私は、歴史が大好きである。
当ブログを読んで頂いている方であれば、おわかりだとは思うが、
私は、野球は勿論、様々な事柄についての歴史を調べたりするのが非常に好きであり、
人生において、歴史を学んでいる時が、最も楽しい時であると言っても過言ではない。
ところが、最近、私の知人が、こんな事を言っていた。
「歴史なんて、1mmも興味が無い。昔の事なんか知ったって、何の意味も無い」
と、その人は言い放ったのである。
私は、それを聞いて、「うーん…」と言ったきり、何も言葉を返せなかった。
人それぞれ、物事に対する好みや好き嫌いは異なるので、
私が、どういう言うべき事ではないかもしれないが、それでも、私はその人に、こう言ってやりたかった。
「何て、勿体無い!歴史って、あんなに面白いのに…」と。
恐らく、その人は、学校の歴史の授業が、余程つまらなかったか、
或いは、学生時代に、無理矢理、年代を暗記させられたりした等、
歴史の勉強という事に対して、ネガティブな感情を抱かずにはいられないような出来事が有ったのだろう。
しかし、歴史好きとして言わせて頂くと、
歴史の勉強というのは、年代を丸暗記するとか、そういう事では決して無いし、
そもそも、歴史が暗記科目だと思っているのだとすれば、それは、大きな誤解である。
歴史は、断じて無味乾燥な暗記科目ではない。これは、断言しても良い。
もし、そう捉えている人が居るとしたら、それは、その人は学校で、よほどのヘボ教師から歴史を習っていたのではないか。
<そもそも、歴史を学ぶ意味とは!?…磯田道史先生の見解>
最近、多数のテレビ番組に出演し、大活躍している、歴史学者の磯田道史先生が、次のようなエピソードを紹介していた。
磯田道史先生が、大学で教えている女子学生に、「先生、歴史って何で勉強するんですか?昔の事を知って、何か意味が有るんですか?」と聞かれた際に、
磯田道史先生は、「じゃあ聞くけど、例えば、君が失恋したとするよね。その後、立ち直って、別の人を好きになった時に、君はどうしようとする?」と、その女子学生に質問した。
すると、その女子学生は、「うーん…。次の時は、前とは同じ失敗を繰り返さないようにしようとするかな」と答えた。
それを受けて、磯田先生は「そうか。つまり、前の経験を活かして、次は上手く行くようにするって事だよね。それが、歴史を学ぶという意味だよ」と、その女子学生に言ったそうである。
要するに、過去の失敗の経験を活かしたりする事、或いは、過去の経験の蓄積が有ってこそ、今の自分が居るという事であり、
過去と現在というのは、切り離されているわけではなく、過去と現在、そして未来というのは、全て繋がっている、だからこそ、歴史を学ぶ意味が有る、という事を、
磯田先生は、具体的なエピソードを通して、視聴者に伝えようとしていた。
つまり、「昔の事を知ったって、何の意味も無い」どころか、
昔の事を学んでいればこそ、現在や未来において、進むべき道が見えて来るわけである。
歴史嫌いの人は、その視点が欠けているのではないだろうか。
そうだとすれば、非常に勿体無い話である。
<私が、何故、歴史好きになったのか…歴史漫画、伝記漫画、偉人伝が大好きだった少年時代>
ところで、前述のように、「過去と現在は全て繋がっており、だからこそ、歴史を学ぶ意味が有る」と、
今でこそ、歴史を学ぶ意味については、私自身、そのように定義付けているのだが、
そもそも、子供の頃、何故、私が歴史好きになったのかといえば、勿論、そのような事を意識していたわけではない。
それは、ただ単純に、私はとにかく歴史に関する学習漫画を読む事が大好きな少年だったからである。
今にして思えば、本当に有り難いのだが、私の母は、何かと言えば、よく私を本屋さんに連れて行ってくれていた。
そして、「何か欲しい本が有ったら、買ってあげるよ」と言って、どれでも好きな本を選んで良いと、私に選ばせてくれていたのである。
そこで、私はよく、漫画版の『日本の歴史』や『世界の歴史』の単行本をチョイスし、母に買ってもらっていた。
そして、私は買ってもらった本を、それこそ、本がボロボロになるまで、飽きもせず読み返していた。
後で、母に聞くと、買い物に行く時に、私を本屋に連れて行くと、一番大人しくしていたので、それでよく連れて行っていたとの事だが、
ともかく、私はそのようなキッカケで、歴史という物の面白さ、楽しさに目覚めて行ったのである。
そして、『日本の歴史』や『世界の歴史』シリーズと並んで、私が大好きだったのが、
日本や世界の歴史上の人物の偉人伝や、伝記漫画であった。
これまた、母におねだりして、買ってもらっていたのだが、そういった伝記漫画では、歴史上の人物達の活躍が、活き活きと描かれていた。
従って、私にとって、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康、或いは、ナポレオンやリンカーンやキュリー夫人やヘレン・ケラーといった人物達は、
『ドラえもん』などと同じぐらい、身近な存在だった。
勿論、伝記漫画ではない、普通の漫画も大好きだったし(私は『コロコロコミック』が大好きだった)、ファミコンで『スーパーマリオ』や『ドラクエ』にも夢中になっていたが、
それらと同じぐらい、歴史上の人物は、私にとっては身近で親しみやすい人達となっていた。
今にして思えば、ちょっと変わった子供だったのかもしれない。
<高校での歴史の授業…「あれ?あんまり面白くないぞ!?」>
子供の頃から、読書をするのが好きだった事もあってか、私は、学校の授業の中では国語や社会が大好きであった(そのかわり、理数系は苦手だったが)。
そして、高校に進学し、そこで「日本史」や「世界史」の授業を受けたのだが、小学校や中学校では、歴史は「社会科」という授業の中で、その中の一つの分野として学び、
歴史を単独で学ぶようにはなっていなかったので、初めて、歴史の単独の授業が有るという事で、私はとても楽しみにしていた。
ところが、申し訳無いが、高校での「日本史」や「世界史」の授業は、あまり面白いとは思えなかった。
一言で言えば、それは、歴史のダイナミズムや、躍動感などの面白さを伝えるような授業ではなく、
それこそ、年代や事柄を淡々と教えるような、正直言って、退屈な内容に思えてしまった。
「あれ?歴史って、こんなにつまらなかったっけ…?」
と、私は思ってしまったが、歴史好きの私がそう思うぐらいだから、
元々、歴史に興味が無い同級生など、ますます歴史に興味を失っているようだった。
ともかく、あの授業で、歴史に新たに興味を持つような生徒は居なかったのではないだろうか。
<司馬遼太郎と、「菅野の日本史」、そして驚異の同級生>
そんなわけで、高校の歴史の授業は、あまり面白いとは思えなかった私であるが、
その高校時代に、重要な転機が有った。
実は、私の父は司馬遼太郎の大ファンであり、家には、父の蔵書で、司馬遼太郎の本が沢山有ったのだが、
私が高校生の頃、その司馬遼太郎が亡くなったのである。
「司馬遼太郎が、死んじゃったよ…」
司馬遼太郎の訃報を知って、父は呆然としていたが、司馬遼太郎は享年70歳であり、亡くなるには早かった。
まだまだ活躍して欲しいと、父は勿論、全国のファンが思っていたに違いない。
私は、それまで司馬遼太郎は、あまり読んでいなかったのだが、彼が亡くなったのを機に、本格的に読んでみる事にした。
すると、『竜馬がゆく』などは本当に面白くて、それこそ、寝食も忘れて、夢中になって読み耽ってしまった。
「何これ!?超面白いんだけど!!」
私は、高校の授業では味わえないような、歴史の面白さを久方振りに味わい、とても興奮していた。
そして、司馬遼太郎の著作を、片っ端から読む事となった。
そしてもう一つ、高校時代の私にとって、大きな転機となったのが、
歴史が大得意だった同級生(仮に、A君としておく)の存在と、彼から教えてもらった「菅野の日本史」である。
当時、A君は抜群に日本史が得意であり、物凄い知識量だったのだが、
私は、「あいつ、いつの間に、あんな知識を身に着けたんだ」と、ビックリした。
私は、A君に、その秘訣を聞いたところ、A君から「菅野の日本史」という参考書の存在を教えてもらった。
それは、代々木ゼミナールの日本史の講師・菅野祐孝の、日本史の講義の模様を、そのまま書籍化したものであり、
それを読むと、まるで、本当に代ゼミの教室で、菅野先生の日本史の授業を聞いているかのような臨場感が有った。
そして、その「菅野の日本史」の中で、繰り返し語られていたのは、
「歴史を学ぶにおいて、一番大事な事は、とにかく、歴史の「流れ」を掴む事。何故、その出来事が起こったのか、前後の流れという全体像を捉える事」
という事であった。
つまり、何かの出来事には、必ず原因と結果というものが存在し、
歴史も、一つの大きなストーリーとして捉え、その流れの中で、把握するようにすべしと、菅野先生は言っていたわけである。
私は、まさに「我が意を得たり!」という思いであった。
<歴史とは、「大きなストーリー」と「人間ドラマの積み重ね」である!!>
勿論、受験勉強などにおいては、覚えなければならない歴史用語や年代も有る事は確かなのだが、
それよりも、「〇〇という出来事の前に、△△という出来事が有り、それが原因となって、〇〇という出来事が有った。その結果として、◇◇という出来事に繋がった」という全体像が捉えられていれば、自ずと、それらも頭に入りやすくなる。
そう考えると、歴史は無味乾燥な暗記科目では断じてないという事が、よくわかるであろう。
そして、子供の頃、私が夢中になった伝記漫画を通して学んだのは、「歴史とは、人間ドラマの積み重ね」という事である。
そんな面白い「歴史」という物を、食わず嫌いで遠ざけてしまうのは、本当に勿体ないと、私は改めて言わせて頂きたい。
というわけで、私の「歴史」に対する思いについて書かせて頂いたが、
次回は、私が思う「野球の歴史」に対する見解について、書かせて頂く予定である。