サザンオールスターズは、1981(昭和56)年、デビュー4年目を迎えたが、
桑田佳祐による、他アーティストへの楽曲提供や、原由子のソロデビューなども有り、
いよいよ、多角的な活動が目立って来た。
そんな中、リリースされたのが、サザンの4枚目のアルバム『ステレオ太陽族』であるが、
これは本当に、初期サザンの中でも掛け値なしの名盤である。
この時期の、サザンというバンドの音楽性の豊かさを存分に味わえるアルバムと言って良い。
一方、野球界の方では、前年(1980年)にON(王・長嶋)が第一線から退いたが、
原辰徳をはじめ、新たなスターが続々と誕生し、球界を盛り上げた。
<原由子、『I LOVE YOUはひとりごと』でソロデビュー!…しかし、まさかの放送禁止に>
前年(1980年)に、アルバム『タイニイ・バブルス』に収録されていた『私はピアノ』で、初めてメイン・ボーカルを務めた原由子が、
この年(1981年)の4月21日、『I LOVE YOUはひとりごと』で、ソロデビューを果たした(作詞・作曲は桑田佳祐)。
しかし、『I LOVE YOUはひとりごと』は、歌詞が卑猥だというのと、曲中でニューハーフの人が台詞を喋るという構成が物議を醸し、何と、放送禁止という憂き目に遭ってしまった。
『I LOVE YOUはひとりごと』が放送禁止になった事に対し、
桑田佳祐は女装をして原宿を練り歩いたり、サザンは、所属レコード会社・ビクターの屋上で、抗議ライブを行なった。
屋上ライブは、あのビートルズを真似したものであったが、このパフォーマンスは大いに話題になった。
また、原由子は、『I LOVE YOUはひとりごと』と同日(1981年4月21日)に、
初のソロアルバム『はらゆうこが語るひととき』もリリースしており、本格的にソロ活動を行なった。
このように、サザンのキーボード担当にして、バックコーラスを担当し、いつも桑田佳祐を支えている原由子が、ソロ・アーティストとしても、その才能を開花させたのであった。
<1981年のサザン…シングルの売り上げは伸び悩むも、名盤『ステレオ太陽族』は大ヒット!!>
この年(1981年)の6月21日、サザンは12枚目のシングル『Big Star Blues(ビッグスターの悲劇)』をリリースした。
『Big Star Blues(ビッグスターの悲劇)』は、桑田佳祐が、自らを道化的存在として茶化してみせたり、
前年(1980年)に、ジョン・レノンが狂信的ファンに射殺されてしまった事件について触れたりと、
それまでのサザンが得意としていた恋愛ソングとは、一線を画す内容となっている。
また、同年(1981年)9月21日には、シングル『栞(しおり)のテーマ』をリリースしたが、
これは、サザン4枚目のアルバム『ステレオ太陽族』と同日に発売されたものである。
『栞(しおり)のテーマ』は、サザンの歴史でも屈指の名曲であり、今や、サザンファンでは知らない人は居ない程の素晴らしい曲であるが、
リリース当時は、『Big Star Blues(ビッグスターの悲劇)』がオリコン最高49位、『栞(しおり)のテーマ』はオリコン最高44位と、今では信じ難いほど、全くと言って良いぐらい、売れなかった。
そのかわりと言っては何だが、サザン4枚目のアルバム『ステレオ太陽族』は、前作『タイニイ・バブルス』に続き、
オリコン最高1位と大ヒットを記録した。
このように、この時期のサザンは、完全に、玄人好みのアルバム・アーティスト的存在となっていた。
なお、『ステレオ太陽族』は、ハズレ曲が一つも無い、名曲の宝庫である。
初期サザンの集大成的なアルバムと言って良く、私も数えきれないぐらい聞き込んだ。
全体的に、渋めな雰囲気でありながら、骨太なバンド・サウンドが根底にあり、
『ステレオ太陽族』は、何度聞いても聞き飽きない、色褪せない魅力が有ると、強くお勧めさせて頂きたい。
<映画『モーニング・ムーンは粗雑に』の音楽プロデュースと、タモリへの楽曲提供>
この年(1981年)は、サザンが『モーニング・ムーンは粗雑に』の音楽プロデュースを担当し、
この映画では、サザンの『ステレオ太陽族』の楽曲が多数使用された。
また、『モーニング・ムーンは粗雑に』に主演した高樹澪に、桑田佳祐は『恋の女のストーリー』という楽曲を提供しているが、
この曲は『ステレオ太陽族』で、桑田佳祐がボーカルのサザン版も収録されており、聞き比べてみるのも一興である。
そして、同年(1981年)は、桑田佳祐はタモリに『狂い咲きフライデイ・ナイト』という、タモリのルーツとも言うべき、ジャズ歌謡の曲調の曲を提供している。
このように、1981(昭和56)年のサザンは、シングルの売り上げこそ今一つだったものの、
名盤『ステレオ太陽族』のリリースと、桑田佳祐の作家性が大いに開花し、サザンと桑田佳祐が、アーティストとして確実に成長を見せた年だったと言って良いであろう。
<1981年、『ルビーの指環』の大ヒットと、ヒットチャートを賑わせたアイドル達>
1981(昭和56)年も、実に多彩なヒット曲が生まれたが、この年(1981年)を象徴する最大のヒット曲といえば、
何と言っても、寺尾聰の『ルビーの指環』であろう。
『ルビーの指環』は、TBS「ザ・ベストテン」で12週連続1位という大記録を達成したが、
この記録は、1989(平成元)年の番組終了まで、とうとう破られる事は無かった。
また、デビュー2年目の松田聖子は、この年(1981年)も『夏の扉』『風立ちぬ』などの名曲を次々にリリースし、いずれも大ヒットを飛ばしたが、「聖子ちゃんカット」は、もはや社会現象と言っても良い程、大流行した。
1981(昭和56)年の松田聖子も、前年(1980年)の勢いを更に加速させ、スーパーアイドル街道を驀進していた。
また、前年(1980年)にデビューし、トシちゃん(田原俊彦)と共にヒットチャートを賑わせたマッチ(近藤真彦)は、
前年(1980年)末にリリースし、『スニーカーぶるーす』を大ヒットさせると、この年(1981年)には『ギンギラギンにさりげなく』が大ヒットした。
トシちゃん(田原俊彦)も、前年(1980年)の『ハッとして!Good』ほどではないが、『恋=Do!』などの曲をヒットさせ、
この年も、マッチ(近藤真彦)とトシちゃん(田原俊彦)は、ヒットチャートと歌番組を大いに盛り上げた。
また、「西城秀樹の妹分」としてデビューした河合奈保子も、『スマイル・フォー・ミー』をヒットさせた。
このように、ヒットチャート戦線は、アイドルが目白押しであった。
<映画とテレビ番組が生んだ、異色の大ヒット曲>
この年(1981年)は、大ヒットした映画やテレビ番組、テレビドラマからもヒット曲が生まれた。
角川映画『セーラー服と機関銃』(原作・赤川次郎)に主演し、薬師丸ひろ子が歌った主題歌は、映画共々、大ヒットを記録した。
また、「視聴率100%男」の異名を取った、欽ちゃんこと萩本欽一の大人気番組『欽ドン』(フジテレビ)からは、
イモ欽トリオの『ハイスクールララバイ』という大ヒット曲が生まれ、
日本テレビで放送されたテレビドラマ『池中玄太80キロ』からは、杉田かおるの『鳥の詩』と、西田敏行の『もしもピアノが弾けたなら』という大ヒット曲も生まれた。
このように、サザンがシングルの売り上げで苦戦する中、
ヒットチャートは、多種多彩な歌手達により、大いに盛り上がっていたのであった。
<1981(昭和56)年の「ザ・ベストテン」と、オリコンの年間ヒット曲ランキング>
では、ここで1981(昭和56)年の「ザ・ベストテン」の年間総合「ベスト10」を、ご紹介させて頂く。
【1980(昭和55)年「ザ・ベストテン」年間総合ベスト10】
①『ルビーの指環』(寺尾聰)
②『みちのくひとり旅』(山本譲二)
③『長い夜』(松山千春)
④『奥飛騨慕情』(竜鉄也)
⑤『ハイスクールららばい』(イモ欽トリオ)
⑥『街角トワイライト』(シャネルズ)
⑦『ブルージーンズメモリー』(近藤真彦)
⑧『守ってあげたい』(松任谷由実)
⑨『スニーカーぶるーす』(近藤真彦)
⑩『ヨコハマ・チーク』(近藤真彦)
1981(昭和56)年といえば、やはり寺尾聰の『ルビーの指環』に尽きる。
前述の通り、『ルビーの指環』は、「ザ・ベストテン」で「12週連続1位」という、不滅の大記録を樹立したが、
結局、この記録は「ザ・ベストテン」終了まで、遂に更新される事は無かった。
なお、『ルビーの指環』が大ヒットしていた頃、桑田佳祐は、
「あの頃、僕らは自分達の事で必死だったから、他の人のヒット曲なんて、気にしている余裕は無かった」
と、後に語っている。
なお、寺尾聰は、『ルビーの指環』がヒットしていた頃、『シャドー・シティ』『出航 SASURAI』という曲もヒットさせており、
「ザ・ベストテン」で、3曲同時ランクインという快挙も達成している。
従って、寺尾聰は、歌手としては決して『ルビーの指環』だけの「一発屋」ではなかったのである。
なお、『ルビーの指環』は大ヒット街道を驀進し、
この年(1981年)寺尾聰は、『ルビーの指環』で、日本レコード大賞を受賞した。
1981(昭和56)年は、寺尾聰が日本音楽界の頂点に立った年であった。
この年(1981年)は、「マッチ」こと近藤真彦が、前年(1980年)の「トシちゃん」田原俊彦に続き、大旋風を巻き起こした。
前年(1980年)12月、『スニーカーぶるーす』で歌手デビューを果たした近藤真彦であるが、
『スニーカーぶるーす』は、翌1981(昭和56)年にかけて大ヒットし、近藤真彦は一躍、大ブレイクを果たした。
なお、『スニーカーぶるーす』は、1981(昭和56)年の「ザ・ベストテン」の年間総合9位となった。
この年(1981年)、マッチ(近藤真彦)は、『ヨコハマ・チーク』(「ザ・ベストテン」年間総合10位)、『ブルージーンズメモリー』(「ザ・ベストテン」年間総合7位)を、立て続けに大ヒットさせた。
「トシちゃん」(田原俊彦)の人気も凄かったが、「マッチ」(近藤真彦)の人気も凄まじく、
近藤真彦にも、女の子達の「親衛隊」が付いていた。
なお、前述の通り、近藤真彦も田原俊彦と同様、「3年B組金八先生」に出演し、大人気となっていた。
そして、この年(1981年)近藤真彦は、『ギンギラギンにさりげなく』も大ヒットさせたが、
近藤真彦は日本レコード大賞で「最優秀新人賞」を受賞し、『ギンギラギンにさりげなく』で、「紅白」出場も果たしている。
このように、1981(昭和56)年マッチ(近藤真彦)は出す曲出す曲が、全て大ヒットとなったが、
『スニーカーぶるーす』『ヨコハマ・チーク』『ブルージーンズメモリー』は、いずれも作詞:松本隆、作曲:筒美京平の作品であり、
『ギンギラギンにさりげなく』は、作詞:伊達歩、作曲:筒美京平であった。
そして、近藤真彦は、筒美京平の「歌唱指導」を受けたが、
「君は、とにかく元気良く、思いっきり歌いなさい」
と、マッチは筒美京平に言われたという。
近藤真彦は、お世辞にも歌が上手いとは言えないが、
歌唱力など気にせず、とにかく元気良く歌った事が、女の子達の心を掴み、これらの大ヒットに繋がったのかもしれない。
この年(1981年)は、あまりテレビに出ない「ニュー・ミュージック」勢も、大ヒットを飛ばした。
松山千春は、当時、殆んどテレビには出ていなかったが、圧倒的な歌唱力で大人気となっており、
この年(1981年)松山千春は『長い夜』(「ザ・ベストテン」年間総合3位)という大ヒットを飛ばしている。
松山千春が、沢山テレビに出るとうになるのは、もっと後の事である。
ユーミン(松任谷由実)も、当時、テレビには殆んど出ていなかった。
しかし、この年(1981年)ユーミン(松任谷由実)は『守ってあげたい』(「ザ・ベストテン」年間総合8位)という、大ヒット曲を出した。
テレビでは、アイドルや歌謡曲が持て囃される一方、これらの「ニュー・ミュージック」勢は、テレビとは一線を画し、音楽活動を行なっていた。
しかし、それでも素晴らしい音楽を作っていれば、ファンから正当に評価されるという時代でもあった。
ユーミン(松任谷由実)は、この後、日本音楽界の女性アーティストのトップに君臨し、長きにわたり活躍して行く事となるのである。
山本譲二の『みちのくひとり旅』は、「ザ・ベストテン」の年間総合2位という大ヒットとなったが、
山本譲二は、高校時代に甲子園の出場経験も有るという、高校球児だった。
その山本譲二は、北島三郎に見出され、歌手デビューを果たし、遂に『みちのくひとり旅』という大ヒット曲を生み出したのである。
という事で、1981(昭和56)年のオリコン年間総合ベスト10は、ご覧の通りであるが、
前述の通り、デビュー2年目の松田聖子は、スーパーアイドル街道を驀進していた。
この年(1981年)に松田聖子が歌い、大ヒットさせたのは、『チェリーブラッサム』『夏の扉』『白いパラソル』『風立ちぬ』などであるが、『チェリーブラッサム』は、オリコン年間総合9位の大ヒットである。
まさに、松田聖子は向かう所敵無しであるかのように見えたが、翌1982(昭和57)年、松田聖子にライバルが登場する事となる。
<1981(昭和56)年、ヤング・ジャイアンツの躍動と、巨人VS日本ハムの「後楽園決戦」>
1980(昭和55)年、巨人とプロ野球を長年支えて来たスーパースター、ON(王貞治・長嶋茂雄)が、相次いで球界の第一線から去り、球界は大きな過渡期を迎えていた。
そんな中、同年(1980年)オフのドラフト会議で、東海大学の原辰徳が、巨人、大洋、広島、日本ハムの4球団からドラフト1位で指名され、
抽選の結果、巨人の新監督・藤田元司監督が、見事に抽選で原辰徳を引き当て、原辰徳は、相思相愛の巨人に入団した。
東海大相模-東海大学を通じて、超人気アイドル選手だった原辰徳は、
巨人入団1年目の1981(昭和56)年、周囲からの期待に応え、打率.268 22本塁打 67打点の成績で、新人王を獲得する大活躍を見せた。
すると、原辰徳の大活躍に刺激され、巨人は江川卓と西本聖の両エースを軸とする投手陣と、中畑清、篠塚利夫らの打線も奮起し、巨人は見事に4年振りのリーグ優勝を果たした。
一方、パ・リーグでは、「大沢親分」こと大沢啓二監督率いる日本ハムファイターズが、
この年(1981年)、広島から日本ハムへと移籍し、「優勝請負人」と称され、絶対的な抑えの切り札として君臨した守護神・江夏豊の大活躍もあって、日本ハムは後期優勝を果たすと、
日本ハムは、プレーオフで、前期優勝のロッテオリオンズを3勝1敗1分で破り、
日本ハムが、前身の東映フライヤーズ以来、19年振りのリーグ優勝を果たした。
こうして、日本シリーズは、巨人VS日本ハムという、後楽園球場を本拠地とする球団同士の「後楽園決戦」となったが、
巨人が、4勝2敗で日本ハムを破り、V9を達成した1973(昭和48)年以来、8年振りの日本一の座に就いた。
この時の「後楽園決戦」は、巨人と日本ハムが、交互にホームチームだったりビジターチームだったりしたが(第1~2戦は日本ハム、第3~5戦は巨人、第6戦は日本ハムが、それぞれ主催)、
日本ハムの主催試合の時も、後楽園球場は殆んどが巨人ファンで埋め尽くされていた。
それだけ、当時の巨人の人気ぶりは圧倒的だったという事である。
一方、「後楽園決戦」が実現してしまったばかりに、日本ハムのファンは、日本シリーズでは肩身の狭い思いをする事になってしまったのは、大変に気の毒であった。
(つづく)