イチロー物語④ …「がんばろうKOBE」でオリックス優勝、あわや三冠王の大活躍(1995) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

鈴木一朗は、前年(1994年)に、登録名を「イチロー」に変更し、プロ野球史上初のシーズン200安打を達成し、大ブレイクを果たしたが、

「イチロー」という名前となって2年目の1995(平成7)年も、引き続き大活躍を見せた。

 

 

この年(1995年)のイチローは、自分のためだけではなく、どうしても頑張らなければならない理由が有った。

それは、言うまでもなく、この年(1995年)の1月17日に発生した、阪神大震災により被災した、オリックスの地元・神戸の人達を元気付けるために、何が何でも活躍し、そして、チームを優勝させなければならないという事であった。

 

今回は、イチローオリックスブルーウェーブという球団にとって、特別な年となった、

1995(平成7)年という年にスポットを当て、お送りする事としたい。

 

<1995(平成7)年1月17日、阪神大震災が発生…イチローも、神戸の合宿所で被災>

 

 

1995(平成7)年1月17日、未明の午前5時46分、兵庫県淡路島北部の明石海峡を震源とする、M7.3の大地震が発生した。

所謂、阪神大震災(阪神・淡路大震災)であるが、神戸の街が壊滅し、死者6000人以上という甚大な被害を出す、大災害となった。

当時、イチローは神戸のオリックスの合宿所に居て、この震災を体験した。

イチローは、ベッドから飛び起きて、揺れが収まるのを待った後、テレビをつけると、高速道路が横倒しになるなど、そこには信じ難い光景が映し出されており、イチローは大きなショックを受けた。

 

 

また、同年(1995年)には、地下鉄サリン事件という大事件も発生している。

後に、オウム真理教による事件である事が判明し、教祖の麻原彰晃をはじめ、多数の教団幹部が逮捕された。

1995(平成7)年の日本は、年明けから春先にかけて、そんな騒然とした状況にあった。

 

<仰木彬監督の誓い…「がんばろうKOBE」というスローガンを掲げ、神戸のために優勝を目指す!!>

 

 

(オリックスの宮古島キャンプ。左から、仰木彬監督、中西太臨時コーチ、イチロー

 

結局、この年(1995年)のプロ野球は、予定どおり開幕する事となった(その前に、3月にセンバツ高校野球が開催された)。

オリックスの仰木監督は、前年(1994年)に就任していたが、基本的には選手の自主性に任せるスタイルで、あまり細かい注文を付けるタイプの監督ではなかった。

 

しかし、この年(1995年)の仰木監督は、阪神大震災で被災し、傷付いた神戸の人達のためにも、

何が何でも優勝しなければならないという決意を持っていた。

 

仰木監督は、この年のオリックスのスローガンを「がんばろうKOBE(神戸)」とする事を発表し、

開幕前の段階で、選手達を集め、「今年は、絶対に優勝しよう!!」と、檄を飛ばした。

イチローをはじめ、オリックスの選手達も、元よりそのつもりであった。

オリックスは、絶対に優勝するという決意の元、一致団結して開幕を迎えた。

 

<1995(平成7)年のオリックス…序盤は一進一退で、イチローも不振に苦しむ>

 

 

 

 

4月1日、予定どおりグリーンスタジアム神戸での開幕戦を迎えたオリックスは、

2年前の1993(平成5)年に、「北海道南西沖地震」で、自らの地元が被災したという経験を持つ、当時40歳のベテラン・佐藤義則が開幕投手を務めると、好投を見せ、その後を受けた、2年目の平井正史が好リリーフを見せ、オリックスが3-2でロッテを破り、幸先良く白星スタートを飾った。

 

 

幸先良いスタートを切ったオリックスは、その後、一進一退で、勝ったり負けたりを繰り返し、

結局、4月は9勝9敗と、オリックスは今一つ波に乗れない状態であった。

また、イチローもシーズン序盤は、一時、打率3割台を切るなど、不振に苦しんだ。

 

 

しかし、4月21日のロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で、オリックスは野田浩司1試合19奪三振という、日本新記録を達成した。

この試合、オリックスは惜しくもサヨナラ負けを喫してしまったが、この出来事は、チームを奮起させるキッカケにもなった。

そして、イチローも、4月後半頃から、徐々に調子を取り戻して行った。

 

<オリックス、快進撃で首位浮上!!冴えわたる「仰木マジック」>

 

 

ゴールデンウィークに入ると、5月3日のダイエー戦(神戸)で、

オリックスは田口壮のサヨナラ安打で、ダイエーとの延長11回の熱戦を制した。

5月27日、オリックスは西武との首位攻防戦を制し、西武を4-1で破り、遂に首位に浮上した。

オリックスは、5月を12勝7敗で乗り切り、上昇気流に乗って行った。

 

 

 

この年(1995年)のオリックスの特徴として、仰木監督が、毎試合のように打順を変えるというものが有った。

1番・イチロー、3番・田口壮の打順は、ほぼ不動だったが、それ以外は打順を固定せず、

毎試合、相手投手との相性を考えたりしながら、仰木監督は打順を大幅に変えて行った。

 

こうした仰木監督の采配は「仰木マジック」と称された。

また、仰木監督は、新外国人のダグ・ジェニングス「D・J」という登録名にしたが、これは前年(1994年)の「イチロー」の成功が有ってこそであった。

 

そんな「仰木マジック」がズバリと当たった事もあり、オリックスは6月を19勝4敗1分という素晴らしい快進撃を見せ、気が付けば、パ・リーグの首位を独走していた。

 

<調子を取り戻し、打ちまくるイチロー!!遂に、打撃三冠のトップに立つ!!>

 

 

シーズン序盤は調子を落としていたイチローも、5月以降、完全に復調し、打ちまくった。

相変わらずのバットコントロールで、ヒットを量産し、その俊足で、当たり損ないの内野ゴロでも、

内野手が少しでも処理をもたつくと、内野安打にしてしまうというのは、前年(1994年)と同じだったが、

この年(1995年)のイチローは、長打力も増し、ツボに入れば、ホームランも沢山かっ飛ばした。

 

 

6月28日の近鉄戦で、イチローは14号本塁打を放ったが、

この時点で、イチローパ・リーグの打撃三部門(打率、本塁打、打点)でトップに立った。

走攻守、三拍子揃った上に、長打力まで兼ね備えたイチローは、まさに向かう所、敵無しであった。

 

<イチロー、オールスター史上最高得票(99万票)で、2年連続オールスターに出場!!>

 

 

 

7月、イチロー約99万票という、史上最多得票で、同僚の田口壮と共に、オールスターに選出された。

もはや、イチロープロ野球を代表するスーパースターとなっているのは、誰の目にも明らかであった。

 

 

なお、この年(1995年)7月24日には、阪神大震災のチャリティーマッチとして、

「外国人選抜VS日本人選抜」という、ちょっと変わったオールスターゲームも行なわれたが、

この試合にも、当然の如く、イチローも選ばれている。

 

 

そして、オリックスはオールスター後もぶっちぎりで快進撃を続け、首位を独走し、

7月22日には、オリックスは早くもマジック「43」を点灯させた。

そんなオリックスを後押ししようと、球場には多くのファンが詰めかけた。

オリックスの快進撃は、間違い無く、神戸の人々の希望の灯となっていた。

 

<9月19日、遂にオリックス優勝!!イチローも打撃三冠争いを繰り広げる>

 

イチローと、本塁打王争いを繰り広げた小久保裕紀(ダイエー)

 

9月に入り、いよいよオリックスの優勝は秒読み段階に入った。

イチローも、相変わらず打ちまくり、9月2日のロッテ戦(千葉)で23号本塁打を打った時点で、またしても打撃三部門のトップに立った。

この年(1995年)の本塁打王と打点王争いは、そんなに高い数字にはならず、イチロー三冠王も夢ではないと思われ、私もイチローの三冠王を大いに期待していたが、この後、イチローはなかなかホームランを打てなくなった。

結局、その後は小久保裕紀(ダイエー)が本数を伸ばし、28本塁打で本塁打王を獲得、イチロー3本差の25本で、惜しくも本塁打王は逃した。

 

 

9月中旬、オリックスは遂にマジック「1」となったが、

9月15~17日、ボビー・バレンタイン監督率いる、2位のロッテに、オリックスは地元・神戸でまさかの3連敗を喫し、

オリックスは、神戸での胴上げを逃してしまい、超満員のファンはガックリと肩を落とした。

イチローも、この時、野球の厳しさ、難しさを味わったに違いない。

 

 

 

 

しかし、9月19日の西武戦(西武球場)で、オリックスはイチロー24号ホームランも飛び出すなど、打線が爆発し、

オリックスが8-2で西武を破り、遂に悲願のリーグ優勝を達成した。

西武球場には、沢山のオリックスファンが押し寄せ、オリックスの優勝を祝福した。

ここに、「がんばろうKOBE」で一致結束した、オリックスと神戸市民の夢は現実のものとなった。

 

<イチロー、日本シリーズでは不振に苦しむも、打撃二冠+盗塁王を獲得!!>

 

 

 

 

この年(1995年)の日本シリーズは、仰木監督率いるオリックスと、野村克也監督率いるヤクルトスワローズとの対決となった。

ヤクルトは、野村監督と、捕手の古田敦也が、イチローが苦手とする内角高目のコースを徹底的に攻めるなど、イチローを徹底的にマークした。

イチローは、ヤクルト投手陣に苦しめられ、5戦目にようやくホームランを打ったものの、結局、5試合で19打数5安打1本塁打2打点 打率.263という成績に終わった。

オリックスも、1勝4敗でヤクルトの敗れ、残念ながら日本一達成は成らなかった。

 

しかし、イチローは、下記の成績を残し、首位打者(2年連続)、打点王(初)、盗塁王(初)の他、

MVP、最多安打、最高出塁率、正力賞、ベストナイン、ゴールデングラブの各タイトルも2年連続で獲得した。

もしも、あと3本、ホームランが多ければ、イチロー全ての打撃タイトル(6冠)を独占するという、空前絶後の大記録を達成する所であっただけに、本塁打王を逃したのは、本当に惜しい所であった。

 

1995(平成7)年のイチローの成績:打率.342(1位) 179安打(1位) 25本塁打(2位) 80打点(1位) 49盗塁(1位) 得点104(1位) 出塁率.432(1位) ※MVP(2年連続)、首位打者(2年連続)、最多安打(2年連続)、盗塁王(初)、ベストナイン(2年連続)、ゴールデングラブ賞(2年連続)

 

 

また、この年(1995年)のシーズンオフ、渡米したイチローは、NBAのスーパースター、マイケル・ジョーダンと対面を果たしている。

バスケットボールの神様との対面により、イチローは大きな刺激を受けたに違いない。