1949(昭和24)年11月26日、プロ野球が2リーグに「分裂」し、
それと同時に、セントラル・リーグ(セ・リーグ)とパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が旗揚げされた。
プロ野球の2リーグ制の時代が、遂に幕を開けたのである。
そして、プロ野球は2リーグ「分裂」と同時に、凄まじい「引き抜き合戦」の様相を呈した。
当時のプロ野球には統一契約書が存在せず、まさに札束で選手を買い漁るが如く、
無法地帯のような、メチャクチャな状態になってしまった。
それはまさに、「仁義なき戦い」と呼ぶしかないような状態であった。
というわけで、前回は2リーグ「分裂」に伴う、凄まじい「仁義なき戦い」のセ・リーグ編をお伝えしたが、
引き続き、今回は「仁義なき戦い」のパ・リーグ編をお伝えする事としたい。
パ・リーグの各球団も、選手を獲ったり獲られたりの、凄まじい「選手の分捕り合戦」の渦の中に巻き込まれる事となったが、
「その時、歴史が動いた」とも言うべき、激動の時期を、ご覧頂くとしよう。
<阪急ブレーブス(阪急)編…2リーグ「分裂」の煽りを受け、選手が大量に流出…新人獲得に活路を見出す>
阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)は、2リーグ「分裂」に際して、大量の選手が他球団に引き抜かれ、
セ・リーグの阪神タイガース同様、大量流出により、チームがガタガタになってしまった。
2リーグ「分裂」で、阪急はかなりの痛手を受けたというのは確かであった。
(OUT)平井正明(⇒西日本)、武智修(⇒広島)、内藤幸三(⇒広島)、岩本章(⇒広島)、小前博文(⇒広島)、宮崎剛(⇒大洋)、今西錬太郎(⇒大洋)、荒木茂(⇒大洋)、日比野武(⇒西日本)、永利勇吉(⇒西日本)、楠協郎(⇒西鉄)
(新人)山下健(高松商高)、新居一仁(丸亀一高)、野々村寛(菊水高)、藤井道夫(常盤産業)、柴田英治(多治見工高)、一言多十(元急映、新田建設)
阪神が、毎日オリオンズに「狙い撃ち」され、選手をゴッソリ引き抜かれたのに対し、
阪急は、各球団に満遍なく、選手が「流出」しているのが特徴である。
しかし、主力がゴッソリ抜けて、大幅に戦力が低下したという意味では、阪神も阪急も似たり寄ったりであった。
中でも、阪急としては、エース格の今西錬太郎、捕手の日比野武というバッテリーが抜けたのは、かなりの痛手だったと言えよう。
そして、阪急は移籍市場においては、選手を獲得する事が出来ず、専ら選手を引き抜かれる側に終始してしまった。
そのかわりと言っては何だが、阪急は新人選手の獲得に、活路を見出した。
阪急は、高松商で強打の捕手として名を馳せた山下健や、抜群のコントロールが武器の柴田英治、
そして、プロ野球史上でも稀に見る珍名選手で、かつて(1948年)急映にも在籍した事が有る一言多十らを入団させた。
言わば、阪急は2リーグ「分裂」と同時に、一からチームを建て直すような状況となったが、
図らずも新旧交代が為された事により、阪急はフレッシュな顔ぶれで、パ・リーグという海に漕ぎ出す事となったのであった。
<南海ホークス(南海)編…かつて(1948年オフ)「別所引き抜き事件」の大嵐に見舞われた南海、この年(1949年)オフも、エースと俊足コンビが流出するも、有望新人を獲得>
2リーグ「分裂」騒動の前年、1948(昭和23)年のシーズンオフに、
南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)は大エース・別所昭を巨人に引き抜かれるという、「別所引き抜き事件」の大嵐に見舞われた。
それまで、エース・別所の大活躍で、1946(昭和21)年、1948(昭和23)年に優勝していた南海は、
別所が抜けた穴を埋められず、結局、1949(昭和24)年の南海は8球団中4位に終わってしまった。
(OUT)武末悉昌(⇒西鉄)、河西俊雄(⇒阪神)、安井亀和(⇒大洋)、岩本信一(⇒大洋)、中津正三(⇒大洋)
(新人)蔭山和夫(早稲田)、田中達夫(下川商事)
1949(昭和24)年のシーズンオフも、南海は主力選手の流出に見舞われた。
南海のエース・武末悉昌は西鉄クリッパーズに移籍したが、前年(1948年)の別所に引き続く、エースの流出となってしまった。
また、かつて(1946~1947年)、南海は河西俊雄-安井亀和-田川豊という、1~3番打者の俊足トリオを売りとしていたが、
田川豊が1948(昭和23)年に大陽ロビンスに移籍したのに続き、この年(1949年)のオフ、河西俊雄が阪神、安井亀和が大洋に移籍し、
南海が誇る「俊足トリオ」は、完全に解体されてしまった。
そのかわり、南海は早稲田大学から、大型新人・蔭山和夫を入団させた。
蔭山和夫は、以後、南海ホークスの「百万ドルの内野陣」の要として大活躍する事となるが、
南海も、転んでもタダでは起きず、着々とチーム再建の手は打っていたと言って良い。
<東急フライヤーズ(東急)編…大量流出でチームの屋台骨はガタガタになるも、白木義一郎、大下弘の投打の柱は辛うじて残留~あの蔦文也がプロ入り!!>
東急フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)も、2リーグ「分裂」により、主力選手が大量に流出してしまい、
チームの屋台骨はガタガタになってしまった。
東急フライヤーズは、球団存続の危機と言って良い状況だったが、
セネタース以来の生え抜きで、投打の柱である白木義一郎、大下弘の両名は東急に残留し、
東急は、辛うじて投打の柱の繋ぎ止めに成功した。
(OUT)吉江英四郎(⇒巨人)、片山博(⇒大洋)、長持栄吉(⇒大洋)、大沢清(⇒大洋)、森弘太郎(⇒西日本)、清原初男(⇒西日本)、塚本博睦(⇒西日本)、北川桂太郎(⇒西鉄)、櫟信平(⇒阪神)、黒尾重明(⇒近鉄)
(新人)寺川昭二(志太高)、伊藤万喜三(浜松北高)、樽井清一(明治)、保井浩一(京都大丸)、斎藤宏(全桐生)、桑名重治(茨城県庁)、塩瀬盛道(國學院大学)、蔦文也(全徳島)
前述の通り、東急は、長持栄吉、大沢清、森弘太郎、清原初男、塚本博睦、黒尾重明らの主力が、
各球団に一斉に「流出」してしまい、チームは一気に危機的な状況に陥った。
しかし、白木義一郎、大下弘という投打の二枚看板が、何とかフライヤーズを「崩壊」の危機から救っていた。
その分、東急もまた、新人獲得に一縷の望みを託した。
高卒新人の寺川昭二、明治大学出身の樽井清一、後に東映フライヤーズの監督も務めた保井浩一などが、
この年(1950年)、東急でプロ入りを果たした。
そんな中、この年(1950年)、東急でプロ入りを果たした変わりダネといえば、
後に、池田高校野球部を率いて、「さわやかイレブン」「やまびこ打線」などで、甲子園で一時代を築いた蔦文也が、1950(昭和25)年の1年限りではあるが、東急フライヤーズに在籍し、プロ野球選手として過ごしていた事は、特筆に値する。
蔦文也が、実はプロ野球選手だったというのは、あまり知られていないのではないだろうか。
そして、もう一人、プロ野球史に名を残した選手といえば、
この年(1950年)、國學院大学から東急入りした新人投手・塩瀬盛道である。
塩瀬盛道は、1950(昭和25)年5月11日、東急-大映戦でプロ初登板を果たすと、
何と、プロ初打席で初ホームランを放つという、鮮烈なデビューを飾った。
しかし、塩瀬のプロでの試合出場は、後にも先にもその時のみであり、
塩瀬は「1打数1安打1本塁打、長打率40割」という打撃成績を残し、プロ野球を去った。
プロ野球で唯一の打席でホームランというのは、塩瀬ただ一人の記録だったが、
その後、1991(平成3)年にシュルジー(オリックス)が史上2人目となった。
<大映スターズ(大映)編…松竹ロビンスに、大量に選手を引き抜かれる~「大映」VS「松竹」の「仁義なき戦い」!!>
大映スターズは、この年(1949年)にプロ野球加盟を果たしたばかりの新球団であるが、
同年(1949年)シーズンオフに、早くもプロ野球は2リーグ「分裂」騒動が勃発し、
大映スターズも、「激震」に見舞われてしまった。
(OUT)三村勲(⇒松竹)、小鶴誠(⇒松竹)、大岡虎雄(⇒松竹)、金山次郎(⇒松竹)、綱島新八(⇒松竹)、高野裕良(⇒大洋)、野口正明(⇒西鉄)、河村章(⇒西鉄)
1949(昭和24)年、プロ野球に参入した大映スターズは、
中日の球団代表を務めていた赤嶺昌志が、大量の選手を道連れに中日を退団したという「赤嶺旋風」の選手達の受け皿として、
その「赤嶺旋風」の選手達を大量に入団させた。
それが、三村勲、小鶴誠、金山次郎らであるが、彼らは大映には1年在籍しただけで、
この年(1949年)のオフ、今度は大映を大量に退団し、揃ってゴッソリと松竹ロビンスに移籍してしまった。
その時、裏で暗躍していたのは、またしても赤嶺昌志であり、「赤嶺旋風」は、またしても球界を引っ掻き回したのであった。
なお、「赤嶺旋風」とは無関係だが、この年(1949年)に大映に入団し、37歳でプロ入りを果たした大岡虎雄も、大映を退団し、松竹に移籍してしまった。
大映は、松竹に大量に選手を引き抜かれ、チームがガタガタになってしまったが、
大映に残ったスタルヒン、林義一、飯島滋弥、そして「赤嶺旋風」で中日から大映に移籍し、この時は大映に残った加藤正二らを中心として、
一からチーム建て直しを図ったが、結成されたばかりの大映もまた、大変な目に遭ってしまったのであった。
<毎日オリオンズ(毎日)編…2リーグ「分裂」騒動の主役にして、阪神からの主力選手大量引き抜き&「別府星野組」の選手達を中核として陣容を整えた新球団~毎日オリオンズは、ヒール(悪役)扱いに>
さて、2リーグ「分裂」騒動というのは、そもそも毎日新聞のプロ野球参入を巡って、
既存のプロ野球8球団が賛成派・反対派に分かれて、大喧嘩してしまったというのがキッカケであった。
そして、すったもんだの末に、新球団・毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)はプロ野球参入を果たしたが、
プロ野球に参入して早々、毎日オリオンズはまたしても、大騒動を巻き起こした。
まず、毎日オリオンズは、ノンプロの強豪「別府星野組」の主力選手達を、
ほぼそのまま、大量に入団させ、毎日オリオンズは「別府星野組」の選手達を、チームの中核とした。
その中には、「別府星野組」の選手兼監督を務めた西本幸雄や、「火の玉投手」と称された荒巻淳などが含まれていた。
(IN)土井垣武(⇐阪神)、若林忠志(⇐阪神)、別当薫(⇐阪神)、呉昌征(⇐阪神)、大舘勲夫(⇐阪神)、本堂保次(⇐阪神)
(OUT)今久留主淳(⇒西鉄)、小田野柏(⇒西鉄)、苅田久徳(⇒近鉄)
(新人)荒巻淳(別府星野組)、西本幸雄(別府星野組)、今久留主功(別府星野組)、今久留主淳(別府星野組 ※シーズン中に西鉄に移籍)、白川一(別府星野組)、佐藤平七(函館太洋クラブ)、片岡博国(函館太洋クラブ)、野村武史(元セネタース、大洋漁業)、苅田久徳(元セネタース、東急 ※シーズン中に近鉄に移籍)、戸倉勝城(大洋漁業)、河内卓司(大洋漁業)、三宅宅三(全岡山)、伊藤庄七(愛知産業)、小田野柏(元阪急、常盤炭鉱 ※シーズン中に西鉄に移籍)、長島進(元金鯱、豊岡物産)、榎原好(篠崎倉庫)、上野重雄(門司鉄道局)、奥田元(古沢建設)、山根俊英(鐘渕化学)、東口清美(別府星野組)
再三、述べて来た通り、毎日オリオンズは「別府星野組」の選手達を大量に入団させた一方、
阪神タイガースから、若林忠志、土井垣武、別当薫らの主力選手をゴッソリ引き抜いてしまった。
そのため、阪神タイガースの屋台骨はガタガタになり、毎日は阪神ファンの恨みを買う事となってしまった。
毎日オリオンズは、プロ野球に新加入して早々、すっかりヒール(悪役)になってしまった観が有った。
毎日は、豊富な資金力が有り、前述の阪神からの大量引き抜きの他、
「別府星野組」の大エース・荒巻淳や、大洋漁業の戸倉勝城(当時36歳)、珍名選手の三宅宅三など、
沢山の新人選手を入団させ、あらゆる手を尽くして、チームの陣容を整えて行った。
何と言われようと、毎日は、プロ野球に参入するからには、絶対に強いチームを作るという意気込みが有ったようである。
しかし、この年(1950年)に毎日に入団したばかりの苅田久徳ら、数人の選手達がシーズン中に他球団に移籍してしまうなど、
毎日オリオンズは、まだまだ落ち着かない状態が続いた。
そういう意味でも、やはり毎日オリオンズこそ、2リーグ「分裂」という、激動の時代の象徴だったと言って良いであろう。
<西鉄クリッパーズ(西鉄)編…パ・リーグに加盟した、福岡を本拠地とする新球団~移籍組と、ノンプロ「西日本鉄道」を中心に、新戦力を大量にかき集める!!~翌1951(昭和26)年には西日本パイレーツを吸収合併し、「西鉄ライオンズ」に>
「西鉄」は、実は1943(昭和18年)の1年間のみ、当時の「大洋」(※戦後の「大洋ホエールズ」とは無関係)を買収して、プロ野球に参入していたが、その時は、僅か1年で球団は解散されてしまった。
戦後、プロ野球が再開され、2リーグ「分裂」の際に、「西鉄」は改めてプロ野球に加盟したが、この時は、戦前(1943年)の「西鉄」とは無関係という形で、改めて、新規参入という形で、パ・リーグに加盟した。
そして、「西鉄」は、九州・福岡を本拠地として、「西鉄クリッパーズ」(現・埼玉西武ライオンズ)を球団名としたが、同じ福岡には、セ・リーグの「西日本パイレーツ」も居たので、言わば、福岡の地に「西鉄」と「西日本」が同居する事となった。
(IN)武末悉昌(⇐南海)、川崎徳次(⇐巨人)、木下勇(⇐大陽)、木暮力三(⇐大陽)、野口正明(⇐大映)、河村章(⇐大映)、楠協郎(⇐阪急)、長谷川善三(⇐阪神)、今久留主淳(⇐毎日)、小田野柏(⇐毎日)
(新人)上野義秋(元金鯱、西日本鉄道)、宮崎要(西日本鉄道)、新留国良(別府星野組)、深見安博(西日本鉄道)、大崎憲司(西日本鉄道)、鬼頭政一(西日本鉄道)、伴勇資(西日本鉄道)、千頭久米夫(コロムビア)、前田登志雄(杵島炭鉱)、塚本悦郎(西日本鉄道)、原田晃(杵島炭鉱)、笠石徳五郎(元中日、八幡製鉄)、八浪知行(熊本工高)、大津守(西日本鉄道)、河野昭修(西日本鉄道)
西鉄クリッパーズは、巨人の川崎徳次、南海の武末悉昌という、他球団のエース格の投手の獲得に成功し、
更に、シーズン中にも今久留主淳、小田野柏といった、毎日オリオンズの選手を移籍させるなど、
西鉄は、実に意欲的に新球団としての陣容を整えて行った。
ちなみに、川崎徳次を巨人から「譲ってもらった」形になった西鉄は、新聞広告で、巨人への感謝の言葉を掲載した、というエピソードが残っている。
なお、1948(昭和23)年、ノンプロの「西日本鉄道」は、都市対抗野球に初出場すると、快進撃を見せ、
あれよあれよという間に決勝に進出した「西日本鉄道」は、決勝で「別府星野組」を破り、
見事、「西日本鉄道」は、都市対抗野球に初出場初優勝を達成したが、
この時の、「西日本鉄道」の主力である、宮崎要、深見安博、鬼頭政一、河野昭修らが、西鉄のプロ野球参入に伴い、大量にプロ入りを果たしている。
なお、翌1951(昭和26)年、「西鉄クリッパーズ」は「西日本パイレーツ」を吸収し、
新たに「西鉄ライオンズ」に改称したが、新生「西鉄ライオンズ」の監督には、巨人を追われた三原脩が就任している。
三原脩が、西鉄ライオンズを強豪球団に育て上げ、「打倒・巨人」を果たすのは、もう少し先の話である。
<近鉄パールズ(近鉄)編…法政野球部の藤田省三監督と、その愛弟子たちを中心にチームを編成した、新球団~法政野球部とは切っても切り離せない!?近鉄の歴史の始まり>
パ・リーグの新加盟球団の1つ、近鉄パールズは、関西の大資本・近畿日本鉄道が親会社であるが、
近畿日本鉄道は、1946(昭和21)年に、1年だけ南海と「合併」し、「近畿グレートリング」となっていたが、
その後、この年(1950年)に、近鉄の単独経営で、「近鉄パールズ」として、改めて球界参入を果たした。
(IN)苅田久徳(⇐毎日)、黒尾重明(⇐東急)、田川豊(⇐大陽)、森下重好(⇐大陽)、山本静雄(⇐中日)、芳村嵓夫(⇐中日)
(新人)関根潤三(法政)、宍戸善次郎(法政)、室川光男(法政)、宝山省二(明治)、五井孝蔵(立教)、加藤春雄(大日本土木)、加藤政一(鐘紡高砂)、島方金則(小口工作所)、山下譲(函館太洋クラブ)、服部力(函館太洋クラブ)、沢藤光郎(盛岡鉄道局)、田中文雄(大日本土木)、青池良正(全神戸)
近鉄パールズの初代監督は、日大三中⇒法政大学で、名監督として名を馳せていた、藤田省三であった。
藤田省三は、法政野球部OBの苅田久徳を、シーズン中に毎日から移籍させ、これまた法政OBの田川豊も大陽からの移籍で獲得した。
また、近鉄は東急のエース・黒尾重明の獲得にも成功した。
しかし、藤田省三の真骨頂といえば、何と言っても、自らの人脈をフルに活かした、新人選手の獲得にあった。
藤田省三は、まず、日大三中⇒法政を通した愛弟子、関根潤三を近鉄に入団させ、更に法政の宍戸善次、室川光男も一緒に入団させると、明治OBの加藤春雄、立教OBの五井孝蔵など、東京六大学の出身者を大量に入団させた。
これは、藤田省三ならではの芸当だったと言って良いであろう。







































































