私は、「ファミコン世代」の、ど真ん中である。
かつて、子供の頃に、私はファミコンに夢中になっていたが、
私の少年時代は、間違いなく、常にファミコンと共にあった。
という事で、今回は、かつて私が熱中したファミコンについて、
私が実際に楽しんだ、いくつかのファミコンソフトと共に、振り返ってみる事としたい。
まずは、「初期ファミコン編」をご覧頂こう。
<「ファミコン」以前の任天堂…任天堂は、「花札」や「かるた」を製造する会社だった!!~やがて、携帯型ゲーム機の製造にも乗り出す>
さて、あまりにも有名な話であるが、任天堂という会社は、元々、「花札」や「かるた」を製造する会社であった。
1889(明治32)年、初代・山内房治郎により、任天堂は花札製造会社として創業されたが、
ファミコンが誕生する以前は、任天堂といえば、「ああ、花札の会社ね」というイメージが一般的だったと思われる。
ちなみに、「花札」というのは、日本版のトランプのような物であるが、後年、任天堂はトランプも製造するようになった。
1949(昭和24)年、任天堂の創業者・山内房治郎の曾孫にあたる、山内溥(やまうち・ひろし)が、
任天堂に入社し、やがて山内は、通っていた早稲田大学を中退すると、家業の任天堂社長を継ぐ事となった。
以後、山内は任天堂創業以来の主力商品である「花札」だけではなく、
「誰もが、手軽に遊べるゲーム」を作る事を目指し、
「ゲーム&ウォッチ」など、様々な携帯用ゲーム機を開発して行った。
<1978(昭和53)~1979(昭和54)年…タイトーの「スペースインベーダー」(インベーダーゲーム)が空前の大ヒット!!>
ところで、日本のゲーム史を振り返る時、まず真っ先に挙げられる出来事といえば、「インベーダーゲーム」の大ブームであろう。
1978(昭和53)年、株式会社タイトーが開発した「スペースインベーダー」、所謂「インベーダーゲーム」が登場したが、登場するや否や、「インベーダーゲーム」は、日本中で空前の大ブームを巻き起こした。
「インベーダーゲーム」は、日本全国のゲームセンターや喫茶店などに設置されると、
忽ち、日本中の人達が「インベーダーゲーム」に夢中になった。
若者は勿論、小中学生までもが夢中になり、深夜遅くまでゲームに熱中する子供達が後を絶たず、社会問題になったりしたが、
まさに、「インベーダーゲーム」は社会現象となっていた。
<1980(昭和55)年…ナムコの「パックマン」が大ヒット!!~女性ユーザにもゲームの楽しさが認知される>
1979(昭和54)年夏、「インベーダーゲーム」のブームが頂点に達していた頃、
タイトーのライバルであるナムコでは、新たなゲームの構想が練られていた。
「インベーダーゲーム」は、ハイスコアを競うゲームであり、今でいう「ゲーマー」のような人達が、
ハイスコアの競争に熱中するようになると、それに付いて行けない人達も出て来た。
特に、女性客は、「インベーダーゲーム」のブームには、若干、引き気味であった。
そこで、「もっと、女性客でも気軽に楽しめるゲームを作ろう」という事で、
ナムコにより開発されたのが、『パックマン』である。
『パックマン』は、「インベーダーゲーム」よりも、もっとユルく、気軽に楽しめるように意識された、アーケードゲーム(※ゲームセンター用のゲーム)であるが、1980(昭和55)年に登場した『パックマン』は、ナムコの思惑通り、多くの女性ユーザに大人気となった。
そして、ナムコの思惑を超えて、『パックマン』は世界的な大ヒット作になり、以後、『パックマン』はナムコを象徴するキャラクターとなって行った。
<任天堂の「ファミコン」前夜…1980(昭和55)年「ゲーム&ウォッチ」と、1981(昭和56)年「ドンキーコング」が大ヒット!!~「ドンキーコング」で、マリオが初登場!!>
前述の通り、「花札」や「かるた」などを製造していた任天堂は、
社長の山内溥の方針により、ゲーム業界にも参入して行ったが、
1980(昭和55)年に、携帯型ゲーム機である「ゲーム&ウォッチ」を発売した。
これは、わざわざゲームセンターに行かなくても、誰もが何処でもすぐに遊べるような、画期的なゲーム機として、大ヒットした。
任天堂は、ゲームセンターでのアーケードゲームでも、ヒット作を生み出した。
それが、1981(昭和56)年に登場した、『ドンキーコング』である。
そして、『ドンキーコング』では、後に世界的に有名になった、あの「マリオ」も初登場している。
マリオが、ドンキーコングに攫われたピーチ姫を救出するというコンセプトは、
後に、空前の大ヒットとなる、ある作品にも受け継がれる事となるのである。
このように、1970年代後半~1980年代前半にかけて、
ゲームという物が、人々の身近な存在となって行ったが、
そんな土壌が作られた所で、満を持して登場したのが、任天堂により開発された、あの「ファミコン」だったのである。
<1983(昭和58)年…任天堂が、家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売!!~家庭用ゲーム機の「草分け」的存在に>
1983(昭和58)年、任天堂が「家庭用カセット式ビデオゲーム」として、あるゲーム機を発売した。
それが、大袈裟に言えば、世界のゲーム史の流れを変えたと言っても過言ではない、「ファミリーコンピュータ」である。
「ファミリーコンピュータ」は、「ファミコン」という略称で呼ばれたが、これは任天堂の山内溥社長による、
「誰もが手軽で遊べるゲームを作りたい」
という考え方を具現化したものであった。
ファミコンというのは、ファミコン本体(ハード)を買って、
それをコードでテレビに繋いで、ファミコンのソフトを、ファミコン本体にセットすれば、
すぐにゲームを始める事が出来るという、誰でも気軽に遊べるという手軽さが売り物であったが、
任天堂の狙いどおり、ファミコンは発売されるや否や、爆発的な売れ行きを示した。
こうして、ゲームは、わざわざゲームセンターに行かなくても、どの家庭でも気軽に楽しめるという時代が到来したのである。
<初期ファミコンのソフト…『ドンキーコング』、『マリオブラザーズ』、『ベースボール』、『テニス』、『ゴルフ』、『麻雀』etc…>
さて、1983(昭和58)年に、ファミコンが満を持して登場すると、
任天堂は、ファミコン発売と同時に、いくつかのファミコン用ソフトも発売した。
それが、ご覧の画像にある、『ドンキーコング』、『マリオブラザーズ』をはじめ、
『ベースボール』、『テニス』、『ゴルフ』、『麻雀』などのゲームであったが、
ファミコン本体は勿論、ソフトも同時に発売した事により、任天堂は巨額の利益を得た。
勿論、これらのゲームが、とても面白かったという事が、その要因であったのは間違いない。
1983(昭和58)年、ファミコン発売の際に、それまでゲームセンターでの人気ゲームだった『ドンキーコング』も、
ファミコン用ソフトとして発売されたが、以後、「ドンキーコング」シリーズは、大人気となって行った。
同年(1983年)、ファミコン用ソフトとして発売されたのが、『マリオブラザーズ』である。
『マリオブラザーズ』は、「ドンキーコング」でも登場する「マリオ」が、初めて主人公となったゲームであるが、
「マリオ」の弟である「ルイージ」も初登場している。
この『マリオブラザーズ』も大ヒットしたが、これは、あの空前の大ヒット作登場の序章であった。
<1985(昭和60)年…『スーパーマリオブラザーズ』が登場!!~「スーパーマリオ」は空前の大ヒットとなり、ファミコンが爆発的な人気を得る>
1985(昭和60)年、任天堂がファミコン用ソフトとして、『スーパーマリオブラザーズ』を発売した。
任天堂が生み出した、マリオとルイージが、クッパ大王に攫われたピーチ姫を助けるため、
様々な敵が登場するステージをクリアして行くという内容のゲームであるが、
『スーパーマリオブラザーズ』は、文句無しに、メチャクチャ面白いゲームである。
そして、『スーパーマリオブラザーズ』は、空前の大ヒット作となり、以後、ファミコンはますます、爆発的な人気を得るようになって行った。
<家に初めてファミコンが来た日…私の父が私にファミコンをプレゼント~初めて買ってもらったソフトは『スパルタンX』>
1985(昭和60)年、私は小学生だったが、前述の通り、当時はファミコンが大ブームとなっており、
小学校の同級生も、続々とファミコンを親に買ってもらい、ファミコンに熱中するようになっていた。
私の近所に住む、幼馴染みの家に遊びに行くと、彼もまた、ファミコンに夢中になっていた。
私は、そんなファミコンをやっている友達が、猛烈に羨ましくなり、
親に「ねえ、ファミコン買ってよ!!」と、毎日のように「おねだり」していた。
そして、ある日、私の父が遂に、私のためにファミコンを買って来てくれたのである。
勿論、私は飛び上がって喜んだというのは、言うまでもない。
そして、父がファミコンを買って来てくれた時、それと同時に買ってくれたソフトが、
忘れもしない『スパルタンX』であった。
『スパルタンX』は、主人公がカンフー技で敵を倒して行き、最上階で敵に捕らえられているヒロイン(シルビア)を助けに行く、という内容であったが、私は、毎日飽きもせず、ひたすら夢中で『スパルタンX』をやっていたものである。
ちなみに、『スパルタンX』は、1つのステージをクリアすると、どんどん上の階に上がって行くのだが、
上の階に行けば行くほど、どんどん敵が強くなって行くのである。
勿論、私はそんな敵を倒すために、日々、『スパルタンX』に没頭していた。
これが、紛れもなく、私の「ゲーム史」の始まりである。
<2番目に夢中になったファミコン用ソフト、「F1レース」…「スーパーマリオ」は品切れで、なかなか手に入らず>
私は、毎日、ひたすら『スパルタンX』をやっていたので、流石に飽きてしまったが、
すると私は、親にまたしても、「ねえ、別のソフト買って!!」と、ねだった。
私は、当時、大ヒットしていた「スーパーマリオブラザーズ」が欲しかったのだが、当時、「スーパーマリオ」は大ヒットしており、
品切れが続き、なかなか手に入らなかった。
そこで、父が買ってくれたのが、『F1レース』というゲームであったが、『F1レース』も、とても面白く、私は忽ち、『F1レース』にも夢中になった。
こうして、私は『スパルタンX』と『F1レース』を、交互に楽しむようになった。
<遂に「スーパーマリオブラザーズ」をゲット!!~毎日毎日、「スーパーマリオ」に明け暮れる日々>
そして、ある日、父は遂に『スーパーマリオブラザーズ』を手に入れ、私に買って来てくれた。
勿論、私は文字通り、狂喜乱舞し、直ちに「スーパーマリオ」を喜び勇んで、やり始めた。
以後、それこそ私は極端な話、学校に行っている間と、ご飯を食べる時と寝る時以外は、
ひたすら「スーパーマリオ」をやり続ける、というような状態になってしまった。
先程、述べた通り、「スーパーマリオブラザーズ」というのは、
クッパ大王に攫われたピーチ姫を救出するというのが目的のゲームである。
従って、ピーチ姫を助けるまでは、どうしても、やめるわけには行かないわけである。
というわけで、私は完全に「スーパーマリオ」の虜になってしまったが、
この時、私は子供心に、ゲームの面白さと、ゲームの持つ「中毒性」の凄まじさに気付いたのであった。
ゲームというのは、まさに麻薬のようなものであり、一度ハマると、自分の意思では、なかなかやめられるものではない。
やめようと思っても、気が付いたら、ゲームをやっているというのは、これは自分の神経が、ゲームによって麻痺しているようなものである。
これは、ゲームにハマった経験が有る方であれば、誰しもがわかるのではないだろうか。
<懐かしのファミコン用ソフト…任天堂以外のゲーム会社も続々と参入!!~「ファミコン黄金時代」が到来>
ファミコンが大ヒットすると、任天堂以外のゲーム会社も、次々にファミコン用ソフト市場に参入して来る事となった。
なお、ファミコンのハードは任天堂が独占していたが、ソフトに関しては、任天堂は他社の参入も歓迎した。
というより、ソフト開発は、任天堂1社では限界が有り、様々な会社が、多種多様なソフトを開発した方が、
結果として、ファミコン市場が活性化するという狙いも有ったのではないだろうか。
しかし、それもこれも、ファミコンのハードは任天堂が独占していたからこそであり、ファミコンをやるためには、
任天堂のファミコン本体を買うしかないため、任天堂はますます、大儲けして行った。
では、その頃(1985~1986年頃)のファミコンで、私が夢中になったゲームを、いくつかご紹介して行く事とする。
まずは、タイトーから発売された『エレベーターアクション』は、
主人公がエレベーターや階段で各階に移動し、敵を倒して行くというゲームであるが、その単純明快さ故に、妙に人気が有ったゲームで、
私も、一時は『エレベーターアクション』の面白さに、夢中になった。
映画『グーニーズ』とのコラボ作品として、ナムコからリリースされた『グーニーズ』も、かなり面白かった。
『グーニーズ』は、主人公の少年が、ギャングなどの敵と戦いながら、洞窟を探検して行くという内容であり、
映画『グーニーズ』と同様、当時の子供達を夢中にさせたゲームである。
私も、『グーニーズ』には、どハマリしていた。
また、当時、子供達に大人気だった藤子不二雄アニメとのコラボ作品として、ファミコンでの大ヒット作も生まれた。
その1つが、ハドソンから発売された『忍者ハットリくん』である。
忍者ハットリくんという、誰もが知っている主人公が、修行しながら強くなって行くという内容であり、とても面白いゲームであった。
すると、『忍者ハットリくん』に負けじと、
ファミコン開発の本家本元・任天堂は、国民的アニメ「ドラえもん」とコラボし、
ファミコン版の『ドラえもん』を発売したが、ファミコン版「ドラえもん」は、
映画版の『ドラえもん』のストーリーをなぞり、「開拓編」「魔境編」「海底編」の順にストーリーが進み、
ストーリーが進むごとに、どんどん難しくなって行く。
特に、「海底編」の不気味さ、恐ろしさなどは、未だに忘れる事が出来ない。
また、あまりの難しさに、多くの人が挫折したのが、カプコンの『魔界村』である。
史上最強の激ムズのゲームとして、未だに伝説的な存在となっている。
当時、「インディ・ジョーンズ」が大ブームになっていたが、
その「インディ・ジョーンズ」を彷彿とさせる主人公が、横スクロール画面で、
主に列車の上で敵と戦い、ヒロインを救出するという内容の『チャレンジャー』も、なかなか面白かった。
当時、異色のゲームとして大ヒットしていたのが、
何と、江戸時代の百姓を主人公として、お上の悪政・暴政に立ち上がり、
一揆を起こすという内容の『いっき』(サンソフト)である。
当時のゲーム業界は、とにかく発想が自由というか、創意工夫が有って、多種多様なゲームが生まれていたのだなと思わされる。
主人公が、あまりにも弱く、すぐに死んでしまうため、
「こんなゲーム、誰もクリア出来ない」と、当時のユーザーを嘆かせたのが、
「伝説のクソゲー」としてお馴染み(?)の『スペランカー』(アイレム)であるが、
「スペランカー」は、すぐに怪我をする、ひ弱なスポーツ選手の代名詞になるなど、未だに伝説として語り継がれるようなゲームだった。
激ムズといえば、『迷宮組曲』(ハドソン)は、当時、小学生にとっては、あまりにも難しい内容だったが、
その難しさ故に、小学生達の挑戦者精神を掻き立て、私も『迷宮組曲』には夢中になった。
というわけで、初期ファミコンは、有能なクリエイター達が、次々に名作・問題作を作り出した事により、ますます繁栄して行ったのである。
まさに「ファミコン黄金時代」の到来であった。
<1986(昭和61)年…『ドラゴンクエスト』と『ファミスタ』が登場!!~RPGと、野球ゲームの金字塔>
1986(昭和61)年には、ある意味、私の人生にも大きな影響を与えた、2つの重要なファミコン用ソフトも発売された。
それが、エニックスから発売された、『ドラゴンクエスト』(ドラクエ)であり、
ナムコから発売された、『ファミリースタジアム』(ファミスタ)である。
「ドラクエ」はRPG(ロールプレイングゲーム)の金字塔であり、「ファミスタ」は野球ゲームの記念碑的作品であるが、
これらについては、あまりにも語るべき事が多く、とても短い言葉では語り尽くせない。
というわけで、その話は、また次回。
(つづく)