1988/10/23…阪急ブレーブス最後の日⑤~阪急ブレーブスと戦後復興(1945~1949) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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1945(昭和20)年8月15日、長かった太平洋戦争が、遂に終わった。

その日、昭和天皇「玉音放送」により、日本国民は、日本が戦争に敗れ、

長く苦しかった戦争の日々が終わった事を知った。

 

 

そして、「戦後」という新しい時代が始まり、日本は再出発したのであるが、

1947(昭和22)年、阪急球団は「ブレーブス」という愛称を名乗り、

以後、「阪急ブレーブス」という球団名で活動するようになった。

という事で、今回は「阪急ブレーブス」と、小林一三と阪急・宝塚・東宝の戦後復興期について、描いてみる事としたい。

 

<1945(昭和20)年8月15日…日本が連合国の「ポツダム宣言」を受諾し、無条件降伏~昭和天皇の「玉音放送」により、日本国民に「終戦」が知らされる>

 

 

1945(昭和20)年、日本の「太平洋戦争」における戦況は著しく悪化し、

米軍が沖縄に上陸して行われた沖縄戦や、東京大空襲を皮切りとする、日本中への空襲、

そして広島と長崎への原爆投下などで、日本は壊滅的な打撃を受けた。

もはや、戦争継続は不可能となり、昭和天皇は終戦を決断した。

そして、日本は連合国による「ポツダム宣言」を受諾し、無条件降伏した。

1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇は「玉音放送」で、広く日本国民に、「終戦」を知らせた。

こうして、甚大な犠牲を払った挙句、日本中が焼け野原となった状態で、漸く戦争は終わったのであった。

 

<宝塚で少年期を過ごした、当時17歳の手塚治虫、戦争を辛うじて生き延びる>

 

 

 

手塚治虫(本名・治)は、1928(昭和3)年11月3日、大阪府に生まれたが、

1933(昭和5)年、彼が5歳の時に、手塚家は宝塚の地に転居した。

そこで、手塚治虫少年は、宝塚歌劇団の華やかなステージに夢中になったが、

自分の身近に「宝塚」が有ったという事は、後に漫画家としてデビューする彼に、大きな影響を与えた。

 

 

 

 

やがて、戦争が激化し、当時10代だった手塚治虫も、否応なく、悲惨な戦争を体験した。

街に、容赦なく米軍による爆弾が降り注ぎ、多くの人達が亡くなり、街は無残に破壊されて行った。

手塚治虫は、「この世の地獄を見た」と、後にその様子を描いている。

 

 

 

1945(昭和20)年、手塚治虫が17歳の時、漸く、長く苦しかった戦争の日々が終わった。

手塚治虫は、戦争で生き延びた喜びを実感したが、恐らく、この時、戦争を生き延びた人達も、

彼と同じような感慨を持っていたに違いない。

 

<1945(昭和20)年…いち早く、「阪急電鉄」を復活させた、小林一三~阪急、焼け野原からの再出発>

 

 

 

日本中が、米軍の空襲により焼け野原となったが、大阪や神戸も、例外ではなかった。

大阪や神戸の街は、ご覧の通りの惨状で、街が全て破壊し尽くされ、一面、焼け野原という状態であった。

しかし、そんな中でも、阪急三宮駅は、奇跡的に空襲の被害を免れた(※後に、1995(平成7)年の阪神大震災で崩壊)。

 

 

その何も無い状態から、戦争を生き延びた人達は、生き延びるために立ち上がった。

焼け跡には、簡素な建物であるバラックが立ち並び、戦後すぐ、闇市と呼ばれるマーケットが出現した。

そこは、公的には認められていない店が並んでいたが、人々が生き抜くためには必要不可欠の存在だった。

 

 

 

そんな中、小林一三は、戦争が終わって間もなく、「阪急電鉄」の営業を再開した。

「こんな時だからこそ、電車を走らせ、人々のために役立てなければならない」

と、一三は考え、まだ焼け跡だらけの街で、「阪急電鉄」は再び走り始めたのであった。

 

 

 

また、小林一三は、戦前から阪急百貨店の食堂で流行っていた、

「ご飯にソースをかけるだけ」という、簡単なレシピ(?)の「ソースライス」を、

戦後、食べ物にも事欠く人々に安く提供し、それが爆発的な大ヒットとなった。

これこそ、困っている人々を助け、そして自分達も商売として潤うという、

小林一三お得意の、まさにWin-Winの関係であった。

 

<1945(昭和20年)11月23日…神宮球場で開催された東西対抗戦で、プロ野球が復活!!~12月1~2日には西宮球場でも開催>

 

 

戦争が終わると、間もなく、野球復活の機運が高まった。

元々、日本人は野球が好きな国民ではあったが、戦後、日本に進駐したGHQが、野球を奨励した事もあり、

戦時中は白眼視されていた野球界に、追い風が吹いた。

そして、戦争を生き延びた選手達が、次々に帰って来るに及び、戦争が終わって僅か3ヶ月後、

1945(昭和20)年11月23日、空襲の被害を免れ、無事だった神宮球場で、プロ野球の東西対抗戦が開催される事となった。

 

 

1945(昭和20)年11月23日のプロ野球東西対抗戦は、東軍が13-9で西軍に勝ったが、

ともかく、プロ野球は復活の狼煙を上げる事が出来た。

この事は、日本人がいかに野球が好きで、人々が皆、野球に飢えていたのかを如実に表す出来事だったと言って良い。

 

 

 

1945(昭和20)年の内に、東西対抗戦は、計4試合が開催されたが、その結果は下記の通りである。

第3戦と第4戦は、神宮球場と同じく、戦災を免れていた西宮球場で開催された。

 

1945.11.23 東軍〇13-9●西軍(神宮球場)

1945.11.24 東軍●9-14〇西軍(群馬・新川球場)

1945.12.1 東軍●6-9〇西軍(西宮球場) ※大下弘(セネタース)が戦後初ホームラン

1945.12.2 東軍〇4-0●西軍(西宮球場)

 

まだ食力も充分に無い時代だったが、各試合とも観客が押し寄せ、大観衆の中、試合が行われた。

この東西対抗戦で、それまでは無名だった、1人の新人選手がデビューしたが、

その新人選手こそ、明治大学出身の大下弘(セネタース)であった。

大下弘は、4試合で15打数8安打12打点と大活躍し、第3戦では、戦後初となる柵越えのホームランを放った。

ボールを高く上げ、高々と舞い上がった打球がスタンドに入る、大下弘の打撃は、戦前のプロ野球には無かったものであり、

それまでとは全く居なかったタイプの新人・大下弘の登場は、まさに衝撃的であった。

 

<1946(昭和21)年4月27日…戦後初のプロ野球のリーグ戦開幕!!~戦後のプロ野球は8球団制でスタート~1946(昭和21)年、大下弘(セネタース)が「驚天動地」の20本塁打を放ち、阪急は、戦後初のリーグ戦で4位>

 

 

こうして、復活を遂げたプロ野球は、翌1946(昭和21)年~、本格的にリーグ戦を再開させる事となった。

戦後のプロ野球は、戦前から参加している6球団(巨人、阪神、中日、阪急、南海、パシフィック)に加え、セネタース(※戦前の東京セネタースとは無関係)、ゴールドスターという、新加盟の2球団を加え、計8球団で再スタートした。

 

 

1946(昭和21)年4月27日、戦後初のプロ野球のリーグ戦が開幕した。

当時、東京では後楽園球場と神宮球場、関西では西宮球場と甲子園球場が、戦災を免れ、無事だったが、

その内、神宮球場と甲子園球場は、GHQに接収されてしまったため、プロ野球は、主に後楽園と西宮を中心に開催された(※その他は、全国の地方球場をドサ回りした)。

 

 

 

この1946(昭和21)年のリーグ戦で、最も話題を集めたのが、前年(1945年)の東西対抗戦でデビューしていた大下弘(セネタース)であった。

大下弘は、戦前のプロ野球の1シーズン最多ホームランが10本だったのに対し、何と、その倍の20本塁打を放ち、その「驚天動地」の大活躍で、人々の度肝を抜いた。

大下弘の大活躍により、プロ野球の人気は沸騰したが、戦後の青空に高く舞い上がる、大下弘のホームランは、人々の希望の星となっていた。

 

 

一方、阪急は比較的、陣容を整えるのが早く、戦後スムーズにチーム再スタートする事が出来たが、

1946(昭和21)年の戦後初のリーグ戦で優勝したのは、近畿グレートリング(※南海軍が改称)であった。

阪急は、優勝した近畿に14ゲーム差を付けられ、51勝52敗2分の4位に終わった。

 

<戦後、阪急に移籍入団した大物選手①…「鉄腕」「投打二刀流」の野口二郎~1946(昭和21)年、野口二郎は31試合連続安打の日本記録を達成!!~「野口4兄弟」の長兄・野口明も阪急に在籍>

 

 

 

さて、戦後の阪急は、積極的に有力選手を集めたが、中でも、2人の投打の大物選手の加入が注目された。

1人は、戦前にセネタース⇒大洋などで活躍した、野口二郎投手である。

野口二郎は、明・二郎・昇・渉という、いずれもプロ野球に入った「野口4兄弟」の次男でるが、

中京商からセネタースに入団したプロ1年目の1939(昭和14)年、野口二郎は、新人でいきなり33勝19敗 防御率2.04という大活躍を見せた。

以後、1940(昭和15)年には33勝11敗、1941(昭和16)~1943(昭和18)年には、大洋・西鉄で25勝12敗、40勝17敗、25勝12敗と、

5年間で通算156勝71敗という、物凄い成績を挙げていた。

 

 

 

1942(昭和17)年5月24日、後楽園球場で行われた大洋-名古屋戦で、

野口二郎(大洋)、西沢道夫(名古屋)の両投手は、延長28回を共に完投し、4-4で引き分けるという、物凄い投げ合いを繰り広げた。

この「延長28回」というのは、勿論、未だに破られていない「世界記録」として、今日まで残っているが、

野口二郎をはじめ、「野口4兄弟」の活躍は、2017(平成29)年、『1942年のプレイボール』として、NHKでドラマ化された。

 

 

 

そんな野口二郎が、1946(昭和21)年、阪急に移籍した。

野口二郎は、阪急では「投打二刀流」として活躍し、同年(1946年)は投手としては13勝14敗、

打者としては、同年(1946年)8月29日~10月26日にかけて、31試合連続安打という大記録を達成した。

その間、野口二郎31試合で131打数48安打で、二塁打3本、三塁打3本 本塁打0本、15打点、打率.368という成績を残し、

同じ期間内で、投手として13試合に登板、5勝5敗の成績、うち7試合に先発し3完投、12奪三振、自責点12で防御率は2.60という数字を残した。

 

 

一方、「野口4兄弟」の長兄・野口明は、捕手として1936(昭和11)~1937(昭和12)年に東京セネタースに在籍した後、兵役に就いたが、

その後、野球界に復帰し、1942(昭和17)~1943(昭和18)年には大洋・西鉄で、弟・野口二郎とバッテリーを組んだ。

その後、野口明は1944(昭和19)年に阪急に移籍していたが、戦後も1948(昭和23)年まで阪急に在籍し、その間、またしても弟の二郎とバッテリーを組んだ(※その後、中日に移籍)。

という事で、野口兄弟の活躍は、阪急球団史上、忘れ難きものであった。

 

<戦後、阪急に移籍入団した大物選手②…「ジャジャ馬」青田昇、戦前は巨人に入団し、戦後は阪急で球界復帰>

 

 

もう一人、戦後に阪急に入団した大物選手といえば、「ジャジャ馬」の異名を取る、青田昇である。

青田昇は、戦前の1942(昭和17)年、滝川中から巨人に入団し、

同年(1942年)、規定打席不足ながらも、新人で打率.355と大活躍した。

そして、1943(昭和18)年限りで巨人を退団し、兵役に就いていた。

 

 

戦後、青田昇は野球界に復帰したが、戦前に青田昇が在籍していた巨人は、受け入れ態勢が整っていなかった。

そこで、青田昇は1946(昭和21)年、阪急に入団し、阪急で球界復帰を果たした。

以後、青田昇は1946(昭和21)~1947(昭和22)年の2年間、阪急で野口二郎との投打の二枚看板として活躍した。

 

<1947(昭和22)年…!!阪急球団、「阪急ブレーブス」と改称!!~当初の「ベアーズ」から「ブレーブス」へと改称し、「勇者たち」の時代がスタート!!>

 

 

 

1947(昭和22)年は、阪急球団にとって、特筆すべき年である。

この年(1947)年、阪急球団は、「ブレーブス」という愛称を名乗り、以後、球団名を「阪急ブレーブス」とした。

当初、1947(昭和22)年4月頃までは、一時「ベアーズ」というチーム名を名乗ったが、

「勇者たち」という意味を持つ「ブレーブス」という球団名を採用したのである。

こうして、「勇者たち」の時代が始まったのであった。

 

<戦後期の阪急ブレーブスを支えた名選手たち…野口二郎、巨人キラー・今西錬太郎らが活躍~個性派選手を、浜崎真二監督が率いる~戦後期(1946~1949年)の阪急は、3年連続4位の後、2位に躍進>

 

 

 

 

戦後期の阪急ブレーブスは、前述の野口二郎をはじめ、1947(昭和22)年、巨人戦に9勝を挙げ、年間21勝を挙げた「巨人キラー」今西錬太郎、1948(昭和23)年に1試合3三塁打の日本タイ記録を達成した川合幸三、俊足好打の古川清蔵らが活躍したが、

阪急は1946(昭和21)~1948(昭和23)年は3年連続4位、1949(昭和24)年は2位と、優勝には届かない状態が続いていた。

 

 

戦後、1946(昭和21)~1947(昭和22)年にかけては、西村正夫が阪急の監督を務めていたが、

1948(昭和23)年には、かつて慶応でサウスポーの名投手として活躍していた浜崎真二が、阪急の監督に就任した。

浜崎真二監督は、個性派選手達をよくまとめ、阪急のチーム力は向上して行き、1949(昭和24)年には阪急は2位に躍進した。

しかし、そうこうしている内に、プロ野球界は激動の嵐の時代に突入する事となって行ったのであるが、その話は、また次回。

 

<1946(昭和21)年4月22日…「宝塚歌劇団」が復活!!~宝塚大劇場は復活したが、東京宝塚劇場はGHQが接収>

 

 

 

 

1946(昭和21)年4月22日、「宝塚歌劇団」は、宝塚大劇場で『春のをどり』『カルメン』という2本立ての演目で、公演を行ない、「宝塚」は、華々しく活動を再開した。

戦後間もない時期ではあったが、小林一三は、例によって例の如く、「こんな時だからこそ、人々には娯楽が必要だ」という考えを貫いたのである。

野球も宝塚も、戦後の混乱期だからこそ、荒廃した人々の心にとって必要であると、一三は確信していた。

そして、一三の思った通り、野球と宝塚は、戦後復興の象徴的存在となって行った。

 

 

しかし、東京宝塚劇場は、残念ながらGHQに接収されてしまい、

以後、「宝塚歌劇団」は、日本劇場、帝国劇場などで、東京公演を開催した。

 

<戦後期(1946~1949年)の東宝映画の躍進…黒澤明監督と三船敏郎が大ブレイク!!~1949(昭和24)年、名作『青い山脈』が大ヒット>

 

 

重苦しい戦争の時代が終わり、「戦後」の時代が始まると、映画界も活況を呈した。

そんな中、東宝映画も活動を再開し、次々に大ヒット作を世に送り出して行った。

まず、1946(昭和21)年には、黒澤明監督で、原節子、藤田進、大河内伝次郎らが出演した『わが青春に悔なし』が、東宝映画の戦後初のヒット作となった。

 

 

1947(昭和22)年、黒澤明監督は、1人の新人俳優を、自らの新作映画の主役に大抜擢した。

それが、黒澤明監督の『銀嶺の果て』という作品でデビューした、三船敏郎であった。

三船敏郎は、新人とは思えない存在感を見せ、デビュー作にして、早くも大注目される存在となった。

 

 

翌1948(昭和23)年、黒澤明監督は、『酔いどれ天使』で、またしても三船敏郎を主演に起用すると、

『酔いどれ天使』は大ヒットを記録し、以後、黒澤明・三船敏郎のゴールデン・コンビは、日本映画界を席巻して行ったのである。

 

 

 

 

 

1949(昭和24)年、東宝映画は、石坂洋次郎の大ベストセラー小説が原作、

今井正監督で、原節子が主演の『青い山脈』を世に送り出したが、

『青い山脈』は、藤山一郎が歌った主題歌ともども、爆発的な大ヒットとなり、

戦後復興期を象徴する、記念碑的な作品となった。

主演の原節子は、『青い山脈』の大ヒットにより、その人気を不動のものとして行った。

 

(つづく)