本日(2/26)は、日本史上に残る大事件が起こった日である。
言うまでもなく、2/26という日付を聞いて、多くの方が連想するであろう、
「二・二六事件」が発生した日である。
「二・二六事件」は、1936(昭和11)年2月26日に発生した、
日本陸軍の青年将校らが起こした、クーデター未遂事件であるが、
それから、ちょうど20年後の1956(昭和11)年に、後にサザンオールスターズで大スターとなる、桑田佳祐が誕生した。
というわけで、今回の記事は「二・二六事件」と、私が尊敬する桑田佳祐の誕生日にスポットを当て、書いてみる事としたい。
<「五・一五事件」(1932(昭和7)年)と「二・二六事件」(1936(昭和11)年)…「五・一五事件」と「二・二六事件」は全然違う!!>
「二・二六事件」というのは、今では何となく、「五・一五事件」とセットで語られる事が多いのではないだろうか。
どちらも、事件が発生した日付が冠せられており、軍部が絡んだ事件なので、似たような事件であるという印象を持たれる方も、多いかもしれない。
では、この2つの事件は、どちらが先に起きたのかといえば、
1932(昭和7)年に発生したのが「五・一五事件」であり、
1936(昭和11)年に起こったのが「二・二六事件」である。
つまり、「五・一五事件」の方が、「二・二六事件」よりも、4年も前に起こっている。
しかし、まず申し述べておきたいのは、「五・一五事件」と「二・二六事件」というのは、
名前は何となく似ているが、事件の性質は全然違うという事である。
「五・一五事件」というのは、海軍の青年将校が起こした、当時の犬養毅首相の暗殺事件の事を指すが、
「二・二六事件」は、陸軍の青年将校が引き起こした、大規模なクーデター未遂事件である。
つまり、この2つの事件は、規模が全く違う。
というわけで、「二・二六事件」発生の遠因となった「昭和恐慌」から、「二・二六事件」の顛末までを、以下、時系列で描いて行く事としたい。
<「昭和恐慌」…昭和初期の日本は大不況の時代…「世界恐慌」(1929年)が追い打ちかけ、日本経済はボロボロ~日本全国に失業者が溢れ、「欠食児童」「娘の身売り」が相次ぐ>
「昭和」という時代が実質的に幕を開けた1927(昭和2)年、日本は酷い経済状態にあった。
「昭和恐慌」と称された金融恐慌が発生し、銀行では取り付け騒ぎが起こり、大銀行がバタバタと倒産して行った。
1929(昭和4)年、アメリカのニューヨーク株式市場で、突如、株価が大暴落し、
遂に、世界中を巻き込んだ「世界恐慌」に発展してしまった。
「世界恐慌」の発生により、それまで繁栄を謳歌していたアメリカは一気に奈落の底に突き落とされ、
ピーク時には、何と1,300万人が失業してしまったという。
「世界恐慌」の影響は、既に「昭和恐慌」に苦しんでいた日本にも及び、
日本中に失業者が溢れ、農村は大凶作で「欠食児童」が続出し、
貧しい家の娘達の「身売り」が相次いだ。
昭和初期の日本経済は、このようにボロボロで、酷い有様であった。
<1929(昭和4)年…浜口雄幸首相&高橋是清蔵相のタッグで、「緊縮財政」「金解禁」を実施し、何とか不況を乗り切る>
そんな中、1929(昭和4)年に組閣された、立憲民政党の浜口雄幸内閣は、蔵相に高橋是清を起用したが、
浜口雄幸首相、高橋是清蔵相のタッグで、大胆な「緊縮財政」や、「金解禁」などの政策を、次々に実施した。
高橋是清は、「支払猶予措置(モラトリアム)」や、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に印刷した物を銀行に積み上げ、
それで預金者を安心させる、といった手を打ち、どうにか「昭和恐慌」を鎮静化させた。
このように、高橋是清というのは、蔵相として大変有能だったのだが、
高橋是清は、後に「二・二六事件」で悲劇的な運命を辿る事となる。
<1930(昭和5)年11月14日…浜口雄幸首相の狙撃事件を契機に、右翼や軍部によるテロ事件が相次いで起こる~閉塞した時代を「武力」で打破する空気が充満>
ところが、1930(昭和5)年11月14日、その浜口雄幸首相が、東京駅で狙撃されるというテロ事件が起こった。
この事件は、同年(1930年)4月に、浜口首相が調印したロンドン海軍軍縮条約を、
「弱腰だ」として、不満に思った右翼の人間が、「浜口は、けしからん」として、狙撃したものであった。
浜口首相は、この時は一命を取り留めたが、やがて程なくして首相を辞任に追い込まれた。
なお、浜口首相狙撃事件を契機に、
ご覧のように、右翼や軍部によるテロ事件が次々に発生したが、
これは、当時の日本には「閉塞した時代を、何とか打破したい」という空気が漂っており、
右翼や軍部が、「武力」で事態を打開しようとしたものであった。
この時代は、国会での言論だけではどうにもならないと、公然とテロが罷り通っていたのである。
<1931(昭和6)年…「産業立国」を目指して登場した、犬養毅首相>
1931(昭和6)年、立憲政友会の犬養毅が首相に就任した。
犬養毅首相は、「産業立国」を目指したが、これは日本で沢山の産業を興し、
日本経済を活性化させるという事を目指したものであった。
しかし、犬養首相が就任した頃には、軍部はすっかりデカイ顔をするようになっていた。
<1931(昭和6)年…「柳条湖事件」~「満州事変」、1932(昭和7)年…「満州国」建国⇒暴走し、既成事実を積み重ねる関東軍~政府は、追認せざるを得ない状況に>
1931(昭和6)年9月18日、中国の東北部に駐留する軍隊、所謂「関東軍」が、「柳条湖事件」を引き起こした。
これは、「南満州鉄道」が爆破されたという「事件」であるが、「関東軍」は「柳条湖事件」を口実として、一気に中国東北部を制圧した。
なお、「柳条湖事件」というのは、「関東軍」による自作自演だったというのが、定説になっている。
そして、「柳条湖事件」は「満州事変」へと拡大した。
その後、「関東軍」は物事を一気呵成に進めた。
1932(昭和7)年3月には、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を傀儡(操り人形)のトップとして担ぎ出し、「満州国」を建国してしまったのである。
これらは、全て「関東軍」が独断で行なった事であり、日本政府を全く無視して行なったのである。
犬養首相も、当初は「満州国」建国は認めていなかったが、最終的には追認せざるを得なかった。
そもそも、日本は不況を脱出するため、海外領土を獲得して、それを足掛かりにしたいという潜在的な欲求が有ったのだと思われる。
また、「満州」の権益というのは、かつて日本が日露戦争(1904~1905年)で、命懸けで得た物であり、
「満蒙(※満州、蒙古)は、日本の生命線」
という認識が、当時の軍部や、日本の人々の間にも有ったという。
というわけで、日本はあっという間に、「満州国」という傀儡国家を作り上げてしまった。
<1932(昭和7)年5月15日…「五・一五事件」により、犬養毅首相が海軍青年将校に暗殺!!~「政党政治」が終わり、ますます軍部が台頭~「五・一五事件」では、来日中のチャップリンが、危うく難を逃れる>
そんな中、遂に発生したのが、1932(昭和7)年5月15日の「五・一五事件」であった。
海軍青年将校は、突如、首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を暗殺してしまったのである。
なお、この時、海軍青年将校に銃口を向けられた犬養毅が、
彼らに対し「話せばわかる」と言ったところ、海軍青年将校が「問答無用」と言って、
躊躇なく、犬養を撃ち殺したという、有名な話が有る。
それは、言論による政治の時代が終わりを告げ、以後、日本は軍部が牛耳る国になった、という事を象徴していた。
事実、犬養首相の暗殺により、「政党政治」は終わり、以後、軍人が首相の座に就く時代がやって来た。
なお、実はこの時、「喜劇王」チャップリンが、ちょうど来日しており、
「五・一五事件」当日には、首相官邸に招かれていたという。
チャップリンは、すんでの所で難を逃れたが、チャップリンは「五・一五事件」に、一体、何を思ったであろうか。
<1933(昭和8)年…「リットン調査団」による「満州国」建国の否定を受け、松岡洋右が国際連盟を脱退!!~以後、日本は国際社会で孤立>
その後、国際連盟が派遣した「リットン調査団」は、日本の「満州国」建国について調査を行なったが、
「リットン調査団」は、「満州国建国は、無効である」との結論を下した。
すると、国際連盟の総会に出席していた、日本の全権・松岡洋右は、これを蹴っ飛ばし、
日本は、国際連盟から脱退してしまった。
この事について、当時の日本のメディアは「松岡、よくやった!!」という称賛の嵐だったが、
以後、日本はますます、国際社会から孤立して行った。
<日本陸軍の内紛…「皇道派」VS「統制派」~後の「二・二六事件」の遠因に>
さて、その頃、日本陸軍内部では、「皇道派」「統制派」という2つの派閥が有り、
「皇道派」「統制派」は、軍部での主導権を巡り、激しく争っていた。
「皇道派」のトップは、真崎甚三郎、荒木貞夫という陸軍大将であり、
「統制派」のトップが、東条英機、永田鉄山と言う陸軍少将である。
ちなみに、数の上でいえば「統制派」の方が優勢だった。
<1935(昭和10)年8月12日…「相沢事件」が発生!!~「皇道派」相沢三郎中佐が、「統制派」永田鉄山少将を惨殺⇒「二・二六事件」に繋がる事件>
1935(昭和10)年、「統制派」の永田鉄山らが、「皇道派」の真崎甚三郎、荒木貞夫らを、陸軍の要職から外そうとした事に腹を立て、
「皇道派」に属する相沢三郎中佐が、永田鉄山を斬殺するという「相沢事件」が起こった。
相沢三郎は、直ちに逮捕され、後に処刑されてしまったが、この「相沢事件」は、「二・二六事件」の、大きなキッカケとなった。
何故なら、「皇道派」「統制派」の対立が、いよいよ抜き差しならない所まで来てしまい、
「皇道派」の青年将校達が、軍部での主導権を握るべく、武力行使を起こす事を決意してしまったからである。
<「二・二六事件」の経緯①…1936(昭和11)年2月26日未明、大雪が降りしきる東京で、「二・二六事件」が発生!!~陸軍「皇道派」の青年将校達が決起し、東京都内を占拠!!>
1936(昭和11)年2月26日未明、大雪が降りしきる東京で、
陸軍「皇道派」の青年将校達は、遂に決起した。
彼らは、下士官達に矢継ぎ早に命令を下し、あっという間に、東京都内の各地を占拠した。
遂に「二・二六事件」が発生したのである。
彼らは、東京都内の要衝を次々に占拠して行ったが、
青年将校達は、事前に綿密に計画を練っており、計画は簡単に成功した。
東京は、呆気なく彼らに制圧されてしまった。
なお、下士官達には、詳細は全く知らされておらず、中には訓練だと思っていた者も居たようであるが、
「銃には実弾を込めろ」という命令が下されていたため、部隊内は「これは、只事ではない」という緊張感に包まれていた。
<「二・二六事件」の経緯②…陸軍大臣・川島義之、陸軍青年将校に迫られ、「君達の気持ちはわかる」と、消極的同意を与える>
陸軍青年将校達は、陸軍大臣・川島義之の元を訪れ、「決起趣意書」を読み上げたが、
川島は、彼らに気圧され、「君達の気持ちはわかる」と、消極的同意を与えてしまった。
これを、陸軍青年将校達は、「我々は、陸軍大臣のお墨付きを得た」と解釈したが、
川島としても、その場では、そう言うしか無かったのだと思われる。
<「二・二六事件」の経緯③…高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎ら、要人が次々に暗殺される~岡田啓介首相は、危うく難を逃れる>
「二・二六事件」の決起部隊は、内大臣・斎藤実、蔵相・高橋是清、教育総監・渡辺錠太郎らの要人を次々に襲撃した。
彼らは、決起部隊に直ちに射殺されてしまったが、岡田啓介首相も襲撃され、岡田啓介も射殺されたというニュースが流れた。
しかし、実際には岡田首相は殺されてはおらず、義弟の松尾伝蔵が身代わりとなり、射殺されていたのだった。
ともあれ、政府要人を次々に射殺した彼らの次なる狙いは、昭和天皇を担ぎ上げ、「昭和維新」を成し遂げる事にあった。
<「二・二六事件」の経緯④…「皇道派」青年将校の狙いは、昭和天皇を担ぎ上げ、「君側の奸」を除き、「昭和維新」を断行する事にあったが…?>
では、何故、「皇道派」の青年将校たちが、こんな行動を起こしたのかといえば、
彼らの目的は、昭和天皇を担ぎ上げ、「君側の奸」(※昭和天皇の側で、昭和天皇に取り入っている、悪い家臣)を除き、
一気に「世直し」をして、「昭和維新」を成し遂げる事にあったのである。
つまり、彼らは、事を起こせば「昭和天皇は、お褒め下さるだろう」と考えていたのである。
だが、実際は思わぬ展開になった。
<「二・二六事件」の経緯⑤…重臣を次々に殺された昭和天皇が大激怒!!~「朕、自らが逆賊を鎮圧する」と、断固として鎮圧を決意>
「二・二六事件」発生を受け、陸軍内部では急遽、対策会議が開かれた。
当初、決起部隊には同情的な意見も有ったが、「皇道派」のトップ、真崎甚三郎は、川島陸軍大臣に対し、
「事態収拾のため、戒厳令を敷くべきだ」と、述べたと言われる。
その後、川島陸軍大臣は、皇居に参内し、昭和天皇に事件を報告する一方、青年将校の「決起趣意書」を読み上げた。
ところが、昭和天皇は、重臣達を殺され、大激怒していた。
「最も信頼する重臣を殺傷するとは、真綿にて朕の首を絞めるのに等しい行為」
「朕、自らが逆賊を鎮圧する」
と、昭和天皇は、彼らを「逆賊」と断じて、断固、彼らを鎮圧するという決意を示した。
これには、川島陸軍大臣も「ハハーッ!!!!」と、恐れ入るしか無かった。
その後、昭和天皇の弟、秩父宮も参内したが、
昭和天皇の怒りは凄まじく、とても取りなせるような雰囲気ではなかった。
実は、秩父宮は青年将校には同情的だったのだが、大激怒する昭和天皇に対し、そんな言葉を口に出す事は無理であった。
こうして、昭和天皇の決意を受け、直ちに戒厳令が敷かれ、決起部隊は鎮圧される事が決まった。
<「二・二六事件」の経緯⑥…「戒厳令」が敷かれ、決起部隊は「逆賊」に~2月29日、事件発生4日目に決起部隊は投降し、「二・二六事件」は鎮圧>
その後の経緯は、ご覧の通りである。
昭和天皇による、断固たる決意を受け、直ちに「戒厳令」が敷かれると、
陸軍首脳は、海軍にも協力を仰ぎ、海軍の軍艦が東京湾から首都・東京に狙いを定めるという姿勢さえ見せた。
あわや、東京は内戦の一歩手前になったが、2月29日、事件から4日目にして、決起部隊は次々に投降した。
こうして、日本を震撼させた「二・二六事件」は、発生から4日目にして、完全に鎮圧されたのであった。
<「二・二六事件」後の日本…軍部の発言力が増し、戦争の道へとまっしぐらに進む>
こうして、すったもんだの末に「二・二六事件」は収束したが、
その後、日本は軍部の発言力が、ますます増大し、日本は戦争への道を、まっしぐらに進む事となった。
それについては、また別の話なので、またの機会に改めて述べる事としたい。
<「二・二六事件」の20年後…1956(昭和31)年2月26日、桑田佳祐が誕生!!>
時は流れ、「二・二六事件」から、ちょうど20年後の、1956(昭和31)年2月26日、
神奈川県茅ケ崎市で、1人の男の子が、生を受けた。
この男の子こそ、後にサザンオールスターズを結成し、日本の音楽界の大スターとなる、桑田佳祐(くわた・けいすけ)である。
というわけで、最後にオマケのような扱いになってしまったが、本日(2/26)は桑田佳祐の64歳の誕生日である。
桑田佳祐さん、誕生日おめでとうございます!!!!