【今日は何の日?】1968「阪神VS巨人」の激闘② ~1968/9/18「バッキーVS荒川博」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1968(昭和43)年のセ・リーグのペナントレースは、前半戦は川上哲治監督率いる巨人が首位を独走し、8月2日には2位・阪神との差が「9ゲーム差」にまで開いたが、

その後、藤本定義監督率いる阪神タイガースが、「村山実・江夏豊・バッキー」の3本柱のフル回転により、8月に「19勝2敗」という脅威的な快進撃を見せ、阪神が巨人を猛追した。

そして、1968(昭和43)年9月17日から、甲子園球場で「阪神VS巨人」の「天王山」の4連戦を迎える事となった。

 

 

1968(昭和43)年9月17日の「阪神VS巨人」の「天王山」の第1ラウンドは、

阪神の若きエース・江夏豊が、試合前の予告どおり、巨人の主砲・王貞治から、

シーズン最多奪三振の新記録となる「354」個目の三振を奪い、その後、江夏は自らサヨナラ打を放つ大活躍で、阪神が1-0で巨人を破った。

 

 

「江夏豊VS王貞治」の伝説的な名勝負だったが、江夏のシーズン最多奪三振新記録は、それまで1961(昭和36)年の稲尾和久(西鉄)が、「404イニング」を費やして樹立した「353」奪三振に対し、江夏が新記録を達成した時点では、まだ「276回1/3」だったというから、驚異的なペースである。

この年(1968年)の江夏は、本当に神がかり的な大活躍であり、まさに「江夏のシーズン」と言っても良かった。

その「江夏豊VS王貞治」の死闘の翌日、1968(昭和43)年9月18日は、「阪神VS巨人」の「天王山」第2ラウンドと第3ラウンドが有った。

第2ラウンドと第3ラウンドというのは、この日はダブルヘッダーで開催されたからであり、

そのダブルヘッダー第2試合で、「バッキーVS荒川博」の乱闘事件が起こってしまうのだが、今回は、その「バッキーVS荒川博」の乱闘事件など、引き続き「阪神VS巨人」の死闘を描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<1962(昭和37)年の阪神タイガース①~「小山正明・村山実」の2枚看板で、15年振りの優勝を達成!!>

 

 

 

1962(昭和37)年のセ・リーグは、藤本定義監督率いる阪神タイガースと、三原脩監督率いる大洋ホエールズが、

シーズン終盤まで、激しい優勝争いを繰り広げたが、最後は阪神が大洋との死闘を制し、阪神タイガースが、1947(昭和22)年以来15年振り、2リーグ分裂以降は初めての優勝を達成した。

この年(1962年)、阪神の藤本監督は、当時としては画期的だった、先発投手の「ローテーション制」を採用し、

小山正明・村山実の「2枚看板」を中心に、年間通して先発ローテーションをキッチリと守り、それが阪神の優勝に繋がった。

なお、この年(1962年)の「小山正明・村山実」のWエースの成績は、下記の通りである。

 

小山正明 47試合 26完投13完封 27勝11敗 防御率1.66

村山実 57試合 23完投6完封 25勝14敗 防御率1.20

 

 

いずれも、甲乙付け難い、素晴らしい成績であるが、

「MVP」は村山、「沢村賞」は小山が、それぞれ受賞している。

この時、小山は「沢村賞」こそ受賞したが、

「何で、MVPも俺じゃないんだ!?」

と、その事に対して、不満が有ったとも言われている。

 

<1962(昭和37)年の阪神タイガース②~アメリカのマイナーリーグで燻っていた、ジーン・バッキーが阪神の入団テストに合格し、阪神に入団>

 

 

 

さて、この年(1962年)の7月、アメリカのマイナーリーグで燻っていた、

1937(昭和12)年8月12日生まれ、当時25歳のジーン・バッキーという投手が、阪神タイガースの入団テストを受け、その結果、阪神の入団テストに合格したバッキーは、同年(1962年)7月21日、阪神タイガースに入団した。

当初、バッキーはあまり期待されておらず、阪神入団当時、バッキーの契約金はゼロであり、年俸は80万円であった。

バッキーは、身長191cmという長身だったが、阪神入団当時のバッキーは、とにかくコントロールが悪く、投手としては未熟だった。

この年(1962年)のバッキーは、8試合 0勝3敗 防御率4.70という、パッとしない成績に終わってしまった。

 

<1963(昭和38)年の阪神タイガース…勝率5割を割って3位に終わる⇒シーズンオフには「小山正明⇔山内一弘」の「世紀のトレード」が成立>

 

 

 

前年(1962年)に、15年振りの優勝を達成した阪神タイガースであるが、翌1963(昭和38)年は、シーズン通して今一つ投打が噛み合わず、

結局、この年(1963年)の阪神タイガースは、69勝70敗5分 勝率.496と「勝率5割」を割ってしまい、優勝した巨人には14.5ゲーム差を付けられ、3位に終わってしまった。

そんな中、入団2年目のバッキーが成長し、「小山正明・村山実・バッキー」という3本柱は、下記のような成績を残した。

 

小山正明 34試合 12完投(0完封) 14勝14敗 防御率3.59

村山実 28試合 10完投2完封 11勝10敗 防御率2.79

バッキー 33試合 7完投1完封 8勝5敗 防御率2.49

 

 

バッキーは健闘し、8勝を挙げたものの、小山と村山が、前年(1962年)の投げ過ぎの代償なのか、揃って不振に終わってしまったのが痛かった。

特に、村山はこの頃から、右肩痛や右手指の血行障害に悩まされ、満身創痍の状態で投げていたが、

この年(1963年)8月11日、後楽園球場の巨人-阪神戦で、7回からリリーフで登板した村山は、最初の打者に投じた球を「ボール」と判定された際に、

「どこ見てるんや!ワシは一球一球、命かけて投げてるんや!!」

と、審判団に涙ながらに抗議して、そのまま退場処分になってしまうという、所謂「村山の涙の抗議」という事件を起こしている。

それだけ、村山は「打倒・巨人」「打倒・長嶋」を胸に、命懸けで投げていたという事であろうが、

今の時代のプロ野球では考えられないほど、村山という投手は、熱すぎる男であった。

 

 

 

そして、この年(1963年)のシーズンオフ、

打線が弱い阪神タイガースと、投手陣の弱い大毎オリオンズとの利害が一致し、

阪神のエース・小山正明と、大毎の4番打者・山内一弘がトレードされるという、

所謂「世紀のトレード」が発表され、世間を驚かせた。

こうして、小山は阪神を去って行ったが、阪神としては、バッキーの成長も見越して、このような思い切ったトレードを行なったのであろう。

 

<1964(昭和39)年の阪神タイガース…「村山実・バッキー」の2枚看板により、阪神が大洋との激闘を制し、2年振り優勝!!>

 

 

 

 

そして、阪神の「世紀のトレード」は、大成功に終わった。

1964(昭和39)年、阪神の藤本監督は、村山実・バッキーの「2枚看板」を中心に、

またしても、年間通してローテーションをキッチリと守ると、「村山実・バッキー」の2枚看板は、大車輪の活躍を見せた。

そして、この年(1964年)は、またしても藤本監督率いる阪神タイガースと、三原監督率いる大洋ホエールズがが激しい優勝争いを繰り広げたが、阪神が大洋とのデッドヒートを制し、阪神が2年振りの優勝を達成した。

という事で、この年(1964年)の「村山実・バッキー」のWエースの成績は、下記の通りである。

 

村山実 46試合 17完投5完封 22勝18敗 防御率1.20

バッキー 46試合 24完投4完封 29勝9敗 防御率1.89

 

 

 

バッキーは、最多勝、最優秀防御率、そして外国人投手としては初めて「沢村賞」を獲得する大活躍を見せ、バッキーは見事に阪神のエースとして、阪神優勝の原動力となった。

バッキーは長身を活かした速球だけでなく、変幻自在な変化球を駆使する投球で、相手チームの打者を幻惑したが、

これは、当時、阪神の投手コーチを務めていた、かつての中日の大エース・杉下茂の指導の賜物であった。

 

 

また、当時、バッキーは家族と共に、長屋で生活していたが、

バッキーの活躍の原動力は「愛する家族のために、頑張る」という物だったという。

アメリカのマイナーリーグでは、どん底の生活を送っていたバッキーだったが、その境遇から這い上がろうと、必死で努力したという、

その「ハングリー精神」こそが、バッキーの大活躍の下地となっていたのであった。

 

<南海ホークスの「青い目のエース」スタンカ~バッキーよりも一足先に活躍し、1961(昭和36)年と1964(昭和39)年に、南海ホークスを優勝に導く>

 

 

さてさて、バッキーよりも一足早く、日本球界で大活躍していた外国人投手といえば、

南海ホークスのジョー・スタンカである。

ジョー・スタンカは、1931(昭和6)年7月23日生まれで、アメリカでは長くマイナーリーグで投げていたが、

1959(昭和34)年にスタンカは初めてメジャーリーグのシカゴ・ホワイトソックスに昇格し、勝利投手となった。

翌1960(昭和35)年、スタンカは日本の球団・南海ホークスにスカウトされて、南海に入団した。

 

 

スタンカといえば、身長196cmという大男だったが、その長身から投げ下ろされる剛速球で、忽ち、南海の中心投手となった。

当時、南海のエースだった杉浦忠が、酷使が祟って、右腕の血行障害に悩まされるようになると、スタンカが杉浦に代わって南海のエースの座に就き、「青い目のエース」スタンカは、1960(昭和35)~1963(昭和38)年にかけて、下記の通りの成績を残した。

 

1960(昭和35)年 38試合 11完投4完封 17勝12敗 防御率2.48

1961(昭和36)年 41試合 9完投2完封 15勝11敗 防御率3.31

1962(昭和37)年 38試合 5完投0完封 8勝10敗 防御率3.62

1963(昭和38)年 34試合 7完投4完封 14勝7敗 防御率2.56

 

 

 

スタンカは、当時、南海の正捕手・野村克也とも大変仲が良く、2人は息の合ったバッテリーだったが、

1961(昭和36)年にはスタンカの力投により、南海は2年振りにリーグ優勝し、南海は日本シリーズで巨人と対決した。

だが、南海の1勝2敗で迎えた第4戦、南海が3-2と1点リードして迎えた9回裏2死満塁、スタンカはエンディ宮本(宮本敏雄)を2ストライクで追い込みながら、球審の円城寺満「ボール」と判定されてしまった。

スタンカも野村も、円城寺に激しく抗議したが、勿論、判定は覆らなかった。

そして、この次の球を、スタンカはエンディ宮本に逆転サヨナラ安打を打たれてしまったが、

「円城寺 あれがボールか 秋の空」

という川柳が詠まれるなど、この判定は物議を醸した。

ない、日本シリーズは2勝4敗で南海が巨人に敗れてしまった。

 

 

 

1964(昭和39)年、スタンカ47試合 15完投6完封 26勝7敗 防御率2.40という成績を残し、

スタンカの大活躍により、南海ホークス阪急ブレーブスとの激しい優勝争いを制し、南海が3年振りの優勝を達成した。

エースとして、南海を優勝に導いたスタンカは、外国人選手としては初めて、MVPに選出された。

こうして、1964(昭和39)年の日本シリーズは、史上初めて「南海VS阪神」の「ナニワ決戦」となったが、

南海はスタンカ、阪神はバッキーという、それぞれの球団の外国人投手がエースとして、チームをリーグ優勝に導いたのである。

 

<1964(昭和39)年の「南海VS阪神」の日本シリーズ~南海がスタンカの「3完封」(第6戦・第7戦は2試合連続完封)の大活躍で、南海が4勝3敗で阪神を破り、南海が日本一>

 

 

 

1964(昭和39)年のプロ野球は、国家的な大イベントである「東京オリンピック」の開会式である、10月10日までに全日程を終わらせようと、

例年よりもだいぶ早く、パ・リーグは3月14日、セ・リーグは3月20日に開幕したが、セ・パ両リーグ共にペナントレースは激闘となり、

「南海VS阪神」の日本シリーズ第1戦の開幕は、1964(昭和39)年10月1日であった。

なお、世間では「東京オリンピック」に関心が集まり、日本シリーズへの注目度は、今一つであった。

せっかくの日本シリーズの晴れ舞台にも関わらず、甲子園球場には空席が目立ち、ヒッソリとした開幕となってしまった。

 

 

 

 

 

そんな風に、1964(昭和39)年の「南海VS阪神」の日本シリーズは、ヒッソリとした雰囲気で行われたが、南海と阪神は激闘を繰り広げた。

先に、阪神が3勝2敗と「王手」をかけたものの、南海のエース、スタンカ何と第6戦・第7戦に2試合連続で先発し、2試合連続で完封勝利を挙げるという、神がかり的な大活躍を見せ、南海ホークスが4勝3敗で阪神タイガースを破り、南海が日本一を達成した。

なお、この第6戦で初めて、スタンカバッキーが先発同士で対決したが、軍配はスタンカに上がった。

スタンカは、第1戦・第6戦・第7戦と「3完封」で、文句無しにMVPに選出された。

 

 

 

 

なお、日本シリーズ第7戦は1964(昭和39)年10月10日であり、

結局、「東京オリンピック」開会式当日と重なってしまい、マスコミの「南海日本一」の扱いは悪かった。

しかし、そんな事よりも、スタンカにとっては「人生最良の日」だった事は間違いない。

だが、そんなスタンカは、その後、突如として悲劇に見舞われてしまう事となる。

 

<その後のスタンカ~1965(昭和40)年…長男の事故死により、失意の南海退団⇒1966(昭和41)年…大洋に移籍し、「通算100勝72敗」の通算成績を残し、現役引退>

 

 

 

栄光の南海日本一の翌年、1965(昭和40)年、スタンカの長男・ジョーイが、

自宅の風呂場でガス中毒死するという悲劇が有り、スタンカ夫妻はショックに打ちのめされた。

失意のスタンカは、1965(昭和40)年限りで南海を退団し、アメリカに帰国したが、

翌1966(昭和41)年、スタンカは大洋ホエールズに移籍し、ここで6勝13敗 防御率4.16という成績を残したが、同年(1966年)限りでスタンカは現役引退した。

スタンカの、日本での通算成績は「264試合 55完投18完封 100勝72敗 防御率3.03」という物であり、外国人投手としては史上初めて、「通算100勝」を達成している。

 

<その後のバッキー~1965(昭和40)年には巨人戦で「ノーヒット・ノーラン」を達成するなど、阪神投手陣の中心として活躍>

 

 

 

 

スタンカが現役引退し、アメリカに帰国してしまった後も、阪神のバッキーは健闘を続けた。

バッキーは、1965(昭和40)年6月28日、甲子園球場の阪神-巨人戦で、ノーヒット・ノーランを達成したが、

この時、バッキーは1メートルも飛び上がって、喜びを爆発させている。

1965(昭和40)~1967(昭和42)年にかけての、バッキーの成績は、下記の通りである。

 

1965(昭和40)年 40試合 20完投6完封 18勝14敗 防御率2.28

1966(昭和41)年 40試合 14完投6完封 14勝16敗 防御率2.78

1967(昭和42)年 38試合 19完投2完封 18勝12敗 防御率2.30

 

 

バッキーは、村山実と共に、阪神投手陣にとって欠かせない存在となっていた。

また、1967(昭和42)年に阪神に入団した江夏豊と共に、「村山実・江夏豊・バッキー」が、阪神の「3本柱」となっていた。

そういった状況で、バッキーの運命を大きく変えた、1968(昭和43)年9月18日という日がやって来るのである。

 

<1968(昭和43)年9月18日…「阪神VS巨人」のダブルヘッダー第1試合(「天王山」第2ラウンド)~「ヒゲ辻」こと辻佳紀のサヨナラ2ランホームランで、阪神が巨人を破り、遂に巨人と阪神は「0ゲーム差」に迫る>

 

 

 

 

当時の阪神タイガースには、2人の「辻」という姓の捕手が居た。

1人は、「ダンプ辻」と称された辻恭彦であり、

もう1人は、「ヒゲ辻」と称された辻佳紀である。

1968(昭和43)年当時、どちらかと言えば、「ヒゲ辻」の方が出場機会は多かったが、

江夏は、「ダンプ辻」との相性が良く、江夏が投げる時は「ダンプ辻」が、

村山やバッキーが投げる時は「ヒゲ辻」が、それぞれ捕手として出場する事が多かったようである。

 

 

 

 

 

さて、1967(昭和43)年9月17日、「阪神VS巨人」の「天王山」第1ラウンドは、「江夏豊VS王貞治」の一騎打ちに甲子園球場が沸いたが、

その翌日、今から53年前の本日(9/18)、1968(昭和43)年9月18日は、「阪神VS巨人」のダブルヘッダーが行われる事となった。

前日(1967/9/17)に、阪神が1-0で巨人にサヨナラ勝ちしたため、首位・巨人と2位・阪神は「1ゲーム差」となっていたが、

この日(1968/9/18)のダブルヘッダー第1試合は、阪神・村山実、巨人・堀内恒夫という両エースが先発した。

 

 

 

 

阪神・村山、巨人・堀内の互角の投げ合いが続いたが、

「打倒・巨人」「打倒・長嶋」に闘志を燃やす村山は、ピンチの場面で長嶋を併殺打に打ち取るなど、

前日の江夏に負けじとばかり、素晴らしい投球を見せた。

そして、0-0の同点のまま、試合は9回裏、阪神の攻撃となった。

 

 

 

 

 

9回裏、阪神はこの回先頭の小玉明利がヒットで出塁すると、

続く吉田義男がキッチリとバントで送り、阪神が1死2塁という、一打サヨナラの場面を作った。

ここで打席に入ったのが、「ヒゲ辻」こと辻佳紀である。

そして、この場面で「ヒゲ辻」は、堀内の投球を捉え、センターのバックスクリーン右へ飛び込む、サヨナラ2ランホームランを放った。

 

 

 

 

殊勲の「ヒゲ辻」は、ガッツポーズをしながら、満面の笑みを浮かべてベースを一周し、

その「ヒゲ辻」を、歓喜と興奮に沸く阪神の選手達が出迎えた。

阪神が2-0で巨人を破り、阪神は2試合連続で巨人にサヨナラ勝ちを収め、これで巨人と阪神は「0ゲーム差」となった。

勝率の差で、僅かに巨人がリードしていたが、両者は、これでほぼ横一線に並んだと言って良い。

 

<1968(昭和43)年9月18日…「阪神VS巨人」のダブルヘッダー第2試合(「天王山」第3ラウンド)①~「バッキーVS荒川博」の乱闘事件が勃発!!>

 

 

続く第2試合、阪神の先発はバッキー、巨人の先発は金田正一である。

この試合に勝てば阪神は首位に浮上するが、その気負いも有ったのか、序盤からバッキーは荒れ模様であり、

立ち上がりから、バッキーの調子は悪く、初回に味方野手陣のエラーもあって、バッキーは巨人に1点を先取された。

4回表にも、エラーなどもあって、巨人は更に4点を追加、阪神は0-5と劣勢に立たされた。

この日のバッキーは、思うようなピッチングが出来ず、頭に血が上り、カッカとしていいたようであるが、

4回表2死2塁、打席に王貞治を迎えた所で、事件は起こった。

 

 

 

 

 

バッキーは、明らかに冷静さを欠いていた。

1球目、バッキーが投じた球は、王の顔面近くに行ってしまい、王は危うく避けたが、

バッキーに狙われていると感じた王は、捕手の「ヒゲ辻」に対し、

「次も顔の近くに来たら、マウンドに行くよ」と言っている。

続く2球目も、バッキーの投球は、王の顔面の近くに行った。

流石に、普段は冷静沈着な王も顔色を変え、マウンドに向かい、

王はバッキーに対し、「危ないじゃないか!!」と、文句を言いに行った。

バッキーも王に向かって行ったが「わざとじゃない」というような事を答えたという。

それで、王は一旦は打席に戻ろうとしたが、その時、両者が上記の会話を言ったか言い終わらないかの内に、「それっ!!」とばかりに、巨人ベンチからコーチや選手達が一斉に飛び出し、バッキーの元へ殺到した。

 

 

 

 

 

この時、最も頭に血が上っていたのが、巨人の荒川博コーチであった。

荒川博といえば、王貞治を手塩にかけて育て上げた人であるが、

その王が、バッキーのために危険な目に遭わされ、荒川コーチは、

「てめえ!俺の大事な王に、何て事しやがるんだ!!」

と、バッキーに襲いかかり、いきなりバッキーに蹴りを入れた。

すると、バッキーも荒川に応戦し、何と、バッキーは荒川の顔面を殴りつけてしまったのである。

所謂「バッキーVS荒川博」の乱闘事件であるが、

その後、阪神と巨人の両軍が入り乱れる大乱闘となり、騒動の責任を取らされ、バッキーと荒川は退場処分となった。

 

 

この時、バッキーは頭に血が上るあまり、とんでもない事をやらかしてしまった。

バッキーは、大事な利き手である、右手で荒川を殴ってしまったため、右手の親指を複雑骨折してしまったのである。

結局、この試合を最後にバッキーは戦線を離脱し、残りのシーズンを棒に振ってしまった。

バッキーとしては、何とも痛すぎる代償を払ってしまった。

 

<1968(昭和43)年9月18日…「阪神VS巨人」のダブルヘッダー第2試合(「天王山」第3ラウンド)②~バッキーから交代した権藤正利が、王貞治の右側頭部を直撃し、王は負傷退場⇒その直後、「燃える男」長嶋茂雄が、乱戦に決着を付ける3ランホームラン>

 

 

 

 

 

 

だが、騒動はこれだけでは終わらなかった。

バッキーに代わり、阪神は急遽、2番手として権藤正利をマウンドに送ったが、

その権藤は、手元が狂ってしまったのか、何と王の右側頭部を直撃する死球を投げてしまったのである。

王は、その場にバッタリと倒れ、そのまま動けなくなってしまい、担架で運ばれ、負傷退場となってしまったが、

またしても、甲子園球場は騒然とした雰囲気に包まれた。

 

 

またしても、阪神と巨人の選手達が飛び出し、グラウンド上は大乱闘となってしまった。

興奮したファンがグラウンドに飛び降り、警備員がそれを取り押さえるなど、

甲子園は物騒な雰囲気であり、スタンドを埋め尽くした大観衆からは、怒号と野次が飛んでいた。

だが、この場面で、その輪には加わらず、1人、静かに闘志を燃やしていたのが、ネクスト・バッターズサークルに居た、長嶋茂雄である。

 

 

 

 

 

 

長嶋は、盟友・王貞治が死球で退場してしまい、場内が騒然とする中で、

集中力を極限まで高め、打席に向かった。

そして、長嶋はこの場面で、権藤の投球を捉え、レフトスタンドへ飛び込む、35号3ランホームランを放ったのである。

長嶋は、一振りで観客を黙らせれてしまったが、「ここは、絶対に打つしかない!!」と、集中力を高めた時の長嶋は、本当に打ってしまうのだから、全く凄い選手であった。

流石は「燃える男」長嶋茂雄であるが、長嶋はホームランを打った後、珍しく興奮し、両手を上げて万歳しながら、ベース一周をした。

 

 

長嶋は、8回表にも36号2ランホームランを放ったが、

結局、長嶋が大乱戦に決着を付け、巨人が10-2で阪神を破り、

巨人が再び阪神に「1ゲーム差」を付け、巨人が首位を守った。

こうして、「阪神VS巨人」の「天王山」第2・第3ラウンドは、阪神と巨人が1つずつ勝つという結果であった。

 

(つづく)