サザン史・外伝② ~1979年『いとしのエリー』誕生秘話と、百花繚乱の音楽界、ウォークマン誕生 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1979(昭和54)年のサザンオールスターズの大活躍については、

既に「サザンオールスターズと野球界の40年」という記事で描いているが、

今回は、その記事で描き切れなかった部分について、「外伝」として描く事としたい。

 

 

1979(昭和54)年といえば、サザンが『いとしのエリー』を大ヒットさせた年であるが、

名曲『いとしのエリー』が、いかにして誕生したのか、その誕生秘話について、改めて描く。

併せて、ポップス、ロック、歌謡曲、演歌など、様々なタイプの曲がヒットした、この年(1979年)の音楽界についても、お伝えさせて頂く事とする。

 

<「コミックバンド」扱いされていた、デビュー当時のサザン>

 

 

 

サザンオールスターズは、前年(1978年)に『勝手にシンドバッド』でデビューし、いきなり大ヒットを飛ばしたが、

桑田佳祐のサービス精神溢れるパフォーマンスが、各テレビ局で面白がられ、色々な恰好をさせられるなど、完全に「コミックバンド」扱いされていた。

デビューしたばかりのサザンとしても、まずは顔と名前を覚えてもらう事を優先としており、そのような扱いも甘んじて受けていたが、

果たして、桑田佳祐をはじめ、メンバー達の心境は、どうだったのであろうか。

サザンは、強烈な印象を残したのは良いが、『勝手にシンドバッド』が、あまりにも斬新すぎた故か、世間の受け止め方としては、「一発屋」「コミックバンド」という印象が強かったと思われる。

 

<サザンが「アイドル」だった頃…テレビ番組やCMなどに引っ張りだこだった、サザン>

 

 

 

 

しかし、デビュー当時のサザンの人気は本当に凄く、

アイドル雑誌の「明星」で、榊原郁恵、山口百恵といった、人気アイドル達と一緒に、サザンが表紙を飾ったりしていた。

サザンは、デビューして早々、「アイドル」的な人気を博していたのであった。

 

 

 

人気者のサザンは、テレビCMにも引っ張りだことなっていた。

例えば、サザンは「日清焼きそばUFO」のCMに出演したが、この頃、流行っていた映画「スーパーマン」の恰好をして、CMに出演した。

 

 

 

 

 

 

また、デビュー当時のサザンのCM出演で、印象深かったものといえば、「三ツ矢サイダー」のCMであろう。

「三ツ矢サイダー」も、デビュー当時のサザンの人気に目を付け、CMに起用したが、このCM出演により、「夏といえばサザン」というイメージが、更に広がったと言って良いであろう。

 

 

 

 

なお、サザンは後年(2017年)、デビュー当時以来、38年振りに「三ツ矢サイダー」のCMに出演し、

当時の映像とのコラボで、今と昔のサザンが「共演」する事となったが、それだけ長い間、サザンが活躍し続けたという事を示すものであり、

デビュー当時からサザンを応援しているファンは、とても感慨深かったのではないだろうか。

 

<『いとしのエリー』誕生秘話…桑田佳祐が、原由子のために作った曲>

 

 

桑田佳祐原由子は、デビュー前から恋人同士だったのだが、

サザンがデビューし、それまでの生活が激変し、目が回るような忙しさに忙殺されるようになり、2人の間は徐々にギクシャクするようになってしまった。

原由子は、ちょっとした事でヤキモチを焼いて、桑田を困らせるような事が多くなってしまっていた。

桑田は、そんな原由子の気持ちを、全部受け止めていたが、自らも、せっかく作った曲が「日本語を乱す」などと批判されたりして、精神的に、まいってしまっていた。

原由子は、「桑田が何処か遠くへ行ってしまいそうで、怖かった」と、後年、当時の心境を語っているが、

「自分でも嫌な女だとわかっていた。だが、どうしようもなかった」とも語っている。

 

 

そして、1979(昭和54)年1月のある夜、桑田が原由子のアパートにやって来た。

「話が有る」と切り出した桑田は、「好きな人が出来ちゃったんだ」と言った。

原由子は、逆にホッとしたような気持ちになり、「今まで、本当に有り難う…」と、自分の気持ちを伝えた。

原由子は、本当にそういう気持ちしか無かったが、涙が勝手に出て来て、止まらなかったという。そして、桑田もまた、泣いていた。

2人は、最後に握手をして別れたが、一晩中、2人は電話で泣きながら、お互いを励まし合った。

翌朝、桑田がまた原由子を訪ねて来て、いきなり「結婚しよう!ずっと、一緒に居よう!!」と、改めてプロポーズした。

結局、桑田と原の2人は別れる事が出来なかったのであった。

 

 

それから数日後、桑田が「新曲が出来たよ!」と言って、原由子に電話して来て、電話越しに、新曲を歌った。

原由子は「いい曲だね」と、心から思い、後日、サザンの他のメンバーも、口を揃えて「いい曲だねー!!」と言っていた。

それが、あの名曲『いとしのエリー』だったのである。

つまり、『いとしのエリー』は、桑田佳祐原由子に捧げた、ラブソングであった。

以上、このエピソードは、原由子が書いた『娘心にブルースを』に書かれているが、本当に感動的で、素晴らしい物語である。

 

<『いとしのエリー』が大ヒット!!…「コミックバンド」の評価を覆し、サザンがアーティストとして認められるキッカケに>

 

 

 

 

1979(昭和54)年3月25日、サザンオールスターズは、3枚目のシングル『いとしのエリー』をリリースした。

『いとしのエリー』は、それまでのサザンのイメージとは真逆の曲だったため、当初は「え?これがサザン?」と、戸惑う向きも多かったようであるが、その楽曲の素晴らしさが、人々の胸を打つようになり、そして、『いとしのエリー』は大ヒットした。

 

 

 

 

『いとしのエリー』は、オリコン最高2位、

TBS「ザ・ベストテン」では、6/7に初の1位に上昇して以来、7週連続1位という大ヒットとなった。

この時は、サザンのメンバーやスタッフ一同、皆、喜びを爆発させた。

 

 

 

『いとしのエリー』は、サザンに対する評価を一変させた。

それまでの「コミックバンド」という扱いから180度変わり、「サザンは、凄いアーティストだ!!」と、一挙にサザンはその音楽性と実力を認められた。

サザンは、その実力で、「コミックバンド」の評価を覆し、アーティストとしての地位を確立して行った。

 

 

 

 

そして、サザンはこの年(1979年)も、積極的にテレビ出演する一方、ライブも沢山行なった。

まず、3/20~6/6までは「春50番コンサート」で、50本ものコンサートを行ない、全国を行脚した。

この「春50番コンサート」の真っ最中に、『いとしのエリー』がヒットチャートを急上昇し、サザンの名声は高まって行った。

 

 

 

 

 

そして、9/22~12/12にかけては、「Further on up the Road」で、全42公演を行なった。

つまり、サザンは年間100公演近くをこなすという(つまり、3日に1度のペースで、コンサートを行なっていた)、物凄いスケジュールをこなしていた。

しかし、サザンは漸く、本来、なりたかったアーティストの姿に近付き、忙しい中でも、充実した日々を送っていた。

 

<1979(昭和54)年のヒット曲…多種多彩な楽曲と、ウォークマンの誕生>

 

 

 

サザンが『いとしのエリー』を大ヒットさせた1979(昭和54)年は、実に様々なタイプの楽曲が、ヒットチャートを賑わせた。

上の画像を見て頂ければ、その多種多彩ぶりが、おわかり頂けるかと思うが、演歌や歌謡曲も有れば、ポップスもロックも有り、ニューミュージックが台頭し、洋楽のカバーである、西城秀樹『Y.M.C.A(YOUNG MAN)』も大ヒットした。

 

 

 

 

まず、1979(昭和54)年といえば、何と言っても、SONYが「ウォークマン」を発売したというのが、

音楽界にとっては、最も大きな出来事と言って良いのではないだろうか。

それまでは、音楽というのは、家でレコードやカセットテープで聴くか、テレビやラジオで聴くか、或いは、コンサートに行って、生で聴くしか無かった。

しかし、「ウォークマン」の発売により、人々は、何処でもどんな場所でも、好きな音楽を聴けるようになったのである。

これは、音楽に対する接し方を、劇的に変えてしまった。

そして、今もなお、形を変えながらも、皆、好きな音楽は、家でも外でも、好きな時に聴くというのは、もはや当たり前になっている。

つまり、音楽というものを、より一層、グッと身近な物にしたのが、「ウォークマン」だった。

 

<西城秀樹『Y.M.C.A(YOUNG MAN)』が大ヒット!!…西城秀樹、最大のヒット曲>

 

 

 

 

1979(昭和54)年の音楽界といえば、何と言っても、西城秀樹『Y.M.C.A(YOUNG MAN)』の大ヒットに尽きるのではないだろうか。

聴く人の誰もが元気になるような楽曲と、西城秀樹のパワフルな歌声、そして、今や誰もが知っている「Y.M.C.A」の振り付けなどもあり、

『Y.M.C.A(YOUNG MAN)』は、瞬く間に大ヒットして行った

 

 

 

 

 

 

 

1979(昭和54)年4月5日のTBS「ザ・ベストテン」では、

『Y.M.C.A(YOUNG MAN)』は、遂に史上初の「9999点」、つまり満点を獲得したが、

これは勿論、史上初の記録であり、翌週(4/12)にも『Y.M.C.A(YOUNG MAN)』は「9999点」を獲得、

その後は、誰も達成する事が出来ない大記録であった。

そして勿論、『Y.M.C.A(YOUNG MAN)』は西城秀樹にとって、最大のヒット曲となった。

 

 

 

なお、桑田佳祐西城秀樹は同年代であり、後年(1995年)、サザンの「ホタル・カリフォルニア」というコンサートで、

サザンと西城秀樹は、夢の共演を果たしている(ちなみに、「ホタル・カリフォルニア」は、私も見に行っていたが、このコンサートについては、別の機会に詳述する予定である)。

 

<吹き荒れる、「ゴダイゴ」旋風…ドラマ「西遊記」とのタイアップなどで、大ヒットを連発!!>

 

 

 

 

1978(昭和53)年10月1日~翌1979(昭和54)年4月1日にかけて放送された、日本テレビ『西遊記』(出演:夏目雅子、堺正章、岸部シロー、西田敏行)が大ヒットしたが、ゴダイゴは『西遊記』の主題歌『モンキー・マジック』『ガンダーラ』を歌い、大ヒットさせた。

ゴダイゴは、ミッキー吉野(キーボード)、タケカワユキヒデ(ボーカル)、浅野孝巳(ギター)、スティーヴ・フォックス(ベース)、トミー・スナイダー(ドラム)という、国際色豊かなメンバー構成のバンドであった。

 

 

 

1979(昭和54)年には、ゴダイゴ『ビューティフル・ネーム』『銀河鉄道999』『ホーリー&ブライト』などの曲を、次々にヒットさせた。

『ビューティフル・ネーム』は、国連の国際児童年のキャンペーン・ソングであり、『銀河鉄道999』は、同名のアニメの主題歌だったが、言わば、ゴダイゴはタイアップによって、大ヒットを連発するという手法を取っていた。しかし、ゴダイゴの音楽性の高さも、また確かなものであった。

 

<デビュー当時のサザンのライバル…「世良公則&ツイスト」>

 

 

 

 

デビュー当時のサザンのライバルだったのが、世良公則&ツイストである。

世良公則&ツイストは、『あんたのバラード』(1977年)、『宿無し』(1978年)、『銃爪』(1978年)、『燃えろいい女』(1979年)など、大ヒットを連発していたが、デビュー当時、コミックバンド扱いされていたサザンにとって、ツイストの方が、よほどロックバンド然としており、桑田佳祐には、彼らに対する羨望も有ったとの事である。

しかし、その後、サザンの方が息の長い活動をして行ったというのは、ご存知の通りである。

 

<1979(昭和54)年10月5日…山口百恵・三浦友和の「恋人宣言」!!>

 

 

1979(昭和54)年9月1日、山口百恵『しなやかに歌って』(作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童)をリリースした。

この年(1979年)の山口百恵を代表する楽曲となったが、この曲をリリースした直後、山口百恵は、世間を驚かせる行動に出た。

 

 

 

同年(1979年)10月20日、山口百恵は、大阪厚生年金会館でのコンサートの最中、

「私が好きな人は、三浦友和さんです」と、三浦友和との「恋人宣言」を行なった。

トップアイドルの山口百恵による、前代未聞の「恋人宣言」であったが、世間の受け止め方は、概ね好意的であった。

そもそも、「ゴールデンコンビ」として、実績も有る2人だっただけに、「やっぱりな」という見方が多かったものと思われる。

「恋人宣言」をしてもなお、山口百恵の人気は衰えず、やはり百恵人気は別格であるという事を印象付けた。

 

<1979(昭和54)年…ピンク・レディーの「失速」と「アメリカ進出」>

 

 

 

 

 

1976(昭和51)年、デビュー曲の『ペッパー警部』以来、日本中に大旋風を巻き起こしていたピンク・レディーも、

1978(昭和53)年のレコード大賞受賞をピークに、「失速」の気配が見えて来ており、レコード売り上げも低下して行った。

阿久悠都倉俊一も、毎回、懸命に楽曲のアイディアを振り絞っていたが、それも、そろそろ限界を迎えつつあった。

この年(1979年)、ピンク・レディーは、アメリカ進出という冒険に打って出たが、人気の低落傾向に歯止めをかける事は出来なかった。

かつては、爆発的な大人気を誇っていたピンク・レディー人気に、翳りが出てしまったのが、1979(昭和54)年という年であった。

 

<オフコース『さよなら』…サザンの『いとしのエリー』と並ぶ、名バラード>

 

 

1979(昭和54)年12月1日、小田和正が率いるオフコース『さよなら』をリリースしたが、

小田和正の甘い歌声で歌われる、名曲中の名曲であり、翌1980(昭和55)年にかけて大ヒットしたが、

サザンの『いとしのエリー』に並ぶ、邦楽史上に残る名曲と言って良いであろう。

 

<海援隊『贈る言葉』と、松坂慶子『愛の水中花』…テレビ番組発の大ヒット曲>

 

 

1979(昭和54)年10月に放送開始された、『3年B組金八先生』の主題歌としてリリースされたのが、

金八先生を演じた、武田鉄矢が率いる海援隊が歌った、『贈る言葉』である。

『贈る言葉』は、今では卒業式の定番ソングとなっているが、そもそもは失恋ソングであり、「海援隊が、こんな素晴らしい曲を作れるのか」という驚きが有ったようである(※『贈る言葉』の詳細については、サザン史の「正史」の1980年の項目をお読み頂きたい)。

 

 

 

 

 

もう一つ、この年(1979年)のテレビ番組発のヒット曲といえば、

TBSの「水中花」というドラマの主題歌で、主演の松坂慶子が歌う『愛の水中花』(作詞は五木寛之)が有った。

これは、ドラマの中で、高級クラブのホステスである松坂慶子が、バニーガール姿で歌っていたが、

歌番組にも、松坂慶子が同じような衣装で登場し、話題となった。

この頃の松坂慶子は、本当に美人であり、『愛の水中花』は、彼女のビジュアルありきで売れたようなものである。

 

<1979(昭和54)年の「第30回 NHK紅白歌合戦」に、サザンと美空ひばりが登場!!>

 

 

 

 

 

 

 

1979(昭和54)年12月31日、記念すべき第30回目の、NHK「紅白歌合戦」が行われた。

そして、サザンオールスターズ『いとしのエリー』で、紅白初出場を果たしたが、

桑田佳祐原由子にとっても、色々な出来事を思い起こして、感慨深い紅白初出場だったのではないだろうか。

 

 

そして、1972(昭和47)年を最後に、弟のかとう哲也のトラブルが原因で、

長らく紅白の舞台から遠ざかっていた美空ひばりが、第30回記念の特別出演という形で、7年振りに紅白の舞台に登場した。

かつての紅白の常連だった、大歌手の美空ひばりが、久々に紅白に登場し、会場を沸かせたが、以後、美空ひばりは紅白には一度も出場せず、結果として、これが最後の紅白の舞台となった。

という事で、第30回紅白歌合戦は、サザンと美空ひばりが共演したという、歴史的な放送となった。

 

(つづく)