1985(昭和60)年、サザンオールスターズは、デビュー8年目にして、
それまでの活動の集大成とも言うべき、2枚組アルバム『KAMAKURA』をリリースした。
そして、サザンは『KAMAKURA』のリリースを最後に、一時、活動休止する事となった。
そして、プロ野球では、阪神タイガースが長い眠りから醒め、21年振りのリーグ優勝、そして球団史上初の日本一を達成し、
日本列島に、前代未聞の「虎フィーバー」を巻き起こした。
そんな1985(昭和60)年について、描いてみる事としたい。
<1985(昭和60)年…サザンオールスターズの集大成の年…2枚組アルバム『KAMAKURA』のレコーディングに集中>
1985(昭和60)年、サザンオールスターズはデビュー8年目を迎え、押しも押されもせぬ超人気バンドとして、不動の地位を築いていたが、
この年(1985年)、29歳となっていた桑田佳祐と、サザンのメンバー達は、1985年をサザンの活動の集大成の年と位置付けていた。
サザンは、前年(1984年)冬から、『KAMAKURA』というアルバムのレコーディングを開始し、意欲的に、当時最新だったデジタルサウンドを取り入れるなど、新しい音楽作りに没頭していた。
サザンは、『KAMAKURA』というアルバムで、サザンというバンドの全てを表現しようとしていた。
<サザン、『KAMAKURA』の先行シングル『Bye Bye My Love』をリリース!!>
(1985(昭和60)年、「夜のヒットスタジオ」で『Bye Bye My Love』を歌う、サザンオールスターズ)
この年(1985年)の5月29日、サザンは『KAMAKURA』の先行シングルとして、
サザン22枚目のシングル『Bye Bye My Love』をリリースし、オリコン最高4位のヒット曲となった。
『Bye Bye My Love』は、デジタル・サウンドと、爽やかでありながら、何処か切ない曲調と、何と言っても、失恋をテーマにした、切ない詞が素晴らしい。
この曲を聴くと、やはりサザンは素晴らしいと思うのと同時に、桑田佳祐は天才だと改めて思わされる。
『Bye Bye My Love』もまた、サザンの歴史に残る名曲の一つであると言えよう。
<サザン、『KAMAKURA』の先行シングル第2弾・『MELODY(メロディ)』をリリース!!>
(1985年、「ザ・ベストテン」で『MELODY(メロディ)』を歌う、サザンオールスターズ)
同年(1985年)8月21日、『KAMAKURA』の先行シングル第2弾として、サザン23枚目のシングル『MELODY(メロディ)』をリリースし、オリコン最高2位の大ヒット曲となった。
『MELODY(メロディ)』は、サザンの王道の名バラードであるが、こういう曲を書かせたら、桑田佳祐の右に出る者は居ない。
そして、『MELODY(メロディ)』は、プロのミュージシャンからの評価も非常に高い、素晴らしい名曲である。
<サザン集大成の2枚組アルバム『KAMAKURA』をリリース!!…そして、サザンは活動休止へ>
こうして、1985(昭和60)年9月14日、約1年がかりで、レコーディングに約1800時間を費やしたという、
サザンオールスターズの集大成的な2枚組アルバム『KAMAKURA』が、満を持してリリースされた。
『KAMAKURA』は、当時最新のデジタルサウンドを貪欲に取り入れ、サザンが気合いを入れて、自分達のやりたい音楽を徹底的に追求したアルバムであり、今聴いても、その意気込みが伝わって来るようである。
なお、『KAMAKURA』のリリースの際には、桑田佳祐の友人・明石家さんまが、『KAMAKURA』のCMに出演し、話題となったが、
その甲斐も有って、『KAMAKURA』はサザンのアルバム6作連続のオリコン最高1位、当時のサザン史上最高の大ヒットとなった。
このCMで、明石家さんまは『KAMAKURA』を「国民待望の2枚組アルバム」と言っていたが、サザンはまさしく「国民的バンド」とも言うべき存在となっていた。
また、『KAMAKURA』に収録されている曲の中で、原由子がメイン・ボーカルを務めている『鎌倉物語』には、こんなエピソードが有る。
当時、原由子のお腹の中には長男が居り、長男がお腹の中に居る状態で、桑田佳祐・原由子夫妻が住んでいた自宅に、レコーディングの機材を積んだトラックを横付けした。そして、原由子はベッドに横になった状態で、『鎌倉物語』のレコーディングを行なったという。
これは、桑田佳祐・原由子夫妻にとっては、忘れられないエピソードであろう。
そして、桑田佳祐の母校・鎌倉学園で過ごした思い出の日々をテーマにした『夕陽に別れを告げて』も、名曲である。
ともかく、『KAMAKURA』は、サザンにとって記念碑的なアルバムである事は間違いない。
しかし、当時のサザンは『KAMAKURA』で、もはや、やるべき事は全てやり尽くしてしまった感が有った。
そして、前述の通り、原由子の出産の事もあり、サザンは同年(1985年)9~10月にかけて、アフリカのセネガルのバンド、トゥレ・クンダとのジョイント・コンサートを最後に、サザンは、バンドとしての活動を休止する事となった(原由子は、このコンサートの際には産休に入っており、初めて、サザンのコンサートを外から見て、感激の涙を流したという)。
こうして、1978(昭和53)年のデビュー以来、走り続けて来たサザンオールスターズは、一時、バンド活動をお休みをして、各メンバーのソロ活動を開始する事となった。
<1985(昭和60)年、『ふろぞいの林檎たちⅡ』と、サザンの「バラッド2」>
1985(昭和60)年3~6月にかけて、TBSのテレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』(1983年)の続編として、『ふぞろいの林檎たちⅡ』が放送された。
前作『ふぞろいの林檎たち』の出演メンバー、中井貴一、時任三郎、柳沢慎吾、手塚理美、石原真理子、中島唱子、国広富之、高橋ひとみらが、引き続き出演し、それぞれ、社会の中で奮闘する人間模様が描かれ、前作に引き続き、『いとしのエリー』をはじめ、劇中では全編、サザンの曲が使用された。
(1982(昭和57)年にリリースされた『バラッド』)
(1987(昭和62)年にリリースされた、『バラッド2』)
また、2年後の1987(昭和62年)には、サザンのバラード・ベストアルバム『バラッド2』がリリースされたが、
こちらも、1982(昭和57)年にリリースされた『バラッド』の続編であり、1983~1985年にかけてのサザンのバラードの楽曲が収録されている。
サザンは、レコードとして公式発売された作品の他、カセットテープでのコンピレーション企画で、何種類もの「ベスト盤」が有ったが、
『バラッド』は、その中でも特に好評で、レコード化(後にCD化)されたものであり、当時は、サザン唯一の公式ベスト盤であった。
というわけで、もし、サザンの名バラードを全部聴いてみたいというのであれば、『バラッド』シリーズは、オススメである。
<松田聖子、神田正輝と電撃結婚!!>
1985(昭和60)年1月、松田聖子は、かねてより交際していた郷ひろみと別れた事を、涙ながらに告白した。
しかし、その舌の根も乾かぬ内にというか、同年(1985年)6月、松田聖子は神田正輝と電撃結婚を発表し、世間をアッと言わせた。
「聖輝の結婚」と称され、芸能マスコミは大騒ぎとなったが、この頃から、「松田聖子は、やはりタダ者ではない」と、転んでもタダでは起きない松田聖子に対し、世間は畏敬の念を抱くようになった。
そして、この年(1985年)も、松田聖子は『天使のウィンク』、中森明菜は『ミ・アモーレ』など、大ヒット曲を出した。
それぞれ、歌の実力は甲乙付け難いが、1985年は、松田聖子が芸能人としてのバイタリティの強さを示した年であった。
<秋元康の登場と、とんねるずとおニャン子クラブの大ブレイク!!>
1985(昭和60)年、フジテレビの「夕やけニャンニャン」で、とんねるず(石橋貴明、木梨憲武)は、大人気となっていた。
そして、当時、作詞家デビューしたばかりの秋元康も、この頃から頭角を現していた。
そして、秋元康が仕掛け人となり、とんねるず『雨の西麻布』や、「夕やけニャンニャン」から生まれたおニャン子クラブ『セーラー服を脱がさないで』といった大ヒット曲が生まれた。
秋元康は、時代の流れを読み、新たな流行を生み出す事に長けており、おニャン子クラブの大ブームを巻き起こし、また、とんねるずは、破天荒なキャラクターで大ブレイクを果たした。
このように、明らかに、芸能界の時代の潮流が変わろうとしていたのである。
また、この年(1985)年は、C-C-B『Romanticが止まらない』、杉山清貴&オメガトライブ『ふたりの夏物語』、TBSの「金曜日の妻たちへ」(所謂「金妻」)の主題歌の、小林明子『恋におちて』、小林旭『熱き心に』なども大ヒットした。
それぞれ、時代を彩った名曲ばかりである。
<1985(昭和60)年の「ザ・ベストテン」とオリコンの年間ヒット曲ランキング>
1985(昭和60)年の「ザ・ベストテン」の年間総合「ベスト10」は、下記の通りである。
【1985(昭和60)年「ザ・ベストテン」年間総合ベスト10】
①『悲しみにさよなら』(安全地帯)
②『ふたりの夏物語』(杉山清貴&オメガトライブ)
③『ミ・アモーレ』(中森明菜)
④『あの娘とスキャンダル』(チェッカーズ)
⑤『俺たちのロカビリーナイト』(チェッカーズ)
⑥『そして…めぐり逢い』(五木ひろし)
⑦『恋におちて』(小林明子)
⑧『SAND BEIGE』(中森明菜)
⑨『Bye Bye My Love』(サザンオールスターズ)
⑩『天使のウインク』(松田聖子)
この年(1985年)「ザ・ベストテン」で年間1位となったのが、
玉置浩二率いる安全地帯の『悲しみにさよなら』であった。
チェッカーズに続き、安全地帯も大ブレイクを果たし、当時、チェッカーズ・安全地帯は、人気を二分していたと言って良い。
そして、玉置浩二の歌唱力は素晴らしいと、私は思う。
この年(1985年)「ザ・ベストテン」に、大きな動きが有った。
1978(昭和53)年の放送開始以来、「ザ・ベストテン」は黒柳徹子・久米宏が司会を務めていたが、
久米宏が、遂に「ザ・ベストテン」の司会を降板したのである。
黒柳徹子は、久米宏の事を強く引き留めたが、久米宏の意思は固かった。
そして、久米宏が何故、「ザ・ベストテン」を降板したのかといえば、
同年(1985年)10月から、テレビ朝日で放送開始される「ニュースステーション」の司会に就任する事が決まっていたからである。
番組が始まるまでは、この事は絶対に他言無用だったので、黒柳徹子にも、その事を言う事が出来ず、久米宏も辛かったという。
ともあれ、久米宏は「ザ・ベストテン」を降板し、「ニュース・ステーション」のキャスターとなったが、
久米宏は、「ザ・ベストテン」の現場で鍛えられた「アドリブ力」を「ニュース・ステーション」でも遺憾なく発揮する事が出来た。
そして、1985(昭和60)年のオリコンの年間総合ランキングは、ご覧の通りであるが、
この年(1985年)中森明菜は、『ミ・アモーレ』で遂に日本レコード大賞を受賞した。
中森明菜は、僅かデビュー3年にして、日本音楽界の頂点に立ったわけであるが、
これまで見て来た通り、「松田聖子VS中森明菜」というライバル対決が有ったからこそ、中森明菜は、こんなに早く頂点に駆け上がったといえるのではないだろうか。
なお、この時、中森明菜は20歳だったというのだから、凄い。
中森明菜は、普通の人では考えられない、物凄く濃密な20歳の経験をしていたと言えよう。
<1985(昭和60)年、阪神タイガースが21年振り優勝!!球団史上初の日本一で「虎フィーバー」に>
1985(昭和60)年のプロ野球は、何と言っても、吉田義男監督率いる阪神タイガースの21年振りの優勝、そして球団史上初の日本一達成により、
日本中に巻き起こった、前代未聞の「虎フィーバー」に尽きるであろう。
阪神は、4月17日の甲子園での阪神-巨人戦で、バース、掛布雅之、岡田彰布のバックスクリーン3連発で勢いに乗ると、そのまま、猛虎打線が大爆発し、阪神はリーグ優勝まで突っ走ってしまった。
(落合博満(ロッテ)、ブーマー(阪急)、バース(阪神)の三冠王揃い踏み)
三冠王を獲得したバースの猛打は、日本シリーズでも炸裂した(パ・リーグでも、落合博満(ロッテ)が二度目の三冠王を達成)。
この年(1985年)の日本シリーズは「阪神VS西武」の対決となったが、
阪神タイガースは、西武を4勝2敗で破り、阪神は球団史上初の日本一の座まで駆け上がった。
この年(1985年)の阪神優勝、そして日本中の阪神ファンによるお祭り騒ぎは、今もなお、伝説として語り継がれている。
(つづく)