マスコットで振り返るプロ野球史⑰ 大映・毎日・大毎・ロッテ編(6) ~ロッテオリオンズの栄光~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

「マスコットで振り返るプロ野球史」の「大映・毎日・大毎・ロッテ編」は、

前回(第5回)は、「東京オリオンズ編」という事で、永田雅一オーナーの夢の球場「東京スタジアム」誕生の頃を描いた。

その頃は、永田雅一の「本業」である「大映映画」に、「カツライス」と称された、勝新太郎・市川雷蔵という大スターが誕生し、

重光武雄が創設した、お菓子メーカー「ロッテ」が、急速に台頭していた時代でもあった。

 

 

そして遂に、時代は大きく動く。

1969(昭和44)年、「ロッテ」が「オリオンズ」と業務提携を結び、「ロッテオリオンズ」が誕生し、

「ロッテ」が球界参入を果たすのである。

それは、「大映」永田雅一の凋落をも意味していた。

という事で、今回は激動の「ロッテオリオンズ編」の「第1回」をご覧頂こう。

 

<1969(昭和44)年1月18日…「ロッテ」と「オリオンズ」が業務提携~「ロッテオリオンズ」誕生!!~当初、「ロッテ」は「オリオンズ」のスポンサーで、「ネーミング・ライツ」で球界参入>

 

 

 

 

1969(昭和44)年1月18日、「東京オリオンズ」のオーナー・永田雅一は、永田の友人であり、元首相の岸信介の仲介により、

お菓子メーカー「ロッテ」と業務提携を結んだ。

そして、球団名は「東京オリオンズ」から「ロッテオリオンズ」と改称される事となった。

当時、永田の本業である「大映映画」は、映画産業の斜陽化により、経営が悪化し、永田は苦境に立たされていたが、

それとは対照的に、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで業績を伸ばしていた「ロッテ」は、より一層、その知名度を上げる事を目論んでいた。

つまり、「大映」と「ロッテ」の利害が一致し、この業務提携が実現したのである。

なお、当初は「ロッテ」は、あくまでも「オリオンズ」のスポンサーであり、今でいう「ネーミング・ライツ」であったが、ともあれ、ここで「ロッテ」が遂に球界に参入し、「ロッテ」が野球史の表舞台に立ったのである。

 

<1969(昭和44)年…東京オリンピックに出場した陸上選手・飯島秀雄が、「代走専門」でロッテに入団!!~3年間で「通算23盗塁(通算17盗塁死)」を記録>

 

 

 

 

さて、誕生したばかりの「ロッテオリオンズ」で、まず話題を集めたのが、

球界初の「代走専門選手」としてロッテに入団した、飯島秀雄である。

飯島秀雄は、陸上の100m走の代表選手として、東京オリンピックに出場した経歴を持っていたが、

野球経験は全くのゼロであった。

しかし、永田雅一オーナーの発案により、飯島の足の速さを買って、ロッテは飯島を「代走専門」として入団させたのである。

 

 

飯島秀雄の入団は、完全に「話題作り」だったが、

それでも、ロッテは野球経験ゼロの飯島に、走塁の基本から教え込み、飯島を何とか試合に出場出来るレベルまで引き上げた。

そして、飯島は1969(昭和44)年に公式戦デビューを果たしたが、飯島が代走で登場すると、

球場は「ゴー!ゴー!飯島!!」という大声援に包まれた。

飯島は、3年間(1969~1971年)ロッテに在籍し、3年間で「通算23盗塁(17盗塁死)」という結果に終わったが、異色の経歴の「代走専門選手」として、ファンに強烈な印象を与えた。

 

<濃人渉(のうにん・わたる)監督率いる、新生「ロッテオリオンズ」~成田文男・木樽正明の「Wエース」、「ミスター・ロッテ」有藤通世、アルトマン・ロペスの「強力外国人コンビ」など、「サムライ」達が揃う~1969(昭和44)年のロッテは「3位」>

 

 

1969(昭和44)年に誕生した「ロッテオリオンズ」を率いていたのは、

かつて中日ドラゴンズの監督経験も有った、濃人渉(のうにん・わたる)監督である。

濃人監督の下、ロッテは投打共に、強力メンバーを揃えていた。

 

 

 

 

当時のロッテの主力選手をご紹介させて頂くと、

大ベテラン・小山正明投手の薫陶を受けた、成田文男・木樽正明という「Wエース」が、投手陣を引っ張り、

後に「ミスター・ロッテ」と称される事となる有藤通世、更にアルトマンロペスという「強力外国人コンビ」も居た。

1969(昭和44)年、ロッテは69勝54敗7分 勝率.561で3位、優勝した阪急には5.5ゲーム差であったが、いよいよ、オリオンズは優勝に手が届く所まで来ていた。

 

<1969(昭和44)年7月17日…市川雷蔵、享年37歳で死去~「大映」の看板スターを失い、悲嘆に暮れた永田雅一>

 

 

 

1969(昭和44)年、「ロッテオリオンズ」が誕生し、優勝目指して奮闘していた頃、

「大映」の大スターだった市川雷蔵は、病に冒されていた。

前年(1968年)、市川雷蔵は、体調不良を訴え、緊急入院したが、そこで雷蔵は、直腸癌と診断された。

元々、雷蔵は胃腸が弱い体質だったが、この頃は著しく体調が悪化していたのである。

翌1969(昭和44)年に退院した市川雷蔵は、『眠狂四郎 悪女狩り』『博徒一代 血祭り不動』という2本の映画を、何とか撮り終えたが、もはや雷蔵の体力は限界に達しており、剣の立ち回りは、他の役者が演じる事となった。

そして、この2本が、結果として、市川雷蔵の「遺作」となってしまった。

 

 

1969(昭和44)年7月17日、市川雷蔵は亡くなった。

享年37歳という若さで、雷蔵はこの世を去ってしまったが、

「大映」の看板スターを失った永田雅一のショックは大きく、永田は悲嘆に暮れるばかりであった。

そして、映画産業の斜陽化は、ますます進み、「大映」の経営は、いよいよ悪化して行った。

永田雅一の「栄光の時代」も、遂に終わりが近付きつつあった。

 

<1970(昭和45)年…「ロッテオリオンズ」10年振り優勝!!~1970(昭和45)年10月7日、「ロッテオリオンズ」は本拠地・東京スタジアムで優勝を決め、観客席は熱狂と興奮に包まれる>

 

 

 

 

1970(昭和45)年、「ロッテオリオンズ」は、ぶっちぎりの快進撃を見せた。

この年(1970年)、ロッテは榎本喜八-池辺巌-ロペス-アルトマン-有藤通世-山崎裕之-醍醐猛夫-千田啓介…

と続く、「新ミサイル打線」と称された、超強力打線が爆発し、

成田文男(25勝8敗 防御率3.21)、木樽正明(21勝10敗 防御率2.53)の「Wエース」が、チームを引っ張った。

ロッテは、2位以下を大きく引き離し、10年振りの優勝に向け、首位を独走した。

 

 

 

久しく、閑古鳥が鳴いていた、オリオンズの本拠地「東京スタジアム」も、

オリオンズの快進撃に、連日、超満員の観客が訪れ、オリオンズに大声援を送った。

なお、この時、東京スタジアムのオリオンズ・ファンが「東京音頭」を大合唱していたという。

つまり、ヤクルトスワローズのファンが「東京音頭」を歌うよりも先に、実はロッテファンが「東京音頭」を歌っていたのであった。

この事は、今では歴史に埋もれてしまっているが、それだけ、1970(昭和45)年のロッテの快進撃は、ファンを熱狂させていたのである。

そして、1970(昭和45)年10月7日、ロッテは遂に「マジック1」で、本拠地・東京スタジアムでのロッテ-西鉄戦を迎えた。

 

 

 

 

 

1970(昭和45)年10月7日、東京スタジアムのロッテ-西鉄戦で、

「マジック1」のロッテは、5-4で西鉄を破った。

「ロッテオリオンズ」は1960(昭和35)年、前身の「大毎オリオンズ」以来、10年振りの優勝を決定した。

この日、東京スタジアムは超満員の観客で埋め尽くされていたが、ロッテの優勝が決まった瞬間、選手達が歓喜の輪を作っている所に、観客席からドッとファンが雪崩れ込み、グラウンドは歓喜と興奮の渦に包まれた。

 

 

 

 

オリオンズの首脳陣や選手達は勿論、ファンにとっても、待ちに待った優勝であった。

夢にまで見た優勝の瞬間を目の当たりにして、東京スタジアムを埋め尽くしたファン達が、これだけ熱狂したというのも、わかろうというものである。

1962(昭和37)年に東京スタジアムが開場して以来、実に9年目に訪れた歓喜の瞬間であった。

そして、後から思えば、「光の球場」と称された東京スタジアムが最も輝いた瞬間でもあった。

なお、この年(1970年)のロッテオリオンズは、80勝47敗3分 勝率.630で、2位・南海ホークスに10.5ゲーム差を付ける、ぶっちきりの優勝である。

 

<「ロッテオリオンズ」優勝で、濃人監督を差し置いて、真っ先に胴上げされた永田雅一オーナー…永田雅一の「最後の花道」に>

 

 

永田雅一は、我が子のように、手塩をかけて育て上げたオリオンズが、自ら作り上げた「光の球場」東京スタジアムで、夢にまで見た優勝する瞬間を見届け、感無量の表情であった。

永田は、「大映映画」にかけるのと同じか、それ以上の情熱を持って、オリオンズを率いて来たのである。

そのオリオンズが遂に10年振りの優勝を果たし、永田の胸は感激で一杯であった。

 

 

 

すると、ここで思いがけない事が起こった。

ロッテの優勝が決まり、東京スタジアムのグラウンドが歓喜に包まれた時、

何と、ファン達は一斉に永田の元へ駆け寄り、永田をあっという間に胴上げしてしまったのである。

濃人監督よりも先に、真っ先にファン達によって胴上げされたのは、永田であった。

ファンは、オリオンズというチームを育て上げた永田に、こうして感謝の気持ちを示したのである。

永田は、感激のあまり、泣きながら胴上げをされていた。

それは、永田にとって「人生最良の瞬間」だったのではないだろうか。

 

 

だが、結果として見れば、これが永田雅一にとって「最後の花道」となってしまった。

本業の「大映映画」は、赤字が膨らみ、いよいよ首が回らない状態になっていたのである。

「大映」という船は、もはや沈没寸前であり、如何に永田が辣腕の経営者だったとはいえ、もうどうにもならない状態であった。

「永田ラッパ」の時代は、いよいよ終わりを告げようとしていた。

 

<1970(昭和45)年の日本シリーズ…「巨人VSロッテ」の対決で、ロッテは巨人に1勝4敗で敗れる>

 

 

 

 

1970(昭和45)年の日本シリーズは、「巨人VSロッテ」の対決となった。

東京スタジアムで、初めて日本シリーズが開催される事となったが、

「GIANTS」と「ORIONS」の対決という事で、両球団の頭文字を取って「GO!GO!シリーズ」とも称された。

下町の東京スタジアムに、天下の巨人がやって来るという事もあり、東京スタジアムは華やかな雰囲気に包まれた。

 

 

 

だが、ロッテは実力を発揮出来ず、巨人の前に為す術無く、1勝4敗で敗れてしまい、

結局、巨人が6年連続日本一(V6)を達成した。

巨人は、ロッテの本拠地・東京スタジアムで日本一を決めたが、結果として、これが東京スタジアムで開催された、最初で最後の日本シリーズの晴れ舞台であった。

 

<1970(昭和45)年…石原慎太郎・原作で、石原裕次郎・渡哲也が出演した『スパルタ教育 くたばれ親父』~石原裕次郎がプロ野球の審判員、渡哲也が「ロッテオリオンズ」の選手役で出演した「怪作」>

 

 

さてさて、「ロッテオリオンズ」が10年振りの優勝を達成した、1970(昭和45)年に、こんな映画が公開された。

石原慎太郎が原作で、石原裕次郎・渡哲也という日活の大スターが共演した、『スパルタ教育 くたばれ親父』である。

石原慎太郎が書いた原作により、「スパルタ教育」は流行語となっていたが、慎太郎の弟・裕次郎が主演し、映画化された作品である。

配給は、日活・大映の作品を配給するために作られた、「ダイニチ配映」であるが、そういう会社が作られたという事を見ても、

当時の映画界が、観客動員の低迷により、苦境に立たされていた事が、よくわかろうというものである。

 

 

その『スパルタ教育 くたばれ親父』では、石原裕次郎がプロ野球の審判員で、渡哲也「ロッテオリオンズ」の選手役で出演していたが、「大映」の看板女優・若尾文子が華を添え、金田正一も友情出演している。

金田正一は、この後、ロッテに大きく関わる事となるが、ともあれ、『スパルタ教育 くたばれ親父』は、当時の「ロッテオリオンズ」も撮影に全面協力しており、若き日の石原裕次郎・渡哲也が「ロッテオリオンズ」と関わった「怪作」として、今に語り継がれている。

 

<永田雅一の退場~1971(昭和46)年1月25日…永田雅一、「オリオンズ」の経営から完全撤退~「ロッテ」が正式に「オリオンズ」の球団経営を担う>

 

 

1971(昭和46)年1月25日、永田雅一は遂に「オリオンズ」の経営から完全撤退した。

1949(昭和24)年、「大映スターズ」で球界に参入して以来、22年間にわたりプロ野球に携わっていた永田雅一が、遂に球界の表舞台から去る事になったのである。

「我が子のように思っているオリオンズを、手放さなければならないのは、とても悲しい」

永田は、球団経営撤退を表明した記者会見で、人目も憚らずに涙を流したが、愛するチームを手放さなければならず、永田は身を切られるような思いだったのではないだろうか。

こうして、永田雅一が「退場」し、「ロッテ」が「オリオンズ」の球団経営を正式に担う事となったが、「ロッテ」は以後、今日(2021年)まで50年以上にわたり、球団経営を続けている。

これは、パ・リーグでは最も長い期間、球団を保有している記録であるが、永田が育て上げたオリオンズの魂を、ロッテが立派に受け継いだと言えよう。

 

<1971(昭和46)年のロッテオリオンズ…濃人渉監督が「放棄試合」の責任を取らされ、シーズン途中で「解任」⇒後任に大沢啓二監督が就任し、首位・阪急を猛追!!~江藤慎一が、史上初の「両リーグ首位打者」達成>

 

 

 

1971(昭和46)年のロッテオリオンズは、波瀾万丈であった。

1971(昭和46)年7月13日、西宮球場の阪急-ロッテ戦で、江藤慎一のハーフスイングの判定を巡り、

ロッテ・濃人監督が激怒し、審判団に猛抗議を行なったが、判定は覆らず、濃人監督は全選手を引き上げさせた。

その後、審判団の試合再開への説得にも応じず、審判団はロッテの「放棄試合」を宣告した。

 

 

 

これに、ロッテオリオンズの球団オーナー・中村長芳オーナーは大激怒した。

「放棄試合」を行なうと、その球団が入場料収入も含め、莫大な罰金を支払う事となり、球団が大損害を受けてしまうからである。

更に、ロッテはこの後、首位・阪急ブレーブスと8ゲーム差を付けられ、苦戦が続いていた事もあり、

1971(昭和46)年7月23日、中村オーナーは濃人監督と、大沢啓二・二軍監督をシーズン途中で交代させるという、大ナタを振るった。

濃人監督は、「放棄試合」の責任を取らされ、事実上「解任」されたも同然だったが、前年(1970年)の優勝監督は、こうしてアッサリと首を切られてしまった。

 

 

 

濃人監督に代わって、二軍監督から一軍監督に昇格したのが、大沢啓二である。

立教大学時代は、長嶋茂雄の2年先輩であり、現役時代は南海ホークスの外野手として活躍し、後に「大沢親分」と称される事になる人物であるが、大沢啓二は、ロッテで、その監督生活のキャリアをスタートさせた。

その大沢監督は、首位・阪急に8ゲーム差も離されていた所からロッテを率いたが、7月30日からの西宮球場の阪急-ロッテの首位攻防戦で、何とロッテは4連勝し、首位・阪急に「0ゲーム差」と猛追した。

その後、ロッテは失速し、結局、この年(1971年)は80勝46敗4分 勝率.635で、優勝した阪急に3.5ゲーム差の2位に終わったものの、ロッテ球団は、大沢監督に手腕を高く評価し、大沢監督と「5年契約」を結んだ。

だが、プロ野球界における、監督の「〇年契約」ほど、当てにならない物は無いと、この後、大沢監督も痛感する事となるのである。

 

 

 

もう一つ、この年(1971年)のロッテの重要なトピックスといえば、

前年(1970年)途中に、中日ドラゴンズからロッテに移籍して来た江藤慎一が、

プロ野球史上初の「両リーグ首位打者」を達成した事である。

なお、「両リーグ首位打者」は、その後、内川聖一(横浜⇒ソフトバンク)が達成しているが、プロ野球史上、江藤慎一・内川聖一の2人しか達成していない大記録である。

 

<1971(昭和46)年の「大映映画」…関根恵子・松坂慶子・八並映子、八代順子、渥美マリの「大映5人娘」を売り出すが…~『遊び』(関根恵子・主演)・『夜の診療室』(松坂慶子・主演)という「最後の怪作」を残し、遂に「大映映画」は倒産~「永田ラッパ」の時代が幕を下ろす>

 

 

1971(昭和46)年、永田雅一は、愛する「オリオンズ」を手放し、「大映映画」の再建に全力を尽くした。

この年(1971年)、大映は関根恵子・松坂慶子・八並映子・八代順子・渥美マリを「大映5人娘」として大いに売り出し、彼女達を起爆剤として、永田は「大映映画」の再建を図ったが、もはや、事態はどうにもならない所まで来ていた。

世はすっかり「テレビ時代」へと移り変わり、娯楽の形態が様変わりしてしまい、人々は映画館に足を運ばなくなってた。

つまり、この頃、日本映画界は、映画をいくら作っても、客が入らず、映画を作れば作るだけ、赤字が膨らむ一方だったのである。

時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、「大映」はいよいよ断末魔の時が近付いていた。

 

 

 

そんな中、この年(1971年)の「大映映画」は、2つの「怪作」を世に送り出している。

それが、関根恵子が主演の『遊び』と、松坂慶子が主演の『夜の診療室』であった。

そう、あの「大映5人娘」として売り出された内の2人が主演した作品である。

 

 

関根恵子は、前年(1970年)に主演した大映映画『おさな妻』で、一躍有名になっていたが、

関根恵子は1955(昭和30)年1月22日生まれであり、『おさな妻』に主演した時は、まだ15歳であったが、

彼女は初々しくも堂々たる演技を見せ、大きな注目を集めていた。

だからこそ、大映は「5人娘」の1人として、関根恵子を大いに売り出そうとしていたのである。

 

 

その関根恵子の主演で、1971(昭和46)年に公開されたのが、『遊び』である。

大映で、数々の名作を撮って来た増村保造監督の作品であるが、

『遊び』は、沈む行く「大映映画」の最後の名作として、映画史に残る作品となった。

 

 

 

一方、松坂慶子は、1952(昭和45)年7月20日生まれであるが、

1968(昭和43)年5月5日に放送された、TBS『ウルトラセブン』第31話の「悪魔の住む花」に、当時16歳でゲスト出演していたが、

これが、松坂慶子にとって、事実上のデビュー作となった。

これは、『ウルトラセブン』及び、松坂慶子のファンにとっては、よく知られた話である。

 

 

松坂慶子は、1970(昭和45)年に、TBSで放送された、岡崎友紀・主演の『おくさまは18歳』に、

主役の岡崎友紀のライバル役としてレギュラー出演を果たし、その名が知られるようになった。

こうして、松坂慶子は売り出し中の若手女優として、「大映5人娘」の1人に名を連ねる事となった。

 

 

 

松坂慶子は、1971(昭和46)年、本来の主演予定だった渥美マリが降板したため、

急遽、その代役として、大映映画『夜の診療室』に主演した。

この映画の当時、松坂慶子は19歳であるが、デビュー当時と比べると、一気に垢ぬけたというか、妖艶な女優へと「変貌」を遂げているのがわかる。

というよりも、女優とは文字どおり「化ける」という事を、松坂慶子は体現していると言って良い。

 

 

という事で、関根恵子・松坂慶子は、「大映」が生んだ最後の大スターという事となった。

最後というのは、「大映」はいよいよ、完全に沈没の時を迎えていたからである。

歴史有る「大映映画」は、それでも、断末魔の時に、関根恵子・松坂慶子という「大女優」を世に送り出した。

これが、日本映画史を牽引して来た、「大映」の底力であろう。

 

 

1971(昭和46)年12月22日、遂に「大映映画」は倒産し、解散の憂き目に有った。

永田雅一は、「大映」社員の大幅な人員削減を断行するなど、何とか経営再建を図ったが、

永田の健闘空しく、遂に「大映」は倒産した。

この時、「大映」の累積赤字は50億円にも達していたという。

こうして、永田雅一はプロ野球界に続き、映画界からも去って行った。

「永田ラッパ」の時代は、ここに終焉の時を迎えたのであった。

 

<「東京スタジアム」と『帰ってきたウルトラマン』…第35話「残酷!光怪獣プリズ魔」(1971/12/3)と、第51話(最終回)「ウルトラ5つの誓い」(1972/3/31)に、「東京スタジアム」が登場>

 

 

ところで、1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年3月に放送されていた、

『帰ってきたウルトラマン』に、「東京スタジアム」が登場していたというのを、ご存知であろうか。

しかも、「東京スタジアム」は、『帰ってきたウルトラマン』に、2度も登場しているのである。

 

 

 

一つは、1971(昭和46)年12月3日、『帰ってきたウルトラマン』の第35話「「残酷!光怪獣プリズ魔」という回であるが、

この回で、プリズ魔という怪獣が東京スタジアムに登場し、ウルトラマンと戦っている。

先程も述べたが、この年(1971年)は濃人監督の後を継いだ「大沢親分」が、首位・阪急をあと一歩まで追い詰めたシーズンであるが、

プリズ魔も、ウルトラマンをあと一歩まで追い詰めたものの、最後はウルトラマンが辛うじて勝利した。

そう、『帰ってきたウルトラマン』のウルトラマンは、歴代ウルトラマンの中でも弱い部類(?)であり、怪獣によく苦戦を強いられていた。

 

 

 

 

もう一つが、1972(昭和47)年3月31日に放送された、

『帰ってきたウルトラマン』の第51話(最終回)「ウルトラ5つの誓い」である。

この回では、「東京スタジアム」は「東亜スタジアム」と称されていたが、

その「東亜スタジアム」に、かつて初代ウルトラマンを最終回で倒したゼットンが登場するというお話である。

というわけで、今にして見れば、「東京スタジアム」のカラー映像が残された『東京スタジアム』は、とても貴重な資料となっている。

だが、この年(1972年)を最後に、「東京スタジアム」が、その役割を終えてしまう事になるとは、『帰ってきたウルトラマン』の最終回の時点では、まだ誰も思っていなかった。

 

<1972(昭和47)年のロッテオリオンズ…5位に低迷し、大沢啓二監督は「5年契約」を反故にされ、「解任」~そして、オリオンズは遂に「東京スタジアム」から撤退>

 

 

1972(昭和47)年、就任2年目の大沢啓二監督率いるロッテオリオンズは、

投打共に全く奮わず、59勝68敗3分 勝率.465で5位に低迷してしまった。

すると、「ロッテ」本社の重光武雄社長は、オリオンズの5位低迷に業を煮やし、大沢監督を「解任」してしまった。

「5年契約」を結んだ筈の大沢監督は、前任の濃人監督と同様、アッサリと首を切られてしまったのである。

だが、この後、彼は「大沢親分」として日本ハムファイターズを率いて、ロッテオリオンズのライバルとして立ちはだかる事となるが、それは後の話である。

 

 

時代は、急速に変わろうとしていた。

前述の通り、永田雅一は球界からも映画界からも「退場」していたが、

オリオンズを手放す際に、永田は「国際興業」の社長・小佐野賢治に、「東京スタジアム」を売却していたのである。

すると、小佐野賢治は、ロッテに対し、莫大な球場使用料を吹っかけて来た。

これに対し、ロッテは難色を示し、結局、両者の話し合いは決裂してしまい、ロッテは1972(昭和47)年限りで、「東京スタジアム」から撤退する事となった。

こうして、永田雅一が作り上げた「光の球場」は、僅か11年間(1962~1972年)で、その役割を終える事となった。

 

<「ロッテ」の躍進~キャンディ・アイスクリーム・ロッテリアなど、次々に新事業を展開!!~「ガムはロッテ」から「お菓子のロッテ」へ…>

 

 

さてさて、「大映」の永田雅一や、永田が育て上げたオリオンズが、激動の荒波に揉まれていた頃、

オリオンズの新たなオーナーとなった「ロッテ」は、ますます躍進して行った。

これまで述べて来た通り、当初、チューインガムの販売で大成功し、「ガムはロッテ」として有名になったロッテは、その後、様々な新商品を開発し、総合菓子メーカーとして成長して行った。

 

 

 

 

 

この頃の「ロッテ」躍進を、ざっと振り返ってみると、

1970(昭和45)年、「ロッテ」はキャンディに進出し、「ココロール」「チョコレート・キャンディ」を発売し、新たな主力商品にすると、

翌1971(昭和46)年12月、「ロッテ」は浦和アイスクリーム工場を作り、翌1972(昭和47)年に、「イタリアーノ」というアイスを発売した。

この時、ロッテのアイススクリームのキャラクターとして登場したのが、トナカイを模した「ディーン」である。

 

 

 

1972(昭和47)年2月、「ロッテ」はファーストフードにも進出し、

1972(昭和47)年2月、東京都中央区日本橋の高島屋日本橋店・北別館1階に、「ロッテリア」1号店を開店した(※「ロッテリア」1号店は、2014(平成26)年3月28日に閉店)。

以後、「ロッテリア」は、「マクドナルド」と並ぶファーストフードの雄として、今日(2021年現在)まで隆盛を誇っているというのは、皆様もご存知の通りである。

こうして、「ガムのロッテ」は「お菓子のロッテ」として、急速的な大発展を遂げていた。

 

<1972(昭和47)年シーズンオフ…「ロッテオリオンズ」新監督に金田正一が就任!!>

 

 

1972(昭和47)年シーズンオフ、「ロッテオリオンズ」の新監督に、遂に「あの男」が登場する。

「通算400勝」の大投手・金田正一が、ロッテの監督に就任したのである。

というわけで、「お祭り男」カネやんのロッテの時代が幕を開けるわけであるが、その話については、また次回。

 

(つづく)