【今日は何の日?】1978/11/21…江川卓「空白の1日」事件勃発 ~「江川事件」を振り返る | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(11/21)は、今から42年前の、1978(昭和53)年11月21日、

法政大学出身で、当時、1年間の「浪人中」だった江川卓投手と巨人が、

プロ野球のドラフト会議の制度の盲点を突いて、電撃的に入団契約を交わした、

所謂「空白の1日」事件が勃発した日である。

 

 

私が、このブログで初めて書いた長期連載は、我が法政大学の先輩にして、

法政野球部の大エースだった、江川卓を主人公にした「怪物・江川卓の野球人生」というシリーズ記事だったが(※まだ未完である)、

この「空白の1日」事件についても、私は既に詳しく書いている。

しかし、今回、改めて「空白の1日」事件について、振り返ってみる事としたい。

そもそも、一体、何故、このような出来事が起こってしまったのか、

そして、球界を揺るがせた「江川事件」とは、どのような事件だったのか、まずは江川の高校時代から、時系列で振り返ってみる事としよう。

 

<1973(昭和48)年春のセンバツ…作新学院の「怪物」江川卓が甲子園に登場!!~江川はセンバツ新記録の「1大会60奪三振」を記録するも、準決勝で広島商に敗退>

 

 

 

 

作新学院時代の江川卓は、「怪物」と称されていた。

何故、江川卓が「怪物」と言われていたのかといえば、何と言っても、その圧倒的な戦績である。

江川は、作新学院時代の高校3年間で、公式戦だけでノーヒットノーラン8回、完全試合2回、通算防御率0.41など、

数字を見るだけでも、物凄い実績を残しているが、何しろ江川の投げる剛速球の威力は凄まじく、

並の高校球児では、とても太刀打ち出来るようなものではなかった。

「あんなに恐ろしい球を投げる投手なんて、見た事ない」

高校時代の江川の球を、実際に打席に立って見た事が有る選手達は、皆、そう口を揃えている。

 

 

1973(昭和48)年春のセンバツで、その「怪物」江川卓が、遂に甲子園の舞台に初登場した。

それまでも、「栃木県の作新学院に、江川という物凄い投手が居るらしい」という噂は、高校野球ファンの間でも囁かれていたが、当時は、SNSはおろか、インターネットも無い時代であり、多くの人達は、江川という投手を実際に見た事は無かった。

その江川が、高校3年春のセンバツで、遂に初めて甲子園出場を果たしたのである。

 

 

その江川卓は、甲子園の舞台に登場するや、噂どおり、いや噂以上の物凄い投球を見せた。

1回戦で作新学院と対戦した、大阪・北陽高校の各打者は、何しろ、江川の投げる球に、かすりもしなかったのである。

当時の江川は、毎試合、本気で「全打者から三振を奪う」事を目標にしていたそうであるが、

北陽の打者は、その江川の前に血祭りに上げられ、打者がようやく江川の球をファウルチップにするだけで、スタンドからは拍手が起こる程であった。

結局、江川は北陽から1試合19奪三振で、2-0のスコアで4安打完封勝利を挙げ、江川は鮮烈な「全国デビュー」を飾った。

 

 

 

 

 

その後も、江川は2回戦の小倉南には8-0のスコアで7回1安打10奪三振、

準々決勝の今治西には3-0のスコアで1安打完封20奪三振という凄まじい投球内容で、作新学院は、準決勝進出を果たした。

その準決勝は、江川の作新学院と、佃正樹-達川光男のバッテリーを擁する広島商が対決したが、

広島商が、少ないチャンスを確実に物にする、伝統の「広商野球」で江川を倒し、広島商が2-1で作新学院を破った。

結局、江川は広島商を相手にも、2安打11奪三振と好投したが、惜しくも準決勝で敗退し、「優勝」には手が届かなかった。

 

 

江川は、結局、1973(昭和48)年春のセンバツでは、今もセンバツ記録として破られていない、

「1大会60奪三振」という大記録を残したが、一番欲しかった「優勝」を手にする事は出来なかった。

このように、江川という人は、圧倒的な実力が有りながらも、「肝心な所でコケる」という事が、この後の野球人生でも、付いて回るのである。

 

<1973(昭和48)年夏の栃木県大会~江川卓、各校を全く寄せ付けず、「5試合連続完封」&「ノーヒットノーラン3回」の圧倒的な投球で作新学院を「甲子園春夏連続出場」に導く!!>

 

 

 

1973(昭和48)年夏の甲子園出場を目指す、栃木県大会では、

江川卓は、ご覧の通り、「5試合連続完封」&「ノーヒットノーラン3回」、そして、5試合で打たれた安打は僅か2本という、圧倒的すぎる成績で、作新学院を難なく「甲子園春夏連続出場」に導いた。

そして、江川は「140イニング連続無失点」という、凄まじい成績も残している。

「今度こそ、甲子園で優勝出来るぞ!!」

地元・栃木県のファンは、江川に熱い期待を寄せていたが、実は、江川の作新学院は、とにかく大人気だったため、

前述の春のセンバツ~夏の県大会の間に、全国各地に招待試合に呼ばれたりしていたため、流石の江川も疲労困憊であった。

それでも、これだけ圧倒的な結果を残してしまうのだから、江川という投手は本当に図抜けた実力が有ったという事である。

 

<1973(昭和48)年夏の甲子園①~「作新学院VS柳川商」の1回戦で、江川の延長15回23奪三振の力投で、作新学院が延長15回の2-1のサヨナラ勝利という激闘を制す>

 

 

1973(昭和48)年夏の甲子園の、最大の目玉といえば、

何と言っても、「怪物」江川卓であった。

「今度こそ、江川は作新学院を優勝に導けるか!?」

という事こそ、この大会の最大の焦点だったと言って良い。

 

 

 

その1973(昭和48)年夏の甲子園で、江川の作新学院は、柳川商と対決したが、

作新学院は思わぬ大苦戦を強いられ、結局、延長15回、作新学院が柳川商を2-1のサヨナラ勝ちで破るという、激闘になった。

この試合、江川は延長15回23奪三振という、気迫の投球を見せたが、流石の江川も、物凄い疲労だった事であろう。

 

<1973(昭和48)年夏の甲子園②~「作新学院VS銚子商」の伝説の激闘~延長12回、激しい雨中の死闘で、江川の「サヨナラ押し出し」で、作新学院は0-1で銚子商に敗れる~江川は「甲子園優勝」を果たせず、高校3年間を終える>

 

 

 

 

 

1973(昭和48)年夏の甲子園の2回戦、「作新学院VS銚子商」の対決は、

今もなお語り継がれる、高校野球史上に残る名勝負となった。

作新学院・江川卓と、銚子商・土屋正勝の両エースの緊迫した投手戦が続き、

江川と土屋は、お互いに一歩も譲らず、試合はゼロ行進が続き、0-0のスコアが続いた。

 

 

この試合の終盤から、雨が降り始めていたが、

江川は、雨を苦手としており、しかも、かつて練習試合で江川の作新学院にボロ負けした屈辱を胸に、

「打倒・江川」だけを目標に、猛練習に明け暮れていた銚子商は、必死に江川に食らい付いていた。

この試合、江川は何処か達観した表情で、いつも以上に淡々と投げているような印象が有ったが、

「勝ち負けよりも、悔いの残らない投球をしたい」

という思いが、江川の胸中には有ったと思われる。

 

 

試合は0-0のまま、遂に延長戦に突入したが、

相変わらず、両チームとも全く得点を奪う事が出来ず、しかも雨はますます激しく降り続いていた。

そして、0-0で迎えた延長12回裏、銚子商は江川を追い詰め、1死満塁という、一打サヨナラの場面を作った。

 

 

そして、1死満塁、ボールカウント、2ストライク3ボールになった時(※実は、江川はこの時、「2死満塁」の2ストライク3ボールだと勘違いしていたという)、江川はナインをマウンドに呼び集めた。

江川は、あまりにも圧倒的な実力が有ったため、却って、他の選手達との間に溝が出来てしまっており、

江川はチーム内では浮いた存在になっていたという。

そのため、作新ナインには結束力は無かったようであるが、この土壇場に来て、江川は他の選手達に、マウンドに集まってもらったのである。

そして、江川は彼らに対し、「次の球、俺の好きな球、投げて良いか?」と聞いた。

 

 

 

この時、江川と最も反目していたという、作新学院の一塁手・鈴木秀男は、こう答えた。

「お前の好きな球、投げろ。俺達がここまで来られたのは、お前のお陰だ。何も文句なんか無いよ」

江川は、この言葉が、高校3年間で、最も嬉しかったという。

そして、次の球が、高校生活で最後の球になるかもしれないが、江川は「とにかく、全力で思いっきり投げる!!」という事を決意した。

 

 

 

 

そして、次の球を、江川は高校3年間の全ての思いをぶつけるように、

コントロールなど気にせず、思いっきり全力で投げたが、その球は、高目に外れるボールとなった。

この瞬間、江川の「サヨナラ押し出し四球」で、作新学院は延長12回、0-1で銚子商にサヨナラ負けを喫し、

遂に江川を倒した銚子商の選手達は、歓喜の雄叫びを上げた。

 

 

 

こうして、「作新学院VS銚子商」の伝説の死闘は幕を閉じたが、

雨の中、遂に敗れた江川と、江川を相手に一歩も引かず、遂に「打倒・江川」を果たした銚子商、

そして延長12回完封勝利で、江川に投げ勝った土屋正勝の雄姿は、人々に強烈な印象を残した。

それにしても、江川という投手は、敗れても絵になる男であった。

 

 

という事で、江川は遂に「甲子園優勝」の念願を果たす事は出来なかったものの、

甲子園の歴史に「怪物・江川」の名をハッキリと刻んだ事は間違い無い。

そして、この「怪物」江川の進路は、日本中の注目の的となった。

果たして、高校野球を終えた、江川の次なる戦いの舞台は、一体何処になるのであろうか!?

 

<1973(昭和48)年のドラフト会議~江川卓、阪急ブレーブスから「ドラフト1位」指名を受けるも、入団拒否!!~その理由は「早慶戦で投げたいから」…江川、慶応進学を目指す>

 

 

実は当時、江川卓は「大学に進学するつもりなので、何処に指名されても、プロ野球に行くつもりは、ありません」と、「プロ入り拒否」を宣言していたのであるが、

江川卓ほどの逸材を、プロ野球界が放っておく筈もなく、

1973(昭和48)年のドラフト会議で、阪急ブレーブスが江川卓を「ドラフト1位」で指名した。

ちなみに、当時のドラフト会議は、あらかじめ、各球団の指名順位をクジ引きで決めておき、

その順番どおりに各球団が選手を指名して行き、その選手を指名した球団が、選手との交渉権を獲得する、という方法で行われていた。

つまり、選手の重複指名という物は無く、その選手を指名した球団が、即座に交渉権を得るという事である。

前述の通り、江川は「大学進学」を表明し、プロ入り拒否を宣言していたのだが、それでも阪急は敢然と江川の指名に踏み切った。

 

 

 

だが、江川は、あくまでも「大学進学」の意思を曲げず、阪急入団を拒否した。

最終的には、阪急も江川の入団を断念したが、この時、江川は「早慶戦」の舞台に憧れ、

「早慶戦のマウンドに立ちたい」

という、憧れを持っていたのである。

そして、どうやら江川家に対し、慶応側から「ウチの入試を受けてくれれば、下駄を履かせるので、是非とも受験して欲しい」という打診が有ったらしい。

つまり、江川が慶応に来てくれれば、勿論、慶応としても良い宣伝になるし、もし江川が慶応野球部に入ってくれれば、慶応は黄金時代を築く事が出来るのは、確実であった。

こうして、江川としても「その気」になり、江川は慶応の入試に向けて、猛勉強を行なった。

 

<1974(昭和49)年3月…江川卓、慶応受験に失敗!!⇒江川卓、「仕方なく」法政大学を受験し、法政大学の法学部(二部)に合格>

 

 

 

江川卓は、甲子園で仲良くなった、静岡高校の植松精一らと共に、

慶応の入試に向けて、受験勉強の合宿を行なった。

元々、江川は学校の成績は良かったようであるが、何しろ、それまで高校野球に明け暮れていたため、

難関の慶応の入試を突破する事は、並大抵の事ではなかった。

だが、江川は必死に勉強し、どうにかこうにか、慶応を受験するレベルにまで学力を高めて行った。

そして、江川は慶応の3学部(法学部・商学部・文学部)を受験し、それぞれ、まずまずの点数を取れていたため、

「江川君には、慶応に来て頂けます」

と、慶応合格の「内定」の報せが、江川家にも有ったのだという。

つまり、江川の取った得点に、多少、下駄を履かせれば、江川は慶応に受かるというものである。

この報せを受け、江川家では万歳三唱が行われた。

だが、この電話の翌日、江川が慶応の合格発表を見に行ってみると、何と、江川の受験番号は、合格者一覧の何処にも無かった。

どういうわけだか、急転直下、江川は「不合格」になってしまっていたのである。

 

 

「一体、どうなってるんだよ…」

江川は呆然としたが、どうやら、慶応の内部で、

江川の得点に下駄を履かせる事に「待った」がかかり、江川は落とされてしまったらしい。

「合格最低点に達していないのだから、不合格は当然だ」

というわけであるが、慶応野球部は、「話が違う!!」と、慶応の大学当局に懸命に食い下がったものの、この決定は覆らなかった。

こうして、あえなく慶応受験に失敗した江川は、慌てて「仕方なく」法政大学を受験し、

そして、江川は法政大学の法学部(二部)に、辛うじて合格する事が出来た。

まさに「捨てる神(※慶応)有れば、拾う神(※法政)有り」といった所であるが、

今にして思えば、慶応も、これだけ入学を熱望し、しかも、慶応野球部の名を高めたに違いない江川を袖(ソデ)にしてしまったのは、何とも勿体ない話ではあった。

慶応も、随分と頭が固いと言っては、言い過ぎであろうか。

 

<1974(昭和49)年春…江川卓、植松精一、金光興二、佃正樹、袴田英利ら、甲子園のスター選手達が一斉に法政に入学!!~法政野球部に「花の49年組」が誕生>

 

 

さてさて、頭の固い慶応のお陰で(?)、大儲けしたのは、法政である。

法政は、慶応を落とされた江川や植松らを合格させ、

1974(昭和49)年春、法政野球部には、江川卓、植松精一、金光興二、佃正樹、袴田英利ら、甲子園のスター選手達が一斉に入部し、その豪華メンバーは「花の49年組」と称された。

こうして法政野球部に「花の49年組」が誕生した事により、その後の「法政黄金時代」は約束されたも同然であった。

 

<江川卓、法政在学中(1974~1977年)に法政を5度、優勝に導き、「法政黄金時代」を築く!!~1974(昭和49)年秋、1年秋に優勝し、1976(昭和51)年春~1977(昭和52)年秋に、法政は史上初の「オール完全優勝の4連覇」達成!!>

 

 

 

という事で、ここから先は、私がこのブログで何度書いたかわからない、

私が書いていて最も楽しい「法政黄金時代」の話であるが、

江川卓「花の49年組」という黄金世代は、期待どおり、「法政黄金時代」を築いた。

江川は、1年生で早くも神宮デビューを飾ると、1974(昭和49)年秋、江川は1年秋に、エースとして早くも法政を東京六大学野球の優勝に導いた。

 

 

 

 

 

その後も、江川卓と法政の快進撃は続いた。

江川達「花の49年組」が2年生だった1975(昭和50)年は、法政は春秋共に2位に終わり、明治に春秋連覇を許してしまったが、

1976(昭和51)~1977(昭和52)年秋、江川らの「花の49年組」が3~4年生の時代には、

法政は史上初の「オール完全優勝の4連覇」を達成し、見事に「法政黄金時代」を実現させた。

この頃の法政野球部は、その歴史上、最も輝いていた時代だったと言って良い。

こうして、江川はその在学中、法政を計5度も優勝に導いた。

 

 

 

こうして、江川卓「甲子園の怪物」から、「神宮の怪物」となったが、

江川は、東京六大学野球史上2位の、「通算47勝」という大記録も達成している。

また、江川は一発勝負のトーナメントだった高校野球からは、投球スタイルを変え、

リーグ戦で連投出来るために、常に全力投球するのではなく、ペース配分を考えたピッチングを行なったが、

それでも、東京六大学野球で、江川を打ち崩せる相手は、誰も居なかった。

なお、私が後年、法政に入学した1998(平成10)年頃も、江川は法政では伝説的な存在であり、

江川の学生時代のエピソードを語る教授なども、結構居たものである。

「江川は、全然学校に来なくて、彼の代打が、代理で講義に出ていたが、そいつの出来が悪くて、江川もあまり良い成績ではなかった」

と、当時、ある教授が江川の「裏話」を暴露していたものである。

 

<1977(昭和52)年のドラフト会議…江川卓、クラウンライターに「ドラフト1位」指名を受けるも、巨人入団を希望していたため、入団を拒否!!~これが翌年(1978年)の大事件の「伏線」に…⇒その後、江川は1年「浪人」し、アメリカ留学を決行>

 

 

 

 

1977(昭和52)年のドラフト会議、法政の4年生だった江川は、当時、巨人への入団を希望していた。

そして、1977(昭和52)年のドラフト会議当日を迎えたが、前述の通り、当時のドラフトは、各球団の指名順位を、あらかじめクジ引きで決める、というものである。

その結果、指名順位は、クラウンライター・ライオンズが1位、巨人が2位となった。

事前の報道では、クラウンは西南学院大学の門田富昭投手を指名し、巨人が江川を指名するものと推測されていたが、

この時、クラウンライターは、敢然と江川の指名に踏み切った。

その瞬間、記者会見場では大きなどよめきが起こったが、江川はこの時、表情一つ変えていなかった。

いや、実は「あまりのショックで、エレベーターのワイヤーが切れたみたいに、身体が真っ逆さまに落ちて行くような感覚だった」と、後に江川は語っている。

江川は、この時、表情にこそ出さなかったこのの、心の中では泣いていたのかもしれない。

やはり、江川は「肝心な時にコケる」運命だったという事であろうか。

 

 

 

その後、江川は「九州(※当時のクラウンの本拠地)は遠い」として、あくまでも入団拒否の考えを貫いた。

そして、江川はクラウンとは全く交渉する余地を残さず、アメリカ留学し、1年「浪人」する事を選んだ。

こうして、江川は翌年(1978年)のドラフトで、今度こそ、巨人に入団する事を願っていたが、

ここで遂に、あの歴史的な「大事件」が起こってしまうのである。

 

<1978(昭和53)年11月21日…巨人が、野球協約の盲点を突いた「空白の1日」に、江川卓と強引に「入団契約」!!~そもそも「空白の1日」とは何か!?>

 

 

 

 

1978(昭和53)年のドラフト会議は、同年(1978年)11月22日に予定されていたが、

その前日、1978(昭和53)年11月21日、突如、江川はアメリカから日本に帰国した。

そして、同日(1978年11月21日)、巨人の正力亨オーナーと、江川卓が同席し、緊急記者会見が行われ、

その記者会見で、巨人は「江川卓投手と、入団契約を行なった」という発表を行なった。

「え!?何!?一体、どういう事だ!!??」

記者会見に詰めかけていた報道陣は、一瞬、水を打ったように静まり返り、その後、騒然となった。

 

 

 

当時、プロ野球の「憲法」のような存在の「野球協約」では、ドラフト会議について、こう書かれていた。

「ドラフト会議で指名された選手と、指名した球団は、翌年のドラフト会議の前々日まで、独占交渉期間が認められる」

巨人は、この「野球協約」の条文を、次のように「解釈」した。

「翌年のドラフト会議の前々日までは、クラウンと江川の独占交渉期間であるが、という事は、翌年のドラフトの前日は、その選手は何処からも拘束されない、フリーな立場である。つまり、翌年のドラフト前日は『空白の1日』であり、その選手は、どの球団とも契約出来る」

ここで遂に、「空白の1日」という文言が登場して来たわけである。

 

 

 

だが、これは、どう考えても、巨人の「屁理屈」であった。

そもそも、ドラフト会議の前日が「空白の1日」というのは、あくまでも、ドラフトの事務手続き上のものだったという。

巨人は、その「野球協約」の「盲点」を巧みに突き、そして、「どうしても巨人に入りたい」という江川の心情をも「利用」し、

このような「暴挙」に及んだという事である。

この結果、巨人の親会社である、読売系のマスコミは「江川君、巨人入団おめでとう」などと、いけしゃあしゃあと報じていたが、

読売系以外のマスコミからは「禁断のドラフト破り」に対し、激しい批判が巻き起こった。

「巨人は、何て汚い事をするんだ!!」

と、世間も騒然となった。

 

<「空白の1日」以降の江川騒動~金子鋭コミッショナーが、江川の巨人との契約を却下⇒巨人がドラフト会議をボイコット⇒阪神が江川を「ドラフト1位」指名⇒巨人がリーグ脱退をちらつかせ、江川入団の「強行突破」を図り、問題は国会でも取り上げられる⇒ますます、巨人と江川に対して、世間の批判が強まる⇒「江川卓と小林繁のトレード」により、江川の巨人入団が決定>

 

 

 

 

 

 

さて、「空白の1日」以降の「江川事件」は、どのような経緯を辿ったのかといえば、

金子鋭コミッショナーが、江川の巨人との契約を却下⇒巨人がドラフト会議をボイコット⇒阪神が江川を「ドラフト1位」指名⇒巨人がリーグ脱退をちらつかせ、江川入団の「強行突破」を図り、問題は国会でも取り上げられる⇒ますます、巨人と江川に対して、世間の批判が強まる…

という事で事態は推移し、あくまでも江川を強引に入団させようとする巨人に対し、世間の大バッシングが起こり、巨人と江川に対し、連日、激しい非難が浴びせられた。

「駄々をこねる、ずるい事をする」

という意味の造語である、

「エガワる」

という言葉まで生まれ、江川は世間から袋叩きに遭った。

あの「怪物」江川卓は、こうして「日本一の嫌われ者」になってしまったのだが、

当時、インターネットもSNSも無かった時代に、これだけ1人の人物に対して、執拗に大バッシングが行われるという、「大炎上」が有ったというのは、今にして思えば、とても恐ろしい。

これは、異常事態だったと言わざるを得まい。

もっと言えば、異常な「集団ヒステリー」だったと言ったら、言い過ぎであろうか。

それはともかく、果たして、今のSNS時代に、「江川事件」が有ったら、果たして、江川はどうなっていたであろうか…。

 

 

 

 

こうして、「江川事件」は、にっちもさっちも行かなくなってしまったが、

翌1979(昭和54)年1月31日、プロ野球のキャンプインの前日に、

「江川を、一旦、阪神に入団させ、その後、巨人の小林繁と、阪神の江川をトレードする」

という、金子鋭コミッショナーの「強い要望」により、漸く、この問題は「収束」した。

半ば強引な解決策であり、巨人のエースだった小林繁は、「江川事件」の「犠牲者」となってしまったが、

当の小林は、「私は、請われて阪神に行くのですから、同情はされたくありません」と、キッパリと言い切った。

という事で、この後、江川卓小林繁の「因縁」の物語は続くが、その話については、また別の機会にご紹介させて頂く事としたい。

 

(つづく)