【今日は何の日?】1990/9/8…吉村禎章(巨人)、優勝決定サヨナラ本塁打~巨人V2と須藤大洋 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今から、ちょうど30年前の、1990(平成2)年9月8日、

当時、小学生だった私は、東京ドームの巨人-ヤクルト戦を観戦していた。

そして、吉村禎章(巨人)の、劇的な「優勝決定サヨナラホームラン」を、現地で目撃したのである。

 

 

この年(1990年)、巨人は、ぶっちぎりの大独走で優勝(リーグ2連覇)を達成したが、

9月8日での優勝決定というのは、今もなお破られていない、「史上最速の優勝決定」であった。

そして、この年(1990年)の私は、実は巨人と大洋という2つのチームの狭間で、揺れ動いていた(?)年でもあった。

というわけで、吉村の「優勝決定サヨナラホームラン」と、それを巡る物語、そして、当時の私の心境などについて、描いてみる事としたい。

 

<名門・PL学園の主将として、1981(昭和56)年春のセンバツで、PL学園を「センバツ初優勝」に導いた、吉村禎章>

 

 

 

 

1963(昭和38)年4月27日(※余談だが、吉村は私と同じ4月27日生まれである)、奈良県御所市に生まれた吉村禎章(よしむら・さだあき)は、名門・PL学園に進学すると、1981(昭和56)年春のセンバツで、吉村禎章西川佳明、若井基安ら、強力メンバーのチームの主将として、PL学園を「センバツ初優勝」に導いた。

当初、吉村は、力で無理矢理チームをまとめるような主将で、皆の反感を買った事も有るようであるが、PL学園の中村順司監督に諭され、チームの「和」を重んじて、皆を引っ張って行くようなキャプテンに「変貌」し、そして、PL学園をセンバツ優勝に導いた。

この時の体験は、吉村の後の野球人生に、大きな影響を与えた。

 

<1982(昭和57)年…吉村禎章、巨人にドラフト3位で入団し、吉村禎章、駒田徳広、槙原寛己の「50番トリオ」で頭角を現す!!>

 

 

 

1982(昭和57)年、巨人にドラフト3位で入団した吉村禎章は、その高い打撃技術を遺憾なく発揮し、

プロ2年目の1983(昭和58)年には、84試合に出場し、規定打席未満ながら打率.326という成績を残し、

吉村は、早くもその才能の片鱗を見せ付けた。

そして、背番号「55」吉村禎章、背番号「50」駒田徳広、背番号「54」槙原寛己という、ほぼ同時期に頭角を現した、巨人の若手3人組は、「50番トリオ」として、大きな注目を集めた。

 

<吉村を巨人入団に導いた王貞治・助監督、1984(昭和59)年に巨人監督に就任>

 

 

 

 

ところで、吉村は高校卒業後、実は大学に進学するつもりだったという。

従って、巨人にドラフト3位で指名されたものの、吉村は、プロ入りするかどうか、迷っていた。

しかし、当時、巨人の助監督を務めていた王貞治が、吉村に直接、電話で「プロに入るなら、なるべく早い方が良い。巨人で、一緒にやろう!!」と、声を掛けた。

吉村にとって、王はまさに「雲の上の人」であり、そんな王に直接、声を掛けられた吉村は感激し、巨人入団を決意した、という経緯が有った。

その王貞治は、1984(昭和59)年、前任の藤田元司の後を引き継ぎ、巨人監督に就任した。

 

<天才打者・吉村禎章、1983(昭和59)~1988(昭和63)年に「6年連続3割」を記録し、1987(昭和62)年には「30本塁打」も達成!!~吉村は巨人の主力打者として大活躍!!~一時は原辰徳以上に評価を高めるが…>

 

 

 

吉村禎章は、まさに天才打者であった。

左打席から、柔らかい打撃フォームで、右に左に快打を連発したかと思えば、

ツボに入れば、ホームランもガンガン打てる打者だった。

吉村は、1983(昭和58)~1988(昭和63)年にかけて、「6年連続3割」を記録し、1987(昭和62)年には、シーズン「30本塁打」も達成した。

その間の、吉村の打撃成績は、下記の通りである。

(※なお、吉村の背番号は、1986(昭和61)年以降、「55」⇒「7」に変更)

 

1983(昭和58)年 84試合 打率.326 5本塁打 11打点

1984(昭和59)年 115試合 打率.342 13本塁打 34打点

1985(昭和60)年 120試合 打率.328 16本塁打 56打点

1986(昭和61)年 128試合 打率.312 23本塁打 72打点

1987(昭和62)年 127試合 打率.322 30本塁打 86打点

1988(昭和63)年 65試合 打率.302 13本塁打 39打点

 

 

ご覧の通り、吉村は巨人の主力打者として、毎年、素晴らしい成績を残していた。

吉村の打撃技術に対する評価は高まる一方であり、一時は、その名声は原辰徳以上になった事さえ有った。

だが、1988(昭和63)年、吉村の野球人生を「暗転」させる、大事故が起こってしまった。

それは、1988(昭和63)年7月6日、札幌円山球場での巨人-中日戦での出来事である。

 

<1988(昭和63)年7月6日…札幌円山球場での巨人-中日戦で、吉村禎章は3回裏に「通算100号」本塁打を達成⇒8回表の守備で、打球を追ったレフト・吉村禎章と、センター・栄村忠広が激突~吉村は、左膝の4本の靭帯の内、3本を断裂する大怪我を負う>

 

 

 

1988(昭和63)年7月6日、札幌円山球場の巨人-中日戦の3回裏、

吉村禎章は、3回裏に「通算100号」ホームランを放った。

吉村は、当時25歳にして、早くも「通算100号」を放った事となり、まさに順風満帆であった。

しかし、この後、吉村は「悲劇」に見舞われてしまう。

 

 

 

 

 

8回表の巨人の守備中の出来事である。

この回、中日の中尾孝義が左中間にフライを打ったが、この打球をレフト・吉村禎章が追い、捕ったと見えた瞬間、

何と、センター・栄村忠広も、一目散にこの打球を猛然と追っていたため、吉村と栄村は、全くスピードを緩めないまま、物凄い勢いで、まともに激突してしまった。

そして、その場に吉村と栄村の2人は倒れ込んでしまった。

場内からは一斉に悲鳴が起こり、観客も選手達も皆、凍り付いた。

 

 

 

巨人の選手や首脳陣が、一斉に2人の元に駆け寄ったが、吉村も栄村も、その場でピクリとも動かなかった。

特に、吉村の左膝は、有り得ない方向に曲がっており、一目で、吉村が大怪我を負っているのは明らかな状態だった。

場内がざわつく中、吉村と栄村は担架で運ばれ、退場したが、吉村の負傷は深刻な状態だった。

何と、吉村の左膝の4本の靭帯の内、3本が断裂するという、まるで交通事故に遭ったのと同じような大怪我であり、勿論、歩く事も出来ない状態だった。

こうして、吉村は守備中に、選手生命を脅かすような大怪我を負うという「悲劇」に見舞われたのである。

 

<吉村、アメリカのスポーツ医学の権威、フランク・ジョーブ博士の手術を受けるため、渡米~懸命のリハビリで、復活を目指す!!>

 

 

 

さて、深刻な大怪我を負った吉村は、アメリカのスポーツ医学の権威、フランク・ジョーブ博士の手術を受けるため、渡米した。

ジョーブ博士は、かつて、ロッテの村田兆治が、右肘靭帯断裂という大怪我を負った際に、手術を行ない、見事に村田を「復活」に導いたという実績が有った。

吉村もまた、ジョーブ博士の執刀に全てを託したところ、手術は無事に成功した。

しかし、ジョーブ博士は「まだまだ、道半ばだ。復帰出来るかどうか、全ては、これからのリハビリにかかっている」と、吉村に告げた。

 

 

 

その後、吉村は「復活」に向けて、懸命のリハビリを続けた。

吉村のリハビリは、1年以上に及んだが、「何としても、またグラウンドに戻ってみせる!!」という強い信念が、吉村を突き動かしていた。

なお、吉村はリハビリ施設で、難病と闘う子供達から「吉村さん、頑張って!!」「必ず、復活してね!!」と、沢山の応援を受け、

それを励みにして、辛く苦しいリハビリに耐え抜いた。

そして、吉村は、それまで当たり前のように思っていた、野球が出来るという有り難さを、再認識したという。

 

<1988(昭和63)年…5年間で1度しか優勝出来ず、王監督が無念の巨人監督退任~後任として、藤田元司が「再登板」>

 

 

 

 

吉村が、懸命にリハビリ生活を送っていた頃、

1988(昭和63)年限りで、王貞治監督が、巨人監督を退任した。

王監督は、1984(昭和59)年に巨人監督に就任して以来、

5年間で3位(1984)⇒3位(1985)⇒2位(1986)⇒優勝(1987)⇒2位(1988)という結果だったが、

5年間で優勝は1度のみであり、日本一を達成する事は出来なかった。

 

 

 

なお、退任する王監督の後任として、藤田元司「再登板」したが、

1983(昭和58)年シーズンオフに、藤田監督から巨人監督を引き継いだ時から、

5年経って、またまた藤田監督が復帰するという、皮肉な結果になった。

この時、表向きは王監督は「辞任」と発表されたが、事実上の「解任」であり、王監督としては無念だった事であろう。

 

<1989(平成元)年9月2日…吉村禎章、遂に「奇跡の復活」!!~1年2ヶ月振り(423日振り)に、吉村がグラウンドに帰って来た!!>

 

1989(平成元)年、藤田監督率いる巨人は、開幕から快進撃を続け、

巨人は2年振りの優勝に向け、驀進していたが、そんな中、吉村のリハビリも進み、徐々に左膝の状態も回復して行った。

そして、1989(平成元)年9月2日、吉村は一軍に復帰すると、この日の巨人-ヤクルト戦(東京ドーム)で、吉村は斎藤雅樹代打として、遂に1年2ヶ月振り(423日振り)にグラウンドに帰って来た。

吉村が代打で登場すると、東京ドームは、開場以来最高というような、物凄い大歓声と大拍手に包まれた。

この打席で、吉村は、ヤクルトの新人・川崎憲次郎に二塁ゴロに打ち取られたが、吉村には惜しみない拍手が送られた。

ちなみに、吉村が「復活」した打席で対決した川崎憲次郎とは、この後、更に「因縁」が待ち受けていた。

 

 

 

吉村は、この年(1989年)、主に代打で出場し、17試合 28打数5安打 打率.179 0本塁打 4打点という成績に終わったが、

あの大怪我から、不屈の闘志で蘇った吉村に対し、世間は喝采を送った。

しかし、吉村自身としては、勿論、この成績には満足しておらず、「完全復活」を目指していた。

 

<1989(平成元)年…藤田監督率いる巨人が優勝⇒藤田巨人は、日本シリーズで近鉄を「3連敗⇒4連勝」で破り、日本一!!~当時、巨人ファンだった、小学生時代の私も大喜び>

 

 

 

 

 

その後、藤田監督率いる巨人は、最後の最後まで突っ走り、

結局、巨人は2位・広島に9ゲーム差を付け、2年振りの優勝を果たした。

1989(平成元)年10月6日、巨人は横浜スタジアムで大洋を5-0で破り、2年振りのリーグ優勝を達成、

藤田監督が、横浜スタジアムで胴上げされ、宙を舞った。

 

 

 

 

藤田巨人は、リーグ優勝の余勢を駆って、近鉄バファローズと対決した日本シリーズでも、「3連敗⇒4連勝」という離れ業を見せ、見事に、藤田巨人は8年振りの日本一を達成した(※1981(昭和56)年、第一次・藤田巨人が日本一になって以来)。

なお、かつて吉村と共に「50番トリオ」として一世を風靡した駒田徳広背番号「10」、槙原寛己背番号「17」を背負い、それぞれ、巨人の投打の主力として、巨人の日本一に大きく貢献した。

当時、私は小学生で、バリバリの巨人ファンであり(※その事は、このブログでも何度も書いているが)、この巨人日本一には大喜びしたが、結果として、これが私の人生における、「巨人ファンとしての最後の日本一」となった(※その後の経緯については、後述する)。

 

<須藤豊・巨人2軍監督、1986(昭和61)~1989(平成元)年に「イースタン・リーグ4連覇」、1987(昭和62)~1989(平成元)年に「ジュニア日本選手権3連覇」を達成>

 

 

 

さて、ここで、当時の巨人の2軍に目を向けてみる事としよう。

当時、巨人の2軍監督を務めていたのは、須藤豊(すどう・ゆたか)という人物であった。

この方は、ある意味、私の人生に大きな影響を与えた(?)方であるが、その事は、追い追いお話するとして、

須藤2軍監督は、当時、巨人の若手選手達の育成に、大変な手腕を発揮していた。

須藤2軍監督に、厳しく鍛え上げられた巨人の若手選手は、1軍に上がると、次々に大活躍するようになった。

 

 

 

須藤2軍監督は、2軍で多くの優秀な若手選手達を育成する一方、

2軍とはいえ、勝負にも徹底的にこだわり、須藤2軍監督率いる、巨人2軍は、1986(昭和61)~1989(平成元)年に「イースタン・リーグ4連覇」、1987(昭和62)~1989(平成元)年に「ジュニア日本選手権3連覇」という、見事な結果を残していた。

2軍とはいえ、この実績は大したものである。

当時、須藤2軍監督の事を、テレビで特集していた事が有り、私は「へー、こういう人が居るんだ…」と思っていたものであるが、

この須藤監督が、後に、私の人生を一変させる事となった。

 

<1989(平成元)年の横浜大洋ホエールズ…47勝80敗3分 勝率.370でダントツ最下位に終わった大洋、古葉竹識監督が辞任>

 

 

 

藤田巨人が、栄光の日本一を達成した1989(平成元)年、古葉竹識監督率いる横浜大洋ホエールズは、

何と、47勝80敗3分 勝率.370で、首位・巨人から36.5ゲーム差も付けられるという、ダントツ最下位に終わってしまった。

おまけに、本拠地・横浜スタジアムで、藤田巨人にリーグ優勝まで決められるという、屈辱的な結果に終わってしまった。

この結果、古葉監督は辞任に追い込まれてしまったが、当時、このメチャクチャ弱い大洋というチームを、私は全く鼻にも引っかけていなかった。

「大洋という、メチャクチャ弱いチームが有るな」

というぐらいしか思っていなかったのであるが、その横浜大洋ホエールズが、急に私の人生に割り込んで来る事となるのだから、わからないものである。

 

<1989(平成元)年シーズンオフ~須藤豊、横浜大洋ホエールズ監督に就任!!>

 

 

1989(平成元)年シーズンオフ、横浜大洋ホエールズは、辞任した古葉監督に代わり、

何と、巨人2軍監督を務めていた、須藤豊を新監督として就任させる事を発表した。

これには、私もビックリした。

「あの須藤2軍監督が、大洋の監督をやるんだ!?」

須藤監督は、2軍監督としての実績は有ったが、1軍の監督の経験は無かった。

日本のプロ野球で、こういったケースは珍しいが、それだけ、大洋は須藤監督の若手育成の手腕を買っていたという事であろう。

須藤監督、まずはお手並み拝見といった所であるが、この後、須藤監督率いる大洋が、大旋風を巻き起こした。

 

<1990(平成2)年の須藤大洋①~序盤から巨人と首位争いを繰り広げた大洋、前年最下位からの大躍進で、セ・リーグに「大洋旋風」を巻き起こす!!~いつの間にか、大洋に魅了されてしまった私>

 

 

 

須藤監督が、いかに巨人2軍監督として実績が有ったとはいえ、

大洋は、前年(1989年)はダントツ最下位だった球団である。

従って、開幕前は、当然の事ながら大洋の評価は低かったのだが、その須藤監督率いる大洋が、開幕早々、快進撃を見せた。

大洋は、まず開幕戦の中日戦で引き分けた後、3連勝というスタートを切ると、すぐに3連敗を喫するが、その後に5連勝を飾り、開幕12試合を8勝3敗1分というロケットスタートを切った。

その後、1敗した後にまた2連勝で、10勝4敗1分で「首位」に立った。

前年最下位からの、須藤大洋の「快進撃」は、世間をアッと言わせたが、私も、これには驚いた。

そして、いつの間にか、私は大洋というチームに魅了されてしまったのであった。

 

 

なお、この年(1990年)、須藤監督率いる大洋に、後の「大魔神」佐々木主浩も入団したが、

須藤監督は、佐々木は勿論、若手を積極的に抜擢し、彼らが生き生きと躍動する事により、前年最下位だったチームを見事に蘇らせ、大洋というチームを、実に魅力有る球団にしていた。

そんな大洋に、俄かに注目が集まり、私も、まんまと大洋の魅力にハマってしまった。

もうおわかりだろう。

私は、この須藤大洋の快進撃により、「大洋ファン」としての第一歩を歩み始めたのである。

 

<1990(平成2)年の藤田巨人…投打に圧倒的な戦力で、健闘する須藤大洋を突き放し、独走態勢を固める~巨人と大洋の狭間で、複雑な心境だった私!?>

 

 

 

 

一方、序盤から須藤大洋と激しい首位争いを繰り広げた藤田巨人は、

斎藤雅樹・槙原寛己・桑田真澄「三本柱」に、木田優夫、香田勲男、宮本和知といった強力な投手陣と、

クロマティ、原辰徳、駒田徳広、岡崎郁や、この年、打率.327 14本塁打 45打点と、見事に「完全復活」した吉村禎章など、投打に強力な布陣を揃え、夏場には大洋を突き放し、巨人が独走態勢に入った。

この頃、私は大洋に魅了されていたが、まだ巨人ファンを辞めたわけでもなく、巨人と大洋の狭間で、何とも複雑な心境だったものである。

 

<1990(平成2)年9月8日…「マジック2」の巨人はヤクルトと、2位・広島は3位・大洋と対戦~巨人-ヤクルト戦の途中で、広島が大洋に敗れ、「マジック1」に>

 

 

そんな中、迎えたのが、今から30年前、1990(平成2)年9月8日であった。

この日、巨人は「マジック2」という状況だったが、巨人は東京ドームでヤクルトと対戦し、

当時の2位・広島は3位・大洋と広島市民球場で対戦していた。

そして、巨人-ヤクルト戦の試合中、「マジック対象チーム」の2位・広島が大洋に1-3で敗れ、これで巨人は「マジック1」となった。

 

<1990(平成2)年9月8日…巨人-ヤクルト戦(東京ドーム)で、吉村禎章(巨人)が川崎憲次郎(ヤクルト)から「優勝決定サヨナラホームラン」を放つ!!~現地・東京ドームで、私も家族と共に、吉村のサヨナラホームランを目撃!!>

 

 

 

そして、冒頭でも書いた通り、この1990(平成2)年9月8日の巨人-ヤクルト戦(東京ドーム)を、

当時、小学生だった私は、両親と弟と共に、家族4人で、現地で見ていた。

偶然というか、事前にこの試合のチケットを入手出来ており、私達は見に行っていたのである。

試合中、広島が大洋に敗れた、というニュースが伝わり、巨人が「マジック1」となった事により、東京ドームの巨人ファンからは一斉に歓声が上がった。

この試合、巨人・宮本和知、ヤクルト・川崎憲次郎という両先発が好投し、両投手の投げ合いのまま、

2-2の同点で、試合は延長戦に入った。

2-2の延長10回裏1死、ここで打席に入ったのが、あの吉村禎章である。

前述の通り、前年(1989年)、吉村が久々にグラウンドに復帰した時の打席で対決したのが、この川崎であった。

 

 

 

 

 

 

ボールカウント「2-0」からの3球目、川崎が投じたストレートに対し、

吉村は鋭くバットを振り抜くと、タイミングはドンピシャリで、ボールはバットに当たった。

そして、吉村のバットから放たれた打球は、グングン伸びて、そのままライトスタンドへと突き刺さった。

吉村禎章、優勝決定サヨナラホームラン!!!!

この瞬間、東京ドームは凄まじい大歓声に包まれ、吉村は大きくガッツポーズした。

 

 

 

 

 

 

 

 

吉村の、あまりにも劇的なサヨナラホームランを目の当たりにし、当時、ライトスタンドに居た私も大興奮であった。

周りの巨人ファン達も、口々に何かを喚き、誰彼構わず抱き合ったりして、大喜びしていた。

吉村は、笑顔でベース一周し、巨人の選手達が首脳陣が待ち受けるホームへと帰って来た。

一方、痛恨の一発を浴びた川崎はガックリと項垂れ、当時、新人だった古田敦也も、悔しそうな表情で、ベンチへと引き上げて行った。

 

 

 

英雄・吉村禎章が、巨人の仲間達からもみくちゃにされた後、

直ちに、藤田監督の胴上げが始まった。

私は、生まれて初めて、現地で巨人の優勝を生で目撃し、流石に感激した。

一方、「今日、大洋は勝ったんだな…」という事も、頭の片隅で思っていた。

今思えば、当時の私は、本当に中途半端な状態だったとも言えよう。

 

<1990(平成2)年の須藤大洋②~64勝66敗3分の3位で、大洋は「7年振りのAクラス」達成!!~私は大洋のAクラス入りを喜ぶ>

 

 

 

その後、須藤大洋は、シーズン終盤まで粘りに粘って、広島・中日とAクラス争いを繰り広げた。

大洋は、最終的には巨人に24ゲーム差を付けられたとはいえ、

64勝66敗3分の3位で、大洋は「7年振りのAクラス」を達成したのである。

大洋は前年最下位から、見事に3位に躍進したが、この時、私は大洋のAクラス入りを喜んだ。

この時には、すっかり大洋に気持ちが傾いていた。

 

<1990(平成2)年の「西武-巨人」の日本シリーズ~西武がストレートの4連勝で巨人に圧勝し、日本一!!~岡崎郁(巨人)が「野球観が変わった」という名言を吐く~私は巨人ファンと「訣別」し、大洋ファンに「転向」>

 

 

 

 

1990(平成2)年の日本シリーズは、「西武-巨人」の対決となったが、

西武ライオンズがストレートの4連勝で巨人に圧勝し、2年振りの日本一の座に就いた。

この時、惨敗を喫した巨人の岡崎郁「野球観が変わった」という名言を吐いたが、

これを以て、私は巨人ファンと「訣別」し、大洋ファンに「転向」する事となった。

今思えば、あれだけ好きだった巨人から、わざわざ大洋ファンに「鞍替え」してしまったのは、何とも不思議であるが、人を好きになるのと同様、プロ野球チームを好きになるのに、理屈など無いという事かもしれない。

それはともかく、あれから30年経ち、私は大洋の後身、横浜DeNAベイスターズを、今も応援している次第である。