7/11に行われた、「ヤクルトスワローズドリームゲーム」と、ヤクルト球団50年の歴史を描いている、今回の記事であるが、前回は、神宮球場が建てられた経緯と、神宮球場が東京六大学野球と早慶戦の全盛時代の舞台だった頃の話について、描いた。
今回は、日本の学生野球とプロ野球が、どのように発展して行ったのか、そして神宮球場と日本の野球界が、どのように関わって行ったのか等について、描いてみる事としたい。
言わば、神宮球場の物語の「中編」である。
<日米の野球史の大きな違い…アメリカの野球=プロ野球(メジャーリーグ)から発展、日本の野球=学生野球(アマチュア野球)から発展>
前回のスワローズ史の記事を読んで、こう思われた方もいらっしゃるのではないだろうか。
「あれ?スワローズが、なかなか登場しないな…」と。
それもその筈、何故かというと、日本の野球史を紐解くと、プロ野球やスワローズが誕生する前に、まずは学生野球が発展し、学生野球(アマチュア野球)の全盛時代が有ったという、「前史」をご紹介しなければ、その後の歴史的経緯が、なかなかわかりにくいからである。
上の写真は、一高(旧制第一高等学校)に在学中、ベースボール(野球)に夢中になっていた頃の、正岡子規のユニフォーム姿であるが、明治時代初期に、日本に野球が伝来し、まずは一高の学生達が、野球に夢中になって行った。
1840年代に、アメリカで野球(ベースボール)が誕生したが、
1860年代には、早くも野球のプロチームが誕生し、全米を巡業する興行を行なった。
上の写真は、ベースボール初期の最強チームである、シンシナティ・レッドストッキングスのものであるが、
野球(ベースボール)発祥の地であるアメリカでは、かなり初期の段階から、プロ野球が発展していたのである。
一方、明治時代初期(1872年頃)に、野球が伝来した後の日本は、
一高や、慶応や早稲田などの私学、そして全国の中等学校で、野球が盛んになって行った。
つまり、日本の野球史は、まずは学生野球(アマチュア野球)から発展したという経緯が有る。
アメリカと日本では、野球が発展して行った経緯が、全く異なっているのである。
この事を、まずは頭に入れて頂ければと思う。
<過熱する学生野球人気と、「野球統制令」…お役所に規制されてしまった学生野球>
前回の記事で、昭和初期に早慶戦と東京六大学野球が、全盛時代を迎えたと書いたが、
その人気は過熱する一方であり、1933(昭和8)年春の早慶戦では、水原茂(慶応)が、観客席から投げられた、リンゴの食べかけを、スタンドに投げ返し、それが原因となって、試合に敗れた早稲田側の応援団がグラウンドに雪崩れ込むという、「リンゴ事件」という大事件も起きた。
当時の神宮球場のスタンドは、溢れ返る観客の熱気と、ピリピリとした殺気が漂っていた。
そんな事態が頻発していたのを憂慮した文部省により、遂に「野球統制令」という法令が定められてしまった。
「野球に熱中するのも良いが、学生の本分は勉強だろう」というわけであるが、
「野球統制令」により、学生野球は、色々と規制されるようになって行った。
<1934(昭和9)年…ベーブ・ルースらの全米チーム来日に合わせ、全日本チームが誕生!!…プロ野球誕生のキッカケに>
1934(昭和9)年秋、アメリカ大リーグのスーパースターである、ベーブ・ルースを中心とする全米チームが来日する事となり、日本中の野球ファンが沸き立った。
しかし、前述の「野球統制令」により、学生の選手は、プロ野球選手とは試合が出来ないようになっていた。
従って、東京六大学や中等野球の選手は、日米野球に出場出来なくなってしまったわけである。
日米野球を主催する読売新聞社も困り果てたが、
「こうなったら、日本でも学生ではなく、野球で金を稼ぐ、プロフェッショナルのチームを作ろう」という機運が高まった。
こうして、既に学校を出て、社会人になっていた三原脩(早稲田OB)、水原茂(慶応OB)など、かつての東京六大学のスター選手や、中等学校を中退させてスカウトした沢村栄治などを中心に、全米チームを迎え撃つための全日本チームが結成された。
この全日本チームが母体となり、大日本東京野球倶楽部、後の東京巨人軍が誕生した。
日本に野球が伝来してから70年余りを経て、ここで漸く、日本にもプロ野球が誕生したのであった。
<戦前の人気は、学生野球>>(超えられない壁)>>職業野球(プロ野球)…完全に「日陰の身」だったプロ野球>
1936(昭和11)年に、遂にプロ野球がスタートしたが、
プロ野球開始当時のオリジナルメンバーは、巨人、阪神、阪急、名古屋、名古屋金鯱、東京セネタース、大東京の7球団であった。
この中で、現在まで球団が存続しているのは、巨人、阪神、阪急(現オリックス)、名古屋(現・中日)の4球団である。
戦前のプロ野球は、「職業野球」と呼ばれていたが、
今では信じられないほど、戦前の「職業野球」の地位は低かった。
再三、書いている通り、当時の日本の野球界は学生野球の全盛時代であり、
「野球で金を稼ぐなんて、卑しい」と、プロ野球は人々から白い目で見られていたのである。
東京六大学野球や、甲子園の中等野球は相変わらず大人気だったし、
学校を出た選手にとっては、実業団(ノンプロ)で野球を続ける選択肢も有り、実業団(ノンプロ)による都市対抗野球も盛んだった。
わざわざ好き好んで、プロ野球の球団に入る選手は、相当な変わり者と思われており、学生野球に比べると、ファンの数も非常に少なかった。
言ってしまえば、戦前のプロ野球は「日陰の身」であった。
<東京の後楽園球場、関西の甲子園球場、西宮球場が、戦前のプロ野球の牙城…コアなファンに支えられていたプロ野球>
プロ野球発足当時、東京で最も立派なスタジアムだった神宮球場は、学生野球の「聖地」だったため、
当然、プロ野球は神宮球場を使用する事は出来なかった。
そこで、プロ野球としても、自前の球場を作る必要が有ったが、当初は、現在の東京都江東区の埋め立て地に建てられた洲崎球場などを使用していた。
洲崎球場では、1936(昭和11)年に、初の年度優勝を決める巨人-阪神の決戦も行なわれたが、満潮になると、すぐに水浸しになるような球場であり、あまり興行には適さない球場だった。
そこで、1937(昭和12)年に、東京・水道橋の砲兵工廠の跡地に、新たな球場である後楽園球場が建設された。
後楽園球場は、神宮球場に負けず劣らず、非常に立派なスタジアムであり、
以後、50年以上にわたり、「プロ野球のメッカ」として、人々に愛された。
一方、関西には、阪神電鉄が作り、中等野球の聖地となっていた甲子園球場や、
阪神電鉄のライバルである阪急電鉄も、西宮球場という、とても素晴らしい球場が建てられていた。
こうして、東京の後楽園球場や、関西の甲子園球場、西宮球場を主な拠点として、戦前のプロ野球は開催された。
なお、当時はフランチャイズ制は無く、後楽園や甲子園、西宮で、1日に異なったカードが行われる「変則ダブルヘッダー」も当たり前のように行われ、基本的には、1つの球場に全球団が留まって、まとめて何試合も行なわれており、後は、地方の球場をドサ回りしたりしていた。
戦前のプロ野球は、神宮の早慶戦のスタンドが何万人もの観客で埋め尽くされるのに対し、1万人も入れば「大入り」という状態だったが、
それでも、プロ野球には熱心でコアなファンが少なからず付いており、戦争が激化して学生野球が全て中止になってからも、最後まで野球の灯を守ったのは、プロ野球だった。
<1945(昭和20)年8月15日の終戦…焼け野原から立ち上がった、戦後の日本>
1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇による「玉音放送」により、日本国民は、
日本が太平洋戦争に敗れ、そして長かった戦争が終わった事を知った。
「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」などの標語と共に、長い耐乏生活を送っていた国民にとって、
そのような日々が、漸く終わる事も意味していた。
太平洋戦争の末期、日本中の都市という都市が、アメリカ軍の激しい空襲に遭っていたが、
米軍の無差別爆撃により、日本中の都市は壊滅し、夥しい数の死傷者が出た。
そして、後には無残な焼け野原が残っているのみであった。
しかし、漸く長かった戦争が終わり、辛くも生き延びた日本人達は、
何も無い焼け野原から、懸命に生き抜くための戦いを始めた。
焼け跡には、無数の「闇市」(※公には認められていないマーケット)が出来て、
沢山のバラックが立ち並ぶ中、戦後の日本人は、再び立ち上がったのである。
<GHQの占領政策と、空前の野球ブームの到来!!…並木路子の「リンゴの歌」と、大下弘・川上哲治の「赤バット・青バット」>
戦争に敗れた日本は、アメリカを中心とするGHQの占領下に置かれる事となったが、
パイプを燻らせ、傲然と日本に降り立ったマッカーサー元帥が、GHQのトップとして、昭和天皇と会見した。
この時のマッカーサーと昭和天皇の写真を見て、日本人は、否応なく「日本は戦争に負けたのだ」という現実を思い知らされた。
しかし、当時は、兎にも角にも、全く何も無い時代であり、人々は、その日その日を生き抜くため、食べて行くために精一杯であった。
そんな人々の、荒んだ心を慰め、励みになった物が2つ有った。
それが、戦後最初の大ヒット曲である、並木路子の「リンゴの唄」である。
「赤いリンゴに唇寄せて 黙って見ている青い空」という歌詞が、あまりにも有名であるが、
終戦直後の日本は、何も無い状態であったが、見上げると何処までも青い空が広がっており、空襲の恐怖が無い、青く清々しい空が、そこには有った。
もう一つ、人々に大きな活力を与えていたのが、野球である。
元々、日本人は野球が好きな国民ではあったが、戦後、娯楽に飢えていた人達は、数少ない娯楽である野球に熱狂した。
1945(昭和20)年11月23日、終戦から僅か3ヶ月後に、神宮球場でプロ野球の東西対抗戦が行われたが、待ちに待った野球の復活に、観客が神宮球場に殺到した。
なお、戦前の神宮球場は、学生野球の聖地だったが、当時は後楽園球場も焼かれてしまっており、東京に有る、まともなスタジアムは神宮球場だけだったため、プロ野球の東西対抗戦も、そこで開催される運びとなった。
そして、この東西対抗戦で颯爽とデビューしたのが、セネタースの大下弘であり、大下弘は天才的な打撃技術でホームランを量産し、人々を熱狂させた。
そして、1946(昭和21)年には、戦前からのスター選手だった、巨人の川上哲治も戦争から帰って来て、巨人に復帰したが、
この時、大下弘が青バットを使用していたのに対し、川上哲治は赤バットを使用し、川上と大下の「赤バット・青バット」は、ファンを熱狂させた。
こうして、1946(昭和21)年に再開されたプロ野球は大ブームとなったが、戦前は「日陰の身」だったプロ野球も、爆発的な人気を得るようになって行ったのである。
<戦後の球場事情…神宮球場の接収と、プロ野球と東京六大学野球の、後楽園球場での「同居」>
前回の記事でも書いたが、神宮球場は、前述の東西対抗戦は有ったが、GHQに接収されてしまい、「ステート・サイド・パーク」という名前に変えさせられてしまった。
日本の野球界は、神宮球場を自由に使用する事が出来なくなってしまったため、終戦直後は、再建された後楽園球場で、学生野球の試合も行なわれた。
上の写真は、1946(昭和21)年4月6、7日に、後楽園球場で行われた「全早慶戦」のものであるが、
早稲田、慶応の現役選手だけでなく、早稲田や慶応のOB達も集まった、言わば「早慶オールスター戦」であり、観客が後楽園に殺到した。
これは、ちょうど、先日行われた「ヤクルトスワローズドリームゲーム」のような催しであったと考えれば、わかりやすい。
そして、1946(昭和21)年春に復活した東京六大学野球は、神宮球場が使用出来ないため、
已む無く、上井草球場、後楽園球場などで行われたが(上の写真は、上井草球場での、戦後初の東京六大学野球の開会式の模様)、リーグ戦は、各校1回戦ずつの総当たり戦で行われた。
この時、東大が開幕から4連勝し、最後の慶応戦で勝てば初優勝という所まで行ったが、惜しくも0-1で敗れ、東大は、史上唯一の優勝のチャンスを逃してしまったのは、返す返すも惜しかった。
GHQは、日本の占領政策を進めやすくするためにも、アメリカの国技である野球を積極的に奨励し、
それが、空前の野球ブームの一因ともなっていたが、それよりも、元々、日本人は野球が大好きな国民だったというのは、前述の通りである。
学生野球やプロ野球が復活した一方、日本中で、子供達は三角ベースの野球に興じていた。
このように、野球と日本人は、切っても切り離せない縁が有った。
さて、そうこうしている内に、いよいよ「国鉄スワローズ」が誕生する時が間近に迫って来ていたのであるが、そのお話は、また次回。
(つづく)