シーズン「55本塁打」を巡る物語② ~王貞治の「一本足打法」誕生秘話と「ON砲」と野村克也~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

戦後のプロ野球は、彗星の如く登場した新人・大下弘ホームラン(本塁打)を連発し、

それに負けじと、川上哲治、藤村富美男らも対抗し、沢山のホームランを打った。

そして、1950年代後半、プロ野球にも新旧交代の波がやって来て、新たなスター選手が登場した。

それが、野村克也、長嶋茂雄、王貞治らであった。

 

 

というわけで、今回は、王貞治(巨人)荒川博コーチの打撃指導により、「一本足打法」を習得し、

ホームランバッタとして覚醒した経緯と、王貞治、長嶋茂雄「ON砲」誕生、そして、パ・リーグの南海ホークスで台頭した、野村克也という、強打者達の物語について、描いてみる事としたい。

それでは、ご覧頂くとしよう。

 

<1958(昭和33)年…「ゴールデン・ボーイ」長嶋茂雄(巨人)が、新人ながら本塁打王、打点王を「二冠」を獲得し、球界を席巻!!~長嶋の活躍で、東京六大学野球のファンが、プロ野球のファンにゴッソリ移行!?>

 

 

1958(昭和33)年、東京六大学野球の立教から、鳴り物入りで巨人に入団した長嶋茂雄は、

「ゴールデン・ボーイ」と称され、キャンプ中から、その一挙手一投足が、ファンやマスコミの注目の的になっていた。

長嶋は、開幕前のオープン戦で7本塁打を放ち、早くも、その実力を見せ付けていた。

 

 

 

しかし、ここで国鉄スワローズの大エース・金田正一が長嶋の前に立ちはだかり、

1958(昭和33)年4月5日、後楽園球場で行われた、巨人-国鉄の開幕戦で、

金田正一は、長嶋茂雄を「4打席4三振」に切って取り、プロ野球の大エースとしての意地を見せた。

一方、長嶋にとっては、屈辱的なデビュー戦となってしまったのである。

 

 

 

 

しかし、長嶋茂雄は、「4打席4三振」という屈辱から、すぐに立ち直り、その後、長嶋は大活躍した。

長嶋は、打って良し、守って良し、走って良しの三拍子揃った選手であり、

新人ながら、三塁手の定位置を獲得した長嶋は、グラウンド狭しと縦横無尽に駆け回り、ファンを熱狂させた。

長嶋の活躍により、巨人はリーグ優勝(4連覇)を果たしたが、巨人は西鉄ライオンズとの日本シリーズでは、「鉄腕」稲尾和久の力投の前に屈し、3連勝⇒4連敗で、巨人は西鉄に3年連続で日本シリーズで敗れた。

 

 

結局、長嶋茂雄は、新人ながら打率.305(2位)、29本塁打(1位)、92打点(1位)と、あわや「三冠王」という成績を残し、本塁打王、打点王の「二冠」を獲得した。

まさに、「ゴールデン・ボーイ」長嶋茂雄の面目躍如であったが、長嶋の活躍により、それまで東京六大学野球のファンだった人達が、ゴッソリ、プロ野球ファンに移行してしまったとも言われている。

それだけ、長嶋の大活躍は、ファンの圧倒的な支持を集めたという事である。

 

<1958(昭和33)年9月1日…長嶋茂雄、王貞治の2人が初対面!!~王・長嶋の初対面に立ち会った、川上哲治>

 

 

1958(昭和33)年、早実(早稲田実業)の3年生になった王貞治は、惜しくも夏の甲子園出場を逃してしまったが、

その後、王の巨人入団が内定し、王は次なる活躍の舞台を、プロ野球の世界に移す事となった。

そんな中、1958(昭和33)年9月1日、広島遠征に向かう巨人の選手達を、王貞治が訪ね、

東京駅で、長嶋茂雄、王貞治「初対面」が実現した。

長嶋と王の歴史的な「出会い」の場には、巨人の重鎮・川上哲治も立ち会っていたが、それは、巨人の「新旧交代」を象徴するような光景であった。

 

<1958(昭和33)年シーズンオフ…王貞治が巨人に入団!!>

 

 

1958(昭和33)年のシーズンオフ、王貞治が巨人に入団した。

前年(1957年)に長嶋茂雄に続き、またしても、巨人は若きスター候補を入団させたという事になるが、

この後、王は厳しい試練に見舞われる事となる。

 

<1958(昭和33)年~1959(昭和34)年…川上哲治、藤村富美男、大下弘らが、相次いで現役引退>

 

 

 

1958(昭和33)~1959(昭和34)年にかけて、プロ野球を沸かせたスター選手達が、次々に現役生活を終えて行った。

1958(昭和33)年の日本シリーズで、巨人は西鉄に敗れたが、日本シリーズ終了後、川上哲治が、遂に現役引退を表明した。

「打撃の神様」と称された川上哲治は、途中、兵役を挟んで、巨人一筋で実働18年間、1979試合 7500打数2351安打 181本塁打 1319打点 打率.313という通算成績を残し、日本初の「通算2000安打」を達成した他、首位打者5回、本塁打王3回、打点王3回など、数々の打撃タイトル獲得した。

川上が引退した理由としては、「巨人の4番としてのバッティングが出来なくなった」というものであったが、長嶋茂雄という「後継者」が現れた事も、その理由の一つだったと思われる。

なお、川上哲治の背番号「16」は、巨人の「永久欠番」となった。

 

 

 

「ミスター・タイガース」藤村富美男も、1958(昭和33)年限りで現役引退を表明した。

藤村は、川上と同様、途中で兵役を挟みながら、阪神一筋で実働17年間を過ごし、1558試合 5648打数1694安打 224本塁打 1126打点という通算成績を残し、首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回という打撃タイトルも獲得した。

また、「投打二刀流」だった藤村は、投手としても76試合 34勝11敗 防御率2.35という通算成績を残し、阪神の監督(選手兼任監督)も2度、務めている。

タイガース一筋に生き、タイガースを愛し、タイガースファンに愛された男・藤村富美男の背番号「10」は、阪神の「永久欠番」になっている。

 

 

 

そして、戦後に復活したプロ野球に颯爽とデビューし、「虹のアーチ」と称された、美しいホームランを沢山打ち、ファンに希望を与えた大下弘は、1959(昭和34)年限りで現役引退した。

大下弘は、1946(昭和21)~1951(昭和26)年にかけて、セネタース-東急フライヤーズで活躍した後、1952(昭和27)年に西鉄ライオンズに移籍し、その後はベテランとして西鉄ライオンズの若い選手達を引っ張った。

大下弘は、実働14年で、1547試合 5500打数1667安打 201本塁打 861打点という通算成績を残し、首位打者3回、本塁打王3回を獲得した。

大下は、1946(昭和21)年に「20ホームラン(本塁打)」を放ち、一大センセーションを巻き起こしたが、1949(昭和24)年には、今も破られていない、「1試合で7打数7安打」を記録し、1951(昭和26)年には打率.383という高打率で、3度目の首位打者を獲得するなど、高い打撃技術を示した。

こうして、川上哲治、藤村富美男、大下弘という、「三者三様」の生き様を見せたスーパースター達が去り、プロ野球は新たなスター達が活躍する時代になって行く事となる。

 

<「テスト生」から這い上がり、鶴岡監督に抜擢された野村克也(南海)、パ・リーグを代表する強打者として、「8年連続本塁打王」(1962~1969年)、「6年連続打点王」(1962~1967年)を獲得!!~しかし、鶴岡一人と野村克也の間には「確執」が…>

 

 

さて、戦前の1939(昭和14)年、南海に入団し、新人ながら本塁打王のタイトルを獲得した鶴岡一人は、

戦後、南海ホークスに復帰し、鶴岡一人は南海の選手兼監督(プレーイング・マネージャー)として、南海を率いた。

そして、鶴岡監督は、数々の名選手を育て上げたが、その中に、1954(昭和29)年、「テスト生」として南海に入団した野村克也が居た。

鶴岡監督は、野村克也の素質に目を付け、野村を一軍に上げ、正捕手に抜擢した。

 

 

ドン底の「テスト生」から這い上がった野村克也は、懸命の努力を続け、

前回の記事にも書いた通り、1957(昭和32)年、遂に30本塁打で、初のホームラン(本塁打王)のタイトルを獲得した。

しかし、野村には「カーブ(変化球)が打てない」という致命的な弱点が有った。

その弱点を克服するため、野村は、相手投手の投球フォームや癖を徹底的に研究し、配球を呼んで打つという「特技」を身に着けた。

 

 

野村克也は、その後も打撃技術を磨き、

「8年連続本塁打王」(1962~1969年)、「6年連続打点王」(1962~1967年)を獲得するなど、

パ・リーグを代表する強打者に成長して行った。

野村曰く、「相手投手を研究し、頭で考える野球を身に着けたから、結果を残せた」という事であったが、

決して素質に恵まれていたわけではなかったという野村は、努力と創意工夫により、強打者に成長して行ったのである。

 

 

 

ところで、このブログでは既に何度も書いており、「またその話か」と言われそうであるが、

野村克也鶴岡一人監督は、何故か、全くソリが合わず、野村は鶴岡監督に疎まれていた(※少なくとも、野村はそう思っていた)。

鶴岡監督は、全く無名の「テスト生」だった野村を見出し、本来であれば、自慢で堪らない筈なのに、何故か、鶴岡監督は野村を毛嫌いしていた(※と、野村は思っていた)。

野村は、鶴岡監督から、「お前は、二流三流はよう打つけど、一流は打てんのう」と、事有るごとに嫌味を言われたというが、野村は、そんな鶴岡監督を見返そうと、努力に努力を重ね、超一流選手になって行った。

結果としてみれば、鶴岡監督の下で、野村は大成する事が出来たわけであるが、この2人は、残念ながら人間としての相性が合わなかったのであろう(※そもそも、相性が悪い人と仲良くするのは、絶対に無理である)。

 

<1959(昭和34)年の長嶋茂雄と王貞治…王貞治、開幕26打席連続無安打と苦しんだ後、27打席目のプロ初安打が初本塁打⇒「天覧試合」で、「ONアベックホームラン第1号」⇒長嶋は初の首位打者、王は打撃不振で不本意な成績に終わる>

 

 

1959(昭和34)年、プロ1年目の王貞治は、キャンプで長嶋茂雄と同室になり、王は先輩の長嶋から、様々な事を学んだが、

実は、世間のイメージとは逆で(?)、王は大雑把な性格で、長嶋は意外にしっかりとしていたという。

王が、いつまで経っても起きないので、「おい、いつまで寝てるんだ!起きろ!!」と、王を起こすのは、長嶋の役割になっていた。

普通は、後輩の王の方が、長嶋を起こす役割だと思われるが、王は、そういう事は気にしない(?)、物怖じしない性格だったという事であろう。

 

 

王貞治は、開幕前のオープン戦で5本塁打を放ち、大きな期待を受けて、1959(昭和34)年のシーズン開幕を迎えたが、王は国鉄スワローズ金田正一の前に、全く歯が立たず、王は、金田に3打数2三振と、アッサリと捻られてしまった。

金田は、前年(1958年)の長嶋に続き、王にもプロの厳しさを味わわせたという事となった。

 

 

これで、王はすっかり打撃の調子を崩され、何と、王は開幕から26打席無安打と、全く打てなかった。

王は苦しみ抜いたが、1959(昭和34)年4月26日、王貞治は、村田元一(国鉄)から、開幕27打席目にして、プロ初安打となる2ランホームラン(しかも、2-0で巨人が勝利した、決勝ホームラン)を放った。

王は、漸くプロとしての第一歩を記す事が出来たのであった。

 

 

 

 

同年(1959年)6月25日、昭和天皇香淳皇后が、後楽園球場の巨人-阪神戦を観戦するという、所謂「天覧試合」が実現したが、この試合で、王貞治が、巨人が2-4とリードされた7回裏に同点2ランホームランを放つと、

4-4の同点で迎えた9回裏、長嶋茂雄村山実(阪神)から、劇的なサヨナラホームランを放ち、巨人が5-4で「天覧試合」を制した。

なお、この試合は、王貞治、長嶋茂雄「ONアベックホームラン」の記念すべき第1号であった(※「ONアベックホームラン」は、その後、通算106回を数えた)。

 

 

長嶋茂雄は、プロ2年目となった、この年(1959年)も打率.334(1位) 27本塁打 82打点と大活躍し、

前年(1958年)に本塁打王、打点王の「二冠」を獲得したのに続き、この年(1959年)は、初の首位打者を獲得した。

長嶋は、プロ入り2年目にして、早くも、プロ野球界最高のスーパースターになってしまっていた。

 

 

一方、王貞治は、プロ1年目のこの年(1959年)、打率.161 7本塁打 25打点という、散々な成績に終わってしまった。

高卒1年目にして、7本塁打を放つというのは、なかなかの数字だと思われるが、如何せん、打率も低く、

王のバッティングは、まだまだ粗さが目立っていた。

何より、王自身も、この結果には全く納得が行っていなかった。

 

<「スーパースター」の座に就いた、長嶋茂雄と野村克也~打撃不振に苦しみ、「王、王、三振王」と野次られた、王貞治>

 

 

南海ホークス「4番・捕手」として、押しも押されもせぬスター選手になった野村克也と、

プロ入り早々、結果を残し、人気・実力共にトップ・スターになった長嶋茂雄は、

プロ野球を代表するスーパースターに君臨していた。

長嶋も野村も、共に性格は全く違うが、お互いの実力を認め合う関係であった。

 

 

 

一方、王貞治は、プロ入り以来の3年間で、下記のような成績を残していた。

 

1959(昭和34)年 打率.161 7本塁打 25打点 72三振

1960(昭和35)年 打率.270 17本塁打 71打点 101三振

1961(昭和36)年 打率.253 13本塁打 53打点 72三振

 

こうして見ると、そこまで悪い成績でもないように見えるが、

当時の王には、確固たるバッティングの形が無く、三振の数も多い、粗いバッターだった。

そのため、王が打席に入ると、観客からは「王、王、三振王」と野次られる始末であった。

つまり、当時の王は、かなり伸び悩んでいる状態だったのである。

 

<1962(昭和37)年…川上哲治監督、巨人の打撃コーチに荒川博を招聘~荒川博コーチと王貞治の二人三脚で、「一本足打法」が誕生!!>

 

 

1962(昭和37)年、川上哲治監督は、巨人の打撃コーチとして、荒川博を招聘した。

荒川博は、早稲田実業-早稲田大学で活躍した後、プロ野球の毎日オリオンズでも活躍した選手だったが、

王貞治の母校・早実(早稲田実業)の先輩でもあり、王の少年時代から旧知の仲であった。

王の中学時代、右打席で打っていた王を見て、「左で打ってごらん」と王に勧め、王貞治を左打者に「転向」させたという出来事も有った。

王は、とても素直な性格で、その場で、荒川のアドバイスに従ったのである。

 

 

さて、川上監督は、打撃について悩んでいる王のために、荒川博をコーチに呼んで、王を指導させる事にしたのであるが、

久し振りに王のバッティングを見た荒川は、とても驚いた。

王のバッティングは酷い状態であり、トス・バッティングでも空振りしてしまうほどだったという。

何より、王はすっかり、自信喪失しているような状態だった。

「これは、重症だぞ…」

荒川は、王には荒療治が必要だと考えた。

 

 

 

当時、王貞治は、「速球に振り遅れる」という、致命的な弱点が有った。

おまけに、王は変化球に対しても、球を待ち切れず、球を迎えに行ってしまう(追っかけてしまう)という「悪癖」も有った。

そこで、荒川は、王に対し、最初から右足を上げて構えるという「一本足打法」を身に着けさせようとした。

これは、王が速球に振り遅れないようにするためと、自分のタイミングでボールを待ち、自分からボールを追っかけにいかないようにするためであったが、荒川は、王に「一本足打法」を身に着けさせるため、凄まじい猛特訓を課した。

まず、王が片足を上げても微動だにしないようにして、長時間、ずっと片足で立たせたり、真剣で、天井から下げた糸に繋げた紙を切らせ、集中力を極限まで高めるような訓練も行なった。

そして、荒川は、1日に何百回、何千回も、にバットの素振りをさせたが、王は毎日、荒川の自宅に通い、これらの練習を行なったため、いつしか荒川の自宅は「荒川道場」などと称され、荒川の自宅の部屋の畳は、王の素振りのためにボロボロになり、何度も張り替えたほどだったという。

も、打てるようになりたい一心で、懸命に荒川の特訓に食らい付いて行った。

 

<1962(昭和37)年7月1日…王貞治の「一本足打法」がデビュー!!~いきなり本塁打を放ち、5打数3安打4打点(1本塁打)と大活躍⇒王貞治、初の本塁打王を獲得!!>

 

 

そして、運命の1962(昭和37)年のシーズンがやって来た。

1962(昭和37)年のシーズンが開幕しても、王は暫くは、それまでと同じ、普通の二本足のフォームで打っていたが、

王は、この年(1962年)も開幕から打撃不振に苦しみ、とうとう、王は荒川に対し「打席に立つのが怖い」とまで漏らしていた。

そんな中、同年(1962年)6月30日、川崎球場での大洋-巨人戦が雨天中止になった際、首脳陣ミーティングで、

別所毅彦・投手コーチが、荒川に対し、打撃不振だった王を槍玉に上げるような発言をすると、王を手塩にかけて育てている荒川はカッとなり、「よし、それなら次の試合で王にホームランを打たせてやる!!」と宣言すると、荒川は王に「おい、キャンプから練習していた、あれ(一本足打法)をやるぞ!!」と言った。

そして、その翌日、1962(昭和37)年7月1日、川崎球場での巨人-大洋戦で、遂に、王貞治「一本足打法」を実戦でデビューさせた。

すると、王はこの試合で、稲川誠(大洋)からホームランを放つと、ホームランを含む5打数3安打4打点(1本塁打)と大活躍し、王の「一本足打法」は上々のスタートを切った。

 

 

 

王貞治は、ここからホームランを量産した。

この年(1962年)、開幕の4月~6月まで、9本塁打だった王貞治は、7月の1ヶ月だけで10本塁打を放つと、

「一本足打法」をデビューさせた7月1日からシーズン終了まで、王の後半の成績は、打率.282で29本塁打を記録し、

最終的には、王貞治はこの年(1962年)、打率.272 38本塁打 85打点で、初の本塁打王、打点王の「二冠」を獲得した。

遂に、王貞治「打撃開眼」し、スーパースターへの道を歩み始めたのである。

 

<1962(昭和37)年…野村克也、パ・リーグ記録を12年振りに更新する「シーズン44ホームラン(本塁打)」を達成!!~野村、シーズン最終戦で、山本重政(近鉄)から「44号」を放つ>

 

 

 

王貞治(巨人)が、「一本足打法」を習得し、初のホームラン(本塁打)王を獲得した1962(昭和37)年、

パ・リーグを代表する強打者に成長していた野村克也(南海)も、その実力を存分に発揮し、ホームランを量産した。

この年(1962年)、南海の鶴岡監督が、チームの不振の責任を取り、シーズン途中で「休養」するという一幕も有ったが、

うるさい上司が居なくなったお陰で(?)、野村は気持ち良くホームランを打ちまくった。

 

 

 

そして、野村克也は、シーズン最終戦を前にして、「43ホームラン(本塁打)」を放ち、

1950(昭和25)年に、別当薫(毎日)が打ち立てたパ・リーグ記録に肩を並べていたが、

シーズン最終戦、野村克也は、山本重政(近鉄)からホームランを放ち、1950(昭和25)年に、別当薫が記録した「シーズン52本塁打」のパ・リーグ記録を12年振りに更新する、「シーズン44ホームラン(本塁打)」を達成した。

最終戦で新記録を達成した野村克也は、流石といった所であるが、翌年(1963年)に、更に劇的なドラマが待っていた。

 

<1963(昭和38)年…スランプだった長嶋茂雄が復活し、王貞治・長嶋茂雄の「ON砲」が誕生!!~長嶋が首位打者・打点王の「二冠」、王が「2年連続本塁打王」を獲得>

 

 

 

1962(昭和37)年、長嶋茂雄はプロ入り以来最悪のスランプに陥り、

それまで3年連続首位打者を獲得していた長嶋は、同年(1962年)、打率.288 25本塁打 80打点という成績に終わり、プロ入り以来初めて「打率3割」を切り、無冠に終わってしまった。

しかし、翌1963(昭和38)年、長嶋茂雄の打棒は復活し、台頭著しい王貞治と共に、猛打を発揮した。

そして、王貞治・長嶋茂雄の強力コンビは「ON砲」と称されるようになった。

 

 

 

この年(1963年)の、「ON砲」の成績は、下記の通りである。

 

王貞治 打率.305 40本塁打(1位) 106打点

長嶋茂雄 打率.341(1位) 38本塁打 112打点(1位)

 

この結果、長嶋茂雄首位打者、打点王の「二冠」を、

王貞治「2年連続本塁打王」を、それぞれ獲得した。

以後、「ON砲」プロ野球史上最高の強打者コンビとして、球界に君臨して行く事となる。

 

<1963(昭和38)年…野村克也、シーズン最終戦で、またしても山本重政(近鉄)から、「52ホームラン(本塁打)」の「日本新記録」達成!!>

 

 

 

セ・リーグの巨人に、王貞治・長嶋茂雄「ON砲」が誕生した1963(昭和38)年、

パ・リーグの南海ホークスの不動の4番にして正捕手の野村克也は、前年(1962年)以上のペースで打ちまくった。

この年(1963年)のパ・リーグは「150試合制」で行われたが(※前年(1962年)のパ・リーグは、「130試合+引き分け再試合制」)、

その事も、野村にとっては有利に働き、野村は打ちまくった。

 

 

 

 

シーズン最終戦を前にして、野村克也は、前年(1962年)に自らが達成した、「シーズン44ホームラン(本塁打)」のパ・リーグ記録を既に更新し、野村は「シーズン51ホームラン(本塁打)」で、1950(昭和25)年の小鶴誠(松竹)が達成していた「日本記録」に並んでいた。

そして、南海のシーズン最終戦、大阪球場での南海-近鉄戦を迎えたが、この時の近鉄の投手は、山本重政である。

そう、前年(1962年)に、野村がシーズン最終戦で、パ・リーグ新の「44号ホームラン」を打った、因縁の相手であったが、この年(1963年)も、野村はまたしても土壇場で、山本重政と対決した。

そして、7回裏2死1、3塁、恐らく、シーズン最終打席となるであろう打席で、野村のボールカウントは0-3となったが、山本が投じた4球目、野村が強引に踏み込んで打つと、打球は左中間にライナーで飛び、低い弾道のまま、僅かにスタンドに届いた。

野村克也、シーズン最終戦で、「日本新記録」の「シーズン52ホームラン(本塁打)」達成!!

野村の劇的な一発に、ファンは大興奮し、試合後、野村は駆け寄ったファン達によって胴上げされた。

 

 

 

こうして、野村克也は、小鶴誠(松竹)が打ち立てた「シーズン51ホームラン(本塁打)」の記録を、シーズン最終戦の最終打席という土壇場で、13年振りに更新し、見事に「シーズン52ホームラン(本塁打)」の「日本新記録」を達成した。

「これで、この記録は、向こう10年は破られないだろう」

野村はニンマリしたが、この記録の「寿命」は、何とも短いものであった。

そう、野村の記録をすぐに脅かす、とんでもない「化け物」が、巨人に居たのである。

 

(つづく)