シーズン「55本塁打」を巡る物語⑤~王貞治「13年連続本塁打王」と「ON砲」と「巨人V9時代」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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1965(昭和40)~1966(昭和41)年にかけて、長嶋茂雄、王貞治は相次いで結婚し、

「ON」は伴侶を得た事で、ますます充実した時期を迎えていた。

そして、川上哲治監督率いる巨人は、1965(昭和40)~1973(昭和48)年に、「V9」(9年連続日本一)という、空前絶後の黄金時代を築き上げる事となった。

 

 

というわけで、今回は、そんな王貞治・長嶋茂雄「ON」砲を中心とした「巨人V9時代」と、

そんな彼らに挑んだ男達のドラマに、スポットを当ててみる事としたい。

 

<1965(昭和40)~1973(昭和48)年…川上哲治監督率いる巨人が、「V9」(9年連続日本一)達成!!~「ON」を中心とした強力野手陣と、堀内恒夫を中心とした強力投手陣が、川上監督の下、「鉄の規律」で一致結束>

 

 

 

さて、この時代といえば、何と言っても、川上巨人の「9年連続日本一」、所謂「V9」達成が特筆される。

「V9時代」の巨人といえば、何と言っても、王貞治・長嶋茂雄「ON」を中心として、「ON」の脇を固める野手陣と、

エース・堀内恒夫を中心とした強力投手陣が、川上監督の号令の下、一糸乱れぬ「鉄の結束」を誇っていたが、

そのチームワークの良さが、巨人「V9」達成の最大の要因であった事は、間違いない。

 

 

 

巨人「V9」時代(1965~1973年)のベストメンバーというのは、大体、下記の通りである。

 

【巨人V9時代(1965~1973年)のベストメンバー】

(中)柴田勲

(左)高田繁

(一)王貞治

(三)長嶋茂雄

(右)末次民夫

(遊)黒江透修

(二)土井正三

(捕)森昌彦

(投)堀内恒夫

 

王貞治、長嶋茂雄の「ON」は、場合によって3番と4番を入れ替わる事もあるが、

この「ON」を得点源として、その他のメンバーが、いかに「ON」の前にランナーを溜めるか、

勝つためには、どのようなプレーをする事が最善なのかを、各々がよく考え、チームプレーに徹していた。

「巨人V9」とは、煎じ詰めれば、川上監督の指揮の下、チーム力と団結力で、他球団を圧倒した時代だったと言って良い。

 

 

 

当時の巨人の投手陣は、巨人「V9」以前から、巨人のエースとして活躍し、「エースのジョー」と称された城之内邦雄や、

1965(昭和40)年に、国鉄スワローズから巨人に移籍した金田正一らが、巨人の「V9」時代の前半を支えた。

金田が、国鉄から巨人に移籍した1965(昭和40)年から、巨人の「V9」がスタートしており、金田の移籍は、巨人の「V9」の幕開けに欠かせないものであった。

 

 

 

 

そして、1966(昭和41)年に巨人に入団し、同年(1966年)、デビューから13連勝という快進撃を見せた堀内恒夫は、

巨人「V9」時代を通して、巨人のエースとして大活躍した。

なお、堀内恒夫は、バッティングも良く、1967(昭和42)年には「ノーヒットノーラン」を達成したのと同時に、「1試合3本塁打」も達成している。

 

 

「V9時代」の巨人の右のエースが堀内恒夫なら、左のエースは高橋一三であった。

堀内恒夫、高橋一三という、左右の両エースを中心に、巨人の強力投手陣は形成され、

前述の野手陣も、打つだけではなく、固い守りで、投手陣を支えた。

こんな強力なメンバーが居たのだから、他球団が巨人に勝つというのは、至難の業であった。

 

<「勝負の鬼」川上哲治監督…勝つためには妥協を許さず、時には「邪魔者」を排除した川上監督~「哲のカーテン」で、キャンプで徹底した取材規制を行なう>

 

 

前述の通り、当時の巨人には強力なメンバーが揃っていたが、

ただ単に、良いメンバーが揃っていただけでは、「巨人V9」は絶対に成し遂げられる事はなかったであろう。

何と言っても、巨人を率いていた川上哲治監督の指導力が抜群だったからこそ、「巨人V9」は達成されたというのは間違いない。

 

 

川上監督には、非情な部分も有った。

「V9」前夜、1962(昭和37)年に、巨人の投手コーチだった別所毅彦が、門限を破った中村稔投手を殴るという、

所謂「別所殴打事件」が起こったが、川上監督は別所コーチを謹慎処分とすると、これを不満とした別所は、巨人を退団してしまった。

このままでは、別所は巨人の「不満分子」になると考え、川上監督は別所に厳しい処分を下し、結果として別所を巨人から追い出す形となったが、もし別所が巨人に居れば、川上監督としても、やりにくかったかもしれず、別所の退団は、川上監督にとっては「渡りに船」だった。

 

 

また、1964(昭和39)年には、川上監督は、ソリの合わなかった広岡達朗を、露骨に干している。

当時、あまり打てなかった広岡の打席で、川上監督は、三塁ランナーだった長嶋茂雄に、2度もホームスチールを命じたが、

これを不服とした広岡は、「職場放棄」して、そのまま帰ってしまったが、川上監督は、この広岡の「造反」を許さず、以後、川上監督は広岡を露骨に干すようになったが、結局、2年後の1966(昭和41)年、広岡達朗は巨人を退団に追い込まれた。

 

 

川上監督は、キャンプでも、報道陣に厳しい取材規制を敷き、報道陣が勝手にグラウンドに入って来ないよう「厳命」したが、

このような川上監督の厳しい報道管制は、当時、「哲のカーテン」と揶揄された。

しかし、川上監督は、何を言われても、頑として自分の信念は曲げなかった。

川上監督は、時には「邪魔者」を排除し、「巨人が勝つ事」を自身の最大の使命と考え、信念を貫いたのである。

このような監督が率いていたからこそ、当時の巨人は強かったわけである。

まさに、川上監督が「勝負の鬼」と言われた所以である。

 

<1965(昭和40)~1973(昭和48)年の「巨人V9」~「9年連続リーグ優勝「」を達成⇒日本シリーズも9年連続で制し「9年連続日本一」も達成~川上監督だからこそ成し遂げられた偉業>

 

 

 

「V9」と一口に言っても、その内訳を見ると、それは本当に物凄いものであった。

何しろ、巨人は「9年連続優勝」を達成し、日本シリーズでも、パ・リーグの覇者を9年続けて破り「9年連続日本一」を達成したのだから、

これは、並大抵の事ではない。

まず、1965(昭和40)~1973(昭和48)年の、巨人の「9年連続優勝」の内訳は、下記の通りである。

 

【1965(昭和40)~1973(昭和48)年の巨人「9年連続優勝」】

 

①1965(昭和40)年 91勝47敗2分 勝率.659(※2位:中日と13ゲーム差) MVP:王貞治(巨人)

②1966(昭和41)年 89勝41敗4分 勝率.685(※2位:中日と13ゲーム差) MVP:長嶋茂雄(巨人)

③1967(昭和42)年 84勝46敗4分 勝率.646(※2位:中日と12ゲーム差) MVP:王貞治(巨人)

④1968(昭和43)年 77勝53敗4分 勝率.592(※2位:阪神と5ゲーム差) MVP:長嶋茂雄(巨人)

⑤1969(昭和44)年 73勝51敗6分 勝率.589(※2位:阪神と6.5ゲーム差) MVP:王貞治(巨人)

⑥1970(昭和45)年 79勝47敗4分 勝率.627(※2位:阪神と2ゲーム差) MVP:王貞治(巨人)

⑦1971(昭和46)年 70勝52敗8分 勝率.574(※2位:中日と6.5ゲーム差) MVP:長嶋茂雄(巨人)

⑧1972(昭和47)年 74勝52敗4分 勝率.587(※2位:阪神と3.5ゲーム差) MVP:堀内恒夫(巨人)

⑨1973(昭和48)年 66勝60敗4分 勝率.524(※2位:阪神と0.5ゲーム差) MVP:王貞治(巨人)

 

巨人は「V9」時代の前半は、常にぶっちぎりでセ・リーグを制しており、

後半は、危ない場面もあったが、川上監督の采配と、試合巧者ぶりが光り、最後は巨人が優勝するという展開が続いた。

そして、「V9」時代では、王貞治が5回、長嶋茂雄が3回、堀内恒夫が1回、MVPを獲得している。

 

 

 

 

川上巨人は、「9年連続優勝」を達成したばかりでなく、

日本シリーズでも、パ・リーグの優勝チームを9年連続で破り、「9年連続日本一」を達成したが、

その「9年連続日本一」の内訳は、下記の通りである。

 

【1965(昭和40)~1973(昭和48)年の巨人「9年連続日本一」】

 

①1965(昭和40)年 巨人〇〇〇●〇南海(巨人4勝1敗) MVP:長嶋茂雄(巨人)

②1966(昭和41)年 巨人〇●〇〇●〇南海(巨人4勝2敗) MVP:柴田勲(巨人)

③1967(昭和42)年 巨人〇〇〇●●〇阪急(巨人4勝2敗) MVP:森昌彦(巨人)

④1968(昭和43)年 巨人●〇〇〇●〇阪急(巨人4勝2敗) MVP:高田繁(巨人)

⑤1969(昭和44)年 巨人〇●〇〇●〇阪急(巨人4勝2敗) MVP:長嶋茂雄(巨人)

⑥1970(昭和45)年 巨人〇〇〇●〇ロッテ(巨人4勝1敗) MVP:長嶋茂雄(巨人)

⑦1971(昭和46)年 巨人〇●〇〇〇阪急(巨人4勝1敗) MVP:末次民夫(巨人)

⑧1972(昭和47)年 巨人〇〇●〇〇阪急(巨人4勝1敗) MVP:堀内恒夫(巨人)

⑨1973(昭和48)年 巨人●〇〇〇〇南海(巨人4勝1敗) MVP:堀内恒夫(巨人)

 

ご覧の通り、巨人は「9年連続日本一」の期間中、日本シリーズでは1度も、3敗までは喫しておらず、

全て4勝1敗か4勝2敗で、パ・リーグ優勝チームを退けており、巨人は日本シリーズでも圧倒的な強さをしめした。

なお、この間、日本シリーズMVPは、長嶋茂雄が3回受賞し、堀内恒夫は1972(昭和47)~1973(昭和48)年に2年連続受賞、その他、柴田勲、森昌彦、高田繁、末次民夫が各1回ずつ受賞しているのに対し、意外にも、王貞治は1回も受賞していない。

 

 

というわけで、当時の巨人は圧倒的な強さを発揮していたわけであるが、

王貞治は、当時の事を振り返って「3連覇や4連覇ぐらいなら、他の監督でも達成出来たと思うが、9連覇は、川上さんでなければ、絶対に達成出来なかっただろう」と、後年、語っている。

つまり、「巨人V9」は、「勝利」への執念を燃やした川上哲治監督だからこそ達成出来たというのは間違い無い。

 

<「巨人、大鵬、卵焼き」~当時の子供達が大好きだった「三大好物」~大鵬のライバル・柏戸と「柏鵬時代」を築き上げ、「西鉄、柏戸、ふぐちり」とも言われるが…>

 

 

 

 

そのように、当時の無敵の巨人は、子供達からも大人気だったが、

当時、子供達が大好きだった物として、「巨人、大鵬、卵焼き」が挙げられるほどであった。

「V9」を達成した巨人と、大横綱・大鵬、そして卵焼きは、当時の日本の子供達がみんな好きな物だった。

 

 

 

大鵬には、当時、柏戸という宿命のライバルが居た。

大鵬、柏戸は、1961(昭和36)年に同時に横綱に昇進し、以後、2人のライバル対決により「柏鵬時代」が到来したが、

「巨人、大鵬、卵焼き」という、子供達のヒーローに対し、

「西鉄、柏戸、ふぐちり」という、渋い玄人好みの言葉も有ったようであるが、やはり「巨人、大鵬、卵焼き」が、当時の時代の象徴であった。

 

<「巨人V9」時代の「ON」(王貞治・長嶋茂雄)~「ON」の2人で、セ・リーグの打撃タイトルを独占!!~王貞治は「13年連続本塁打王」(1962~1974年)を獲得!!>

 

 

というわけで、巨人「V9」時代の中心といえば、やはり王貞治・長嶋茂雄の「ON」だったわけであるが、

王貞治が「一本足打法」で「打撃開眼」した1962(昭和37)年以降、1974(昭和49)年までの、2人の打撃成績は、下記の通りである。

 

 

【1962(昭和37)~1974(昭和48)年の王貞治の打撃成績】

 

1962(昭和37)年 打率.272 38本塁打 85打点 ※本塁打王、打点王

1963(昭和38)年 打率.305 40本塁打 106打点 ※本塁打王

1964(昭和39)年 打率.320 55本塁打 119打点 ※本塁打王、打点王

1965(昭和40)年 打率.322 42本塁打 104打点 ※本塁打王、打点王

1966(昭和41)年 打率,311 48本塁打 116打点 ※本塁打王、打点王

1967(昭和42)年 打率.326 47本塁打 108打点 ※本塁打王、打点王

1968(昭和43)年 打率.326 49本塁打 119打点 ※首位打者、本塁打王

1969(昭和44)年 打率.345 44本塁打 103打点 ※首位打者、本塁打王

1970(昭和45)年 打率.325 47本塁打 93打点 ※首位打者、本塁打王

1971(昭和46)年 打率.276 39本塁打 101打点 ※本塁打王、打点王

1972(昭和47)年 打率.296 48本塁打 120打点 ※本塁打王、打点王

1973(昭和48)年 打率.355 51本塁打 114打点 ※首位打者、本塁打王、打点王(三冠王)

1974(昭和49)年 打率.332 49本塁打 107打点 ※首位打者、本塁打王、打点王(三冠王)

 

 

 

【1962(昭和37)~1974(昭和48)年の長嶋茂雄の打撃成績】

 

1962(昭和37)年 打率.288 25本塁打 80打点

1963(昭和38)年 打率.341 37本塁打 112打点 ※首位打者、打点王

1964(昭和39)年 打率.314 31本塁打 90打点

1965(昭和40)年 打率.300 17本塁打 80打点

1966(昭和41)年 打率.344 26本塁打 105打点 ※首位打者

1967(昭和42)年 打率.283 19本塁打 77打点

1968(昭和43)年 打率.318 39本塁打 125打点 ※打点王

1969(昭和44)年 打率.311 32本塁打 115打点 ※打点王

1970(昭和45)年 打率.269 22本塁打 105打点 ※打点王

1971(昭和46)年 打率.320 34本塁打 86打点 ※首位打者

1972(昭和47)年 打率.266 27本塁打 92打点

1973(昭和48)年 打率.269 20本塁打 76打点

1974(昭和49)年 打率.244 15本塁打 55打点

 

 

ご覧の通り、王貞治、長嶋茂雄の「ON」は、セ・リーグの打撃タイトルを独占し続けていたが、

王貞治は、1962(昭和37)~1974(昭和49)年まで、「13年連続本塁打王」という大偉業を成し遂げた。

勿論、これは空前絶後の記録であり、今後も破られる事は無いであろう。

また、王貞治は「二冠」は何度も獲得しているが、どうしても「三冠王」は獲得する事は出来なかった。

しかし、1973(昭和48)~1974(昭和49)年、王貞治は遂に、「2年連続三冠王」を達成している(※王貞治の「2年連続三冠王」については、別途、詳述する)

 

一方、長嶋茂雄も、本塁打王のタイトルこそ、王貞治に譲っていたが、

1963(昭和38)年には、あわや「三冠王」かという大活躍で、首位打者、打点王の「二冠」を獲得し、

1966(昭和41)年、1971(昭和46)年には首位打者、1968(昭和43)~1970(昭和45)年にかけては「3年連続打点王」を獲得し、王の「三冠王」を阻止している。

というわけで、王も長嶋も、桁外れのスーパースターだった事は、数字を見るだけでも明らかである。

 

<「ON」に挑んだ「刺客」達①~阪神タイガースの村山実、江夏豊が「王・長嶋」に真っ向勝負!!~村山実「お前(江夏)はあっち(王)、俺はこっち(長嶋)や」と、ライバル打倒を、後輩・江夏豊に指令!!>

 

 

さて、そんな最強軍団・巨人に対し、勿論、他球団の選手達も、黙ってはいなかった。

「打倒・巨人」「打倒・王、長嶋」のために、彼らは牙を研いでいた。

まず、阪神タイガース村山実、江夏豊は、「打倒ON」に燃えに燃えていた投手の筆頭であろう。

村山実は、1959(昭和34)年に阪神に入団して以来、阪神のエースに君臨していたが、

村山は、1967(昭和42)年に阪神に入団して来た新人・江夏豊に対し、

「お前(江夏)はあっち(王)、俺はこっち(長嶋)や」

と、打撃練習をする王、長嶋を指差し、「俺は長嶋を倒すから、お前は王を倒せ」という「指令」を出した。

村山実は、それだけ、長嶋茂雄という男に対し、並々ならぬ「敵愾心」を持っていた。

 

<村山実VS長嶋茂雄~「天覧試合」(1959年)以来の因縁の対決!!~村山実は長嶋茂雄から「通算1500奪三振」(1966年6月8日)、「通算2000奪三振」(1969年8月1日)を奪い、意地を見せる!!~村山実VS長嶋茂雄の通算対戦成績「302打数85安打 打率.281 21本塁打 39三振」>

 

 

村山実長嶋茂雄の因縁の対決は、1959(昭和34)年に遡る。

村山実は、1959(昭和34)年、関西大学から阪神に入団し、入団早々、阪神のエースの座に就いていた。

そして、当時プロ入り2年目にして、早くも球界のスーパースターとなっていた長嶋茂雄と、日本中が注目する舞台で対決した。

1959(昭和34)年6月25日、昭和天皇と香淳皇后が、後楽園球場の巨人-阪神戦を観戦した、所謂「天覧試合」である。

 

 

 

 

この「天覧試合」で、村山実は、4-4の同点で迎えた7回裏途中から、先発・小山正明の後を受け、リリーフで登板したが、

4-4の同点で迎えた9回裏、村山は長嶋に、屈辱的なサヨナラホームランを浴びてしまった。

この時、村山は、長嶋の事を生涯の「宿敵」と定め、「打倒・長嶋」に全身全霊をかける事となった。

 

 

1966(昭和41)年6月8日、村山実は長嶋茂雄から三振を奪い、「通算1500奪三振」を達成した。

これは、村山が事前に「1500個目の三振は、長嶋さんから取る」と宣言し、その宣言どおりに達成したものであるが、

まさに、村山の「打倒・長嶋」の執念が実った形となった。

 

 

1969(昭和44)年8月1日、今度は村山実は、長嶋茂雄から三振を奪い、「通算2000奪三振」を達成した。

勿論、これも事前に村山が「2000個目の三振は、長嶋さんから取る」と宣言し、有言実行したものである。

このように、村山は「長嶋を倒す」事を、投手としての最大のモチベーションとしていた。

 

 

このように、「村山実VS長嶋茂雄」は、常に熱い勝負を繰り広げたが、

全力で自分に立ち向かって来る村山に対し、長嶋もフルスイングで応え、2人の真剣勝負は、ファンを熱くさせた。

なお、「村山実VS長嶋茂雄」は、「302打数85安打 打率.281 21本塁打 39三振」という通算対戦成績が残っている。

 

<江夏豊VS王貞治~1968(昭和43)年9月17日…江夏豊、「シーズン最多奪三振」のタイ記録と新記録を、王貞治から奪う!!~1971(昭和46)年9月15日…絶不調の王貞治、江夏豊から起死回生の逆転3ランを放ち、生涯で唯一、涙を流しながらベース一周~江夏豊VS王貞治の通算対戦成績は「321打席258打数74安打 打率.287 20本塁打 57三振」>

 

 

さてさて、先輩の村山実から「お前は、あっち(王)を倒せ」という指令を受けた江夏豊は、

プロ入り2年目のシーズン、1968(昭和43)年に、凄まじい投球を見せていた。

開幕から絶好調の江夏は、凄まじいペースで三振を積み重ね、同年(1968年)9月17日の阪神-巨人戦(甲子園)を前に、

シーズン奪三振数を「345」まで積み重ねており、1961(昭和36)年に稲尾和久が記録した、シーズン最多奪三振記録の「353」まで、あと「8」に迫っていた。

 

 

この年(1968年)、阪神は江夏の快投により、一時は10ゲーム差以上、離されていた巨人を猛追し、

9月17日の時点で、阪神は巨人にゲーム差無しまで迫っていた。

そして、この阪神-巨人戦は、まさに「天王山」であったが、江夏はこの試合、「シーズン最多奪三振の新記録は、王さんから取る」と「公言」していた。

そして、江夏はこの試合でも巨人打線からバッタバッタと三振を奪い、4回表、王から三振を奪ったが、これは、この試合の「8」個目の三振だった。

実は、この時、江夏は「計算違い」をしており、この時の王の三振を「新記録」の「354」個目だと思っていたが、まだ「353」個のタイ記録だったのである。

 

 

 

 

仕方無いので、江夏は、今度こそ「新記録」の三振を王から奪うため、

今度は、わざと三振を取らないよう、打たせて取る投球に切り替えた。

試合は0-0で、1球の失投も許されない展開だったが、江夏の狙いどおり、1つも三振を取らないままアウトを積重ね、

7回表、江夏は再び王との対決を迎えると、今度は再び全力投球で、江夏は王から三振を奪った。

江夏豊、見事に王貞治から三振を奪い、「354」個のシーズン最多奪三振の新記録を達成!!

この打席、王は凄まじい形相で江夏に立ち向かったが、軍配は江夏に上がったのである。

 

 

結局、この年(1968年)、江夏はシーズン奪三振記録を「401」まで伸ばしたが、

この記録は、今日(2020年)に至るまで、未だに破られていない。

恐らく、今後も破られないのではないだろうか。

 

 

 

その3年後、1971(昭和46)年、王貞治は、絶不調のドン底に喘いでいた。

同年(1971年)9月15日の阪神-巨人戦でも、王は江夏から3三振と、全く良い所が無かったが、

0-2と2点ビハインドの9回表、2死2、3塁から、王は江夏から起死回生の逆転3ランホームランを放った。

この時、王は涙を流しながらベース1周したが、これは王にとって、生涯唯一の事だったという。

 

 

その時、王が江夏からホームランを打てたのは、江夏が王に対し、真っ向勝負で挑んだからに他ならない。

というわけで、「江夏豊VS王貞治」の対決も、常に真っ向勝負でぶつかり合い、

「321打席258打数74安打 打率.287 20本塁打 57三振」という通算対戦成績が残っている。

 

<1971(昭和46)年の「巨人VS阪急」日本シリーズ第3戦~王貞治(巨人)が山田久志(阪急)から、起死回生の逆転サヨナラ3ラン!!>

 

 

 

 

さて、前述の通り、1971(昭和46)年の王貞治は絶不調であり、シーズン本塁打数も、8年振りに「40本」の大台を割ってしまった。

それでも、王は本塁打王と打点王の「二冠」は獲得したが、不本意なシーズンだったに違いない。

そんな中、1971(昭和46)年の「巨人VS阪急ブレーブス」の日本シリーズを迎えたが、1勝1敗で迎えた第3戦、巨人は阪急のエース・山田久志に9回2死まで0-1で抑え込まれ、敗色濃厚だったが、ここで王貞治山田久志から、起死回生の逆転サヨナラ3ランホームランを放った。

結局、この一発でシリーズの流れは巨人に傾き、巨人が4勝1敗で日本一となったが、まさに王の「値千金」のホームランであり、球史に残る一発であった。

 

<「ON」に挑んだ「刺客」達②~「法政三羽烏」の田淵幸一、東京六大学野球新記録の「通算22本塁打」を記録!!~1969(昭和44)年、阪神に入団した田淵幸一、1年目から「22本塁打」を放ち新人王に~「江夏豊-田淵幸一」の「黄金バッテリー」結成!!>

 

 

 

東京六大学野球では、長嶋茂雄(立教)「通算8本塁打」が、長らく、連盟記録として残っていたが、

1965(昭和40)~1968(昭和43)年にかけて、法政大学に在学した田淵幸一が、長嶋の記録を大幅に更新する「通算22本塁打」を記録した。

田淵幸一、山本浩二、富田勝「法政三羽烏」と称され、彼らの在学中、法政は3度(1965年春、1967年秋、1968年春)、優勝している。

 

 

 

田淵幸一は、巨人入りを熱望していたが、それは叶わず、

1969(昭和44)年、阪神タイガースにドラフト1位で入団した田淵幸一は、背番号「22」を背負い、

法政時代の通算本塁打数と、背番号と同じ「22本塁打」を放ち、新人王となった。

田淵幸一は、次代を担うスター候補として、期待されていた。

 

 

江夏豊-田淵幸一は、「黄金バッテリー」と称され、巨人を脅かす存在となったが、

「V9」時代の巨人において、最大のライバルは、やはり阪神タイガースであった。

なお、田淵はこの後、王のホームラン王の牙城に迫る事となる。

 

<「ON」に挑んだ「刺客」達③~「巨人キラー」「長嶋キラー」の平松政次(大洋)…「カミソリシュート」で「巨人戦通算51勝」を達成!!>

 

 

 

さてさて、1969(昭和44)年に、プロ初打席の田淵幸一を、軽く三球三振に仕留めたのが、平松政次(大洋)であった。

平松政次は、巨人と長嶋茂雄に憧れ、巨人入りを熱望していたが、それは叶わず、1967(昭和42)年に大洋ホエールズに入団した。

大洋入団当時、平松は長嶋と同じ背番号「3」を付け、長嶋への憧れを隠さなかった。

 

 

 

しかし、入団当時、長嶋に手痛いホームランを浴びた平松政次は、以後、「打倒・巨人」「打倒・長嶋」に全力を挙げる事を誓い、

武器である「カミソリシュート」を磨き上げ、平松は背番号「27」に変えた後、「巨人キラー」「長嶋キラー」として、名を馳せた。

平松は、通算201勝を挙げたが、その内の「51勝」は、巨人戦で挙げている。

なお、平松は長嶋を通算対戦成績で、「181打数35安打8本塁打 打率.193 33三振 内野ゴロ65(併殺打7)、最大で25打数無安打」に抑え込んだ。

長嶋の最大の「天敵」は、平松だったのである。

 

<「ON」に挑んだ「刺客」達④~巨人に指名されなかった星野仙一(中日)、「打倒・巨人」に生涯を捧げる!!>

 

 

東京六大学野球で、田淵や「法政三羽烏」のライバルだった、明治大学星野仙一も、巨人入りを熱望していたが、

ドラフト会議で、巨人が指名したのは星野仙一ではなく、島野修だった。

「何故だ!?星と島の間違いだろう!!」と、この時、星野は有名な言葉を吐いているが、

星野は、中日ドラゴンズにドラフト1位で指名された。

 

 

 

1969(昭和44)年、ドラフト1位で中日に入団した星野仙一は、以後、「打倒・巨人」に生涯を捧げた。

巨人戦通算「35勝」を挙げた現役時代もさる事ながら、監督として、星野が生涯にわたり、「打倒・巨人」に命をかけていたのは、皆さんもご存知の通りである。

 

(つづく)