歴代『伊豆の踊子』と、その時代⑨ ~山口百恵の『ひと夏の経験』と『赤い迷路』と『伊豆の踊子』~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1972(昭和47)年に放送開始された、日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」から、

森昌子・桜田淳子という逸材が相次いでデビューし、彼女達から少し遅れて山口百恵もデビューを飾った。

そして1973(昭和48)年、山口百恵『青い果実』を歌い、頭角を現すと、同年(1973年)、TBSの『顔で笑って』で、百恵はドラマ初出演も果たした。

 

 

翌1974(昭和49)年、山口百恵は、いよいよ大ブレイクする。

この年(1974年)、百恵は『ひと夏の経験』を大ヒットさせ、「赤いシリーズ」第1作『赤い迷路』に出演し、『伊豆の踊子』で早くも映画初出演を果たすのである。

というわけで、今回は1974(昭和49)年の山口百恵の大ブレイクの経緯に、スポットを当ててみる事としたい。

それでは、早速ご覧頂こう。

 

<1973(昭和48)年…「花の中3トリオ」誕生!!~「スター誕生」出身の森昌子・桜田淳子・山口百恵が「花の中3トリオ」として売り出される>

 

 

冒頭で書いた通り、日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」から、

森昌子・桜田淳子・山口百恵という、フレッシュな3人が相次いでデビューし、

「スター誕生!」は、一躍、「人気アイドルのデビューの登竜門」となった。

3人が芸能界に出揃った1973(昭和48)年当時、彼女達は同学年の、中学3年生である。

 

 

 

そこで、「スター誕生!」は、番組の宣伝も兼ねて、

森昌子・桜田淳子・山口百恵の3人を「花の中3トリオ」と命名し、

人気アイドル3人組として、大いに売り出す事とした。

彼女達は、3人ともソロ歌手であり、基本的にはそれぞれ1人で活動していたが、

以後、あまり実態は無いとは言え、トリオとしてテレビに出たりするようになった。

なお、この中では、一足先に1972(昭和47)年にデビューしていた森昌子が先輩格であり、

正直なところ、森昌子と、それ以外の2人(桜田淳子・山口百恵)との間には、若干、距離が有ったようである。

だが、彼女達は同学年として、お互いに刺激し合い、切磋琢磨する関係だった事は間違いない。

 

<実は、こちらを大々的に売り出す予定だった!?~「森昌子・山口百恵・石川さゆり」の「ホリプロ三人娘」>

 

 

「花の中3トリオ」という名前は有名だが、実際には森昌子・桜田淳子・山口百恵は本当のトリオではなく、

3人組としての活動も殆んど無かったのだが、それに対して、「森昌子・山口百恵・石川さゆり」の組み合わせの「ホリプロ三人娘」は、1973(昭和48)年に、実際に3人組でコンサートを行なったりして、活動の実績は有った。

だが、「ホリプロ三人娘」は、あまり定着しなかった。

何故かといえば、この中では石川さゆりのブレイクが遅れ、森昌子山口百恵の芸能活動の中身にも、かなりの隔たりが有ったからである。

というわけで、「ホリプロ三人娘」は「無かった事」にされ、日本芸能史の隙間に埋もれて行った。

 

<1972(昭和47)年8月5日…『男はつらいよ』シリーズ第9作『男はつらいよ 柴又慕情』に、吉永小百合が登場!!>

 

 

 

ここで、当時の映画界に目を向けてみる事とする。

1970年代に入り、日本映画界は観客動員で苦戦し、苦境に陥っていたが、

そんな中、1969(昭和44)年に始まった、渥美清主演の『男はつらいよ』、所謂「寅さん」シリーズだけは、絶好調であった。

「寅さん」は、公開されれば必ず大ヒットする「ドル箱」であり、当時は「寅さん」こそが、日本映画界の最大のスターであった。

そんな中、1972(昭和47)年8月5日に公開された、「寅さん」シリーズ第9作『男はつらいよ 柴又慕情』に、遂に吉永小百合が登場した。

山田洋次監督は、「寅さんシリーズに、吉永小百合を登場させる」事を大目標としていたというが、遂にその目標は達成されたのである。

なお、大目標達成以降も、「寅さん」シリーズは続いて行く事となる。

 

<1972(昭和47)年7月21日…『太陽にほえろ!』第1話「マカロニ刑事登場!」~新人刑事・マカロニ(萩原健一)が登場~記念すべき(?)第1話の犯人役は水谷豊>

 

 

 

さて、前回の記事で、伝説の刑事ドラマ『太陽にほえろ!』誕生の経緯については、既に書いた。

1972(昭和47)年7月21日(金)の午後8時、『太陽にほえろ!』の第1話が放送開始されたが、

第1話のタイトルは「マカロニ刑事登場!」である。

「七曲署」に、萩原健一が演じる新人刑事「マカロニ刑事」が登場する所から、物語は始まる。

 

 

 

では何故、ショーケン(萩原健一)演じる新人刑事・早見淳「マカロニ刑事」と呼ばれたのかといえば、

「七曲署」の刑事達は、ボス(石原裕次郎)を筆頭に、それぞれニックネームが有り、

何やら、ダテ男風(?)の出で立ちで現れた早見の事を、先輩刑事・デンカ(小野寺昭)が、

「なあ、マカロニ・ウエスタンに、こんな奴居なかったっけ?」と言った所から、名付けられた。

つまり、「マカロニ」とは「マカロニ・ウエスタン」から取られたニックネームである。

 

 

 

1950(昭和25)年7月26日生まれの萩原健一は、当時22歳だったが、

『太陽にほえろ!』第1話で、記念すべき(?)番組初の犯人役を務めたのが、

1952(昭和27)年7月14日生まれで、当時20歳の水谷豊である。

なお、萩原健一・水谷豊のコンビは、この時の共演が縁となって、後に『傷だらけの天使』で共演する事となるが、その事については後述する。

 

<1973(昭和48)年8月5日…吉永小百合、15歳年上のフジテレビ社員・岡田太郎と結婚!!~世間の「サユリスト」に衝撃を与える>

 

 

 

1973(昭和48)年8月5日、当時28歳の吉永小百合は、

15歳年上のフジテレビ社員・岡田太郎と結婚し、日本全国の「サユリスト」に衝撃を与えた。

「岡田太郎!?…って、誰やねん!?」

というのが、当時の世間の反応だったと思われるが、当の小百合はとても幸せそうであった。

こうして、かつての可憐な「踊子」は、遂に結婚したのである。

 

<1973(昭和48)年7月13日…マカロニ刑事、殉職~マカロニ(萩原健一)の突然の死に、日本中に衝撃が走る>

 

 

さて、「テンプターズ」のボーカルだった萩原健一は、元々、大人気だったが、

『太陽にほえろ!』出演を機に、その人気は、ますます高まっていた。

だが、萩原は、マカロニを演じ続ける事に疲れており、1年経った所で、番組降板を強く求めるようになった。

そこで、番組スタッフは、萩原の降板に際して、「マカロニ」を殉職させる事とした。

「マカロニ」初登場から、ちょうど1年後、1972(昭和47)年7月13日、『太陽にほえろ!』第52話で、彼は通り魔に刺されて殉職した。

なお、第52話のタイトルは「13日金曜日 マカロニ死す」である。

 

 

「えー!?マカロニ死んじゃったの!?」

視聴者は、マカロニ刑事の突然の死に、大きなショックを受けた。

これ以降、『太陽にほえろ!』は、新人刑事の登場と、殉職シーンが「名物」となって行くが、

元はといえば、そのパターンも、萩原健一「早く辞めたい」とゴネた(?)事により生まれたのである。

 

<1973(昭和48)年7月20日…『太陽にほえろ!』第53話「ジーパン刑事登場!」で、松田優作が颯爽と登場!!>

 

 

 

「マカロニ」の殉職の衝撃も冷めやらぬ中、

その翌週である1973(昭和48)年7月20日、『太陽にほえろ!』第53話「ジーパン刑事登場!」で、

長い手足が印象的な新人刑事「ジーパン刑事」が、新たに「七曲署」に登場した。

「ジーパン刑事」こと柴田純を演じるのは、1949(昭和24)年9月21日生まれ、当時24歳の松田優作である。

 

 

 

「ジーパン刑事」こと柴田純=松田優作は、大変カッコ良く、忽ち、視聴者の心を掴んだ。

「ボス」の石原裕次郎も、「ジーパン」を温かく見守ったが、「ジーパン」(松田優作)と、「シンコ」(関根恵子)は、やがて恋仲となって行く。

こうして、「花の中3トリオ」が世に出た頃、萩原健一・水谷豊・松田優作も颯爽と登場し、視聴者を沸かせていた。

 

<三浦友和と忌野清志郎~高校時代の同級生だった三浦友和・忌野清志郎ら、「RCサクセション」結成>

 

 

さてさて、後に山口百恵と大きく関わる事になる人物の筆頭として、この人の名を挙げないわけにはいかない。

1952(昭和27)年1月28日生まれ、山口百恵よりも7歳年上の三浦友和である。

三浦友和(みうら・ともかず)は、山梨県に生まれたが、父親が警察官だった事もあり、各地を転々としていた。

三浦家は、やがて東京に転居するが、三浦友和は東京・日野高校に進学し、そこで忌野清志郎(いまわの・きよしろう)と出逢った。

 

 

忌野清志郎は、当時から圧倒的な音楽の才能を示しており、友和は度肝を抜かれていた。

当時、友和もギターを弾いており、友和は忌野清志郎が結成したバンド「RCサクセション」に加入し、一時は一緒に活動していたが、やがて友和は自らの音楽の才能に見切りを付け、役者の道へと進む事になる。

そして、間もなく三浦友和山口百恵「運命の出逢い」を果たすのである。

 

<1974(昭和49)年の山口百恵①~5月のある日、「グリコ」のCM撮影(砧緑地公園)で、山口百恵・三浦友和が「運命の出逢い」!!>

 

 

1974(昭和49)年5月のある日、新緑も眩しい「砧緑地公園」で、歴史的な「出逢い」が有った。

この日、「砧緑地公園」では、「グリコ」のCM撮影が行われたが、

そのCMに出演するのは、当時、まだ若手の男女のタレントであった。

言うまでもなく、山口百恵三浦友和である。

 

 

 

 

この時、山口百恵三浦友和は、初めて顔を合わせた。

当時、山口百恵は15歳、三浦友和は22歳である。

この時、お互いに「この子、可愛いな」「この人、カッコいいな」と思ったかどうかは、わからないが、

後年になっても、2人はこの時の事を、ハッキリと覚えていたという。

 

 

ともあれ、この日、山口百恵三浦友和「運命の出逢い」を果たしたのである。

なお、この後、「百恵・友和コンビ」で、沢山の「グリコ」のCMが作られて行く事となる。

ちなみに、「百恵・友和コンビ」の、伝説の初の「グリコ」のCM撮影を行なったのは、大林宣彦監督だったという事も、付け加えておく。

 

<1974(昭和49)年の山口百恵②~1974(昭和49)年6月1日…山口百恵、5枚目のシングル『ひと夏の経験』(作詞:千家和也、作曲:都倉俊一)リリース~『ひと夏の経験』は大ヒットし、山口百恵は一躍、大ブレイク!!>

 

 

1974(昭和49)年6月1日、山口百恵の5枚目のシングル『ひと夏の経験』(作詞:千家和也、作曲:都倉俊一)がリリースされた。

『ひと夏の経験』は、リリースされた直後から、大きな話題になった。

何が話題になったのかといえば、『青い果実』にも増して、何とも大胆で際どい内容の歌詞である。

 

 

「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ…小さな胸の奥にしまった大切なものをあげるわ…」

「愛する人に捧げるため 守ってきたのよ 汚れてもいい 泣いてもいい 愛は尊いわ…」

「誰でも一度だけ経験するのよ 誘惑の甘い罠…」

この歌詞は、当時、世間に衝撃を与えた。

『青い果実』の時もそうだったが、「年端も行かない女の子に、こんな歌を歌わせるなんて…」と、大人達は眉を顰めたのである。

 

 

 

だが、当時15歳の山口百恵は、テレビの歌番組でも『ひと夏の経験』を、堂々と歌ってみせた。

『ひと夏の経験』を歌う百恵は輝いており、百恵は、この曲の世界観をしっかりと理解した上で、まさに「演じるように」歌ったのである。

世間の大人達からは顰蹙を買った(?)ものの、『ひと夏の経験』は、大ヒットを記録した。

山口百恵は、遂に大ブレイクを果たしたのである。

歌詞もさる事ながら、『ひと夏の経験』は、日本歌謡史に残る名曲であると、私は思う。

百恵は、素晴らしいタイミングで、この名曲に出逢えたものだと、つくづく思わされる。

 

 

 

なお、全くの余談だが、遥か後年、三浦友和山口百恵夫妻の長男・三浦祐太朗が、

「徹子の部屋」の特番に出演し、母・百恵が『ひと夏の経験』を歌っている映像を見せられ、

黒柳徹子「どうですか?当時のお母さんは?」と聞かれ、

「うーん…可愛いですね(笑)」と祐太朗は答えていた。

まあ、そう答えるしかないとは思われるが、自分の母親が15歳だった頃の映像を見せられるというのも、息子としては何とも複雑な心境だったに違いない。

 

<1974(昭和49)年8月30日…『太陽にほえろ!』第111話「ジーパン・シンコ その愛と死」で、ジーパン刑事(松田優作)が殉職>

 

 

 

山口百恵『ひと夏の経験』が大ヒット街道を驀進していた頃、

1974(昭和49)年8月30日、『太陽にほえろ!』第111話「ジーパン・シンコ その愛と死」が放送された。

ジーパン刑事(松田優作)シンコ(関根恵子)は、恋人同士だったが、

この回で、ジーパン刑事は遂に殉職してしまうのである。

 

 

 

ジーパン(松田優作)は、拳銃を持った犯人を追い、説得しようとしたが、

犯人はジーパンに向かって拳銃を発砲した。

その弾はジーパンの腹を直撃したが、ジーパンは、撃たれた腹から大量に出血しているのを見て、

「何じゃこりゃあああ!!」と、絶叫した。

あまりにも有名なシーンであるが、ジーパンは「まだ死にたくない…」という言葉を遺し、そのまま絶命してしまった。

こうして、マカロニ(萩原健一)に続き、ジーパン(松田優作)も死んでしまったが、何度見ても、切ない場面である。

 

<1974(昭和49)年8月3日…『男はつらいよ』シリーズ第13作『寅次郎 恋やつれ』に、吉永小百合が再登場!!>

 

 

 

1974(昭和49)年8月3日、『男はつらいよ』シリーズ第13作『寅次郎 恋やつれ』に、

吉永小百合が再登場を果たした。

前回の『男はつらいよ 柴又慕情』に登場したマドンナと同一人物という設定だったが、

「寅さん」シリーズで、同じマドンナが複数回登場するのは、他には浅丘ルリ子「リリー」ぐらいではないだろうか。

それはさておき、今回も「寅さん」は大ヒットし、相変わらず日本映画界を牽引していたが、

この後、間もなく日本映画界に、新たな「ドル箱スター」が誕生する。

言うまでもなく、山口百恵である。

山口百恵『伊豆の踊子』の主演を務める時が迫っていた。

 

<1974(昭和49)年の山口百恵③~1974(昭和49)年10月4日…山口百恵主演の「赤いシリーズ」第1作『赤い迷路』放送開始!!~山口百恵・宇津井健・松田優作が「夢の共演」>

 

 

 

1974(昭和49)年10月4日、TBSで山口百恵主演の『赤い迷路』が放送開始された。

後に、山口百恵主演の「赤いシリーズ」として大人気となるドラマシリーズの第1作である。

『赤い迷路』では、山口百恵宇津井健が親子役で共演し、松田優作も出演しているが、

「山口百恵・宇津井健・松田優作」という豪華な3人の、「夢の共演」であった。

 

 

「赤いシリーズ」では、主演の山口百恵が、「これでもか」というぐらい、

次から次へと不幸に襲われ、困難に見舞われて行くのが大きな特徴だが、

その都度、百恵はその困難に立ち向かって行き、それが多くの視聴者の心を捉えた。

なお、「赤いシリーズ」では、憂いを帯びた表情を見せる事が多かった百恵も、オフショットでは、ご覧の通り、共演者の松田優作と楽し気な様子を見せていた。

それはともかく、「ジーパン刑事」が殉職した後、松田優作の次の出演作は、山口百恵との共演だったというのは、興味深いところである。

 

<1974(昭和49)年10月5日…萩原健一・水谷豊が共演した、伝説の探偵ドラマ『傷だらけの天使』放送開始!!>

 

 

 

 

山口百恵『赤い迷路』の放送開始の翌日、

1974(昭和49)年10月5日、今度は日本テレビで、萩原健一・水谷豊が共演した、

伝説の探偵ドラマ『傷だらけの天使』が放送開始された。

前述の通り、萩原健一・水谷豊のコンビは、『太陽にほえろ!』第1話での共演がキッカケとなり、

『傷だらけの天使』での共演が実現した。

若き日の萩原健一と水谷豊の、溌剌とした姿を見る事が出来る『傷だらけの天使』は、今思えば非常に貴重である。

このように、当時のテレビドラマ界も、非常に活気が有った。

 

<1974(昭和49)年10月12日…中日ドラゴンズ、20年振り優勝!!~巨人「V10」の夢、潰える>

 

 

山口百恵の「赤いシリーズ」と、萩原健一・水谷豊の『傷だらけの天使』が放送開始された直後、

1974(昭和49)年10月12日、ウォーリー与那嶺監督率いる中日ドラゴンズが、20年振り優勝を達成した。

これにより、巨人「V10」の夢は潰えたが、中日優勝は、プロ野球の新たな時代の到来を予感させた。

しかし、中日優勝よりも、野球界にとって、更に大きなニュースが有った。

「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄の現役引退である。

 

<1974(昭和49)年10月14日…「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄が現役引退~当時、青山学院大学1年生の桑田佳祐、後に『栄光の男』を生み出す>

 

 

1974(昭和49)年10月14日、「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄が、遂に現役引退の時を迎えた。

長嶋は、引退セレモニーで「我が巨人軍は、永久に不滅です」という名台詞を残したが、

山口百恵の『ひと夏の経験』同様、これは世間に物凄いインパクトを残した。

そして、それらは未だに語り継がれているというのも凄い。

 

 

 

この長嶋引退の光景を見て、当時、青山学院大学1年生だった桑田佳祐が、強い印象を受け、

それが後に、サザンオールスターズ『栄光の男』という楽曲に結実したというのは、既にこのブログでも何度も書いて来た通りである。

こうして、長嶋茂雄は現役生活に別れを告げ、世代は交代し、また新たな若い才能が次々に台頭して行く。

時代は、そうやって流れて行くものである。

 

<1974(昭和49)年の山口百恵④~1974(昭和49)年12月28日…山口百恵・三浦友和が共演した『伊豆の踊子』公開!!~藤岡弘・由美かおる主演『エスパイ』と「二本立て」で同時上映し、同日(1974/12/28)には『栄光の背番号3』も同時公開>

 

 

1974(昭和49)年12月28日、山口百恵三浦友和が共演した、

映画『伊豆の踊子』が公開された。

『伊豆の踊子』の映画化は、内藤洋子版以来、7年振り6度目である。

「グリコ」のCMで初共演し、「運命の出逢い」を果たした山口百恵と三浦友和は、遂に映画でも共演する事となった。

 

 

 

 

なお、山口百恵の『伊豆の踊子』は、藤岡弘由美かおる主演の映画『エスパイ』との「二本立て」であった。

当時の映画では、「二本立て」が主流であり、普通だったが、『伊豆の踊子』と『エスパイ』という、

全く毛色の違う映画が「二本立て」というのは、非常に面白い。

なお、山口百恵の『伊豆の踊子』については、色々と語るべき事も多いので、その話は次回また、改めて書かせて頂く事とする。

 

 

なお、『伊豆の踊子』『エスパイ』は、長嶋茂雄の引退記念ドキュメンタリー映画『燃える男 長嶋茂雄 栄光の背番号3』と同時公開され、いずれも、大ヒットを記録した。

この年(1974年)の「顔」は、間違いなく山口百恵と長嶋茂雄だった、という事が言えよう。

 

<1974(昭和49)年12月31日…山口百恵、「第16回日本レコード大賞」で大衆賞受賞⇒「第25回NHK紅白歌合戦」に「森昌子・桜田淳子・山口百恵」の「花の高1トリオ」&「郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎」の「新御三家」が揃って登場!!>

 

 

 

1974(昭和49)年12月31日、山口百恵は「第16回日本レコード大賞」で、

『ひと夏の経験』の大ヒットが評価され、大衆賞を受賞した。

百恵は『ひと夏の経験』で、文字どおり、急成長を遂げたようである。

 

 

 

 

また、同日(1974/12/31)の「第25回NHK紅白歌合戦」で、山口百恵は桜田淳子と共に初出場を果たした。

この時の「紅白」は、「森昌子・桜田淳子・山口百恵」の「花の高1トリオ」「郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎」の「新御三家」が、初めて揃って出場したという、歴史的な「紅白」である。

こうして、山口百恵は栄光の1974(昭和49)年を締めくくったが、「百恵伝説」は、まだまだ始まったばかりであった。

 

(つづく)