1988/10/23…阪急ブレーブス最後の日⑫ ~英傑・小林一三の生涯(1957.中編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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1957(昭和32)年、小林一三(こばやし・いちぞう)が遂にこの世を去った。

阪急電鉄、宝塚歌劇団、東宝などを生み出した小林一三は、

あまりにも偉大な人物であり、その「偉業は、いくら語っても語り尽くせるものではない。

 

 

「阪急ブレーブス球団史」でも、小林一三の生涯については、

これまで色々と描いて来たが、改めて、小林一三の偉大なる生涯に敬意を表し、

小林一三の生涯について、振り返ってみる事としたい。

 

<1957(昭和32)年1月25日…小林一三、享年84歳でこの世を去る~「宝塚音楽学校」生徒達による「音楽葬」が行われる>

 

 

1957(昭和32)年1月25日、小林一三が亡くなった。享年84歳の事であった。

偉大なる大実業家・小林一三の死去は、まさに「一時代の終わり」を意味するものであり、

多くの人達が、小林一三の死を悼んだ。

 

 

 

 

小林一三が亡くなった後、彼が創り、育て上げた「宝塚音楽学校」の生徒達により、

小林一三のために、盛大な「音楽葬」が執り行われたが、それはまさに、エンタメ産業にも巨大な足跡を残した、

小林一三の葬儀に相応しいものだったと言って良い。

彼なくして、「宝塚」はこの世に無く、もしも、小林一三という存在が無ければ、日本の娯楽産業も、随分と違ったものになっていたのではないだろうか。

 

<小林一三の生涯(1)…阪急、宝塚、東宝を生み出した男>

 

 

 

小林一三の残した業績を端的に一言で表すと、

「阪急、宝塚、東宝を生み出した男」という言葉に集約される。

小林一三は、阪急電鉄、「宝塚歌劇団」、映画の「東宝」という、巨大な阪急グループを、僅か一代で築き上げた。

いずれも、今日もなお、日本という国で巨大な存在であり、それだけでも、彼の偉大さがわかろうというものである。

 

<小林一三の生涯(2)…甲府のお金持ちのボンボンとして生まれ、慶應義塾で学び、文学を志した文学青年>

 

 

 

小林一三(こばやし・いちぞう)は、1873(明治6)年1月3日、甲州(現・山梨県甲府市)で、

お金持ちのボンボンとして生まれた。

一三の実家は大金持ちであり、一三はお金の苦労とは全く無縁の、裕福な家で育った。

 

 

やがて、一三は福澤諭吉の慶應義塾に入り、慶應義塾で学んだが、

その頃の一三といえば、文学に熱中し、文学で身を立てる事を志した、文学青年であった。

生来、一三は感受性豊かな性質であり、その事が、後に彼をして、ただの実業家ではなく、

娯楽産業という分野でも、大成功を収める下地が有ったと思われる。

 

<小林一三の生涯(3)…三井銀行に就職し、銀行員として経済のイロハを学ぶ~8歳年下の芸妓・丹羽コウと結婚~恩師・岩下清周との出会い>

 

 

 

1892(明治25)年、慶應義塾を卒業した一三は、三井銀行東京本店に就職した。

その頃の一三は、まだ文学青年の気分が抜けておらず、本来は新聞社への就職を志望していたが、

それが叶わなかったため、渋々、三井銀行へ就職したのであった。

その頃、一三は仕事の合間を縫っては小説を書くなど、銀行員としての仕事には全く身が入っていなかった。

 

 

当時、三井銀行では、東京本店に勤務する者も、ある一定期間は地方に配属される決まりが有った。

そこで、一三は三井銀行への就職を斡旋してくれた恩人であり、当時、三井銀行の大阪支店長を務めていた高橋義雄に頼み込み、

一三は、大阪支店へと赴任する事となった。

そして、一三は新たな赴任先の大阪で、生涯を左右する出会いを果たす事となった。

それが、後に妻となる女性と、自らの実業家としての生涯を開いてくれた恩師との出会いであった。

 

 

一三は、大阪支店に赴任後、実家から仕送りされてくるお金を使って、花柳界に出入りして、よく遊んでいたが、

そこで、8歳年下の芸妓である、丹羽コウと出会った。

一三は、コウと親しくなり、紆余曲折は有ったものの(※一三は、あわや重婚かというような大事件を起こし、新聞沙汰になった)、

1900(明治33)年、一三は当時27歳、コウは19歳で、結婚した。

 

 

その後、一三とコウの夫妻は、3男2女の子宝に恵まれ、

結局、一三とコウの夫妻は、生涯、添い遂げる事となった。

後に、2人の間に生まれた子供達は、一三が築き上げた「大阪急」を立派に継承、発展させて行く事となるが、

そういう意味でも、一三とコウは、まさに「運命の出会い」であった。

 

 

もう1人、一三の生涯に決定的な影響を与えた人物といえば、

三井銀行大阪支店に支店長として赴任して来た、岩下清周である。

一三は、岩下清周に目をかけられ、厳しく鍛えられたが、ここで漸く、一三は経済のイロハを学び、

後に経済人として大成功するための基礎を築く事が出来た。

そして、後に一三は、岩下清周にとても大きな恩義を受ける事となった。

 

<小林一三の生涯(4)…1907(明治40)年、小林一三、三井銀行を退職し、鉄道会社設立の発起人に~岩下清周に、大半の株式を買ってもらい、失敗すれば大借金の大バクチを打つ>

 

 

 

1907(明治40)年、一三は長年勤めていた三井銀行を退職した。

その頃、岩下清周は既に三井銀行を退職しており、北浜銀行を設立していた。

一三は彼に付いて行く形で、三井銀行を辞めたのであるが、その頃、北浜銀行では取り付け騒ぎが起こり、大変な事になってしまった。

その後、何とか取り付け騒ぎも収まり、一三は改めて、岩下から、ある仕事を任された。

それが、当時、北浜銀行が出資し、計画倒れ寸前の、鉄道会社設立の事業を任せるというものであった。

 

 

一三は、それまで、銀行員として、極力リスクを避けるような生き方をしていた。

しかし、この時、一三は清水の舞台から飛び降りるつもりで、この仕事を引き受けた。

そして、債権者達に頭を下げ、鉄道事業継続の了解を取り付け、資金集めにも奔走したが、

結局、大半の株式を、岩下に買ってもらう形となった。

岩下には、「私の夢は、日本を一等国にする事だ。そして、その陰に岩下有りと言わしめる事だ」という信念が有り、

多くのベンチャー企業に出資して来ていたが、この時も、岩下は一三を見込んで、彼に出資したのである。

この時、一三には成功への確たる見通しは無く、「失敗すれば大借金」というリスクを背負っての、大バクチに出たのであった。

 

<小林一三の生涯(5)…1910(明治43)年3月10日、小林一三、箕面有馬電気鉄道(後の阪急電鉄)を創立!!~沿線開発し、「住宅ローン」の家賃収入を電鉄の収入と結び付けるという、画期的なアイディア>

 

 

しかし、結果として見れば、一三の「大バクチ」は大成功した。

1910(明治43)年、小林一三は梅田-宝塚間に箕面有馬電気鉄道(後の阪急電鉄)を創設したが、

ここに至るまでには、それまで誰も思い付かなかった、一三による、ある独創的なアイディアが有ったのである。

 

 

 

それまで、計画倒れ寸前だった、この路線の沿線は、原野が広がるばかりで、全く何も無かった。

しかし、「だからこそ、ここに無限の可能性が有る」と、一三は思い付いた。

即ち、電車の路線の沿線の土地を、一三は二束三文の安いお金で、全て買い取り、

買い取った土地に、新たに沢山の住宅を建て、住宅地を作った。

そして、「住宅のお金を月賦払いで払ってもらう」という、所謂「住宅ローン」形式を、日本で初めて実施した。

これにより、阪急電鉄は、鉄道による収入は勿論、定期的に家賃収入も入って来る事となる。

こうして、「私鉄の路線と、その沿線の土地を一緒に開発し、その収入を得る」という、

後に、多くの私鉄会社が模倣したビジネスモデルを、一三は創造したのである。

この時、一三は「最も有望なる電車」というパンフレットを自ら書き、宣伝に努めたが、ここで一三の文才が発揮された形となった。

 

<小林一三の生涯(6)…1911(明治44)年宝塚の地に「宝塚新温泉」を創設~「宝塚ファミリーランド」として発展>

 

 

 

 

箕面有馬電気鉄道が開設された当初、始発の大阪・梅田駅は賑わっていたが、

鉄道の終点、宝塚駅は、当時、温泉は有ったが、他には何も無い場所だった。

そのままでは、宝塚の地は寂れるばかりであり、お客さんも来ない。

そこで一三は一計を案じ、1911(明治44)年、家族で楽しめる一大レジャーランド「宝塚新温泉」をオープンさせた。

そして、「宝塚新温泉」は、日本初のテーマパークと言っても良い、観光名所として発展して行った。

 

 

 

 

その後、「宝塚新温泉」は、「宝塚ファミリーランド」として発展し、

大正~昭和~平成という時代の長きにわたり、多くの人達を楽しませた。

「宝塚新温泉」時代から、「宝塚歌劇団」の本拠地である「宝塚大劇場」と隣接し、

まさに、「宝塚」王国の本拠地として、一三が作った「夢の国」は、繁栄を続けて行った。

 

 

 

 

 

しかし、残念ながら時代と共に客足は減少し、

2003(平成15)年4月7日をもって、「宝塚ファミリーランド」は、その歴史に幕を閉じた。

今は、「宝塚ファミリーランド」は、この世には無いが、一三が種を蒔いた、テーマパークという概念は、

今や日本でも花盛りであるというのは、皆様、ご存知の通りである。

 

<小林一三の生涯(7)…1914(大正3)年、「三越少年音楽隊」に対抗し、「宝塚少女歌劇団」設立!!~100年以上続く「宝塚」の歴史の始まり>

 

 

一三は、宝塚の地に、「客寄せ」のための目玉として、「宝塚新温泉」の他に、もう一つ、新たな呼び物を考えていた。

当時、東京では「三越少年音楽隊」が人気を集めていたが、一三は、「三越少年音楽隊」に対抗するため、あるアイディアを実行に移した。

 

 

 

 

 

それが、少女達による、少女達だけの歌劇団、「宝塚少女歌劇団」である。

1913(大正2)年7月15日、まずは「宝塚唱歌隊」の第1期生の16名が採用され、

後に「宝塚少女歌劇養成会」に改称された後、

翌1914(大正3)年4月1日、「宝塚少女歌劇団」は、宝塚新温泉パラダイスの室内プール跡地を改造した部隊で、

第1回公演『ドンブラコ』と、歌遊び『浮れ達磨』などを上演した。

「宝塚少女歌劇団」の第1回公演は大成功に終わり、以後、一三が掲げる「清く正しく美しく」をモットーとした「宝塚」は、大人気となって行った。

 

 

 

 

その後の、「宝塚」の活躍については、「阪急ブレーブス球団史」で詳しく書いているので、

ここでは繰り返さないが、一三は「宝塚音楽学校」を創立し、その卒業生が「宝塚歌劇団」に入団し、活躍するというシステムを確立された。

「宝塚」は、戦前から積極的に海外公演を行なうなど、積極的に人気拡大に努めた。

 

 

 

 

その後も「宝塚」は時代と共に、数多くのスター達を輩出し、

2014(平成26)年、「宝塚歌劇団」は、遂に創立100周年を迎えた。

小林一三は、「宝塚を作った男」として、今日もなお、「宝塚」ファンからの敬愛を集めているが、

「宝塚」がここまで発展したという事について、きっと一三も天国で喜んでいるに違いない。

 

<小林一三の生涯(8)…梅田駅と「阪急百貨店」を直結させた、日本初のターミナルビルを作る!!~「阪急電鉄」の乗降客を、そのまま「阪急百貨店」に取り込む>

 

 

 

 

1929(昭和4)年、一三は「阪急電鉄」の始発駅、大阪・梅田駅に、

そのまま「阪急百貨店」を直結させるという、日本初のターミナルビルを作った。

これにより、「阪急電鉄」の乗降客が、そのまま「阪急百貨店」に買い物に行けるようになったが、

この手法もまた、後に多くの私鉄会社に模倣された、優れたビジネスモデルである。

これは、電車の乗降客が、そのまま買い物出来たら便利であろうという、一三の「お客さん目線」が生み出したものであり、

これこそ、大衆心理を知り尽くした、一三ならではのアイディアだと言って良い。

 

<小林一三の生涯(9)…「東京宝塚劇場」⇒映画会社「東宝」の創立~東京・日比谷を、一大エンタテインメントの街に!!>

 

 

 

 

1932(昭和7)年、一三は「宝塚」の東京進出を敢行し、

「宝塚」の東京進出の足掛かりとして、「東京宝塚劇場」を設立した。

これにより、「宝塚」は、発祥の地である宝塚の枠を超え、全国区へ飛躍するための足場を得た。

 

 

1937(昭和7)年、一三は映画事業にも乗り出し、「東京宝塚劇場」の略称という意味である「東宝映画」を設立した。

一三は、「東宝映画」を設立すると、次に、東京・日比谷の地に、「東宝」の大帝国を築き上げるための手を打った。

株式会社東京宝塚劇場は、東京・日比谷地区に日比谷映画(1934(昭和9)年2月)、東宝小劇場(1934(昭和9)年2月)、有楽座(1935(昭和10)年6月)を次々に開業すると、

隣接する有楽町・丸の内地区の日本劇場、帝国劇場をも傘下に加え、あっという間にエンタテインメントの街を作り上げた。

一三は、これを「丸の内アミューズメントセンター構想」、或いは「有楽町アミューズメントセンター構想」と名付けた。

 

 

戦時中、一三は近衛文麿内閣の商工大臣を務めていた事もあり、戦後、一三は公職追放処分を受けていたが、

1951(昭和26)年、公職追放が解けた一三は、改めて「東宝」社長に就任すると、吉本興業と提携した江東楽天地を開発、

1952(昭和27)年には、東京・浅草にも進出し、浅草楽天地も開設し、東京の下町にも「東宝」の拠点を築いた。

 

 

 

昭和30年代、日本の映画産業の全盛期には、日比谷・有楽町界隈には、

日比谷映画、有楽座、スカラ座、千代田劇場、みゆき座という映画館5館と、

東京宝塚劇場、芸術座、日生劇場、東宝演芸場という4つの実演劇場が立ち並んでいた(※その後、再開発により、日生劇場を除き、現在は新たな東京宝塚劇場、シアタークリエに再編成されている)。

これらは、全て一三が作り上げたり、傘下に収めたものであるが、一三は東京にも、見事に「東宝」帝国を築き上げたという事になる。

特に、「日劇」は東京における「東宝」隆盛の象徴的存在であった。

 

 

 

 

1981(昭和56)年、「日劇」は建物の老朽化に伴い、取り壊される事となり、

「日劇」の閉館、解体に伴い、「サヨナラ日劇フェスティバル」が行われた。

 

 

 

1984(昭和59)年、取り壊された旧「日劇」に代わり、

東京・有楽町の地に、新たに「有楽町マリオン」がオープンし、新「日劇」として生まれ変わった。

その後、「東宝」は2003(平成15)年に「TOHOシネマズ」を設立し、日本全国にシネコンを展開したが、

「有楽町マリオン」にも、「TOHOシネマズ日劇」が入った。

 

 

 

 

しかし、その「TOHOシネマズ日劇」も、「東京ミッドタウン日比谷」の再開発に伴い、

2018(平成30)年、惜しまれつつ閉館し、遂に、「日劇」は85年という長い歴史に幕を閉じた。

しかし、これだけ長い間、「日劇」の名が残り続けたというのは、本当に素晴らしい事である。

 

 

 

その後、「東京ミッドタウン日比谷」の再開発が成り、

日比谷の地には、新たに「TOHOシネマズ日比谷」がオープンされた。

というわけで、小林一三が作り上げた映画の街は、現在もなお息づいているのである。

 

<小林一三の生涯(10)…阪急ブレーブスを創立~現・オリックスバファローズまで命脈を保つ>

 

 

 

 

1936(昭和11)年、一三は阪急職業野球団を創立し、以後、阪急ブレーブスは形を変えながら、

今日(2019年現在)もなお、オリックスバファローズとして、命脈を保っているが、

詳しくは、今後とも「阪急ブレーブス球団史」をご覧頂きたい。

 

<小林一三の生涯(11)…「阪急」VS「阪神」の宿命の対決~2006(平成18)年には遂に「阪急」が「阪神」を傘下に>

 

 

小林一三が設立した「阪急電鉄」は、「阪神電鉄」よりも後発であり、

「阪急電鉄」と「阪神電鉄」は、営業区間も重なっていたため、2社は激しいライバル関係にあった。

一三の生前も、何度となく、「阪急」と「阪神」の合併話は有ったようであるが、その都度、話は立ち消えになっていた。

その一因として、それぞれ別々の球団を持っていたから、という事も有ったかもしれない。

なお、一三の恩師・岩下清周が斡旋役となり、一三が岩下からその話を持ち掛けられた時、「阪神が、阪急の傘下に入るというなら、考えても良いです。何故なら、阪急は偉大な岩下さんのお陰で出来た会社だからです。阪急こそが、上に立つべきです」と言って、岩下を感激させたという。

 

 

 

 

しかし、一三の没後から約半世紀を経た2006(平成18)年、「阪急」と「阪神」は遂に経営統合され、

超巨大な「阪急阪神ホールディングス」が誕生し、「阪急」は「阪神」を傘下に収めた。

つまり、今の「阪神タイガース」は、実は「阪急」グループの一員という事になる。

この頃、阪急は1988(昭和63)年限りで球団経営からは既に撤退していたので、この合併話もすんなりまとまったという事であろうか。

 

<小林一三の生涯(12)…松岡修造にまで連なる、華麗なる一族>

 

 

 

 

小林一三は、妻・コウとの間に、3男2女の子宝に恵まれたが、

一三の子供達は、それぞれ立派に、一三が築き上げた「阪急」「東宝」を継承して行った。

長男・冨佐雄は東宝社長を継ぎ、一三が亡くなったのと同年(1957年)に富佐雄は亡くなったが、

次男の辰郎が松岡家の養子となり、松岡辰郎として、東宝社長の座を継いだ。

 

 

 

 

その松岡辰郎の孫にあたるのが、あの松岡修造であり、

修造の娘・松岡恵が、「宝塚音楽学校」に入学したというのは、既に別の記事で述べた通りである。

そして、一三の次女・春子は、鳥居吉太郎に嫁ぎ、その息子・鳥居信一郎は、サントリーを創業した。

全く、素晴らしい家系であり、「華麗なる一族」という言葉は、この一族のために有るようなものである。

 

<小林一三の生涯(13)…日本に偉大なる足跡を残した英傑>

 

 

 

というわけで、英傑・小林一三の生涯を改めて振り返ってみたが、

彼ほど、沢山の物を日本に残してくれた経営者は、なかなか居ないのではあるまいか。

今もなお、小林一三の影響は大きく、そして、これからも、その影響は残って行くに違いない。

私は、小林一三という人物を大変尊敬しており、改めて、小林一三に敬意を表して、この記事を書かせて頂いた次第である。

 

(つづく)