歴代『伊豆の踊子』と、その時代④ ~吉永小百合の『伊豆の踊子』…吉永小百合と川端康成の邂逅~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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川端康成が原作の『伊豆の踊子』は、1957(昭和32)年に光本幸子が舞台で、1960(昭和35)年に鰐淵晴子が映画で、1961(昭和36)年に小林千登勢がNHKのテレビドラマで、それぞれ主役の「踊子」を演じ、いずれも大評判となった。

『伊豆の踊子』は、日本文学史上に残る名作にして、映画やテレビドラマや舞台でも、多くの人達に愛される作品となっていた。

 

 

そして、1963(昭和38)年、『伊豆の踊子』の4度目の映画化で、

当時18歳で、人気絶頂の青春スター女優・吉永小百合が、満を持して「踊子」を演じる事となった。

という事で、今回は『伊豆の踊子』の真打ち登場(?)も言うべき、吉永小百合の『伊豆の踊子』に、スポットを当ててみる事としたい。

 

<吉永小百合の生い立ち~1945(昭和20)年3月13日、実業家の父・吉永芳之と、歌人だった母・和枝の間に、東京都・渋谷区で生まれる⇒父親の事業が傾き、芸能界を目指す>

 

 

吉永小百合(よしなが・さゆり)は、1945(昭和20)年3月13日、実業家の父・吉永芳之と、歌人だった母・和枝という両親の間に生まれた。

当時は、太平洋戦争末期の頃であり、吉永小百合が生まれたのは、「東京大空襲」(1945年3月10日)の3日後であった。

一歩間違えば、彼女がこの世に生まれて来る事も無かったかもしれないという、過酷な時代に生まれた女の子だった。

 

 

 

 

吉永小百合の父・吉永芳之は、東大法学部を卒業した秀才であり、その後、九州耐火煉瓦、外務省嘱託を経て

「シネ・ロマンス」という映画ファン雑誌を発刊する実業家となっており、母・和枝は大阪に生まれ、「潮音」という短歌結社に所属する歌人であった。

このような芸術家肌の両親の元に生まれた吉永小百合は、幼い頃から大変な美少女だったが、前述のような家庭環境だった事もあり、幼少期から映画や音楽が大好きな子だった。

 

 

ところが、小百合が小学生だった頃、父親が事業に失敗してしまい、

それまで何不自由なく育てられていた小百合の子供時代は暗転してしまった。

家には毎日のように借金取りが押しかけ、吉永家の米櫃(こめびつ)には、米が1粒も無い時も有った。

そんな吉永家の苦境を見て、

「私、新聞配達やるから」

と、小百合は言ったが、両親には止められたという。

そのような状況だった事もあり、小百合は家計を助けるべく、本気で芸能界を目指すようになった。

 

<1957(昭和32)年…当時12歳の吉永小百合、ラジオドラマ『赤胴鈴之助』のオーディションに合格し、ラジオドラマ『赤胴鈴之助』で芸能界デビュー!!~オーディションには山東昭子・藤田弓子も参加し、藤田弓子は吉永小百合の美少女ぶりに驚愕⇒その後、『赤胴鈴之助』はテレビドラマ化され、吉永小百合も出演>

 

 

吉永小百合が子供の頃、少年剣士の活躍を描いた漫画『赤胴鈴之助』が、大人気となっていた。

『赤胴鈴之助』は、当初、1954(昭和29)年に「少年画報」で福井英一が第1話を書いたが、第1話を書き終わった所で福井が急死してしまい、その後は、福井の友人でもあった武内つなよしが引き継ぎ、武内つなよしによって描かれたが、子供達の間で爆発的な大ブームとなっていた。

 

 

 

1957(昭和32)年、子供達の間で大人気だった『赤胴鈴之助』が、

ラジオ東京(現・TBSラジオ)で、ラジオドラマ化される事となり、大々的にオーディションが行われた。

吉永小百合も、そのオーディションに応募したが、難関を勝ち抜き、見事に合格を果たした。

なお、この時の『赤胴鈴之助』のオーディションには、山東昭子、藤田弓子らも参加しており、彼女達も合格を果たした。

 

 

なお、藤田弓子は、この時のオーディションの事を、後に、こう振り返っている。

「吉永小百合さんは、当時から本当に可愛くて、世の中に、こんなに可愛い子が居るのかって、本当にビックリしたわよ!ああ、こういう子が芸能界に入るんだなあと思ったわね(笑)」

結果として、藤田弓子もオーディションには受かったが、当時の彼女にも、吉永小百合の美少女ぶりは強烈な印象が有ったという。

 

 

 

吉永小百合は、当時12歳だったが、確かに、その頃から彼女の美貌は際立っていた。

この時、『赤胴鈴之助』はラジオドラマだったので、小百合は声だけの出演だったのだが、

この時から、小百合の圧倒的な可愛さは、多くの芸能関係者の目に留まっていたのである。

 

 

 

なお、ラジオドラマ版の『赤胴鈴之助』は大人気となり、

放送開始された1957(昭和32)年の内に、早くもラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)で、テレビドラマ化されている。

吉永小百合も、実写版の『赤胴鈴之助』に出演し、これが彼女の初のテレビ出演となった。

ちなみに、『赤胴鈴之助』は、ラジオドラマ、テレビドラマ共に、1959(昭和34)年まで2年余も放送される、大ヒット作であった。

 

<1959(昭和34)年…吉永小百合、テレビドラマ『まぼろし探偵』に出演し、映画『朝を呼ぶ口笛』で映画デビュー!!>

 

 

吉永小百合が『赤胴鈴之助』に出演し、デビューを飾っていた頃、

1957(昭和32)年から「少年画報」で連載開始された、桑田次郎『まぼろし探偵』が、大人気となっていた。

『まぼろし探偵』は、普段は「日の丸新聞社」に勤める少年記者・富士進が、事件が起きると「まぼろし探偵」に変身し、大活躍する物語である。

 

 

 

 

1959(昭和34)年、その『まぼろし探偵』が、ラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)で、テレビドラマ化される事となったが、

テレビドラマ版『まぼろし探偵』に、吉永小百合も出演する事となった。

主役の「まぼろし探偵」を加藤弘が演じ、吉永小百合は、その彼のガールフレンド・吉野さくらの役で出演した。

 

 

 

『まぼろし探偵』に出演した時、吉永小百合は当時14歳だったが(※他に、藤田弓子も出演)、

主役の「まぼろし探偵」以上に、小百合の存在感は際立っており、小百合が登場するだけで、画面は一気に華やいだ。

小百合には、登場するだけで他を圧倒する存在感と、華が有ったのである。

 

 

なお、翌1960(昭和35)年、『まぼろし探偵』は映画化されたが、

その映画『まぼろし探偵 地底人襲来』にも、テレビドラマ版の加藤弘・吉永小百合の主役2人が出演し、ファンを喜ばせた。

『まぼろし探偵』は、吉永小百合のキャリア初期の代表作と言って良いであろう。

 

 

 

そんな吉永小百合の映画デビュー作となったのは、テレビドラマ版『まぼろし探偵』が放送開始された、

1959(昭和34)年に公開されった映画『朝を呼ぶ口笛』であった。

この映画で、小百合は阪東妻三郎の長男・田村高廣と共演しているが、当時の小百合は中学2年生の14歳である。

弱冠14歳にして、映画デビューを果たした吉永小百合であったが、間もなく、吉永小百合の時代がやって来ようとしていた。

 

<その頃、日活映画は…~石原裕次郎が幕を開け、小林旭が後に続き、赤木圭一郎が確立させた「日活映画黄金時代」>

 

 

吉永小百合がデビューを飾り、頭角を現して行った頃、

映画界は、石原裕次郎が大人気であり、「裕次郎の時代」が続いていた。

「裕次郎ブーム」に沸いた1956(昭和31)~1957(昭和32)年に続き、1958(昭和33)年も、日活は石原裕次郎主演の映画を沢山製作していたが、その中の1本、『錆びたナイフ』で、裕次郎は北原三枝、そして小林旭と共演している。

 

 

 

『錆びたナイフ』では、小林旭石原裕次郎の「弟分」のような役だったが、

1934(昭和9)年生まれの石原裕次郎は当時25歳、小林旭は1938(昭和13)年生まれで、当時21歳である。

既に大スターの貫禄が有った裕次郎に対し、小林旭も、この頃から人気を集めており、小林旭主演の映画が作られる事となった。

 

 

1959(昭和34)年、小林旭が主演の『ギターを持った渡り鳥』が公開されるや、これが爆発的な大ヒットとなった。

幼い頃から民謡を習っていたという、小林旭の独特の高音で歌われる、映画主題歌『ギターを持った渡り鳥』ともども、大ヒットした事のより、

小林旭は、一躍、大ブレイクを果たし、日活の人気スターの仲間入りを果たした。

なお、この映画で小林旭の相手役を務めた、当時19歳の浅丘ルリ子は、以後、小林旭の「渡り鳥」シリーズなどに多数出演し、日活映画のヒロインとして、注目を集めた。

 

 

石原裕次郎は「タフガイ」、小林旭は「マイトガイ」と称され、日活映画で人気を二分する大スターとなっていたが、

日活映画の「第三の男」、「和製ジェームス・ディーン」と称された赤木圭一郎が台頭し、これまた大人気となっていた。

赤木圭一郎は、1939(昭和14)年生まれで、1959(昭和34)年に始まる『拳銃無頼帖』シリーズなど、多数の日活アクション映画に出演し、大ブレイクした。

こうして、「日活黄金時代」が到来したが、その日活映画の世界に、吉永小百合も入って行くのである。

 

<1960(昭和35)年…吉永小百合、映画『霧笛が俺を呼んでいる』で赤木圭一郎と共演⇒同年(1960年)、映画『ガラスの中の少女』で、吉永小百合が映画初主演!!~「吉永小百合&浜田光夫」のゴールデン・コンビが誕生>

 

 

 

1960(昭和35)年、当時15歳の吉永小百合は、日活映画と専属契約を結び、以後、日活映画が彼女の主戦場となった。

同年(1960年)、小百合は映画『霧笛が俺を呼んでいる』に出演し、赤木圭一郎と共演を果たした。

この映画では、小百合の出番はあまり多くはないが、伝説のスター・赤木圭一郎と吉永小百合の唯一の共演作として、映画史において、貴重な作品となっている。

 

 

なお、『霧笛が俺を呼んでいる』のヒロインは、芦川いづみである。

芦川いづみも、日活映画に多数出演した、日活映画を代表する人気女優だったが、

この頃の日活には、男女ともに、「客を呼べる」華やかなスターが目白押しであった。

 

 

 

 

同年(1960年)、吉永小百合は、映画『ガラスの中の少女』で、初主演を果たした。

この映画で、吉永小百合浜田光夫と共演したが、

ここに、「吉永小百合&浜田光夫」のゴールデン・コンビが誕生したのである。

 

<「日活黄金時代」を象徴する「日活ダイヤモンドライン」「日活パールライン」とは!?~新人女優・吉永小百合も、日活期待のスターの1人に>

 

 

 

 

日活は、「客を呼べる」人気スター達の作品を、周通的に次々に製作し、

バンバン配給して行こうという「作戦」を立てた。

そして、1960(昭和35)年、日活は、

「日活ダイヤモンドライン」(石原裕次郎・小林旭・赤木圭一郎・宍戸錠・和田浩治)、

「日活パールライン」(浅丘ルリ子・芦川いづみ・中原早苗・清水まゆみ・笹森礼子・吉永小百合)

を形成し、この人気スター達を前面に押し出し、更に「日活黄金時代」を強化しようとしていた。

小百合も、その一角を支える人気スターの1人として、日活から期待されていたが、翌1961(昭和36)年、思いもよらぬ「悲劇」が起こった。

 

<1961(昭和36)年2月21日…赤木圭一郎が、日活撮影所内のゴーカートの激突事故で、享年21歳で急死>

 

 

1961(昭和36)年2月14日、日活撮影所内に、セールスマンがゴーカートの試供品を持って来ていたが、

赤木圭一郎は、撮影の合間に、そのゴーカートに乗り、楽しんでいた。

しかし、そのゴーカードが暴走し、ブレーキが利かなくなってしまい、そのまま壁に激突した。

赤木圭一郎は、すぐさま病院に運ばれたが、昏睡状態に陥ったまま意識は戻らず、2月21日に亡くなった。

赤木圭一郎、享年21歳という、あまりにも早すぎる死だったが、「和製ジェームス・ディーン」と称された彼は、ジェームス・ディーンと同様、事故によって命を落としたのである。

全く痛ましいとしか言いようの無い出来事であった。

 

<1962(昭和37)年の吉永小百合①…『上を向いて歩こう』、『キューポラのある街』、『若い人』などに出演し、『キューポラのある街』で、大スターの仲間入りを果たす!!>

 

 

赤木圭一郎の急死には、吉永小百合も大きなショックを受けたが、

その悲しみを振り払うかのように、小百合は精力的に女優活動を続けて行った。

1962(昭和37)年、吉永小百合は、坂本九の大ヒット曲『上を向いて歩こう』の映画化作品に出演し、坂本九・浜田光夫・高橋英樹らと共演した。

 

 

この映画では、出演者たちが、みんなで肩を組みながら、『上を向いて歩こう』を歌い、歩いて行く場面が有るが、

この場面を見ると、「高度経済成長」の真っ最中の、当時の明るい希望に満ちた日本の時代の空気が感じられて、とても良い。

ちなみに、この名場面は、カラオケで『上を向いて歩こう』を歌うと、その映像を見る事が出来るので、宜しければご覧頂きたい。

 

 

 

 

同年(1962年)、吉永小百合は、彼女の女優としての名声を決定付けた映画に出た。

それが、『キューポラのある街』である。

「キューポラ」とは、鉄の溶解炉の事であり、工場が多く建ち並ぶ街・埼玉県川口市を舞台にした青春映画だったが、

『キューポラのある街』では、吉永小百合浜田光夫の「ゴールデン・コンビ」の演技が絶賛され、小百合の人気は不動の物となった。

この作品は、日本映画史上に残る名作として、名高い作品である。

 

 

 

 

 

同年(1962年)、石坂洋次郎が原作の『若い人』で、

吉永小百合は、遂に大スター・石原裕次郎と共演した。

教師(石原裕次郎)と、女子生徒(吉永小百合)との恋愛を描いた作品であるが、

小百合は、大スター・裕次郎を相手に、体当たりの熱演でぶつかって行き、見る者に強烈なインパクトを与えている。

 

<1962(昭和37)年の吉永小百合②…「吉永小百合&橋幸夫」のデュエット曲『いつでも夢を』が大ヒットし、「第4回日本レコード大賞」を受賞!!>

 

 

 

1962(昭和37)年の、吉永小百合の快進撃は、まだまだ止まらない。

この年(1962年)、吉永小百合橋幸夫は、『いつでも夢を』(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)というデュエット曲を出したが、『いつでも夢を』は大ヒットを記録し、「第4回日本レコード大賞」を受賞したのである。

 

 

そして、この年(1962年)、『いつでも夢を』は、吉永小百合、浜田光夫、橋幸夫らが出演し、日活で映画化され、これまた大ヒットとなった。

この頃、吉永小百合の人気ぶりは、まさに留まる所を知らず、まさに、小百合はスーパー・アイドルへの階段を駆け上がっていた。

そして、小百合が遂に『伊豆の踊子』に登場する、1963(昭和38)年がやって来る。

 

<1963(昭和38)年の吉永小百合…名作『青い山脈』に出演~そして、映画『伊豆の踊子』への出演が決定!!>

 

 

 

 

1963(昭和38)年、石坂洋次郎の不朽の名作で、1949(昭和24)年に映画化された『青い山脈』が、

14年振りに映画化され、この『青い山脈』に、吉永小百合が出演した。

吉永小百合の他、浜田光夫、高橋英樹、芦川いづみなど、当時の日活のスター達も出演し、

1949(昭和24)年版とは、また違った魅力の有る『青い山脈』であった。

 

 

 

この映画では、「日活パールライン」を形成する、芦川いづみ、吉永小百合という女優が共演しているが、

芦川いづみは教師、吉永小百合は生徒という役どころであった。

共に、ハマリ役であり、日活映画の華やかなりし頃を象徴するような、豪華な共演であった。

 

 

 

そして、この年(1963年)、日活は『伊豆の踊子』を映画化する事となったが、

『伊豆の踊子』の映画化は、1960(昭和35)年の鰐淵晴子版以来、3年振り4度目であった。

それまでの3度は、全て松竹で映画化されており、日活での『伊豆の踊子』の映画化は、初めてである。

その日活版の『伊豆の踊子』は、「踊子」を吉永小百合、「私」を高橋英樹が、それぞれ演じる事となった。

吉永小百合、当時18歳の頃である。

 

<1963(昭和38)年・吉永小百合の『伊豆の踊子』①~原作者・川端康成が、撮影現場を訪問!!>

 

 

 

この時の『伊豆の踊子』の撮影現場を、何と、原作者の川端康成自らが訪れた。

川端康成は、当時64歳だったが、文壇の大御所であり、まだまだ、その影響力は大きく、現役作家として活躍していた。

そんな川端も、今を時めくスーパー・アイドルの吉永小百合と対面し、嬉しそうな様子(?)を見せていた。

 

 

 

川端康成といえば、あまり笑顔を見せるような印象は無く、眼光鋭く、相手を射抜くような目をしているような人だったが、この時ばかりは、吉永小百合と楽しそうに談笑していた。

しかし、小百合の芝居を見る目は、真剣そのものであった。

この時、彼の心の中では、若き日に出逢った「踊子」の思い出が去来していたのかもしれない。

 

<1963(昭和38)年・吉永小百合の『伊豆の踊子』②~オープニングでは、吉永小百合&浜田光夫の、現代の学生コンビ(?)が登場し、その2人を年老いた「私」(宇野重吉)が感慨深そうに見るという、意表を突く設定>

 

 

原作者・川端康成の激励(?)を受け、吉永小百合の『伊豆の踊子』は、無事に撮影が完了し、公開される運びとなった。

監督は西川克己で、前述の通り、「踊子」を吉永小百合、「私」を高橋英樹が演じている。

1963(昭和38)年6月2日、満を持して、吉永小百合版の『伊豆の踊子』は公開されたが、観客は、まず意表を突く設定に驚かされた。

 

 

 

 

映画の冒頭で、初老の男(宇野重吉)は、若い学生のカップルと出逢った。

その若い学生のカップルを、吉永小百合浜田光夫の「名コンビ」が演じているが、

その初老の男は、若い女学生の姿に釘付けとなった。

その女学生は、男が若い頃に出逢った、忘れ難き、ある女性にソックリだったからである。

 

 

その女性こそ、彼(宇野重吉)が第一高等学校(一高)の学生だった頃、

伊豆への一人旅をしていた時に出逢った、「踊子」の薫という女性であった。

そして、物語は、彼の若い頃、伊豆への旅の回想へと移って行く…。

というわけで、この映画の冒頭では、まずは「現代パート」で、「踊子」にソックリな女性として、吉永小百合と、彼と「名コンビ」だった浜田光夫を登場させているのである。

その後の、「私」の伊豆への一人旅は、「私」の回想という形になっている。

これは、今までの『伊豆の踊子』には無い演出であり、意表を突く、素晴らしい演出であった。

 

<1963(昭和38)年・吉永小百合の『伊豆の踊子』③~吉永小百合の可愛らしさと、恋破れた彼女の涙に、観客は釘付け>

 

 

 

 

こうして、吉永小百合版の『伊豆の踊子』は幕を開けたが、

あとのお話は、今まで書いた通りのストーリー展開なので、特に付け加える事も無い。

だが、特筆すべきは、やはり主役の薫を演じた、吉永小百合の可愛さであろう。

人気絶頂で、まさに輝いていた頃の吉永小百合の魅力が、余す所なく、スクリーンに映し出されているというのが、まずは素晴らしい。

そして、薫(吉永小百合)「私」(高橋英樹)が、お互いに好きになり、心を通わせて行く所が、丁寧に描かれている。

 

 

 

風呂に入っていた「踊子」(吉永小百合)が、「私」を見付け、

嬉しさのあまり、裸で風呂から飛び出して来て、手を振るという場面、これは『伊豆の踊子』の定番の「お約束」だが、その場面も、勿論有る。

これが無ければ、『伊豆の踊子』ではない(?)。

 

 

 

物語の終盤、親しくなった「踊子」と「私」が、「踊子」の義母により、無理矢理、引き離されてしまう場面で、吉永小百合は、本当に悲しそうに泣き崩れ、涙を流しているが、私も、見ていて胸が締め付けられるうであった。

お互いに好きなのに、別れなければならないという、何度見ても切なくなる場面である。

そして、物語のラストで、薫は、船に乗って去って行く「私」に何度も何度も手を振り、2人は離れ離れになった。

という事で、この『伊豆の踊子』は、吉永小百合の感情表現がとても素晴らしく、まさに名作である。

そして、吉永小百合版『伊豆の踊子』は、大ヒットとなった。

 

<1963(昭和38)年12月31日…吉永小百合、『伊豆の踊子』で「第14回NHK紅白歌合戦」に出場!!>

 

 

 

 

吉永小百合は、『伊豆の踊子』の主題歌を歌っているが、

1963(昭和38)年12月31日、「第14回NHK紅白歌合戦」に、

吉永小百合『伊豆の踊子』(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)を引っ提げ、出場した。

小百合が登場すると、観客席から「待ってました!!」と声が掛かり、大拍手が起こったが、

スーパー・アイドル吉永小百合は、「紅白」の歴史にも名を残したのであった。

 

<王貞治・長嶋茂雄の「ON」コンビの台頭(1958~1963年)~吉永小百合と「ON」が、スーパースターへの階段を駆け上がる!!>

 

 

 

吉永小百合が、スーパースターへの階段を駆け上がり、『伊豆の踊子』の主役に抜擢されるまでの時代は、

王貞治・長嶋茂雄の「ON砲」が台頭して行った頃と、ちょうど重なっている。

1958(昭和33)年、巨人に入団した長嶋茂雄は、「ゴールデン・ボーイ」と称され、大活躍したが、

同年(1958年)シーズンオフ、王貞治も巨人に入団し、王と長嶋が顔を揃えた。

 

 

 

長嶋茂雄が、巨人入団以降、スーパースターとして大活躍を続ける一方、

王貞治は、プロの壁に苦しみ、入団後3年間(1959~1961年)はあまり打てず、苦悩の日々を過ごした。

しかし、1962(昭和37)年、王は荒川博コーチと二人三脚で「一本足打法」を編み出すと、途端に猛打を発揮し、

吉永小百合が『伊豆の踊子』に出たのと同じ1963(昭和38)年、王貞治・長嶋茂雄は「ON砲」と称され、以後、「ON砲」はプロ野球界を牽引するスーパースターとなって行くのであった。

吉永小百合版の『伊豆の踊子』と、「ON砲」誕生の1963(昭和38)年、戦後日本は「青春真っ只中」にあった。

 

(つづく)