歴代『伊豆の踊子』と、その時代① ~川端康成の原作『伊豆の踊子』と、田中絹代主演の映画化~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

大作家・川端康成が原作の、不朽の名作『伊豆の踊子』は、

これまで何度も映画化、テレビドラマ化されており、その時代の人気スター、トップアイドルが出演して来ている。

『伊豆の踊子』の映像化作品には、当代きっての人気者が出演する事が、「お約束」になっていた。

 

 

というわけで、今回は歴代の『伊豆の踊子』について、年代順にご紹介させて頂くが、

まずは、川端康成が書いた原作の『伊豆の踊子』が、どんなストーリーなのか、

『伊豆の踊子』は、どのような背景で書かれたかについて、見てみる事としよう。

 

<川端康成(当時19歳)、旧制・第一高等学校(一高)在学中に、伊豆に一人旅に出て、「踊子」の一行と出逢う>

 

 

川端康成(かわばた・やすなり)は、1899(明治32)年6月14日、大阪府に生まれた。

川端康成は、幼い頃に両親を亡くしてしまったため、祖父母に引き取られ、祖父母に育てられた。

川端は、幼い頃から大変な秀才であり、学業優秀であった。

1917(大正5)年、川端は旧制・第一高等学校(一高)に入学したが、当時、一高といえば、ほんの一握りの秀才しか入れない、大変なエリート校である。

この一高の在学中(1918(大正7)年頃)、当時19歳だった川端は、学校を休み、伊豆へ一人旅に出たが、

そこで彼は、「踊子」の一行に出逢ったのである。

 

 

前述の通り、川端は幼い頃に両親を亡くしており、所謂「孤児根性」に苛まれ、

精神的にも、鬱々とした日々を過ごしていたという。

そんな、くさくさした気持ちを晴らそうと、川端は学校を休み、突然、伊豆への一人旅に出た。

そこで、「踊子」の一行に出逢ったが、その一行は、所謂「旅芸人」の一座であり、

その中に、一人、とても可愛らしい少女が居た。

それこそ、『伊豆の踊子』の主人公・のモデルとなった「踊子」だったのである。

 

<1926(大正15)年…川端康成・横光利一らが創刊した文芸雑誌『文藝時代』に、短編『伊豆の踊子』を発表~あの「踊子」一行との出逢いと別れを描いた短編>

 

 

 

その後、何年か経ち、川端康成は、東京帝国大学(東大)に進学した後、作家活動を初めていたが、

川端康成は、盟友・横光利一らと共に、

1924(大正13)年、文芸雑誌『文藝時代』を創刊した。

既成概念に捉われない、新たな文学を作ろうという事で創刊された雑誌である、

川端康成・横光利一らの作品は、文壇で大きな注目を集めた。

その『文藝時代』で、1926(大正15)年1月号・2月号に、川端康成『伊豆の踊子』、『続・伊豆の踊子』という短編を発表した。

川端は、あの一高時代の、伊豆への一人旅で出逢った、「踊子」一行との思い出を、短編小説にしたのである。

 

<1927(昭和2)年3月20日…金星堂より、単行本『伊豆の踊子』を刊行>

 

 

1927(昭和2)年3月20日、『文藝時代』の版元・金星堂より、

単行本『伊豆の踊子』が刊行された。

『伊豆の踊子』は、刊行と同時に、非常に大きな話題になった。

何よりも、主人公である一高生(※川端康成自身がモデル)と、「踊子」との淡い恋心が、多くの読者の心を打ったのである。

 

<1927(昭和2)年…作家・芥川龍之介の自殺と、慶応黄金時代>

 

 

 

『伊豆の踊子』の単行本が刊行された、1927(昭和2)年といえば、

事実上、「昭和」最初の年であったが、この頃は「昭和恐慌」と称されるほど、世の中の景気が悪く、

世間は暗鬱な空気に満ち溢れていた。

そんな中、1927(昭和2)年7月24日、作家・芥川龍之介が、

「たた、ぼんやりした不安」

という事を理由として、35歳の若さで自殺してしまい、世間に衝撃を与えた。

芥川龍之介は、1892(明治35)年生まれで、旧制一高-東大という、川端康成の直系の先輩でもある。

川端も、芥川の自殺には大きなショックを受けた。

 

 

なお、1925(大正14)年、長らく中断していた「早慶戦」が、19年振りに復活したのを機に、

東京六大学野球(早稲田・慶応・明治・法政・立教・東大)がスタートしたが、

昭和初期は、水原茂・宮武三郎らを擁した慶応が非常に強く、

1928(昭和3)年秋には、慶応は史上初の10戦全勝優勝を達成している。

所謂「慶応黄金時代」であるが、芥川が自殺し、慶応黄金時代が到来していた頃、

川端康成『伊豆の踊子』は、大評判になっていたという事である。

 

<『伊豆の踊子』って、どんな話??~一高生の「私」と、旅芸人一座の、伊豆の旅での出逢いと別れを描いた、青春小説>

 

 

 

では、『伊豆の踊子』とは、どんな話なのか、ここで、簡単にご紹介させて頂く。

「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨あしが杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た…」

という、有名な書き出しから始まる『伊豆の踊子』は、先程も述べた通り、

作者の川端康成が、旧制一高に在学中の19歳の頃、伊豆に一人旅に出た時に出逢った、旅芸人の一座との交流を描いた作品である。

 

 

 

語り手にして、主人公である「私」は、学校を休み、伊豆への一人旅に出ていたが、

修善寺から下田へ行く途中で、旅芸人の一座を2度、見掛けていた。

その中に、一人、大変可愛らしい子が居た。

「私」は、その子の事が大変印象に残り、天城峠から湯ケ野に向かう途中、

ひょっとしたら、またあの旅芸人の一座、いや、あの子に逢えるかもしれないと思い、「私」は急いで走っていた。

その時、急に雨が降って来て、びしょ濡れになりながら走っていた、というのが、冒頭の場面である。

そして、「私」の狙いは見事に的中し、旅芸人の一座が、峠の茶屋で休んでいる所で、「私」は旅芸人の一座に追い付く事が出来た。

「やっぱり、可愛い子だな…」

「私」は、しばし、その子に見惚れてしまったのである。

 

 

 

その後、「私」と旅芸人の一座は親しくなり、一緒に旅をする事になった。

「私」と、あの少女、薫という名前の「踊子」も、親しく会話をするようになったが、

「私」はエリートの一高生であり、旅芸人の一座は、お座敷に出て、その日の日銭を稼ぐ、貧しい道行きである。

そもそも、お互いの境遇が違いすぎるのだが、それはともかく、「私」「踊子」は、どんどん親しくなって行き、お互いを意識するようになって行った。

また、「私」「孤児根性」に苛まれ、暗く歪んだ思いを抱えていたが、「踊子」の純粋さに心を打たれ、心が洗われるような思いをしていた。

 

 

「私」と旅芸人一座は、一緒に何日か旅をしていたが、その内、薫(踊子)が本気で「私」の事を好きになっているという事に、彼女の母親が気付いた。

一方、「私」の方も、に、ほのかな恋心を寄せている気配が有った。

その後、「私」と旅芸人の一座は、一緒に下田まで来たが、そこで「私」は、一緒に映画(※活動写真)を見に行こうという約束をしていたが、薫の義母(薫の兄・栄吉の妻・千代子の母親)は、それを許さず、あの人の事は諦めなさいと、彼女を諭した。

は、泣く泣く、彼の事を諦めたが、「私」の方も、学校に戻る時が近付いていた。

やがて、2人に別れの時が訪れ、「私」は船に乗り、東京へ戻って行ったが、は、いつまでも、それを見送っていた…。

…というようなお話であるが、瑞々しくも、淡く切ない2人の恋心は、読んでいて胸に迫る物が有る。

 

 

 

という事で、原作の『伊豆の踊子』には、はっきりとは書かれてはいないが、

前述の通り、天下の一高生である「私」と、貧しい旅芸人の一座の「踊子」では、身分が違いすぎるため、

2人は釣り合わない、これ以上、2人が親しくなったら、娘が辛い思いをするだけだと、

「踊子」の義母は、心を鬼にして、2人を引き離したのである。

何とも切ない話だが、だからこそ、『伊豆の踊子』は、多くの人達の胸を打ったのであろう。

 

<1933(昭和8)年…映画『恋の花咲く 伊豆の踊子』(監督:五所平之助、主演:田中絹代、大日方傳)で、『伊豆の踊子』が初の映画化!!>

 

 

 

単行本『伊豆の踊子』刊行から6年後、『伊豆の踊子』は遂に映画化される事となった。

1933(昭和8)年、松竹で映画化された、映画『恋の花咲く 伊豆の踊子』である。

これが、後に何度も映画化、テレビドラマ化される事となる、『伊豆の踊子』の最初の映像化作品であった。

監督は五所平之助で、主演は田中絹代、大日方傳である。

勿論、田中絹代が「踊子」、大日方傳が「私」を演じた。

 

 

 

当時は、まだサイレント映画の時代であり、1933(昭和8)年の映画『恋の花咲く 伊豆の踊子』も、サイレント映画である。

この映画では、田中絹代大日方傳の2人が、「踊子」「私」の、切なくも淡い恋心を見事に演じきっており、

『恋の花咲く 伊豆の踊子』は、大ヒットを記録した。

この『恋の花咲く 伊豆の踊子』の大成功が有ったからこそ、後の『伊豆の踊子』の、多数の映像化への道が開かれたと言って良い。

 

 

また、大女優・田中絹代が、「踊子」の役を演じた事により、

『伊豆の踊子』は、その時代のトップスター、人気アイドルが出演するという、「登竜門」的な作品になる事が、宿命付けられた。

なお、原作者・川端康成は、1933(昭和8)年当時、34歳である。

 

<1933(昭和8)年…プロレタリア作家・小林多喜二が特高に逮捕され拷問で死去、『東京音頭』大流行、皇太子・明仁親王の誕生、「中京商VS明石中の延長25回の死闘」、「水原のリンゴ事件」>

 

 

 

では、映画『恋の花咲く 伊豆の踊子』が公開された、1933(昭和8)年とは、どんな時代だったのかといえば、

当時の日本は、貧富の差が拡大し、苦しい生活を送る人々が多く、そんな境遇の人達を描く、「プロレタリア文学」が流行していた。

その「プロレタリア文学」の代表的作家・小林多喜二が、1933(昭和8)年、特高(特別高等警察)に逮捕され、

同年(1933年)2月20日、特高の拷問により、亡くなっている。

 

 

 

 

 

1933(昭和8)年といえば、突如、『東京音頭』が大流行した年でもあった。

『東京音頭』(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)は、人々が、暗い世相をひと時でも忘れたいという思いの発露なのか、

とにかく陽気に歌って踊ってろうという事で、日本中の盆踊り会場で、人々は『東京音頭』を踊り狂った。

何か、暗くて面白くない時代だからこそ、歌って踊ってしまえという現象は、幕末の「ええじゃないか」など、この日本では度々、起こる現象である。

 

 

 

なお、『東京音頭』は、今はプロ野球の東京ヤクルトスワローズの応援歌として有名だが、

「踊り踊るなら チョイト 東京音頭 花の都の 花の都の真ん中で ヤートナソレ ヨイヨイヨイ ヤートナソレ ヨイヨイヨイ…」

と、ビニール傘を開いて、みんなで歌って踊れば、日頃の憂さも全て忘れてしまうというものである。

今は、コロナ禍で、ヤクルトファンも、なかなか球場で『東京音頭』を歌って踊れない状況であるが、

早く、またみんなで楽しく『東京音頭』の大合唱が出来る時が戻って来て欲しいものである。

 

 

 

 

1933(昭和8)年12月23日、昭和天皇香淳皇后夫妻の間に、

待望の男子・明仁親王が誕生した。

皇太子殿下のご誕生に、日本中が沸き立ち、皇居前広場では提灯行列が行われたが、

この皇太子殿下こそ、先代の平成の天皇陛下(現・上皇陛下)である。

 

 

 

 

 

1933(昭和8)年8月19日、「第19回 全国中等学校優勝野球大会」、所謂「夏の甲子園」の、

準決勝の中京商-明石中の試合は、0-0の同点のまま、何と「延長25回」の死闘になり、

中京商が1-0で明石中を破り、中京商に凱歌が上がった。

この試合、25回を一人で投げ抜いた、中京商・吉田正男投手は、決勝でも平安中を2-1で破り、

中京商(現・中京大中京)は、史上唯一の「夏の甲子園3連覇」を達成した。

 

 

 

 

1933(昭和8)年10月22日、東京六大学野球の「早慶戦」は、

慶応が9-8で早稲田を破るという大接戦だったが、この試合で、三塁側に陣取っていた早稲田の応援席から、

慶応の三塁手・水原茂に向かって、リンゴの食べかけが投げられ、それを水原が応援席に投げ返すという一幕が有った。

試合後、興奮した早稲田の学生やファンがグラウンドに乱入し、グラウンドは大混乱になってしまったが、

あわや、早慶戦がまたしても中止に追い込まれるかという事態に発展してしまった。

所謂「水原のリンゴ事件」であるが、水原茂は、この騒動の責任を取って、慶応野球部を退部している。

 

 

 

ところで、あの田中絹代水原茂には、実は交際の噂が有った。

というより、2人は本当に付き合っていたようである。

何故かといえば、当時、田中絹代が所属していた松竹の蒲田撮影所と、慶応野球部の合宿所は近く、

松竹の女優達は、よく東京六大学野球を見に行っていたそうであるが、田中絹代は、慶応の水原茂の大ファンになったようである。

その後、水原曰く「向こう(※田中絹代)から、俺に会いたいっていう電話が有ったんだ」との事であるが、

田中絹代からのアプローチで交際は始まったものの、いつしか、2人の関係は終わりを迎えたという。

というわけで、まるで、『伊豆の踊子』のような悲恋のお話(?)であるが、当時、田中絹代は映画界の大スターであり、水原茂も、野球界では人気ナンバーワンであった。

そんな2人が出逢い、付き合っていたというのは、非常に興味深い。

 

<その後の川端康成~『浅草紅団』(1929~1930年)、『禽獣』(1933年)、『雪国』(1935~1948年)など、名作・傑作を次々に発表~押しも押されもせぬ大作家に>

 

 

『伊豆の踊子』の後も、川端康成は、次々に小説を発表して行った。

『浅草紅団』(1929~1930年)は、昭和初期の浅草を舞台にした長編小説であり、

この小説をキッカケに、浅草ブームが起こり、浅草を訪れる人が急増したという。

 

 

 

1933(昭和8)年、『伊豆の踊子』が初めて映画化された年、

川端康成は、短編小説『禽獣』を発表した。

犬や小鳥などを愛でる、人嫌いの男が主人公であるが、

彼は、千花子という踊子(※また、踊子である)とも断続的に付き合っていた。

禽獣と、人間の女性に対して向けられた愛情の違いがテーマであるが、

川端は、特に短編小説に優れた才能を発揮していた。

 

 

 

1935(昭和10)年、川端康成は、

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった…」

という、あまりにも有名な書き出しでお馴染みの、長編小説『雪国』を発表した。

『雪国』は、断続的に書き続けられ、最終的に完成したのは、13年後の1948(昭和23)年である。

なお、『雪国』は、主人公の男と、芸者・駒子との関係を描いた作品であるが、

川端の作品には、」踊子や芸者という立場の女性が、非常に沢山登場するというのが、特徴である。

…というわけで、『伊豆の踊子』が、戦後、どのように映像化されて行ったのかについては、また次回。

 

(つづく)