長い間、法政大学の市ヶ谷キャンパスを象徴する建物として、法政の学生や教職員達に親しまれて来たのが、
この程、解体される運びとなった、「55年館」と「58年館」である。
今回は、建築家・大江宏によって作られた「55年館」と「58年館」と、
その「55年館」や「58年館」を中心に花開いた、法政大学の素晴らしい時代について、描いてみる事とする。
<太平洋戦争の激化により、学徒出陣が行われる…二度と帰らなかった若者達>
1941(昭和16)年12月8日、日本の真珠湾攻撃によって幕を開けた太平洋戦争は、
当初、日本が優勢に戦いを進めたものの、1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦での敗北を機に、
日本が、守勢に立たされる事となった。
日本は、国を挙げて戦ったが、やがて武器や弾薬や物資ばかりでなく、兵士の数も足りなくなった。
そして、1943(昭和18)年には、大学生の徴兵免除も停止され、多くの大学生達が、学徒出陣により、戦地へと旅立って行った。
法政大学でも、多くの学生達が、学業も半ばにして、学徒出陣により、戦火に飛び込んで行った。
そして、数多くの尊い生命が犠牲となってしまったのであった。
なお、1990(平成2)年には、法政大学当局から、戦没した学生達の遺族に、卒業証書が贈られている。
<戦後の法政、焼け跡からの再スタートと、法政野球部の戦後初優勝!!>
1945(昭和20)年8月15日、長かった戦争が終わった。
日本は、戦時中、米軍による激しい空襲に晒され、日本中が焼け野原となっていたが、
法政大学も、その例外ではなく、(比較的、被害は少ない方だったとはいえ)校舎の半分以上が焼失していた。
その焼け残った校舎に、戦争を生き延びた学生達が、次々に帰って来た。
戦後の法政は、焼け跡から始まったが、やがて彼らは、力強く歩み始めた。
戦争により中断されていた東京六大学野球も、1946(昭和21)年春に再開されたが、
1948(昭和23)年秋、法政はエース・関根潤三投手が、一人で9勝を挙げる大活躍で、
法政は戦後初優勝を達成した(1941(昭和16)年春以来、7年振り)。
関根潤三は、法政時代に通算41勝30敗という成績で、法政の先輩・若林忠志以来、
六大学史上2人目の通算40勝を達成し、卒業後は近鉄に入団、投打二刀流として大活躍した。
関根潤三の大活躍は、戦後の法政の希望の灯となった。
<大内兵衛総長と大江宏のタッグで、「55年館」と「58年館」が誕生!!>
(戦後の法政大学の礎を築いた、大内兵衛)
1947(昭和22)年、法政大学は、従来の法文学部を法学部と文学部に分離させ、
同年(1947年)、経済学部も新設し、法・文・経済の3学部体制となった(同年、通信教育課程も誕生)。
1949(昭和24)年には、学校教育法施行により、法政大学は新制大学として、名実共に、再スタートを切った。
そして、1950(昭和25)年、法政大学の総長に、東大出身の経済学者・大内兵衛が就任した。
大内兵衛は、就任早々、法政に工学部を新設すると、法政の市ヶ谷キャンパスの大改革に乗り出した。
(法政大学の「55年館」、「58年館」を作った、大江宏)
大内兵衛は、建築家の大江宏を、新設されたばかりの工学部教授に迎え入れると、
大内兵衛は、大江宏に、全面的に法政の市ヶ谷キャンパスの、新たな建物の設計と建築を任せた。
新たな法政の市ヶ谷キャンパスの構築という大任を負った大江宏は、自らのアイディアの全てを注ぎ込み、
全身全霊をかけ、素晴らしい建物を作り上げた。
(完成当時の、法政大学の「55年館」、「58年館」)
それが、1955(昭和30)年に完成した「55年館」と、1958(昭和33)年に完成した「58年館」である。
ちなみに、正面から見て、向かって右側が「55年館」で、向かって左側が「58年館」であるが、
「55年館」と「58年館」は、大江宏が、モダニズム建築の粋を集めて作り上げた、先進的な建物だった。
まず、「55年館」と「58年館」の前には、ピロティという建物が有るが、
ピロティとは、2階以上の建物において、地上部分が柱(構造体)を残して外部空間とした建築形式の事である。
法政のピロティは、1階部分には学生用の掲示板などが有り、学生達からは「ピロ下」という愛称で呼ばれた。
(法政大学の校舎のスロープで、卒業記念写真を撮る学生達)
また、新たに完成した校舎の裏手には、全階にスロープが付けられた。
これは、まだバリアフリーという概念が無かった時代に、とても先進的な試みであったと言えよう。
(学生ホールで、学生プロレスも開催された)
その他、「55年館」と「58年館」の素晴らしさを挙げたらキリは無いが、
校舎のど真ん中に学生ホールが有ったというのも、非常に素晴らしい。
これは、法政の市ヶ谷キャンパスが、単なる校舎ではなく、
「法政コミュニティ」を形作る場である、という考え方により、作られたものであるという。
(大内兵衛総長(左)と、大江宏・工学部教授(右))
こうして、大江宏は、見事に大内兵衛の期待に応え、「55年館」と「58年館」を作り上げたが、
勿論、法政の発展は、その素晴らしい校舎に集う学生達が作り上げたものである、というのは言うまでもない。
<「55年館」と「58年館」の、教室の呼び名について>
(511教室の前に有る、大内兵衛の書による『論語』の一節「學而不思則罔、思而不學則殆」(学びて思わざれば、すなわちくらし。思いて学ばざれば、すなわちあやうし)
(2016年に取り壊された、511教室)
(ピロティ上部に位置する835教室)
(「55年館」と「58年館」の境目)
法政大学の「55年館」と「58年館」には、沢山の教室が有るが、
その教室の名称には、法則が有る。
教室を示す数字の頭が「5」であれば、「55年館」に有る教室という意味であり、
教室を示す数字の頭が「8」であれば、「58年館」に有る教室という意味である。
そして、教室を示す数字の2桁目は、その教室が有る階数を示している。
例えば、法政の市ヶ谷キャンパスで最も大きい教室だった「511」は、「55年館の1階」に有り、
ピロティ上部の教室、「835」は、「58年館の3階」に有るという事を意味するが、
これを頭に入れておけば、どの教室にも非常に行きやすい。
「なるほど、よく考えられたものだ」と、法政に入学した当時、私は非常に感心したものである。
<学生運動の活動家の拠点だった、学生会館>
(今は無き、法政大学の学生会館)
法政の市ヶ谷キャンパスの正門の左手は、現在は外濠校舎という綺麗な建物が有るが、
かつては、何とも不気味な外観の学生会館が有った。
学生会館には、常に、何らかのメッセージが掲げられていたが、
例えば「〇〇政権打倒!!」というような、政治的なメッセージが多かった。
そして、学生会館の中に足を踏み入れると、
そこは全体的に薄暗く、夥しい数のビラが貼られていた。
一応、法政のサークル活動の拠点という事になっているが、
ここが、学生運動の活動家のアジトのようになっていたのは、公然の秘密であった。
かつて、1960~1970年代にかけて、燎原の火の如く、全国で学生運動が激化したが、
法政も、学生運動で騒然となった。
法政は中核派の拠点として有名だったが、驚いた事に、何十年経っても、その残党が法政に居たのである。
学生運動の時代から数十年経ち、私が法政に在籍した21世紀初頭にも、学生運動の残党が存在し、
「我々、学生は…」などと、演説していたが、当時、ある教授が「我々、学生は…って、あの中に学生なんか居ませんから」と、バッサリと切り捨てていた。
その、学生運動の残党を掃討する意味も有って、学生会館が取り壊され、
新たに外濠校舎が建設されたのではないだろうか。
<法政といえば…ビラとタテカン!!>
そして、法政の市ヶ谷キャンパスの大きな特徴といえば、何と言っても、ビラとタテカンであろう。
新入生が入って来る4月ともなれば、新入生を勧誘するため、夥しい数のサークルのビラが、校舎中にビッシリと貼られ、
また、個性的なタテカン(立て看板)が、校舎の前庭に沢山置かれていた。
その沢山のビラやタテカンを見ると、まるで1960~1970年代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えたものである。
今や、法政の市ヶ谷キャンパスはすっかり綺麗なキャンパスへと様変わりし、ビラやタテカンは姿を消したが、
法政といえば、あのビラやタテカンを思い出す人も多いのではないだろうか。
また、法政は「自由と進歩」を重んじる校風だが、
学園祭も、学校側に関わらせず、学生独自で運営する「自主法政祭」として開催されている。
これもまた、学生が大暴れした、学生運動の時代の名残と言えそうである。
<「スポーツ法政」花盛り!!>
また、法政といえば、何と言ってもスポーツである。
野球部、ラグビー部、アメフト部、陸上部などを中心に、法政大学体育会は大活躍し、
法政の名を高めているが、学生新聞「スポーツ法政」は、1980(昭和55)年の創刊以来、
その活躍を伝え続けている。
ともかく、戦後の法政文化は、「55年館」「58年館」を中心に、
一気に花開いたのであった。
(つづく)