イチロー物語③ …「イチロー」衝撃のデビュー!!~史上初のシーズン200安打達成(1994) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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1993(平成5)年のシーズン終了後、オリックスブルーウェーブ(現・オリックスバファローズ)土井正三監督が退任し、

オリックスの新監督として、仰木彬が就任した。

そして、仰木彬監督の就任をキッカケとして、1994(平成6)年、イチロー大ブレイクを果たす事となった。

 

 

今回は、イチローが球史に残る大打者としての第一歩を歩み始めた、

1994(平成6)年のイチローの大活躍について、描いて行く事としたい。

 

<1994(平成6)年、鈴木一朗が登録名を「イチロー」に変更!!>

 

 

 

1994(平成6)年のシーズン前、オリックスの仰木彬新監督は、

プロ3年目を迎えた、鈴木一朗の登録名を「イチロー」に変更する事を発表、

それと同時に、プロ5年目の「パンチ佐藤」こと佐藤和弘の登録名も「パンチ」に変更する事とした。

 

当時、パンチ佐藤はオリックスでも一番の人気者と言って良かったが、

仰木彬監督は、当時まだ無名だったイチローが、変に悪目立ちをしないよう、

先輩のパンチ佐藤の登録名も同時に変えるという配慮をしたようである。

 

 

なお、鈴木一朗の登録名を「イチロー」に、佐藤和弘の登録名を「パンチ」に変える事を発案したのは、

仰木彬監督ではなく、打撃コーチの新井宏昌(法政OB)だったようであるが、

その発案を受け入れ、イチローを大々的に売り出そうと決断したのは仰木監督であった。

 

そして、この登録名変更は、パ・リーグからも承認され、鈴木一朗「イチロー」という名前で、新たなスタートを切る事となった。

以後、四半世紀以上にわたり、彼は「イチロー」という名前で、常に野球界の中心に君臨し続ける事になるのである。

 

<1994(平成6)年、「イチロー」が「振り子打法」でデビュー!開幕から打ちまくる!!>

 

 

こうして、イチローは1994(平成6)年のシーズンに臨んだが、

開幕前のオープン戦で、イチロー21試合に出場、76打数27安打 2本塁打16打点 打率.355と大活躍を見せた。

オープン戦の初戦、2月21日の横浜戦(宮古島)では、イチローデニー友利(横浜)から、珍しいランニング満塁ホームランを放ち、快足ぶりを見せている。

 

そして、オープン戦で好成績を残したイチローは、

1994(平成6)年の開幕戦のダイエー戦(グリーンスタジアム神戸)で、

2番・センターとして、プロ3年目にして、初の開幕スタメン出場を果たした。

 

なお、選手の個性を重視する仰木監督は、当然の事ながら、イチロー「振り子打法」には一切注文を付けず、イチローの好きに打たせた。

すると、イチロー仰木監督の期待に応え、開幕戦で初安打を放つと、以後、開幕から、1本塁打含む5試合連続安打と、いきなり打ちまくった。

 

結局、イチローは4月は78打数27安打4本塁打13打点 打率.346と、好成績を残したが、

当初、イチローは1番・田口壮に続く2番打者の打順に座っていたものの、4月28日からは、1番打者(センターか、ライト)に定着した。

 

<打って打って打ちまくるイチロー!!6月25日、史上最速でシーズン100安打に到達!!>

 

 

その後も、イチロー凄まじい勢いで、打って打って打ちまくった。

イチローは、5月は98打数40安打8打点 打率.408、6月は87打数40安打9打点 打率.460

と、2ヶ月連続で、月間打率4割超、更に、2ヶ月連続で月間40安打と、物凄い数字を残した。

 

 

その間、6月25日には、イチロープロ野球史上最速のペース、開幕60試合でシーズン100安打に到達してしまった。

そして、その試合(東京ドームでの日本ハム戦)で、イチローは遂にシーズン打率を4割台(打率.407)に乗せた。

この時、物凄いペースで打ちまくるイチローに、各マスコミも一斉に注目した。

 

6月25日の、「シーズン最速100安打、打率4割超」は、一般のニュース番組でも大きく取り上げられ、

イチローの名前は、一気に全国区に躍り出た。

私も、この時に「このイチローっていう選手、物凄いな!!」と、初めて彼に注目を向けたが、

それ以来、25年間にわたり、私がイチローを応援し続ける事になる、その原点とも言える出来事であった。

 

恐らく、イチローを抜擢した仰木監督も、まさかイチローがここまで打ちまくるとは、流石に予想していなかったのではないか。

ともあれ、イチローは文句無しに、6月の月間MVPに選出された。

 

<イチロー、オールスターに初出場!!69試合連続出塁の日本新記録も達成!!>

 

 

夏場を迎えても、イチローの打棒は、全く勢いが衰えなかった。

7月、イチロー86打数30安打3本塁打9打点 打率.349という成績を残し、

7月にはプロ3年目で初めて、オールスターゲームにも選出されたが、

イチローは、オールスターでも、2試合連続で1安打ずつを放った。

 

8月には、イチロー97打数38安打4本塁打9打点 打率.392で、2度目の月間MVPを獲得し、

8月21日の西武戦(グリーンスタジアム神戸)では、イチロー石井丈裕(西武)から、プロ初の1試合2本塁打も放った。

 

 

更に、イチローは4~8月にかけて、

18試合連続安打→(1試合のみ無安打)→23試合連続安打→(1試合のみ無安打)→12試合連続安打→(1試合のみ無安打)→23試合連続安打

と、ほぼ毎日のようにヒットを打ち続け、

 

更に、5~8月にかけては、イチローは、プロ野球新記録となる69試合連続出塁も達成したが、

この記録は、未だに破られていない(※なお、下記は連続試合出塁記録のランキングである)

恐らく、この記録は、今後も破られないのではないだろうか。

 

連続試合出塁ランキング
*1 69試合 94年 (オ)イチロー ※パ・リーグ記録
*2 67試合 95年 (オ)イチロー
*3 65試合 01年 (巨)松井秀喜 ※セ・リーグ記録
*4 60試合 01年 (日)小笠原道大
*5 56試合 86年 (急)石嶺和彦
*6 53試合 72年 (急)長池徳二
*7 50試合 65年 (巨)王貞治
*8 49試合 66年 (東)榎本喜八
*8 49試合 02年 (西)A.カブレラ
10 47試合 77年 (中)大島康徳 

 

また、イチローの大活躍に引っ張られるように、この年(1994年)のオリックスは快進撃を見せ、

8月には、パ・リーグの首位争いは、西武、オリックス、近鉄、ダイエーの4球団が、四つ巴で、ほぼ横一線に並ぶという大混戦となった。

 

<イチロー、シーズン最多安打記録更新!!そして、史上初のシーズン200安打達成!!>

 

 

 

 

9月、秋口を迎えても、イチローの快進撃は続いた。

9月11日の近鉄戦で、イチロープロ野球タイ記録となる、1試合4二塁打を放つと、

9月14日の日本ハム戦(東京ドーム)で、イチローは、それまでのシーズン最多安打記録、「191」を破り(※1950(昭和25)年の藤村富美男(阪神)が記録)、シーズン192安打という、プロ野球新記録を達成した。

 

 

こうなると、イチローは、次なる目標を、史上初(当時)となる、シーズン200安打に見据えた。

そして、前人未到のシーズン200安打達成まで、あと3本として迎えた、9月20日のロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)で、

イチローは、アッサリと2安打を放つと、6回裏の第3打席で、園川一美(ロッテ)からライト線に二塁打を放ち、

イチローは、見事にプロ野球史上初のシーズン200安打を達成した。

 

(※1994年時点での、シーズン最多安打ランキング。右端の数字は、打率、出塁率)

 

01 210安打 130/130試合 616打席546打数 イチロー (オリックス 1994)  .385 .445
02 191安打 140/140試合 628打席527打数 藤村 富美男 (阪神 1950) .362 .465
03 189安打 139/140試合 625打席578打数 大沢 清 (大洋 1950)   .327 .377
04 187安打 137/137試合 614打席563打数 藤村 富美男 (阪神 1949) .332 .388
04 187安打 149/150試合 676打席626打数 広瀬 叔功 (南海 1963)  .299 .344
06 185安打 137/140試合 646打席594打数 金山 次郎 (松竹 1950)  .311 .360
06 185安打 137/140試合 601打席557打数 青田 昇 (巨人 1950)   .332 .381
08 184安打 128/130試合 568打席503打数 新井 宏昌 (近鉄 1987)  .366 .403
08 184安打 137/137試合 622打席572打数 別当 薫 (大阪 1949)   .322 .376
08 184安打 137/140試合 588打席546打数 L・レインズ (阪急 1954) .337 .370

 

結局、イチローは9月は92打数32安打2本塁打7打点 打率.348の成績を残したが、

イチローは、200安打達成時点では、打率.393を記録していたものの、

「打率には、興味が無い。それよりも、安打数を伸ばしたい」として、シーズン最後まで試合に出続け、打率こそ落としたものの、

結局、イチローは、シーズン最多安打記録を「210」まで伸ばし、1994(平成6)年のシーズンを、

546打数210安打13本塁打54打点29盗塁 打率.385

という、見事な成績で終えた。

 

イチローは、卓越した打撃技術は勿論、足も速く、守備も大変上手いという、まさに走攻守の三拍子揃った、傑出した選手であり、

その素晴らしさは、残した数字の凄さを見れば、一目瞭然であった。

 

 

なお、優勝争いは、最後は西武が地力を発揮して混戦から抜け出し、パ・リーグ5連覇を達成、

オリックスは2位に終わったが、翌1995年に優勝を期す事となった。

また、イチローはこの年(1994年)、首位打者は勿論、最高出塁率、最多安打(※イチローの活躍により、新たにタイトルとして創設された)、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、史上最年少(20歳)でのMVP、正力賞など、多数のタイトルを獲得した。

 

(1994(平成6)年の、新語・流行語大賞。イチローの他、ドラマ『家なき子』で、安達祐実が言った「同情するなら金をくれ」も受賞)

 

 

この1994(平成6)年の、イチローの大活躍は社会現象となり、

「イチロー」という言葉は、新語・流行語大賞にも選ばれた。

そして、イチロー仰木監督は、当時の村山富市首相の元を訪れ、「振り子打法」の打撃指導(?)を行なったのであった。

 

1994(平成6)年のイチローの成績:打率.385(1位) 210安打(1位) 13本塁打 54打点 29盗塁 出塁率.445(1位) ※MVP(初)、首位打者(初)、最多安打(初)、最高出塁率(初)、ベストナイン(初)、ゴールデングラブ賞(初)

 

(つづく)