1972(昭和47)年に放送開始された、日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」から、
森昌子・桜田淳子という逸材が相次いでデビューし、彼女達から少し遅れて山口百恵もデビューを飾った。
そして1973(昭和48)年、山口百恵は『青い果実』を歌い、頭角を現すと、同年(1973年)、TBSの『顔で笑って』で、百恵はドラマ初出演も果たした。
翌1974(昭和49)年、山口百恵は、いよいよ大ブレイクする。
この年(1974年)、百恵は『ひと夏の経験』を大ヒットさせ、「赤いシリーズ」第1作『赤い迷路』に出演し、『伊豆の踊子』で早くも映画初出演を果たすのである。
というわけで、今回は1974(昭和49)年の山口百恵の大ブレイクの経緯に、スポットを当ててみる事としたい。
それでは、早速ご覧頂こう。
<1973(昭和48)年…「花の中3トリオ」誕生!!~「スター誕生」出身の森昌子・桜田淳子・山口百恵が「花の中3トリオ」として売り出される>
冒頭で書いた通り、日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」から、
森昌子・桜田淳子・山口百恵という、フレッシュな3人が相次いでデビューし、
「スター誕生!」は、一躍、「人気アイドルのデビューの登竜門」となった。
3人が芸能界に出揃った1973(昭和48)年当時、彼女達は同学年の、中学3年生である。
そこで、「スター誕生!」は、番組の宣伝も兼ねて、
森昌子・桜田淳子・山口百恵の3人を「花の中3トリオ」と命名し、
人気アイドル3人組として、大いに売り出す事とした。
彼女達は、3人ともソロ歌手であり、基本的にはそれぞれ1人で活動していたが、
以後、あまり実態は無いとは言え、トリオとしてテレビに出たりするようになった。
なお、この中では、一足先に1972(昭和47)年にデビューしていた森昌子が先輩格であり、
正直なところ、森昌子と、それ以外の2人(桜田淳子・山口百恵)との間には、若干、距離が有ったようである。
だが、彼女達は同学年として、お互いに刺激し合い、切磋琢磨する関係だった事は間違いない。
<実は、こちらを大々的に売り出す予定だった!?~「森昌子・山口百恵・石川さゆり」の「ホリプロ三人娘」>
「花の中3トリオ」という名前は有名だが、実際には森昌子・桜田淳子・山口百恵は本当のトリオではなく、
3人組としての活動も殆んど無かったのだが、それに対して、「森昌子・山口百恵・石川さゆり」の組み合わせの「ホリプロ三人娘」は、1973(昭和48)年に、実際に3人組でコンサートを行なったりして、活動の実績は有った。
だが、「ホリプロ三人娘」は、あまり定着しなかった。
何故かといえば、この中では石川さゆりのブレイクが遅れ、森昌子と山口百恵の芸能活動の中身にも、かなりの隔たりが有ったからである。
というわけで、「ホリプロ三人娘」は「無かった事」にされ、日本芸能史の隙間に埋もれて行った。
<1972(昭和47)年8月5日…『男はつらいよ』シリーズ第9作『男はつらいよ 柴又慕情』に、吉永小百合が登場!!>
ここで、当時の映画界に目を向けてみる事とする。
1970年代に入り、日本映画界は観客動員で苦戦し、苦境に陥っていたが、
そんな中、1969(昭和44)年に始まった、渥美清主演の『男はつらいよ』、所謂「寅さん」シリーズだけは、絶好調であった。
「寅さん」は、公開されれば必ず大ヒットする「ドル箱」であり、当時は「寅さん」こそが、日本映画界の最大のスターであった。
そんな中、1972(昭和47)年8月5日に公開された、「寅さん」シリーズ第9作『男はつらいよ 柴又慕情』に、遂に吉永小百合が登場した。
山田洋次監督は、「寅さんシリーズに、吉永小百合を登場させる」事を大目標としていたというが、遂にその目標は達成されたのである。
なお、大目標達成以降も、「寅さん」シリーズは続いて行く事となる。
<1972(昭和47)年7月21日…『太陽にほえろ!』第1話「マカロニ刑事登場!」~新人刑事・マカロニ(萩原健一)が登場~記念すべき(?)第1話の犯人役は水谷豊>
さて、前回の記事で、伝説の刑事ドラマ『太陽にほえろ!』誕生の経緯については、既に書いた。
1972(昭和47)年7月21日(金)の午後8時、『太陽にほえろ!』の第1話が放送開始されたが、
第1話のタイトルは「マカロニ刑事登場!」である。
「七曲署」に、萩原健一が演じる新人刑事「マカロニ刑事」が登場する所から、物語は始まる。
では何故、ショーケン(萩原健一)演じる新人刑事・早見淳が「マカロニ刑事」と呼ばれたのかといえば、
「七曲署」の刑事達は、ボス(石原裕次郎)を筆頭に、それぞれニックネームが有り、
何やら、ダテ男風(?)の出で立ちで現れた早見の事を、先輩刑事・デンカ(小野寺昭)が、
「なあ、マカロニ・ウエスタンに、こんな奴居なかったっけ?」と言った所から、名付けられた。
つまり、「マカロニ」とは「マカロニ・ウエスタン」から取られたニックネームである。
1950(昭和25)年7月26日生まれの萩原健一は、当時22歳だったが、
『太陽にほえろ!』第1話で、記念すべき(?)番組初の犯人役を務めたのが、
1952(昭和27)年7月14日生まれで、当時20歳の水谷豊である。
なお、萩原健一・水谷豊のコンビは、この時の共演が縁となって、後に『傷だらけの天使』で共演する事となるが、その事については後述する。
<1973(昭和48)年8月5日…吉永小百合、15歳年上のフジテレビ社員・岡田太郎と結婚!!~世間の「サユリスト」に衝撃を与える>
1973(昭和48)年8月5日、当時28歳の吉永小百合は、
15歳年上のフジテレビ社員・岡田太郎と結婚し、日本全国の「サユリスト」に衝撃を与えた。
「岡田太郎!?…って、誰やねん!?」
というのが、当時の世間の反応だったと思われるが、当の小百合はとても幸せそうであった。
こうして、かつての可憐な「踊子」は、遂に結婚したのである。
<1973(昭和48)年7月13日…マカロニ刑事、殉職~マカロニ(萩原健一)の突然の死に、日本中に衝撃が走る>
さて、「テンプターズ」のボーカルだった萩原健一は、元々、大人気だったが、
『太陽にほえろ!』出演を機に、その人気は、ますます高まっていた。
だが、萩原は、マカロニを演じ続ける事に疲れており、1年経った所で、番組降板を強く求めるようになった。
そこで、番組スタッフは、萩原の降板に際して、「マカロニ」を殉職させる事とした。
「マカロニ」初登場から、ちょうど1年後、1972(昭和47)年7月13日、『太陽にほえろ!』第52話で、彼は通り魔に刺されて殉職した。
なお、第52話のタイトルは「13日金曜日 マカロニ死す」である。
「えー!?マカロニ死んじゃったの!?」
視聴者は、マカロニ刑事の突然の死に、大きなショックを受けた。
これ以降、『太陽にほえろ!』は、新人刑事の登場と、殉職シーンが「名物」となって行くが、
元はといえば、そのパターンも、萩原健一が「早く辞めたい」とゴネた(?)事により生まれたのである。
<1973(昭和48)年7月20日…『太陽にほえろ!』第53話「ジーパン刑事登場!」で、松田優作が颯爽と登場!!>
「マカロニ」の殉職の衝撃も冷めやらぬ中、
その翌週である1973(昭和48)年7月20日、『太陽にほえろ!』第53話「ジーパン刑事登場!」で、
長い手足が印象的な新人刑事「ジーパン刑事」が、新たに「七曲署」に登場した。
「ジーパン刑事」こと柴田純を演じるのは、1949(昭和24)年9月21日生まれ、当時24歳の松田優作である。
「ジーパン刑事」こと柴田純=松田優作は、大変カッコ良く、忽ち、視聴者の心を掴んだ。
「ボス」の石原裕次郎も、「ジーパン」を温かく見守ったが、「ジーパン」(松田優作)と、「シンコ」(関根恵子)は、やがて恋仲となって行く。
こうして、「花の中3トリオ」が世に出た頃、萩原健一・水谷豊・松田優作も颯爽と登場し、視聴者を沸かせていた。
<三浦友和と忌野清志郎~高校時代の同級生だった三浦友和・忌野清志郎ら、「RCサクセション」結成>
さてさて、後に山口百恵と大きく関わる事になる人物の筆頭として、この人の名を挙げないわけにはいかない。
1952(昭和27)年1月28日生まれ、山口百恵よりも7歳年上の三浦友和である。
三浦友和(みうら・ともかず)は、山梨県に生まれたが、父親が警察官だった事もあり、各地を転々としていた。
三浦家は、やがて東京に転居するが、三浦友和は東京・日野高校に進学し、そこで忌野清志郎(いまわの・きよしろう)と出逢った。
忌野清志郎は、当時から圧倒的な音楽の才能を示しており、友和は度肝を抜かれていた。
当時、友和もギターを弾いており、友和は忌野清志郎が結成したバンド「RCサクセション」に加入し、一時は一緒に活動していたが、やがて友和は自らの音楽の才能に見切りを付け、役者の道へと進む事になる。
そして、間もなく三浦友和は山口百恵と「運命の出逢い」を果たすのである。
<1974(昭和49)年の山口百恵①~5月のある日、「グリコ」のCM撮影(砧緑地公園)で、山口百恵・三浦友和が「運命の出逢い」!!>
1974(昭和49)年5月のある日、新緑も眩しい「砧緑地公園」で、歴史的な「出逢い」が有った。
この日、「砧緑地公園」では、「グリコ」のCM撮影が行われたが、
そのCMに出演するのは、当時、まだ若手の男女のタレントであった。
言うまでもなく、山口百恵と三浦友和である。
この時、山口百恵と三浦友和は、初めて顔を合わせた。
当時、山口百恵は15歳、三浦友和は22歳である。
この時、お互いに「この子、可愛いな」「この人、カッコいいな」と思ったかどうかは、わからないが、
後年になっても、2人はこの時の事を、ハッキリと覚えていたという。
ともあれ、この日、山口百恵と三浦友和は「運命の出逢い」を果たしたのである。
なお、この後、「百恵・友和コンビ」で、沢山の「グリコ」のCMが作られて行く事となる。
ちなみに、「百恵・友和コンビ」の、伝説の初の「グリコ」のCM撮影を行なったのは、大林宣彦監督だったという事も、付け加えておく。
<1974(昭和49)年の山口百恵②~1974(昭和49)年6月1日…山口百恵、5枚目のシングル『ひと夏の経験』(作詞:千家和也、作曲:都倉俊一)リリース~『ひと夏の経験』は大ヒットし、山口百恵は一躍、大ブレイク!!>
1974(昭和49)年6月1日、山口百恵の5枚目のシングル『ひと夏の経験』(作詞:千家和也、作曲:都倉俊一)がリリースされた。
『ひと夏の経験』は、リリースされた直後から、大きな話題になった。
何が話題になったのかといえば、『青い果実』にも増して、何とも大胆で際どい内容の歌詞である。
「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ…小さな胸の奥にしまった大切なものをあげるわ…」
「愛する人に捧げるため 守ってきたのよ 汚れてもいい 泣いてもいい 愛は尊いわ…」
「誰でも一度だけ経験するのよ 誘惑の甘い罠…」
この歌詞は、当時、世間に衝撃を与えた。
『青い果実』の時もそうだったが、「年端も行かない女の子に、こんな歌を歌わせるなんて…」と、大人達は眉を顰めたのである。
だが、当時15歳の山口百恵は、テレビの歌番組でも『ひと夏の経験』を、堂々と歌ってみせた。
『ひと夏の経験』を歌う百恵は輝いており、百恵は、この曲の世界観をしっかりと理解した上で、まさに「演じるように」歌ったのである。
世間の大人達からは顰蹙を買った(?)ものの、『ひと夏の経験』は、大ヒットを記録した。
山口百恵は、遂に大ブレイクを果たしたのである。
歌詞もさる事ながら、『ひと夏の経験』は、日本歌謡史に残る名曲であると、私は思う。
百恵は、素晴らしいタイミングで、この名曲に出逢えたものだと、つくづく思わされる。
なお、全くの余談だが、遥か後年、三浦友和・山口百恵夫妻の長男・三浦祐太朗が、
「徹子の部屋」の特番に出演し、母・百恵が『ひと夏の経験』を歌っている映像を見せられ、
黒柳徹子に「どうですか?当時のお母さんは?」と聞かれ、
「うーん…可愛いですね(笑)」と祐太朗は答えていた。
まあ、そう答えるしかないとは思われるが、自分の母親が15歳だった頃の映像を見せられるというのも、息子としては何とも複雑な心境だったに違いない。
<1974(昭和49)年8月30日…『太陽にほえろ!』第111話「ジーパン・シンコ その愛と死」で、ジーパン刑事(松田優作)が殉職>
山口百恵の『ひと夏の経験』が大ヒット街道を驀進していた頃、
1974(昭和49)年8月30日、『太陽にほえろ!』第111話「ジーパン・シンコ その愛と死」が放送された。
ジーパン刑事(松田優作)とシンコ(関根恵子)は、恋人同士だったが、
この回で、ジーパン刑事は遂に殉職してしまうのである。
ジーパン(松田優作)は、拳銃を持った犯人を追い、説得しようとしたが、
犯人はジーパンに向かって拳銃を発砲した。
その弾はジーパンの腹を直撃したが、ジーパンは、撃たれた腹から大量に出血しているのを見て、
「何じゃこりゃあああ!!」と、絶叫した。
あまりにも有名なシーンであるが、ジーパンは「まだ死にたくない…」という言葉を遺し、そのまま絶命してしまった。
こうして、マカロニ(萩原健一)に続き、ジーパン(松田優作)も死んでしまったが、何度見ても、切ない場面である。
<1974(昭和49)年8月3日…『男はつらいよ』シリーズ第13作『寅次郎 恋やつれ』に、吉永小百合が再登場!!>
1974(昭和49)年8月3日、『男はつらいよ』シリーズ第13作『寅次郎 恋やつれ』に、
吉永小百合が再登場を果たした。
前回の『男はつらいよ 柴又慕情』に登場したマドンナと同一人物という設定だったが、
「寅さん」シリーズで、同じマドンナが複数回登場するのは、他には浅丘ルリ子の「リリー」ぐらいではないだろうか。
それはさておき、今回も「寅さん」は大ヒットし、相変わらず日本映画界を牽引していたが、
この後、間もなく日本映画界に、新たな「ドル箱スター」が誕生する。
言うまでもなく、山口百恵である。
山口百恵が『伊豆の踊子』の主演を務める時が迫っていた。
<1974(昭和49)年の山口百恵③~1974(昭和49)年10月4日…山口百恵主演の「赤いシリーズ」第1作『赤い迷路』放送開始!!~山口百恵・宇津井健・松田優作が「夢の共演」>
1974(昭和49)年10月4日、TBSで山口百恵主演の『赤い迷路』が放送開始された。
後に、山口百恵主演の「赤いシリーズ」として大人気となるドラマシリーズの第1作である。
『赤い迷路』では、山口百恵と宇津井健が親子役で共演し、松田優作も出演しているが、
「山口百恵・宇津井健・松田優作」という豪華な3人の、「夢の共演」であった。
「赤いシリーズ」では、主演の山口百恵が、「これでもか」というぐらい、
次から次へと不幸に襲われ、困難に見舞われて行くのが大きな特徴だが、
その都度、百恵はその困難に立ち向かって行き、それが多くの視聴者の心を捉えた。
なお、「赤いシリーズ」では、憂いを帯びた表情を見せる事が多かった百恵も、オフショットでは、ご覧の通り、共演者の松田優作と楽し気な様子を見せていた。
それはともかく、「ジーパン刑事」が殉職した後、松田優作の次の出演作は、山口百恵との共演だったというのは、興味深いところである。
<1974(昭和49)年10月5日…萩原健一・水谷豊が共演した、伝説の探偵ドラマ『傷だらけの天使』放送開始!!>
山口百恵の『赤い迷路』の放送開始の翌日、
1974(昭和49)年10月5日、今度は日本テレビで、萩原健一・水谷豊が共演した、
伝説の探偵ドラマ『傷だらけの天使』が放送開始された。
前述の通り、萩原健一・水谷豊のコンビは、『太陽にほえろ!』第1話での共演がキッカケとなり、
『傷だらけの天使』での共演が実現した。
若き日の萩原健一と水谷豊の、溌剌とした姿を見る事が出来る『傷だらけの天使』は、今思えば非常に貴重である。
このように、当時のテレビドラマ界も、非常に活気が有った。
<1974(昭和49)年10月12日…中日ドラゴンズ、20年振り優勝!!~巨人「V10」の夢、潰える>
山口百恵の「赤いシリーズ」と、萩原健一・水谷豊の『傷だらけの天使』が放送開始された直後、
1974(昭和49)年10月12日、ウォーリー与那嶺監督率いる中日ドラゴンズが、20年振り優勝を達成した。
これにより、巨人「V10」の夢は潰えたが、中日優勝は、プロ野球の新たな時代の到来を予感させた。
しかし、中日優勝よりも、野球界にとって、更に大きなニュースが有った。
「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄の現役引退である。
<1974(昭和49)年10月14日…「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄が現役引退~当時、青山学院大学1年生の桑田佳祐、後に『栄光の男』を生み出す>
1974(昭和49)年10月14日、「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄が、遂に現役引退の時を迎えた。
長嶋は、引退セレモニーで「我が巨人軍は、永久に不滅です」という名台詞を残したが、
山口百恵の『ひと夏の経験』同様、これは世間に物凄いインパクトを残した。
そして、それらは未だに語り継がれているというのも凄い。
この長嶋引退の光景を見て、当時、青山学院大学1年生だった桑田佳祐が、強い印象を受け、
それが後に、サザンオールスターズの『栄光の男』という楽曲に結実したというのは、既にこのブログでも何度も書いて来た通りである。
こうして、長嶋茂雄は現役生活に別れを告げ、世代は交代し、また新たな若い才能が次々に台頭して行く。
時代は、そうやって流れて行くものである。
<1974(昭和49)年の山口百恵④~1974(昭和49)年12月28日…山口百恵・三浦友和が共演した『伊豆の踊子』公開!!~藤岡弘・由美かおる主演『エスパイ』と「二本立て」で同時上映し、同日(1974/12/28)には『栄光の背番号3』も同時公開>
1974(昭和49)年12月28日、山口百恵と三浦友和が共演した、
映画『伊豆の踊子』が公開された。
『伊豆の踊子』の映画化は、内藤洋子版以来、7年振り6度目である。
「グリコ」のCMで初共演し、「運命の出逢い」を果たした山口百恵と三浦友和は、遂に映画でも共演する事となった。
なお、山口百恵の『伊豆の踊子』は、藤岡弘・由美かおる主演の映画『エスパイ』との「二本立て」であった。
当時の映画では、「二本立て」が主流であり、普通だったが、『伊豆の踊子』と『エスパイ』という、
全く毛色の違う映画が「二本立て」というのは、非常に面白い。
なお、山口百恵の『伊豆の踊子』については、色々と語るべき事も多いので、その話は次回また、改めて書かせて頂く事とする。
なお、『伊豆の踊子』『エスパイ』は、長嶋茂雄の引退記念ドキュメンタリー映画『燃える男 長嶋茂雄 栄光の背番号3』と同時公開され、いずれも、大ヒットを記録した。
この年(1974年)の「顔」は、間違いなく山口百恵と長嶋茂雄だった、という事が言えよう。
<1974(昭和49)年12月31日…山口百恵、「第16回日本レコード大賞」で大衆賞受賞⇒「第25回NHK紅白歌合戦」に「森昌子・桜田淳子・山口百恵」の「花の高1トリオ」&「郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎」の「新御三家」が揃って登場!!>
1974(昭和49)年12月31日、山口百恵は「第16回日本レコード大賞」で、
『ひと夏の経験』の大ヒットが評価され、大衆賞を受賞した。
百恵は『ひと夏の経験』で、文字どおり、急成長を遂げたようである。
また、同日(1974/12/31)の「第25回NHK紅白歌合戦」で、山口百恵は桜田淳子と共に初出場を果たした。
この時の「紅白」は、「森昌子・桜田淳子・山口百恵」の「花の高1トリオ」&「郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎」の「新御三家」が、初めて揃って出場したという、歴史的な「紅白」である。
こうして、山口百恵は栄光の1974(昭和49)年を締めくくったが、「百恵伝説」は、まだまだ始まったばかりであった。
(つづく)