【高校野球・四国4商】⑤ ~松山商野球部、栄光の歴史(4)…西本三兄弟と、松山商VS三沢の死闘~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

松山商の歴史を辿る企画、今回は、1969(昭和44)年夏の、松山商VS三沢高校の、球史に残る死闘を中心に、

いずれも松山商野球部に在籍した、西本明和、正夫、聖「西本三兄弟」の活躍などについて、描いてみる事とする。

 

 

<一色俊作監督の就任と、西本明和の活躍>

 

1961(昭和36)年夏、松山商は、

2年生エース・山下律夫(後に近畿大-大洋ホエールズ)と、三塁手・千田啓介(後に巨人-ロッテ)などのメンバーを擁し、

優勝した1953(昭和28)年夏以来、8年振りに甲子園に出場、

 

(1961(昭和36)~1962(昭和37)年の松山商のエース・山下律夫

 

翌1962(昭和37)年春には、3年生となった、エース・山下律夫の力投により、松山商は26年振りにセンバツに出場、

松山商は、延長15回の激闘の末、4-3で宮古に勝利すると、御所工を2-1、PL学園を9-0で破り、ベスト4に進出した。

しかし、準決勝では、同年(1962年)、史上初の春夏連覇を達成する事になる作新学院に、延長16回の死闘の末、2-3で敗れた。

 

(猛練習で松山商を鍛え上げた一色俊作監督(右)

 

翌1963(昭和38)年、松山商OBで、明治大学島岡吉郎監督の薫陶を受けた一色俊作が、松山商の監督に就任すると、

一色俊作監督は、筆舌に尽くし難い猛練習で、松山商野球部を鍛えに鍛え上げた。

 

(「西本三兄弟」の西本明和

 

1966(昭和41)年夏、「西本三兄弟」の三男・西本明和がエースで、捕手の澤田悟(後に駒澤大学-松山商監督)とバッテリーを組み、1番・遊撃手の水中良博(後に駒澤大学)などのメンバーを擁し、

甲子園に乗り込んだ松山商は、塚原を1-0(延長11回)、静岡商を5-1、横浜一商を4-2、小倉工を1-0で破り、決勝に進出した。

 

(1966(昭和41)年、中京商が春夏連覇。松山商は準優勝)

 

しかし、松山商は、宿敵・中京商と対決した決勝では、1-3と惜しくも競り負け、中京商に春夏連覇達成を許した。

松山商は、惜しくも優勝は逃したが、この1966(昭和41)年夏の準優勝こそが、あの1969(昭和44)年夏の戦いの、礎となったと言って良いであろう。

 

<2年生エース・井上明の台頭>

 

1967(昭和42)年春のセンバツに、松山商はエース・玉井信博(後にクラウン-巨人)、4番・二塁手の景浦隆男などのメンバーで出場したが、

初戦で桐生に3-4で敗れ去った。

 

(松山商の2年生エースとして台頭した、井上明

 

そして、翌1968(昭和43)年、松山商は、一色俊作監督の秘蔵っ子である、2年生エース・井上明が台頭し(2番手投手・中村哲も2年生)、

井上明-大森光生の2年生バッテリーと、4番で三塁手・谷岡潔(後に大洋-阪急)も2年生で主力となるなど、

松山商は、2年生中心の選手達で夏の甲子園に出場、取手一を4-2、佐賀工を3-1で破り、3回戦に進出した。

3回戦で、松山商は三重に3-6で敗れたものの、翌年に向けて、大きな手応えを掴んだ。

 

<そして、伝説の1969(昭和44)年夏…井上明の力投で、松山商が決勝進出>

 

1969(昭和44)年夏、井上明-大森光生のバッテリーに、主砲の谷岡潔らが最上級生の3年生となり、

それに加えて、「西本三兄弟」の四男・西本正夫が一塁手でレギュラーとなった松山商は、甲子園に出場し、

松山商は、高知商を10-0、鹿児島商を1-0、静岡商を4-1、若狭を5-0で破り、

好投の井上明を、攻撃陣・野手陣がしっかりと援護し、盤石な試合運びで、決勝に進出した。

 

(松山商を決勝に導いた井上明

 

井上明は、4試合で僅か1失点という完璧な投球を見せたが、

一色俊作監督の課した猛練習により、井上明は、抜群のコントロールを身に着けていた。

松山商は、決勝までの無敵ぶりから見て、優勝はまず間違い無しと思われた。

 

<三沢高校の太田幸司、甲子園始まって以来の大フィーバーを巻き起こす!!>

 

 

ところが、その松山商に対し、青森県代表の三沢高校が果敢に挑んで来た。

田辺正夫監督が率いる三沢高校のエース・太田幸司、捕手・小比類巻英秋、一塁手・菊池弘義、三塁手・桃井久男、遊撃手・八重沢憲一らの主力メンバー達は、

前年(1968年)夏、2年生として甲子園に初出場、彼らは、3年生に進級した1969(昭和44)年春にもセンバツに出場しており、

三沢高校のメンバー達は、2年生の頃から、甲子園慣れして来ていた。

 

 

そして、同年(1969年)夏、三沢高校は、エース・太田幸司を中心に、一致団結し、

三沢は、大分商を3-2(延長10回)、明星を2-1、平安を2-1、玉島商を3-2で破り、

あれよあれよと言う間に、三沢は青森県勢として初めて、甲子園の決勝に進出してしまった。

 

 

三沢のエース・太田幸司は、日本人の父親と、ロシア人の母親との間に生まれたハーフであるが、

その端正な顔立ちと、三沢を牽引する堂々たる投球で、試合を重ねるごとに、大人気を集めて行った。

特に、女子学生達が、太田目当てに甲子園に殺到し、甲子園のスタンドは、さながらアイドルのコンサートのように、

女子学生達で埋め尽くされ、彼女達の黄色い声援が、甲子園球場を圧した。

 

 

これは、甲子園始まって以来の現象であり、

太田幸司こそ、高校野球の歴史上、初めてのスーパーアイドルだったと言って良い。

 

<松山商VS三沢、延長18回の死闘!!井上明と太田幸司の、緊迫の投手戦>

 

 

 

こうして、伝統校の松山商に、スーパーアイドル・太田幸司三沢が挑むという構図で、

1969(昭和44)年夏の甲子園決勝が始まったが、

松山商・井上明、三沢・太田幸司の両投手とも、素晴らしい投球を見せ、

両投手の、全く互角の投げ合いが続き、両チームとも得点を奪えないまま、試合は進行した。

 

そして、0-0のまま、試合は延長戦に突入したが、

延長戦に入ってからは、三沢が押し気味の展開で、松山商は防戦一方となった。

 

そして、延長15回裏、三沢は遂に1死満塁という、絶好のサヨナラのチャンスを掴み、

松山商絶体絶命の危機に追い込まれた。しかし、この場面においても、松山商のマウンドを守る井上明は、冷静さを保っていた。

三沢の9番・立花五雄に対し、井上明はカウント0-3としてしまうが、落ち着いてストライクを2つ取った。

 

 

そして、カウント2-3からの6球目、立花井上の左を襲う打球を放ったが、

松山商の遊撃手・樋野和寿が、この打球を懸命に捕り、捕手・大森光生に返球、三塁ランナー・菊池は、ホームで間一髪アウトとなった。

井上は、続く1番・八重沢を、これまた2-3のフルカウントから、センターフライに打ち取り、井上は絶体絶命のピンチを切り抜けた。

 

 

更に、延長16回裏にも、三沢1死満塁のチャンスを作ったが、

松山商・井上は、カウント2-2から6番・高田邦彦のスリーバント・スクイズを見破り、ウエストボールで三振に打ち取り、

捕手・大森がすかさず三塁手・谷岡に送球、三塁ランナー・小比類巻をタッチアウトにして、併殺で大ピンチを凌いだ。

 

 

結局、試合はそのまま、延長18回の末、0-0で引き分けに終わり、

甲子園の決勝では史上初めて、引き分け再試合となった。

共に、最後まで投げ合った井上明太田幸司は、最後は精魂尽き果てていたが、

気力を振り絞って、最後まで投げ切ったのである。

そして、松山商と三沢の、死力を尽くした戦いぶりに、甲子園を埋め尽くした大観衆からは、惜しみない大拍手が送られた。

 

<松山商、再試合を制し、16年振り優勝!!>

 

死闘の余韻も冷めやらないまま、翌日、松山商三沢の間で、決勝の再試合が行われた。

流石に、井上太田の両投手とも、疲労の色が濃く、とても本調子とは言えない状態だったが、

 

 

 

1回表、松山商は、三沢太田から、3番・樋野和寿先制の2ランホームランを放ち、優位に立つと、

その裏、三沢に1点を返されたが、松山商井上明中村哲が、交互に2度ずつマウンドに上がるという継投を見せ、

6回表にも、太田を攻めて2点を加えた松山商が、結局、4-2三沢を破り、2日間にわたる激闘に終止符を打ち、見事に、松山商が16年振り6度目の甲子園優勝を達成した。

 

 

最後は惜しくも敗れ、優勝を逃した「悲劇のヒーロー」太田幸司は、更なる大人気を集め、

その大人気ぶりは、「青森県 太田幸司様」と書いただけで、太田宛に手紙が届いてしまった(つまり、それだけファンレターが殺到した)というほどであり、その人気の過熱ぶりは、伝説として語り継がれている。

 

<西本三兄弟の末弟、西本聖>

 

そして、西本三兄弟の末弟、西本聖も、兄達の後を追って松山商に入ったが、

健闘空しく、残念ながら甲子園を逃している(下の写真は、高校時代、後年のライバル・江川卓と並んでブルペンに入った時のもの)