シリーズでお送りしている、「マスコットで振り返るプロ野球史」であるが、
今まで、「阪急・オリックス編」、「国鉄・ヤクルト編」、「巨人編」、「南海・ダイエー・ソフトバンク編」、「大洋・横浜・DeNA編」、「セネタース・東映・日拓・日本ハム編」、「広島編」と、連載が進行して来た。
という事で、今回お送りするのは、「大映・毎日・大毎・ロッテ編」である。
「大映・毎日・大毎・ロッテ編」をお送りするにあたり、まず、お伝えしておきたいのは、
この球団の歴史は、かなり複雑な経緯を辿っているという事である。
というわけで、まずは、この球団の源流である「毎日新聞」と「大映」が、どのように野球界と関わって来たのか、という所から、話を進めて行く事としたい。
<「大映スターズ系」、「毎日オリオンズ系」、「高橋ユニオンズ系」~3つの系列が有る、複雑怪奇な球団史>
さて、「マスコットで振り返るプロ野球史」の、「大映・毎日・大毎・ロッテ編」をお話するにあたり、
まず最初にお伝えしておきたいのは、この球団には、3つの異なる系列が有り、やがて、それらが1つに統合されたという事である。
その3つの系列とは、下記の通りである。
①「大映スターズ」系…ゴールドスター(1946)⇒金星スターズ(1947~1948)⇒大映スターズ(1949~1956)⇒大映ユニオンズ(1957)※高橋ユニオンズを吸収合併⇒大毎オリオンズ(1958~)※毎日オリオンズと合併
②「毎日オリオンズ」系…毎日オリオンズ(1950~1957)⇒大毎オリオンズ(1958~1963)※大映スターズと合併⇒東京オリオンズ(1964~1968)⇒ロッテオリオンズ(1969~1991)⇒千葉ロッテマリーンズ(1992~)
③「高橋ユニオンズ」系…高橋ユニオンズ(1954)⇒トンボユニオンズ(1955)⇒高橋ユニオンズ(1956)⇒大映ユニオンズ(1957)※大映スターズと吸収合併
というわけで、「この球団には、3つの系列が有り、それが1つにまとまって、今の千葉ロッテマリーンズに繋がっている」というポイントを、まずは抑えて頂きたい。
では、以下、この3つの系列の概要を、簡単にご紹介しておく。
<①「大映スターズ」系…ゴールドスター(1946)⇒金星スターズ(1947~1948)⇒大映スターズ(1949~1956)⇒大映ユニオンズ(1957)※高橋ユニオンズを吸収合併⇒大毎オリオンズ(1958~)~野球好きの映画人・永田雅一が作った球団>
「大映スターズ」系の球団史の流れは、上記でご紹介した通りであるが、
この球団の系列は、映画会社「大映」の創設者で、大の野球好きだった永田雅一によって作られたものである。
永田雅一の、大いなる道楽とも言えるが、やがて、毎日オリオンズとの合併後も、永田雅一が、この球団の実権を握り、
自前の球場まで作ってしまう事となるが、その経緯については、追い追いご紹介させて頂く事としたい。
<②「毎日オリオンズ」系…毎日オリオンズ(1950~1957)⇒大毎オリオンズ(1958~1963)※大映スターズと合併⇒東京オリオンズ(1964~1968)⇒ロッテオリオンズ(1969~1991)⇒千葉ロッテマリーンズ(1992~)~セ・パ両リーグ「分裂」の際に誕生した、パ・リーグの「盟主」>
「毎日オリオンズ」系は、1949(昭和24)年シーズンオフ、
それまで、1リーグ8球団制だったプロ野球に、新加盟の要望が殺到した時、
読売新聞が母体の巨人が主導したセントラル・リーグ(セ・リーグ)に対し、
毎日新聞が母体の新球団「毎日オリオンズ」が主導したパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が誕生した際に、
そのパ・リーグの盟主的存在として誕生した時に始まる。
その2リーグ「分裂」の経緯は、当ブログでも度々ご紹介しているが、ともかく、「毎日オリオンズ」参入を機に、プロ野球はセ・パ両リーグに分かれたのである。
以後、今日の「千葉ロッテマリーンズ」に至るまで、この球団の系譜は脈々と受け継がれている。
<③「高橋ユニオンズ」系…高橋ユニオンズ(1954)⇒トンボユニオンズ(1955)⇒高橋ユニオンズ(1956)⇒大映ユニオンズ(1957)※大映スターズと吸収合併~パ・リーグ8番目の球団として誕生するも、僅か3年で消えた「悲劇の球団」>
「高橋ユニオンズ」は、1954(昭和29)年に、大日本麦酒の創設者で、「ビール王」と称された高橋龍太郎がオーナーとなり、
パ・リーグ8番目の球団として誕生したが、その後、「トンボ鉛筆」の資金援助を仰ぐなど、苦しい球団経営が続き、
僅か3年で幕を閉じてしまった、「悲劇の球団」である。
「高橋ユニオンズ」は、1957(昭和32)年の開幕前に、大映スターズに吸収合併されてしまったが、「高橋ユニオンズ」は、事実上の「解散」だったという。
その経緯についても、ご紹介させて頂く事としたい。
<「毎日新聞」の歴史…「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」が合併し、大新聞「毎日新聞」が誕生>
さて、日本野球史に大きな影響を与えて来た「毎日新聞」の歴史について、まずは、簡単にご紹介しておく事とするが、
ご覧のように、元々、東京で創刊された「東京日日新聞」と、大阪で創刊された「大阪毎日新聞」という、2つの新聞が有り、
その2つの新聞が合併して誕生したのが、今日まで続く「毎日新聞」である。
当時、「大阪朝日新聞」と、「大阪毎日新聞」は、「二大紙」と称され、販路を競ってきたが、
「大阪朝日新聞」も「大阪毎日新聞」も、日清戦争(1894~1895)、日露戦争(1904~1905)を機に、部数を大きく伸ばした。
なお、1911(明治44)年に、「大阪毎日新聞」は「東京日日新聞」を買収し、東京と大阪で、それぞれ新聞を発行する「大新聞」となった。
(※「大阪毎日新聞」も「東京日日新聞」も、暫くは題号を変更しなかったが、1943(昭和18)年に「毎日新聞」に統一された)
<1911(明治44)年…「東京朝日新聞」の「野球害毒論」VS「東京日日新聞」の「野球擁護論」>
「大阪毎日新聞」のライバル、「大阪朝日新聞」には、その系列紙で「東京朝日新聞」という物が有ったが(後に「大阪朝日」、「東京朝日」は統合され「朝日新聞」に一本化)、その「東京朝日新聞」で、1911(明治44)年、突如、当時の一高(第一高等学校)校長の新渡戸稲造らによって、「野球害毒論」なる、大キャンペーンが張られた。
曰く、「野球は、青少年を堕落させる」というものであり、「野球は害悪である」という論陣が、延々と張られたのである。
これに対し、「東京日日新聞」紙上で、かつて早稲田のエースだった河野安通志は、
「野球害毒論」が、いかに無意味で、何の根拠も無いのか、という趣旨の「反論」を展開した。
つまり、「朝日」が野球叩きを行なったのに対し、「毎日」では野球を擁護したのである。
それにしても、何故、朝日新聞はあんなに野球を嫌ったのであろうか。
その理由は、よくわからない。
<1915(大正4)年…大阪朝日新聞、「第1回全国中等学校優勝野球大会」開催!!~「野球害毒論」の罪滅ぼし(?)で誕生した「夏の甲子園」の原型>
ところがである。
「東京朝日新聞」での「野球害毒論」キャンペーンにも関わらず、
当時の日本全国の野球人気は、一向に衰えを見せなかった。
そこで、「朝日」はアッサリと方向転換し、「野球害毒論」キャンペーンから僅か4年後、
1915(大正4)年、「大阪朝日新聞」主催で、「第1回全国中等学校優勝野球大会」を開催する事となった。
これが、今に続く「夏の甲子園」の原型であるが、「毎日新聞」にしてみれば、「おいおい、あの野球叩きキャンペーンは何だったんだよ!?」と言いたいところだったのではないか。
もしかしたら、これは、先年の「野球害毒論」の非を悟った「朝日新聞」による、罪滅ぼしだったのかもしれない。
それはともかく、大阪・豊中球場で開催された「第1回全国中等学校優勝野球大会」は、
当時の「大阪朝日新聞」社長、村山龍平の始球式によって始まると、以後、連日にわたって大熱戦が行われ、大盛況となった。
そして、激戦を勝ち抜いた京都二中(現・鳥羽高校)が、栄えある初代優勝校となったが、
この「第1回全国中等学校優勝野球大会」の大成功により、以後、野球人気は、ますます高まって行った。
<毎日新聞と野球①…1920(大正9)年、大阪毎日新聞社が「大毎野球団」結成!!~以後、1920(大正9)~1929(昭和4)年に、ノンプロの強豪として君臨し、「日本運動協会」~「宝塚運動協会」の好敵手に>
「朝日新聞」が、中等野球の全国大会を主催し、大成功を収めていた頃、
「朝日」のライバルの「大阪毎日新聞」も、「ここは、販路拡大のために、野球人気に乗っかろう」と決意した。
当時、日本の野球界では、学生野球が大人気だったが、学生選手が卒業した後の「受け皿」としての、実業団野球も盛んだった。
そこで、1920(大正9)年、「大阪毎日新聞」が創設したのが、「大毎野球団」である。
「大毎」とは、「大阪毎日」の略称であるが、後に、「大映」と「毎日」が合併した際に「大毎」を名乗ったのは、この「大毎野球団」を意識したものと思われる。
この「大毎野球団」は、学生野球界の有力選手を、次々に入団させ、
たちまち、日本を代表する強豪チームに、のし上がって行った。
なお、以前に阪急ブレーブスの歴史を描いた、当ブログでの記事でも書いたが、
日本初の職業野球チーム「日本運動協会」と、「大毎野球団」は、良きライバルとして、名勝負を繰り広げた間柄であった。
というわけで、「大毎野球団」で活躍した、主な選手は、下記の通りである。
(投手)
井川完、小野三千磨(慶応)、渡辺大陸(明治)、湯浅禎夫(明治)
(捕手)
森秀雄(慶応)、鈴木関太郎、天知俊一(明治)、三宅大輔 (慶応)
(一塁手)
腰本寿(慶応)
(二塁手)
横沢三郎(明治)、大門憲史、高浜茂(慶応)
(三塁手)
日下輝、内海深三郎(明治)
(遊撃手)
高須一雄(慶応)、桐原真二(慶応)、内海寛(明治)
(外野手)
新田恭一(慶応)、岡田源三郎(明治)、村上彦次、菅井栄治
ご覧のように、「大毎野球団」には、
慶応や明治で活躍したスター選手達が、次々に入団して行った。
なお、湯浅禎夫は、後に「毎日オリオンズ」の初代監督に就任しているので、
湯浅禎夫と「毎日」は、浅からぬ因縁が有ったという事である。
一方、「大毎野球団」の好敵手、「日本運動協会」は、
早稲田OBの河野安通志が結成した事もあり、早稲田OBの選手達が、数多く入団した。
「日本運動協会」VS「大毎野球団」は、このように、学生野球の人気選手達を、引き続き見られるという事で、ファンの人気を集めたのである。
なお、「大毎野球団」は、1925(大正14)年にはアメリカ遠征も敢行しているが、
この事を見ても、「大毎」が当時の日本の野球界を代表する存在だった事がわかる。
しかし、1929(昭和4)年で、「大毎野球団」は惜しくも解散してしまい、
好敵手を失った「宝塚運動協会」も、同年(1929年)に、「大毎」の後を追うように解散した。
<毎日新聞と野球②…1924(大正13)年、「大阪毎日新聞」が「第1回選抜中等学校野球大会」開催!!>
さてさて、朝日新聞が主催する「全国中等学校優勝野球大会」は、毎年、大盛況であり、
中等野球の人気は、ますます高まって行ったが、この夏の選手権大会は、地方大会から全国大会まで、
全て一発勝負のトーナメントであるため、実力が有りながらも、全国大会に辿り着けない有力校が、沢山有った。
そこで、そのような実力校を選抜し、夏の選手権とは別の大会を作ろうという事で、「大阪毎日新聞」が企画したのが、
1924(大正13)年の「第1回選抜中等学校野球大会」である。
こうして、1924(大正13)年に、名古屋・八事球場で開催された、「第1回選抜中等学校野球大会」は、
それまで、松山商の高い壁に阻まれ、なかなか夏の選手権に出場出来ていなかった、四国の強豪・高松商が、熱戦を勝ち抜き、第1回優勝校となった。
これが、今に続く「春のセンバツ」の源流であるが、以後、「春のセンバツ」の主催は毎日新聞、「夏の甲子園(選手権)」の主催は朝日新聞という棲み分けにより、この2つの大会は、今日まで続いている。
<毎日新聞と野球③…1927(昭和2)年、早稲田OBの橋戸信(頑鉄)により、毎日新聞の主催により「第1回都市対抗野球大会」開催!!>
「春のセンバツ」を主催し、大成功を収めた毎日新聞が、次に取り掛かったのが、
自らが持っている「大毎野球団」の成功により、当時、人気を高めていた実業団野球の興隆である。
当時、早慶戦と東京六大学野球が大人気だったが、それらの大学を卒業した選手達の行き先として、実業団野球が有った。
毎日新聞は、早稲田OBで、当時、毎日新聞の客員記者だった橋戸信(頑鉄)の発案により、
それらの実業団野球の全国大会として、「都市対抗野球大会」を創設する事となった。
そして、1927(昭和2)年に、毎日新聞の主催により「第1回都市対抗野球大会」が開催されたが、
「第1回都市対抗野球」は、「大連満州倶楽部」が初代優勝チームとなった。
以後、「都市対抗野球」は、社会人野球の全国大会として、今日まで続いている。
このように、毎日新聞は、様々な形で野球と関わっているが、総じて見れば、毎日新聞は「野球が大好きな新聞」と言って良いであろう。
<1946(昭和21)年…「ゴールドスター」が結成され、プロ野球に参入!!~戦前「朝日軍」に所属し、戦後「パシフィック」に入れなかった選手達を中心に結成された、新球団>
時は流れ、1945(昭和20)年8月15日、長かった戦争が終わり、翌1946(昭和21)年に、戦時中には休止されていたプロ野球が再開されたが、
プロ野球再開に際して、既存の6球団(巨人、阪神、中日、阪急、南海、パシフィック(旧・朝日軍))に加えて、
「セネタース」と「ゴールドスター」という、2つの新球団がプロ野球に加盟した。
「ゴールドスター」は、戦前の「朝日軍」に所属し、戦後、「朝日軍」から改称された「パシフィック(太平)」の再始動から漏れた選手達を中心に結成された、新球団であった。
その名の通り、「ゴールドスター」は野球界の一番星を目指したが、この年(1946年)、「ゴールドスター」は8球団中6位に終わっている。
<1947(昭和22)~1948(昭和23)年…「ゴールドスター」から改称し、「金星スターズ」と名乗る>
翌1947(昭和22)年、「ゴールドスター」は、今度は「金星スターズ」に改称し、
以後、1947(昭和22)~1948(昭和23)年の2年間は「金星スターズ」として活動した。
「金星スターズ」は、戦前、巨人の監督を務め、巨人の「第1期黄金時代」を築いた藤本定義監督が率いて、
これまた、戦前の巨人でエースだったスタルヒンも所属していたが、「金星スターズ」は、1947(昭和22)年は最下位、翌1948(昭和23)年は8球団中7位と、苦戦を続けた。
<永田雅一と野球①…映画界でのし上がった永田雅一、1942(昭和17)年に「大映」を創立~戦後、プロ野球への参入を狙い「大映球団」を創立するが…>
さて、毎日新聞が野球大好きな新聞なら、ここにもう1人、野球に取り憑かれた男が居る。
その名は、永田雅一(ながた・まさいち)である。
1906(明治39)年に生まれた永田雅一は、1925(大正14)年に日本活動写真(後の日活)の京都撮影所に入り、映画界に身を投じると、
持ち前の社交術で頭角を現し、1942(昭和17)年には、日活から独立して、新たな映画会社「大映」を創設した。
戦後、永田雅一は、1947(昭和22)年に「大映」の社長に就任し、名実共に「大映」のトップになったが、
永田雅一は、「大映」のステータスを高めようと、プロ野球への参入を考えるようになった。
そして、1947(昭和22)年末に、永田雅一は、新球団「大映球団」を結成したが、プロ野球への参入は断られてしまった。
そこで、永田雅一は、次善の策として、当時、既存のプロ野球に対抗して、1947(昭和22)年に結成されていた、
「国民野球連盟」(「国民リーグ」)に所属する、大塚アスレチックスを買収し、とりあえず、野球界への参入を果たした。
しかし、「国民リーグ」は資金難により、1年限りで解散してしまったため、永田の野球界への参入は、またしても「挫折」したかと思われた。
<永田雅一と野球②…1948(昭和23)年、「大映」が「東急フライヤーズ」と「合併」し、「急映フライヤーズ」誕生!!>
しかし、永田雅一は、逆境にあっても、諦めずに這い上がる男である。
1948(昭和23)年1月、永田雅一はGHQにより「公職追放」の憂き目に遭うが、同年(1948年)には追放解除され、
永田は、無事に「大映」の社長に復帰した。
そして、同年(1948年)、永田は「大映」と、既存の「東急フライヤーズ」を「合併」させ、プロ野球に無理矢理「参入」するという、「ウルトラC」を見せた。
「大映」と「東急」の合併により、この年(1948年)、同球団は「急映フライヤーズ」と名乗ったが、いやはや、永田雅一の野球に懸ける執念は、大したものである。
<永田雅一と野球③…「大映」が「金星スターズ」を買収!!~「大映スターズ」が誕生し、永田雅一が本格的に野球界に「デビュー」>
翌1949(昭和24)年、「大映」と「東急」は分離し、「フライヤーズ」は「東急」の単独経営に戻り、再び「東急フライヤーズ」となったが、
次に永田雅一が目を付けたのが、当時、経営難に陥っていた「金星スターズ」である。
永田の「大映」は、「金星スターズ」を買収し、球団名を「大映スターズ」と改称した。
こうして、永田は遂に「大映」の単独経営で、プロ野球に参入する事に成功し、永田は野球界へ本格的な「デビュー」を果たしたのである。
という事で、野球大好きな「毎日新聞」と「大映」が、その後、どうなって行くのかについては、また次回。
(つづく)













































