【今日は何の日?】1974/7/21…高井保弘、オールスター史上初の「代打逆転サヨナラ2ラン」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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本日(7/21)は、今から47年前の、1974(昭和49)年7月21日、

後楽園球場でのオールスターゲーム第1戦で、阪急ブレーブス高井保弘が、オールスターゲーム史上初の「代打逆転サヨナラ2ラン本塁打」を放った日である。

高井保弘といえば、「代打通算本塁打27本」という「世界記録」を持つ、「代打の切り札」の代名詞的な存在であるが、

その高井が、オールスターゲームという大舞台で、「代打男」の面目躍如とも言うべき、劇的な代打逆転サヨナラ2ランを放った。

 

 

プロ野球のオールスターゲームは、これまで様々な名場面が有ったが、

高井保弘「代打逆転サヨナラ2ラン本塁打」は、オールスター史上の「名場面ベスト10」には、必ず挙げられる程の、劇的なドラマである。

そして、そこには高井保弘という「代打男」の生き様が、凝縮されていたと言って良い。

という事で、今回は高井保弘という、稀代の「代打男」の野球人生にスポットを当ててみる事としたい。

それでは、ご覧頂こう。

 

<1964(昭和39)年に阪急ブレーブスに入団後、数年間は「二軍の帝王」だった高井保弘>

 

 

高井保弘(たかい・やすひろ)は、1945(昭和20)年2月1日、愛媛県今治市に生まれた。

幼少の頃から野球少年だった高井は、今治西高校に進学し、野球部に入部すると、1年生の頃から4番を任されるなど、強打を発揮した。

その後、社会人の名古屋日産モーターに進み、そこでも高井は豪打を発揮し、プロ野球のスカウトの目に留まった。

高井には、プロ野球の複数の球団からの誘いが有ったが、高井は「引退間際のベテランが多いので、ポッと出の自分にも出番が多そうだから」という理由で、阪急ブレーブスを選び、1964(昭和39)年、高井は阪急に入団した。

だが、当時、西本幸雄監督の指導の下、阪急は徐々に戦力を充実させている時期であり、高井がそのメンバーに入り込む余地は無かった。

高井は、プロ入り3年目の1966(昭和41)年に、初めて一軍の公式戦に出場したが、基本的には「二軍暮らし」が続いた。

高井は二軍では向かう所敵無しで、二軍(ウエスタン・リーグ)で「首位打者1回、本塁打王2回、打点王2回」を獲得したが、西本監督は、変化球に弱く、守備力にも難が有った高井を、なかなか評価せず、高井は「二軍暮らし」に甘んじていた。

そんなわけで、高井は「二軍の帝王」という異名を取っていた。

 

<「野球博士」ダリル・スペンサーの影響により、相手投手の癖を研究し始めた高井~やがて、阪急の「代打の切り札」に成長>

 

 

 

だが、そんな高井に大きな転機が訪れた。

高井と同じ、1964(昭和39)年に阪急ブレーブスに入団した、ダリル・スペンサーは、

「赤鬼」と称された程、迫力満点の大男であり、1965(昭和40)年には野村克也(南海)と「三冠王」争いを繰り広げた程の強打者だったが、それもその筈、スペンサーアメリカ大リーグの複数の球団で活躍していた、現役バリバリのメジャー・リーガーだったのである。

 

 

 

だが、スペンサーには、「赤鬼」の他に、もう一つの異名が有った。

それは「野球博士」というものである。

スペンサーは、巨体を揺らし、相手チームの選手に猛善とスライディングして行くなど、アメリカ大リーグ仕込みの激しいプレーが身上だったが、スペンサーが凄かったのは、そういった面だけではない。

スペンサーは、相手チームの事を、事細かに、綿密に研究し尽くしており、なおかつ、相手チームの投手の癖を徹底的に観察するなど、日本のプロ野球に「データ分析」を初めて持ち込んだ選手でもあった。

従って、阪急の選手達は、スペンサーに畏敬の念を込めて、「野球博士」と呼んでいたのである。

スペンサーの登場により、それまでは、ただ「投げて打って走る」という、単純な図式(?)だった日本のプロ野球に、初めて「データ野球」の概念が持ち込まれたと言っても良かった。

 

 

 

 

そのスペンサーの影響を、もろに受けたのが、高井保弘であった。

高井は、スペンサーに倣い、自分でも相手チームの投手達の癖を徹底的に研究し、相手チームの投手を分析するようになったが、その研究や分析の内容について、いつも持ち歩いていたノートに、ビッシリと書き込んで行った。

高井は、当時、漸く一軍に昇格し、一軍に定着しつつあったが、高井は「控え選手」だったので、

試合中でも、普段着のジャンパーを着て、阪急のチームの帽子ではない物を被り、ネット裏に陣取って、相手チームの投手を、じっと観察し、その内容を、せっせとノートに書き続けた。

そして、そのノートには、膨大な量のデータが蓄積されて行ったが、これこそが所謂「高井ノート」である。

高井は、相手投手の癖を研究しまくり、彼らの癖を洗い出し、丸裸にして行ったのである。

 

 

 

 

その結果、どうなったのかと言うと、高井は例の「高井ノート」のお陰もあって、ここ一番で起用される、阪急の「代打の切り札」となって行った。

高井は、守備に難が有ったが、打撃力は高かったので、遂に西本監督に、打撃力を買われるようになったのである。

だが、1試合に3回も4回も打席が回って来る、レギュラー選手とは異なり、

代打(ピンチ・ヒッター)というのは、「ここぞ!」という場面で起用され、たった1打席で結果を出さなければならないという、厳しい稼業である。チャンスで登場し、必ずランナーを返すバッティングが期待される、代打という仕事は、物凄い集中力が必要とされる。

そんな中、高井は西本監督に、チャンスの場面で「代打、高井!」を告げられると、かなりの確率で、快打を飛ばして行った。

高井は、試合に出ていない時も、相手投手を徹底的に観察し、そして極限まで集中力を高めていた。

だからこそ、代打で登場しても、高井は結果を出す事が出来たのである。

 

 

高井は、1967(昭和42)年に、初めての代打ホームランを放つと、その後も、1970(昭和45)年に3本、1972(昭和47)年に5本の代打ホームランを放った。

そして、高井は翌1973(昭和48)年にも1本、代打ホームランを放ち、これで「通算代打ホームラン」は10本となった。

高井は、阪急ブレーブスの黄金時代にあって、阪急の「代打の切り札」と称されるようになっていた。

 

<1974(昭和49)年6月28日…高井保弘(阪急)、東尾修(太平洋)から「通算14本目」の代打ホームランを放ち、「日本新記録」達成!!>

 

 

 

1974(昭和49)年、高井保弘は、更に3本の「代打ホームラン」を放ち、

これで「通算代打ホームラン」は13本となり、それまで中西太(西鉄)が保持していた、「通算代打ホームラン」の「日本記録」に並んだ。

そして、1974(昭和49)年6月28日、平和台球場の太平洋-阪急戦で、高井保弘は、東尾修(太平洋)からシーズン4本目の「代打ホームラン」を放ち、これで「通算代打ホームラン」14本の「日本新記録」を達成した。

この後、高井は同年(1974年)7月13日、大阪球場の南海-阪急戦で、中山孝一(南海)から、またもや「代打ホームラン」を放った。

シーズン5本目、通算15本目の「代打ホームラン」だったが、高井はもはや、押しも押されもせぬ、「日本一の代打男」へと、のし上がっていた。

 

<1974(昭和49)年7月…南海・野村克也監督、高井保弘(阪急)を「代打」として、オールスターに監督推薦!!~高井保弘、プロ11年目にしてオールスター初出場へ>

 

 

さてさて、高井が「代打ホームラン」を連発していた頃、

南海ホークス野村克也監督は、「代打男」の高井に、大いに注目していた。

というよりも、野村監督は、プロ野球の世界で、「代打の切り札」として、一芸に秀でている、高井という選手に惚れ込んでいたと言っても良い。

その野村監督は、前年(1973年)にパ・リーグ優勝を果たしていたため、この年(1974年)のオールスターゲームでは、パ・リーグの監督を務める事となっていた。

 

 

 

 

そして、野村監督は、何と高井保弘の事を、オールスターゲームのメンバーに監督推薦したのである。

「代打」の選手が、オールスターに選ばれるというのは、異例の事であった。

「本当か!?あんな華やかな場所に、俺なんかが入っても良いのか?」

高井はビックリし、戸惑っていたが、野村監督は、

「こういう一芸に秀でた選手にこそ、オールスターの晴れの舞台で、スポットライトを浴びて欲しい」

という願いが有ったようである。

そんな野村監督の意図を知って、高井も大いに意気に感じた。

こうして、高井はプロ入り11年目にして、初めてオールスターゲームに出場する事となった。

 

<1974(昭和49)年7月21日…オールスタゲーム第1戦で、高井保弘(阪急)が松岡弘(ヤクルト)から、劇的な「代打逆転サヨナラ2ランホームラン」を放つ!!~「日本一の代打男」が、オールスターの晴れ舞台で「一世一代」の大仕事>

 

 

 

 

1974(昭和49)年7月21日、後楽園球場で、オールスターゲーム第1戦が開催された。

パ・リーグの先発は木樽正明(ロッテ)、セ・リーグの先発は堀内恒夫(巨人)である。

セ・リーグは1回表に1点を選手し、3回表にも1点を加え、2-0とリードしたが、

3回裏。パ・リーグも1点を返し、パ・リーグが1-2と1点差に迫った。

試合は、1点を争う好ゲームとなった。

 

 

その後、パ・リーグは木樽正明(ロッテ)-新美敏(日本ハム)-村田兆治(ロッテ)-山田久志(阪急)と継投し、

セ・リーグは堀内恒夫(巨人)-平松政次(大洋)-松岡弘(ヤクルト)という投手リレーを見せた。

そして、試合は2-1とセ・リーグが1点をリードしたまま、9回裏を迎えた。

 

 

セ・リーグは、堀内恒夫(巨人)が3イニング、平松政次(大洋)も3イニングを投げた後、

3番手として、ヤクルトスワローズ松岡弘が7回から登板し、松岡は7回・8回と、パ・リーグを無得点に抑え込んでいた。

松岡の剛速球の前に、パ・リーグの強打者達も、手も足も出ないといった風情である。

そして、2-1とセ・リーグの1点リードを守るべく、松岡が9回裏のマウンドに上がった。

 

 

 

 

9回裏、松岡弘は、まずは1死を取った後、6番・有藤道世(ロッテ)の代打として登場した土井正博(太平洋)との対決を迎えた。

ここで、土井正博は、三塁を強襲する安打を放ち、局面は9回裏1死1塁となった。

実は、この場面では、セ・リーグの三塁手として出場していた長嶋茂雄(巨人)は既に交代し、ベンチに下がっており、

長嶋に代わって三塁を守っていたのが、この年(1974年)大洋ホエールズに入団したばかりのルーキー・山下大輔であった。

山下大輔の、普段のポジションは、遊撃手(ショート)である。

従って、慣れない三塁を守っていた事もあってか、山下は土井の三塁強襲安打に反応しきれなかったのかもしれない。

 

 

 

9回裏、パ・リーグが1-2と1点を追いかけ、1死1塁となった所で、

野村監督は、満を持して、高井保弘(阪急)を代打に送り込んだ。

「日本一の代打男」高井保弘の登場に、後楽園球場のスタンドからは、大歓声が起こった。

こうして、日本中のプロ野球ファンが注目する中、「松岡弘VS高井保弘」の対決を迎えた。

 

 

 

この場面で、高井保弘の普段からの地道な努力が、物を言った。

あの「高井ノート」の研究は、普段は対戦する事の無い、セ・リーグの投手陣にも及んでおり、

「万一、何処かで対戦した時のために」と、高井はセ・リーグの投手達の癖も観察していたのである。

高井は、松岡弘の癖も正確に把握していた。

「松岡は、投げる時にグラブが肩よりも上ならカーブ、そこまで上がらないのであれば、ストレートかシュート」

それが、高井が見抜いていた、松岡の癖だった。

そして、ボールカウント「0-1」からの2球目が、松岡から投じられた。

松岡のグラブは、肩よりも下の位置に有った。

「ここは、シュートで来る!!」

高井は咄嗟にそう判断し、内角に来るシュートに、狙い球を絞った。

そして、高井の狙いどおり、松岡が投げた球は、高井の内角目掛けて食い込んで来るシュートであった。

この球に狙いを定めていた高井は、タイミングもバッチリで、シュートを物の見事に打ち返した。

 

 

 

 

高井が打った打球は、後楽園球場の左中間に向かって、低い弾道で飛んで行った。

後楽園の超満員のスタンドからは「ワーッ!!」っという大歓声が上がり、観客は総立ちとなった。

そして、歓声と悲鳴が交錯する中、高井の打球は、そのまま左中間スタンドへと飛び込んだ。

高井保弘、オールスターゲーム史上初の、「代打逆転サヨナラ2ランホームラン」!!

高井は劇的な一発を放ち、ベースを一周し、ホームへと帰って来た。

この瞬間、高井保弘は日本中に、その名を轟かせる「英雄」となった。

高井はホームインし、満面の笑顔を浮かべたが、

高井を出迎えた野村監督も、「やはり、高井をオールスターに選んで良かった」と言うように、満足気な笑顔を浮かべていた。

 

 

 

 

高井は、勿論、この「代打逆転サヨナラ2ランホームラン」で、オールスター第1戦のMVPを獲得したが、

日本中のプロ野球ファンは、「一振り」の代打稼業に懸ける、高井の凄さを、改めて知ったのである。

これまで述べて来た通り、高井が「代打の切り札」になる事が出来たのは、普段からの地道な研究と、練習の積み重ねが有ったからこそである。

だからこそ、高井はオールスターという大舞台で、「一世一代」の大仕事を成し遂げる事が出来た。

やはり、不断の努力を積み重ねる者にこそ、「勝利の女神」は微笑むという事であろう。

 

<その後の高井保弘…「通算代打ホームラン27本」を放ち、「世界一の代打男」へ~球史に名を残した、「稀代の代打男」高井保弘>

 

 

その後も、高井保弘は、一振りの「代打稼業」に徹して行った。

オールスターゲームで「伝説の一打」を放った後、1974(昭和49)年のシーズン中に、もう1本「代打ホームラン」を放ち、

「シーズン6本の代打ホームラン」という「日本新記録」(当時)を達成した高井は(※これで、「通算代打ホームラン」は「16本」)、

翌1975(昭和50)年のシーズンで、2本の「代打ホームラン」を放ち、「通算18本の代打ホームラン」となり、「世界記録」に肩を並べた。

そして、1975(昭和50)年8月27日、仙台宮城球場のロッテ-阪急戦で、高井保弘は、金田留広(ロッテ)から「通算19本目」の「代打ホームラン」を放ち、遂に「通算代打ホームラン」の「世界新記録」を達成したのである。

高井保弘は、遂には「世界一の代打男」となった。

 

 

 

 

その後も、高井保弘「代打ホームラン」を打ち続け、

最終的には、高井は「通算27本の代打ホームラン」まで記録を伸ばしたが、

これは勿論、未だに破られていない、「代打ホームラン」の「世界記録」である。

しかも、上の画像をご覧頂いた通り、本当に「ここぞ!」という大事な場面で、「代打ホームラン」を打っていた事がわかる。

高井こそ、まさに「代打の切り札」と呼ぶに相応しい、凄い選手であった。

ちなみに、パ・リーグは1975(昭和50)年から「指名打者(DH)制度」を導入し、高井も「DH」でスタメン出場する事が増えたが、

もしも「DH制」が導入されていなければ、高井の「代打ホームラン」は、更に増えていた可能性も有った。

何しろ、高井本人がそう言っているのだが、高井としては、本当は「DH」よりも「代打」の方が性に有っていたのかもしれない。

 

 

その後、高井保弘は1982(昭和57)年に現役引退した。

阪急ブレーブス一筋19年間の現役生活だったが、高井保弘の通算成績は、下記の通りである。

1135試合 2476打数665安打 130本塁打 446打点 打率.269 

代打本塁打:27本(※世界記録)

 

 

高井の「通算代打本塁打27本」は、今後も、破られる事は無いであろう、偉大な記録である。

その高井が、最も光輝いたのが、1974(昭和49)年7月21日の、オールスターゲーム第1戦であった。

そして、高井を監督推薦でオールスターに出場させた、野村監督の「眼力」も、流石であったと、唸らされるばかりである。

 

<高井保弘の「シーズン代打本塁打記録」を更新した大島康徳~そして、高井保弘と大島康徳の死去>

 

 

 

 

ここからは、「後日談」を、少しお伝えさせて頂く。

1976(昭和51)年、「一発長打の大島君」の異名を取っていた、

中日ドラゴンズ大島康徳が、「シーズン代打ホームラン7本」を放ち、

1974(昭和49)年に高井保弘(阪急)が記録した、「シーズン代打ホームラン6本」の記録を更新し、「日本新記録」を達成した。

その後、大島は中日のレギュラーに定着し、中日ドラゴンズの中心選手として、大活躍した。

 

 

 

 

 

その後、大島康徳は、1988(昭和63)年に日本ハムファイターズに移籍すると、

1990(平成2)年には、39歳10ヶ月という、史上最年長(当時)で、「通算2000安打」を達成した。

大島は、現役生活の終盤は、また「代打稼業」に戻り、1994(平成6)年には、史上最年長の43歳6ヶ月で、「代打満塁ホームラン」を放つなど、大島は「通算代打ホームラン20本」まで記録を伸ばしたが、高井の「世界記録」に追い付く事は出来なかった。

だが、大島は息の長い選手として活躍し、高井と同様、プロ野球ファンに強烈な印象を残した名選手であった。

 

 

高井保弘は、2019(令和元)年12月13日、享年74歳で亡くなった。

あのオールスターでの「代打逆転サヨナラ2ラン」から、45年が経っていたが、

高井保弘は、「代打の切り札」の代名詞として、現役引退後も、数多くの取材を受けており、その業績は長く語り継がれていた。

そして、この私も、高井保弘という稀代の選手をリスペクトし、今回、このような記事を書かせて頂いた次第である。

 

 

 

そして、つい先頃、今年(2021年)6月30日に、大島康徳も、享年70歳で、この世を去った。

大島は、癌で闘病していたが、「病気に負けたんじゃない 俺の寿命を生ききったということだ」との言葉を遺し、多くの人達に深い感銘を与えた。

高井保弘も、大島康徳も、自らの持ち味を最大限に発揮し、ファンに沢山の夢を与えて来た、素晴らしい選手であった。

此処に、この場を借りて、私からも哀悼の意を表したい。