【今日は何の日?】1932/5/15…「五・一五事件」 ~犬養毅の戦いと、日本の政党政治の歩み~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(5/15)は、今から79年前の、1932(昭和7)年5月15日、

「五・一五事件」が発生した日である。

この日(1932/5/15)、犬養毅(いぬかい・つよし)首相が、首相官邸で海軍青年将校に暗殺されるという、衝撃的な事件が起こった。

その日付を取って、この大事件は「五・一五事件」と称されている。

 

 

昨年(2020年)の2/26、私はこのブログで、「二・二六事件」についての記事を書いた。

「五・一五事件」と「二・二六事件」は、何かと比較される事が多く、どちらも戦前の「昭和史」を語る上で欠かせない、大事件であるが、

「二・二六事件」について書いた以上、「五・一五事件」についても、書いてみたいと思う。

 

 

なお、事件が起こった順番でいうと、

・1932(昭和7)年5月15日…「五・一五事件」

・1936(昭和11)年2月26日…「二・二六事件」

という事になるが、「五・一五事件」(1932年)⇒「二・二六事件」(1936年)により、

軍部の力が強まり、日本の政党政治は崩壊してしまい、日本は軍部主導で戦争への道を突っ走って行く事となった。

つまり、日本が戦争への道を突き進んで行く、重要な分岐点こそが、この二つの大事件であった。

政党政治、民主政治というのは、このように簡単に崩壊してしまう可能性が有る、大変脆いものである。

 

 

というわけで、コロナ禍の今、政府や国会への不信感が頂点に達している、今だからこそ、

「五・一五事件」「二・二六事件」に着目する意味は大きいと思われるので、こういう記事を書かせて頂く次第である。

それでは、「五・一五事件」に至るまで、日本の政党政治がどのような道を歩んだのか、

また、犬養毅という人物は、どのような生涯を送ったのかについて、描いてみる事としたい。

それでは、ご覧頂こう。

 

<明治時代初期(1874~)、薩長主導の藩閥政治に対抗し、「明治六年政変」で下野した板垣退助の主導で「自由民権運動」が高まる~「板垣死すとも、自由は死せず」の名文句が生まれる>

 

 

薩摩・長州の薩長の勢力を中心に、江戸幕府が倒され、「明治維新」が成ったが、

新たに誕生した「明治政府」は、日本を外国に対抗出来るような近代国家に生まれ変わらせるべく、日本の近代化を急いだ。

だが、当時は日本と諸外国との国力の差は歴然としていた。

そこで、1873(明治6)年に、岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文ら、当時の政府の中心メンバー達が、

「岩倉遣外使節団」として、約2年余りかけて、諸外国を視察の旅に出掛け、日本の近代化のために、諸外国から学ぼうとしていた。

 

 

 

「岩倉遣外使節団」が外国歴訪をしている間、

西郷隆盛・江藤新平・板垣退助・大隈重信らは、「留守政府」を形成し、

岩倉具視らが留守の間、日本の政治を動かしていた。

だが、「留守政府」の方針は、「征韓論」などを巡り、「岩倉遣外使節団」とは異なっており、彼らの間で対立が生じた。

 

 

 

1873(明治6)年、帰って来た「岩倉遣外使節団」と、「留守政府」は、

「征韓論」の方針の違いを巡り、激しく対立した。

その結果、西郷隆盛・江藤新平・板垣退助ら「留守政府」は、一斉に政府を去り、下野してしまった。

これを「明治六年の政変」という。

なお、この時、「留守政府」の中では、大隈重信だけは政府に残った。

 

 

 

下野した板垣退助は、その後、「愛国公党」を結成し、「民選議院設立建白書」を政府に提出するなど、

「薩長藩閥政府は、国会を開設せよ」という事を、強く求めた。

当時、薩長中心の藩閥政府は、国会も解説せず、自分達の好き勝手に政治をしていたのである。

板垣退助は、「国会開設」を求めて、全国各地で遊説を行なうなど、言論の力で、政府に激しく抵抗した。

これを「自由民権運動」という。

なお、板垣はその後も「立志社」「愛国社」などの組織を結成し、「国会開設」を求め続けた。

 

 

なお、1882(明治17)年、板垣退助は岐阜での遊説中に、

暴漢に刺されたが、その際に「板垣死すとも、自由は死せず」という名文句を残した。

たとえ自分は死んだとしても、「自由」を求める人々の心は不滅だと、彼は言いたかったのであろう。

なお、この時は板垣は一命を取り留めている。

 

<1877(明治10)年…日本最後の内戦「西南戦争」に敗れ、西郷隆盛が自刃~「武力よりも言論で政府に対抗すべし」と、板垣退助の決意は強まる>

 

 

 

さて、板垣退助が「自由民権運動」を繰り広げる一方、

板垣と共に下野した西郷隆盛は、1877(明治10)年、地元・鹿児島の不平士族から、大将に担ぎ出され、

「西南戦争」を起こしたが、西郷率いる薩摩軍は敗れ、西郷は自刃した。

こうして、日本最後の内戦「西南戦争」は終結したが、板垣退助は、

「やはり、政府に対抗するためには、武力ではなく、言論でなければならぬ」

と、この時、決意を新たにしたという。

 

<1881(明治14)年…「国会開設の勅諭」が出されるが、「明治十四年の政変」で、大隈重信が伊藤博文に敗れ、大隈重信は下野>

 

 

 

1881(明治14)年、明治政府は、「自由民権運動」に抗しきれず、

遂に、渋々ながら「国会開設の勅諭」を出した。

これは、「10年後に、国会を開設する」という事を約束したものであるが、

国会が開かれるまで、10年もかかるのかと、今の感覚では思ってしまうが、

当時の日本は、まだまだ近代化の過程にあり、今すぐ国会を開けるほど、国そのものが整備されていなかった、という事であろう。

ともあれ、板垣らの「国会開設」の悲願は、ようやく叶えられる方向性となった。

 

 

だが、この時、国会開設の時期を巡り、政府内で伊藤博文大隈重信が、激しく対立してしまった。

大隈は、「今すぐ国会を開設する」という事を主張したのに対し、

伊藤は、「国会開設には、まだ早い。充分な準備が整っていない」という立場であった。

そして、結局は大隈重信は、伊藤博文との権力争いに敗れ、大隈が下野し、政府を去る事となった。

これを「明治十四年の政変」という。

 

<1881(明治14)年…板垣退助が「自由党」、1882(明治15)年…大隈重信が「立憲改進党」を結成!!~日本に近代的政党が誕生>

 

 

 

1881(明治14)年、板垣退助「自由党」を結成した。

「自由党」は、フランス流の急進的一院制を主張する政党である。

翌1882(明治15)年、大隈重信「立憲改進党」を結成したが、

「立憲改進党」は、イギリス流の漸進的二院制を主張する政党であった。

板垣は、長年にわたる「自由民権運動」の集大成として「自由党」を結成し、

大隈は、政府を追い出されてすぐに、政府に対抗すべく「立憲改進党」を結成した。

ともあれ、「自由党」「立憲改進党」が結成され、日本にも遂に近代的政党が誕生した。

なお、福地源一郎は、1882(明治15)年に明治政府の御用政党である「立憲帝政党」を結成している。

 

<1882(明治15)年…大隈重信、「立憲改進党」と共に「東京専門学校」⇒後の「早稲田大学」を創立~明治政府に「謀反人を育てる学校」と警戒される>

 

 

なお、大隈重信は、「立憲改進党」を結成したのと同じ1882(明治15)年、

東京・早稲田の地に「東京専門学校」を創立したが、これこそが後の「早稲田大学」である。

当初、「東京専門学校」は、「謀反人を育てる学校」であると、明治政府に警戒され、政府から多数のスパイが送り込まれたという。

実際に謀反を起こすかどうかはともかく、大隈はこの学校で、在野の中から、世の中の役に立つ人材を育てようとした。

つまり、早稲田の「反骨精神」「在野の精神」は、創立当初から有ったわけである。

 

<1885(明治17)年…伊藤博文が「初代内閣総理大臣」に就任~日本初の内閣が誕生!!~「イクヤマイマイ オヤイカサカサ」とは!?>

 

 

 

1885(明治17)年、伊藤博文「初代内閣総理大臣」に就任し、

遂に日本に「内閣制度」が誕生したが、伊藤博文は、ご覧の通り、薩長を中心に、初代内閣を組織したが、

相変わらず、薩長の勢力が強いという事を如実に示すメンバーである。

なお、伊藤博文の45歳での首相就任は、未だに日本の歴代首相の最年少記録である。

 

 

 

では、ここで、些か「受験テクニック」っぽい話にはなるが、

伊藤博文以降の歴代内閣総理大臣の「覚え方」を、ご紹介させて頂こう。

それは「イクヤマイマイ オヤイカサカサ…」である。

これは、歴代首相の頭文字を取ったものであり、

 

・「イ」伊藤博文①

・「ク」黒田清隆

・「ヤ」山県有朋①

・「マ」松方正義①

・「イ」伊藤博文②

・「マ」松方正義②

・「イ」伊藤博文③

・「オ」大隈重信①

・「ヤ」山県有朋②

・「イ」伊藤博文④

・「カ」桂太郎①

・「サ」西園寺公望①

・「カ」桂太郎②

・「サ」西園寺公望②

(・「カ」桂太郎③)

 

…という順番を、手っ取り早く覚える事が出来る。

というわけで、この後、日本の首相は、上記の人達が順番に受け継いで行った。

 

<1889(明治22)年…「大日本帝国憲法」発布⇒1890(明治23)年…「第1回帝国議会選挙」で「民党」が過半数を占め、犬養毅も初当選~黒田清隆首相は「超然主義」演説を行ない、「民党」を無視>

 

 

 

1889(明治22)年、伊藤博文の主導により作られた「大日本帝国憲法」が発布されたが、

憲法が発布された事により、日本も漸く、諸外国から近代国家と認められるようになった。

なお、「大日本帝国憲法」発布の式典で、明治天皇から憲法を下賜される栄誉に浴したのは、黒田清隆首相である。

 

 

 

なお、ここで「憲法」について、一言言っておく。

「大日本帝国憲法」は、ドイツ流の「欽定憲法」、つまりは天皇の名において公布されたものであり、

主権者は天皇であり、あくまでも法律の範囲内でのみ、自由を認めるというものである。

これに対し、日本の戦後に出来た「日本国憲法」は、主権者はあくまでも国民であり、

自由を損害するような法律は違憲であり、無効であるとしている。

つまり、憲法とは「権力者が好き勝手しないように、権力者の手足を縛る」という考え方であり。

こう規定しておかないと、国民の自由や私権は、政府によって制限されてしまう可能性が有るから、主権者は国民であり、国民の名において憲法が出され、政府や国会もそれに従うべしと、定められている。

これは大きな違いなので、是非とも抑えておきたい重要なポイントである。

 

 

 

1890(明治23)年、遂に初めて国会が開かれる事となり、

「第1回帝国議会選挙」が行われたが、当時は高額納税者しか投票が出来ず、

有権者は、国民の1%ほどだったにも関わらず、「自由党」「立憲改進党」などの「民党」が、何と過半数を制した。

この「第1回帝国議会選挙」で、犬養毅「立憲改進党」で出馬し、初当選を果たしている。

1855年生まれの犬養毅は、当時35歳である。

 

 

だが、選挙で「民党」が国会の過半数を制したにも関わらず、

第2代首相・黒田清隆「政府は、国会よりも超然としているものである」という、所謂「超然主義演説」を行なった。

つまり、「政府は、国会など完全に無視する」と、黒田は堂々と宣言したわけであるが、

当時の法律では、政府は国会の決定に縛られる事は無く、政治を進める事が出来た。

それが「大日本帝国憲法」の特徴でもあり、限界でもあった。

 

<1898(明治31)年…板垣退助の「自由党」と、大隈重信の「立憲改進党」が合同し、「憲政党」が誕生⇒日本初の政党内閣「隈板内閣」が誕生するも、僅か4ヶ月で崩壊~「憲政党」は、旧「自由党」系の「憲政党」と、旧「立憲改進党」系の「憲政本党」に再分裂し、それぞれ「立憲政友会」「民政党」の「二大政党」の母体に>

 

 

 

1898(明治31)年、板垣退助「自由党」と、大隈重信「立憲改進党」が合同し、

新たに「憲政党」が誕生し、大隈重信を首相、板垣退助を内相とする、所謂「隈板内閣」が組織された。

この「隈板内閣」こそが、記念すべき「日本初の政党内閣」である。

だが、「隈板内閣」は、薩長から様々な嫌がらせや妨害を受け、「自由党」系と「立憲改進党」系では、政治的な考え方も合わなかった事もあり、僅か4ヶ月で崩壊してしまった。

誠に残念な事である。

 

 

結局、せっかく合同した「憲政党」は分裂してしまい、

旧「自由党」系は「憲政党」に、

旧「立憲改進党」系は「憲政本党」に、それぞれ分かれた。

そして、

旧「自由党」系⇒「憲政党」⇒「立憲政友会」

旧「立憲改進党」系⇒「憲政本党」⇒「立憲国民党」⇒「憲政会」⇒「民政党」

へと、それぞれ繋がって行く事となる。

というわけで、「立憲政友会」「民政党」という、二大政党が、大正~昭和初期の政党政治を担って行く時代へと移って行くのである。

 

<1900(明治33)年…伊藤博文、旧「自由党」系⇒「憲政党」の勢力を母体として「立憲政友会」結成~以後、伊藤博文(初代)⇒西園寺公望(2代)⇒原敬(3代)が「立憲政友会」の歴代総裁に>

 

 

 

 

1900(明治33)年、「薩長藩閥政治」の象徴だった伊藤博文は、

政党政治の必要を認め、旧「自由党」⇒「憲政党」の勢力を母体として、

「立憲政友会」を結成し、伊藤は「立憲政友会」を与党として、第4次伊藤内閣を組織した。

遂に「立憲政友会」の時代が幕を開けたが、以後、「立憲政友会」の総裁は、伊藤博文(初代)⇒西園寺公望(2代)⇒原敬(3代)…の順に、受け継がれて行く事となる。

 

<「明治」末期の「桂園時代」~「立憲政友会」の尾崎行雄・原敬、「立憲同志会」の犬養毅らが、「第一次護憲運動」で桂太郎内閣に対抗>

 

 

さて、時代は「明治」の末期の頃、

陸軍の大物で、長州の山県有朋の後継者だった桂太郎と、「立憲政友会」総裁で、公家出身の西園寺公望が、

「持ち回り」で政権交代を繰り返す「桂園時代」となった。

つまり、桂太郎⇒西園寺公望⇒桂太郎⇒西園寺公望⇒桂太郎…

の順番で、首相を交互に務めたわけである。

 

 

 

1912(大正元)年、第3次・桂太郎内閣の時に、

強引な政治を進める桂首相に対する反発が強まり、

「立憲政友会」の尾崎行雄・原敬、「立憲同志会」の犬養毅らが、「第一次護憲運動」で桂太郎内閣に対抗し、

「第一次護憲運動」が起こり、遂に桂内閣を「倒した。

 

 

 

この時、「第一次護憲運動」のスローガンとなったのは「憲政擁護」「閥族打破」というものであり、

尾崎行雄・犬養毅らは「憲法に則って、公平な政治をしろ!!」と、政府を攻撃したのである。

また、尾崎行雄は、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と演説し、桂首相を厳しく批判した。

これは、「天皇の名を借りて、大義名分を振りかざして、好き勝手やってんじゃねーよ!!」という意味である。

これは、何だかんだと言って大義名分を振りかざし、国民に横暴な政治をしている、今の政府にも通じる事ではないだろうか。

ともあれ、遂に言論の力で、政府を倒す時代がやって来たのである。

 

<「大正デモクラシー」と、「立憲政友会」VS「憲政会⇒民政党」の「二大政党」の時代~多数党が政権を取る「憲政の常道」が定着~原敬が初めて本格的な政党内閣を結成するも、原敬は暗殺される>

 

 

 

時代は「明治」から「大正」に移った。

前述の「第1次護憲運動」に象徴されるように、言論の力が政治を動かす時代が到来していたが、

この頃、ようやく日本の民主主義も浸透して行き、選挙を重ねて行く事で、日本の民衆も政治に目覚めて行った。

大正時代は、民主主義が活発化し、世間に自由闊達な雰囲気が溢れる時代となったが、

これを「大正デモクラシー」と称している。

 

 

 

 

「大正デモクラシー」の時代になると、

「立憲政友会」と「憲政会⇒民政党」という「二大政党」の時代が到来した。

選挙で国会の議席の多数を占めた多数党が政府を組織する、所謂「憲政の常道」と称される時代となったが、

「立憲政友会」と「民政党」は、それぞれ国会で政策論を戦わせ、民衆が選挙によって、それに判断を下して行った。

まさに、日本の民主主義が成熟した事を示したかに思われていた。

 

 

1918(大正7)年、「立憲政友会」の原敬首相は、日本初の「本格的政党内閣」を組織し、

その後の「憲政の常道」に道を開いたが、原敬は「平民宰相」と称され、大変人気が有った。

だが、1921(大正10)年、原敬は東京駅で暴漢に刺され、志半ばで暗殺されてしまった。

以後、「立憲政友会」の総裁は、高橋是清⇒田中義一⇒若槻礼次郎へと受け継がれ、

彼らは皆、そのまま首相に就任している。

 

<1924(大正13)年…「第二次護憲運動」で、清浦奎吾内閣が倒閣⇒憲政会・加藤高明内閣が誕生~「革新倶楽部」の犬養毅、遂に「立憲政友会」に合流>

 

 

 

1924(大正13)年、非政党内閣で、「超然主義」を掲げていた清浦奎吾内閣に対する反発が強まり、

「立憲政友会」「憲政会」「革新倶楽部」の3党の合同で「第二次護憲運動」が起こった。

その結果、清浦奎吾内閣は倒閣され、またしても言論の力が政府を倒し、その後、「憲政会」の加藤高明内閣が組織された。

なお、これを機に、一時は政界引退を考えていた犬養毅は、自らが率いる「革新倶楽部」を「立憲政友会」に合流させた。

この時、犬養毅は政界に入ってから34年も経つ、大ベテランであり、犬養毅は当時69歳になっていた。

 

<「昭和」初期~「昭和恐慌」で、民衆の政党政治に対する不信が高まり、「ロンドン海軍軍縮条約」で軍部と政府の対立が深まる>

 

 

 

 

明るく自由闊達な雰囲気に満ち満ちていた、「大正デモクラシー」の時代だったが、

1925(大正14)年12月25日に、大正天皇が崩御し、翌日に昭和天皇が即位し、「昭和」の時代が始まった。

だが、「昭和」初期は、日本も世界も、散々な時代であった。

まず、日本では「昭和恐慌」という大恐慌が起こり、そこに追い打ちをかけるかのように、

1929(昭和4)年には「世界恐慌」が起こり、人々の生活基盤は、完全に破壊されてしまった。

この世界的な大不況により、日本も「欠食児童」が全国で現れるなど、酷い状況となった。

これに対し、日本政府は、有効な手を打ち出す事が出来ず、民衆の政府に対する不信は高まった。

「政府は、一体何をやってるんだ!?」

民衆は、既存の政党政治に絶望してしまった。

これは、今のコロナ禍の時代、何ら有効な策を講じる事が出来ない、政府に対する不信が高まっているのと、ソックリの状況である。

 

 

一方、その頃、「昭和」初期は世界的な「軍縮」の時代であり、

1930(昭和5)年、日本は欧米列強と「ロンドン海軍軍縮条約」を締結し、「軍縮」に同意させられた。

これに対し、軍部は大いに不満を持った。

「政府は、何故こんなに、外国に弱腰なのだ!?」

軍部の中に、実力行使で政府を倒そうとする「強硬派」が生まれて行った。

 

<1930(昭和5)~1932(昭和7)年の、軍部によるテロの横行と、1931(昭和6)年の「満州事変」~暴走する軍部を制御出来なくなった政府>

 

 

そんな中、1930(昭和5)~1932(昭和7)年にかけて、

ご覧の通り、軍部の「強硬派」が、政府や財界の要人を襲撃するテロ事件が横行していた。

1930(昭和5)年には浜口雄幸首相が狙撃され、1932(昭和7)年には、井上準之助・前蔵相や、三井合名社理事長・団琢磨が暗殺される、

所謂「血盟団事件」が起こり、世間を震撼させた。

血生臭いテロが横行する、物騒な時代がやって来てしまったのである。

 

 

1931(昭和6)年9月、中国東北部の「満州」に駐在する「関東軍」が、

独断で「満州事変」を起こし、「満州」を軍事的に占領して行ったが、

当初、若槻礼次郎首相は、この軍事行動を認めないという声明を発表したが、

結局、「関東軍」の行動を止める事が出来ず、ズルズルと追認せざるを得なくなった。

こうして、政府は機能不全に陥り、軍部をコントロールする事が難しくなって行った。

 

<1931(昭和6)年12月13日…「立憲政友会」の犬養毅、当時76歳で遂に首相に就任!!~「満州事変」の拡大阻止と、「産業立国」を掲げるが…>

 

 

 

若槻礼次郎内閣が、総辞職に追い込まれた後、

1931(昭和6)年12月13日、犬養毅は遂に首相に就任した。

犬養毅、当時76歳の時である。

1890(明治23)年の初当選の頃から数えると、既に41年が経つという、政界の大ベテランが、遂に首相の座に就いたのである。

 

 

「この難局を乗り切れるのは、犬養をおいて、他には居りません」

当時、「元老」として隠然たる力を持っていた西園寺公望は、昭和天皇に対し、そのように述べて、犬養を首相に推薦した。

それを受けて、昭和天皇から犬養毅に組閣の大命が下り、犬養は首相に就任し、直ちに内閣を組織した。

 

 

犬養毅は、自分の大きな使命は二つ有ると思っていた。

一つは、「満州事変」の拡大を、何としても食い止める事である。

「戦はするもんでない…負け戦は、なおさらじゃ」

犬養は、明確な方針も無いまま、ズルズルと戦線を拡大する事には、断固反対であった。

また、犬養は「経済界が、どんどん産業を興し、その産業を元に国を発展させる」という「産業立国」を掲げた。

「満州事変」の拡大を阻止し、民間企業をどんどん発展させ、国を平和に発展させるというのが、彼の理念だった。

だが、そんな犬養毅に残された時間は、あまりにも少なかった。

 

<1932(昭和7)年5月15日…犬養毅首相、海軍青年将校の凶弾に倒れ、絶命…「五・一五事件」で、犬養毅は志半ばで、享年76歳で死去~犬養首相と会見予定だったチャップリンは、危うく難を逃れる>

 

 

1932(昭和7)年5月13日、犬養毅と、彼の孫の犬養道子(当時11歳)は、二人で散歩を楽しんでいた。

当時、学習院に通っていた道子は、大変なお祖父ちゃん子で、犬養の事を、

「おじいちゃま、おじいちゃま」

と言って、大変慕っていた。

そんな道子の事を、犬養も大変可愛がっていたが、この日、一緒に散歩をした後、

「もうお帰り。お祖父ちゃんは、少し考え事が有るでな」

犬養は、道子にそう告げた。

「うん、わかった。おじいちゃま、またね!」

道子は犬養に手を振って、家に帰って行った。

だが、これが仲睦まじい祖父の孫の、今生の別れになった。

 

 

1932(昭和7)年5月15日、日本をお訪れていた「喜劇王」チャップリンは、

この日、犬養首相と会見する予定が有り、首相官邸を訪れる事になっていた。

だが、どうしたわけか、チャップリンの都合が合わなくなり、彼は首相官邸へ行かなかった。

これが、彼の運命の分かれ道となった。

 

 

 

1932(昭和7)年5月15日、午後5時頃、三木卓をリーダーとする、拳銃で武装した海軍青年将校の9名は、靖国神社で参拝した後、首相官邸へと向かった。

彼らは、武力による「国家改造」を目指しており、この日(1932/5/15)、遂にそれを実行に移そうとしていたのである。

彼ら海軍青年将校は、何組かに分かれ、内大臣官邸や、「立憲政友会」本部などにも向かったが、彼らはそこを襲撃しようとしていた。

そして、首相官邸に着いた三木卓らは、犬養首相に面会を求め、守衛にそれを拒否されると、いきなり発砲した。

 

 

その弾は逸れたが、何発か発射された銃声を聞いて、犬養首相の秘書らは、犬養を奧の部屋へと逃がしたが、

海軍青年将校達は、その気配を察して、扉を蹴破って、その部屋へと入った。

部屋には、果たして犬養毅が居たが、拳銃を構え、殺気立った表情の彼らを見ても、犬養は取り乱しもせず、悠然としていた。

「まあ、待て。話せばわかる。撃つのはいつでも出来る。靴ぐらい脱いだらどうかね?…人間同士、向き合って話せば、分かり合えるんだよ」

犬養は、彼らに対し、そう言ったが、犬養のペースに巻き込まれそうになった彼らは、

「問答無用!!撃て!!!!」

と言って発砲し、犬養を撃った。

犬養が、その場に倒れたのを見て、彼らは犬養が死んだものと思い、引き上げたが、実は犬養はまだ生きていた。

しかし、その後、病院に運ばれ、手当てを受けたものの、頭に撃たれた銃弾が致命傷となり、犬養は絶命した。

犬養毅、享年76歳であった。

以上、これが、「五・一五事件」の顛末である。

 

<「話せばわかる」⇒「問答無用」のやり取りが象徴した、「デモクラシーの時代の終焉」⇒「軍国主義時代の到来」>

 

 

犬養毅が「五・一五事件」で命を落とした後、

犬養首相の後を継ぎ、海軍軍人だった斎藤実が首相に就任した。

以後、「憲政の常道」は崩れ、「政党政治」の時代は終わり、軍部主導の首相が続く時代となった。

「話せばわかる」⇒「問答無用」のやり取りが象徴したているように、

「デモクラシーの時代の終焉」⇒「軍国主義時代の到来」という流れになったのである。

…とうわけで、この続きは、このブログで既に書いた「二・二六事件編」(2020.2.26)をご覧頂きたい。