まれて初めて味わう挫折感であった。

フェリス女学院は、中高一貫教育の学校なので、「これで、私の受験は終わった」と、原由子は思っており、彼女は地元の公立中学校に進学したが、この後、原由子のフェリスへの「挑戦」は、なおも続いて行く事となるのである。

 

<1969(昭和44)年…いしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』が大ヒット~後の大作曲家・筒美京平の「出世作」~「筒美京平の時代」が到来>

 

 

 

 

 

さて、当時、小学校6年生だった原由子が、フェリス女学院の受験に挑んでいた頃、

原由子の地元・横浜を題材とした曲であり、いしだあゆみが歌った『ブルー・ライト・ヨコハマ』が、爆発的な大ヒットを記録した。

『ブルー・ライト・ヨコハマ』のリリースは、1968(昭和43)年12月25日だったが、翌1969(昭和44)年に、『ブルー・ライト・ヨコハマ』は大ヒットし、この曲を歌う、いしだあゆみも大人気となった。

当時、原由子よりも1学年上で、中学2年生となっていた桑田佳祐少年も、美人のいしだあゆみの大ファンであった。

 

 

 

 

 

 

桑田佳祐少年に限らず、当時、世の男性達は、『ブルー・ライト・ヨコハマ』を歌う、いしだあゆみにメロメロであった。

大橋巨泉も、テレビ番組でいしだあゆみと共演した時、ご覧のように、全くデレデレだったものである。

それはともかく、『ブルー・ライト・ヨコハマ』は大ヒット街道を驀進し、この年(1969年)いしだあゆみは、「第20回NHK紅白紅白歌合戦」に初出場を果たした。

そして、以後、『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、横浜の「ご当地ソング」の定番となったのである。

 

 

 

 

『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、作詞:橋本淳、作曲:筒美京平というコンビで作られたが、

何と言っても、後の大作曲家・筒美京平「出世作」である。

『ブルー・ライト・ヨコハマ』といえば、それまでの歌謡曲の常識を覆すような、ゴージャスなブラス・アレンジが特徴であるが、

これによって、「無国籍歌謡」とも言うべき、独自の楽曲の世界観を作り上げる事に成功している。

という事で、この『ブルー・ライト・ヨコハマ』の大ヒットにより、日本の音楽界に、「筒美京平の時代」が到来する事となるのである。

 

<1969(昭和44)年10月5日…テレビアニメ『サザエさん』放送開始~『サザエさん』のテーマ曲も筒美京平が手掛け、以後50年以上も歌い継がれる>

 

 

 

 

 

 

1969(昭和44)年といえば、この年(1969年)10月5日、フジテレビで、

テレビアニメ『サザエさん』が放送開始された。

その『サザエさん』のテーマ曲(オープニング、エンディング)を手掛けているのも、筒美京平である。

『サザエさん』のテーマ曲も、ブラス・アレンジが特徴であり、何処となく『ブルー・ライト・ヨコハマ』と似た香りがするが、

この『サザエさん』のテーマ曲は、50年以上を経過した今も歌い継がれているというのは、皆様もご存知の通りである。

筒美京平は、このように、長い間、日本国民に愛される、普遍的な名曲をも生み出したのであった。

 

<1969(昭和44)年…作詞家・阿久悠、『白いサンゴ礁』(ズー・ニー・ヴー)、『港町シャンソン』(ザ・キャラクターズ)で、ヒットを飛ばす>

 

 

 

 

 

1960年代後半、立教大学出身の作詞家・なかにし礼が大活躍をしていたが、

明治大学出身の作詞家・阿久悠も、それに負けじと、頭角を現して来た。

1967(昭和42)年、ザ・モップスの『朝まで待てない』で、作詞家デビューを飾っていた阿久悠は、その2年後の1969(昭和44)年、『白いサンゴ礁』(ズー・ニー・ヴー)、『港町シャンソン』(ザ・キャラクターズ)の作詞を手掛け、これらは阿久悠にとって初のヒット曲となった。

こうして、阿久悠も「売れっ子作詞家」への道を歩み始めたが、前述の筒美京平阿久悠は、以後、日本の歌謡界に大きな足跡を残して行く事となるのである。

 

<1969(昭和44)年の、なかにし礼~奥村チヨ『恋の奴隷』、ザ・ドリフターズ『ドリフのズントコ節』が大ヒット>

 

 

 

阿久悠が台頭して来たとなれば、先輩格である、なかにし礼も、負けじとヒット曲を飛ばした。

この年(1969年)、奥村チヨが歌った『恋の奴隷』(作詞:なかにし礼、作曲:鈴木邦彦)が大ヒットしたが、『恋の奴隷』の歌詞も、なかなか凄い。

 

 

 

 

何しろ、『恋の奴隷』の歌詞というのが、

「あなたと逢ったその日から 恋の奴隷になりました…」から始まり、

「あなたの膝にからみつく 小犬のように」、「だからいつもそばにおいてね 邪魔しないから」、「悪い時はどうぞぶってね あなた好みの あなた好みの 女になりたい…」といった歌詞が続く。

今の時代なら、「女性蔑視だ」とか何とか、騒がれそうな歌詞(?)だが、

敢えて言うまでもないが、これは歌の世界で、「虚構」として書かれている、一つの「芝居」であり「物語」だから、良いのである。

それを、歌い手である奥村チヨが、「主役」として堂々と演じているのが、実に素晴らしい。

「こういう歌詞の歌を、爽やかで可愛い奥村チヨちゃんが歌ったから、全然、嫌らしさとかは無かったと思いますよ」

と、後に徳光和夫が言っていたが、全くその通りであると、私は思う。

まさに、なかにし礼が描く、「男女の恋愛の機微」を、奥村チヨという素晴らしい歌手が歌った事で、『恋の奴隷』は大ヒットを記録した。

 

 

もう一つ、この年(1969年)にリリースされ、なかにし礼が作詞した曲で、大ヒットを記録したのが、

当時、台頭著しかった、ザ・ドリフターズが歌った『ドリフのズンドコ節』である。

それにしても、この年(1969年)のなかにし礼は、『人形の家』(弘田三枝子)、『恋の奴隷』(奥村チヨ)、『ドリフのズンドコ節』(ザ・ドリフターズ)といった、本当に多彩な詞を書いているものだと、感心してしまう。

なお、『ドリフのズンドコ節』が大ヒットしたのは、この年(1969年)~翌年(1970年)にかけてであり、『ズンドコ節』の由来などについては、後述する。

 

<1969(昭和44)年10月4日…TBS『8時だヨ!全員集合』が放送開始~土曜の夜8時、遂にザ・ドリフターズの「看板番組」がスタート>

 

 

当時、ザ・ドリフターズは、人気急上昇中だったが、

昨年(2021年)4/29に、このブログにアップした、『【連続ブログ小説】クワタとハラ坊』の「第15話」(続々1967編)で書いた通り、

この頃、長い間、芸能界で活躍していたハナ肇とクレイジー・キャッツに代わり、ザ・ドリフターズが台頭して来ていた。

そして、「クレイジー・キャッツの時代」が終わり、「ドリフの時代」が、到来しようとしていたのである。

その「ドリフ」が、1969(昭和44)年10月4日放送開始の、TBSの「8時だヨ!全員集合」で、遂に「看板番組」を持つに至ったのである。

 

 

 

 

当時の「ザ・ドリフターズ」のメンバーは、

いかりや長介、荒井注、加藤茶、高木ブー、仲本工事の5人だったが、

『8時だヨ!全員集合』の放送開始に先立ち、その前週である、1969(昭和44)年9月27日、

「来週から始まる新番組」として、TBSで「8時だヨ!全身集合」の「番宣」が行われ、

当時、『ブルー・ライト・ヨコハマ』を大ヒットさせていた、いしだあゆみが、ドリフの元を訪ねるという、貴重な映像が残っている。

 

 

こうして、1969(昭和44)年10月4日、遂に「ザ・ドリフターズ」の看板番組「8時だヨ!全員集合」が放送開始された。

まず、日付にご注目頂きたいのだが、「全員集合」の第1回は、1969(昭和44)年10月4日(土)の夜8時であり、

前述のテレビアニメ『サザエさん』の第1話が放送されたのが、その翌日、1969(昭和44)年10月5日(日)の夜6時半である。

つまり、後に「昭和のお化け番組」と称される事となる、『8時だヨ!全員集合』と『サザエさん』は、僅か1日違いで放送開始されたという事になる。

なお、『8時だヨ!全員集合』は、毎週、公開生放送のコント番組であり、ドリフのメンバー達は、リーダーのいかりや長介の号令の下、毎週、みっちりと、コントのリハーサルをしてから、「全員集合」の公開生放送に臨んでいた。

ちなみに、そこでは「アドリブ」は一切許されず、全て「台本どおり」だったというのだから凄い。

一体、どれだけ入念に準備していたのかと、今更ながら、驚かされる。

 

 

その「8時だヨ!全員集合」の公開生放送を、舞台袖で、じっと見守る、1人の青年が居た。

その青年こそ、1950(昭和25)年2月20日生まれ、当時19歳だった、志村けんである。

志村けんは、高校卒業後、いかりや長介の自宅に押し掛け、いかりや長介に頼み込んで「弟子入り」していたが、

この頃は、志村けんは加藤茶の家に居候し、加藤茶の「付き人」をしていた。

この志村けんと、「8時だヨ!全員集合」が、後のサザンオールスターズ誕生に、大きく関わる事となるが、それは、もう少し先の話である。

 

<渥美清が「寅さん」を演じた、『男はつらいよ』が、1968(昭和43)年のテレビドラマ(フジテレビ)を経て、1969(昭和44)年に山田洋次監督で映画化~国民的映画「寅さん」シリーズの始まり~後の「桑田佳祐の音楽寅さん」や、「『男はつらいよ』お帰り、寅さん」での桑田佳祐の主題歌起用に繋がる>

 

 

 

 

1968(昭和43)年~1969(昭和44)年にかけて、喜劇役者・渥美清が、葛飾柴又の出身で、テキ屋稼業をしている、「フーテンの寅」こと車寅次郎を演じた、『男はつらいよ』というテレビドラマのシリーズが、フジテレビで放送された。

『男はつらいよ』は、東大出身の山田洋次が脚本・監督を手掛けたが、自由奔放で破天荒なキャラクター「寅さん」を、渥美清が、ノビノビと演じ、『男はつらいよ』は大人気となった。

なお、フジテレビ版『男はつらいよ』は、「寅さん」(車寅次郎)を渥美清、「寅さん」の妹・さくらを長山藍子、車竜造(寅さんの叔父)を森川信、車つね(寅さんの叔母)を杉山とく子、「寅さん」の初恋の相手のマドンナ・坪内冬子を佐藤オリエ、冬子の父、坪内散歩を東野英治郎などが演じている。

 

 

フジテレビ版『男はつらいよ』は、1968(昭和43)年10月3日~1969(昭和44)年3月27日まで、全26回が放送されたが、

残念ながら、第1話と最終話(第26話)しか、映像は現存していない。

その最終話(第26話)で、何と、「寅さん」は沖縄でハブに噛まれて死んでしまうという、衝撃的なラストとなったが、

「何で、寅さんを殺すんだ!!」

と、日本全国の視聴者から、フジテレビと山田洋次監督の元に、抗議が殺到したという。

これを受けて、『男はつらいよ』は、山田洋次監督で、改めて松竹で映画化される事となった。

 

 

 

こうして、1969(昭和44)年8月27日、山田洋次監督作品として、松竹映画『男はつらいよ』が公開されたが、

これが、後に国民的映画となる、「寅さん」シリーズの記念すべき第1作となった。

なお、映画化に際して、「寅さん」は引き続き渥美清が演じたが、「寅さん」の妹・さくらを倍賞千恵子が演じ、さくらの夫となる博を前田吟、車竜造(寅さんの叔父さん)は、テレビドラマ版と同じ森川信、車つね(寅さんの叔母さん)は三崎千恵子が、それぞれ演じている。

そして、映画化された『男はつらいよ』のマドンナ・冬子は、光本幸子が演じた。

ちなみに、光本幸子が演じたマドンナ・冬子は、柴又帝釈天の御前様(笠智衆)の娘という設定であった。

 

 

 

映画化された『男はつらいよ』は大ヒットを記録し、

早速、同年(1969年)11月15日には、「続編」として『続・男はつらいよ』が公開されている。

以後、「寅さん」シリーズは、矢継ぎ早に公開されて行き、「ドル箱」となって行くが、

『続・男はつらいよ』では、マドンナ・坪内夏子として、テレビドラマ版『男はつらいよ』にも出演していた、佐藤オリエが出演し(※テレビドラマ版の役名は「冬子」で、この時は「夏子」、映画での「冬子」は、前述の光本幸子)、その父・坪内散歩を、テレビドラマ版に続いて東野英治郎が演じた。

なお、今更言うまでもないが、いつも旅に出ている「寅さん」は毎度毎度、美人のマドンナに恋をして、その都度、フラれてしまうというのが、お決まりのパターンである。

そして、恋に破れた「寅さん」は、また旅に出て行くのである。

 

 

 

なお、桑田佳祐は「寅さん」を敬愛し、リスペクトしており、

遥か後年、フジテレビで「桑田佳祐の音楽寅さん」という番組を持っていた程である。

「音楽寅さん」は、断続的に放送され、桑田佳祐・ユースケサンタマリアが共演し、毎回、桑田が様々な曲を歌っていた。

 

 

 

そんな事も有ってか、2019(令和元)年、

既に渥美清が1996(平成8)年に亡くなってから23年が経っていたが、山田洋次監督が久々に「寅さん」シリーズを復活させた、

『男はつらいよ お帰り、寅さん』で、山田洋次監督からの、たっての願いにより、桑田佳祐が遂に「寅さん」の主題歌『男はつらいよ』を歌ったのは、記憶に新しい。

こうして、歴史は繋がっているというのは、非常に面白い物である。

 

<1969(昭和44)年8月4日…TBSで、テレビ時代劇シリーズ『水戸黄門』放送開始~2011(平成23)年まで42年間も続いた、国民的番組に>

 

 

 

1969(昭和44)年8月4日、TBSでテレビ時代劇シリーズ『水戸黄門』が放送開始された。

「水戸黄門」とは、水戸(徳川)光圀の呼び名であるが、「助さん」と「格さん」を従えた、水戸光圀の一行が、「世直し」のために日本各地を旅するという、

「水戸黄門漫遊記」という講談が元となっており、それまで何度も映画化されていたが、テレビ時代劇とした製作されたのは、この時が初めてであった(※実際に、徳川光圀はその生涯で一度も旅に出てはいない)。

なお、「黄門様」こと水戸光圀の役は、『男はつらいよ』にも出演していた東野英治郎が、「助さん」こと佐々木助三郎は杉良太郎、「格さん」こと渥美格之進は横内正が、それぞれ演じていた。

以後、『水戸黄門』は、出演者の交代を経ながら、2011(平成23)年まで42年間も続く、国民的番組となった。

 

<1969(昭和44)年10月7日…巨泉・前武の「ゲバゲバ90分」(日本テレビ)放送開始~この年(1969年)、大橋巨泉の「パイロット万年筆」のCMが話題に>

 

 

 

1969(昭和44)年、当時、テレビ界で人気を二分していた、

巨泉(大橋巨泉)・前武(前田武彦)が出演するバラエティー番組、日本テレビの「ゲバゲバ90分」が放送開始された。

「ゲバゲバ90分」は、多彩な出演者が、短い間隔で、次々にコントに登場するという番組であるが、

メイン・テーマ曲を宮川泰が手掛けており、誰もが一度は耳にした事が有るのではないだろうか。

 

<1969(昭和44)年の話題のCM~「はっぱふみふみ」という名文句の、大橋巨泉の「パイロット万年筆」&小川ローザの「OH!モーレツ」~後にサザンの『HOTEL PACIFIC』でもお馴染みに>

 

 

 

大橋巨泉といえば、この年(1969年)に話題になったのが、

巨泉が「パイロット万年筆」のCMに出演した際に披露した、

「みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ」

という、「五・七・五・七・七」の「名文句」である。

巨泉は、元々は「歌人」であり、その巨泉が言った、謎の短歌(?)は強烈なインパクトを残した。

そして「パイロット万年筆」は売上を大いに伸ばしたので、このCMは大成功であった。

 

 

 

そして、もう一つ、この年(1969年)に話題になったCMといえば、

真っ白な衣装を着た、小川ローザ「OH!モーレツ」でお馴染みの、丸善石油(現・コスモ石油)のCMであろう。

前述の大橋巨泉の「はっぱふみふみ」と、小川ローザの「OH!モーレツ」は世間に共に強烈な印象を与え、この年(1969年)の「流行語」となった。

 

 

 

そして、遥か後年、この31年後の2000(平成12)年に、

桑田佳祐が小川ローザの衣装を着て、「OH!モーレツ」と言うCMで話題となった、

サザンオールスターズの『HOTEL PACIFIC』が、大いに話題になった。

1969(昭和44)年当時、中学2年生だった桑田佳祐も、「OH!モーレツ」には、本当に強烈なインパクトを受けたのであろう。

そして、サザンがライブで『HOTEL PACIFIC』を演奏する時には、小川ローザ風の衣装(?)を着たバック・ダンサーがステージ上に登場するのが、「お約束」となっている。

 

<アポロ11号の「月面着陸」と、1969(昭和44)年のヒット曲>

 

 

 

1969(昭和44)年、世界的に話題になった出来事といえば、

アポロ11号の「月面着陸」であろう。

当時、アメリカとソ連という二つの大国が、熾烈な宇宙開発競争を繰り広げていたが、

アメリカが、遂に人類を月に送り込む事に成功したのである。

「1人の人間にととっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」

という、アポロ11号のアームストロング船長の言葉は、あまりにも有名である。

 

 

 

そして、この年(1969年)の主なヒット曲は、ご覧の通りであるが、

由紀さおりが歌った『夜明けのスキャット』という曲には、殆んど歌詞が無く、

そんな曲が、ラジオの深夜放送のテーマ曲として流れてから、一気に人気に火が付き、爆発的な大ヒットとなった。

この年(1969年)も、多種多彩なヒット曲が、世間を賑わせていた。

 

<1969(昭和44)年の野球界の主な出来事~金田正一の「通算400勝」&巨人「V5」(5年連続日本一)&正力松太郎の死去&「黒い霧事件」&「ミラクル・メッツ」>

 

この年(1969年)の野球界の主な出来事を、列挙しておく。

スペースの都合上、詳細は別の機会に譲るとして、下記のような出来事が有った。

 

 

・金田正一(巨人)、プロ野球史上初の「通算400勝」達成

 

 

 

 

・「巨人VS阪急」が3年連続、日本シリーズで対決し、巨人が4勝2敗で阪急を破り、巨人がV5(5年連続日本一)達成。日本シリーズMVPは長嶋茂雄。

 

 

・「プロ野球の父」正力松太郎が死去。

 

 

・西鉄ライオンズを中心に、プロ野球の「八百長」が発覚~「黒い霧事件」が起こり、球界に激震が走る(1969~1970年)。

 

 

・アメリカ大リーグで、「万年最下位」のニューヨーク・メッツが世界一を達成、「ミラクル・メッツ」と称される。

 

…という事で、「【連続ブログ小説】クワタとハラ坊」の「1960年代編」は、これにて終わるが、

次回からは、いよいよ「1970年代編」に突入する。

1970年代の、桑田佳祐と原由子の、多感な「青春時代」の物語については、また次回以降のお楽しみである。

 

(つづく)