【高校野球・四国4商】③ ~松山商野球部、栄光の歴史(2)…戦前の松山商、黄金時代を築く~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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1919(大正8)年に、夏の全国大会に初出場した松山商は、以後、6年連続で全国大会出場を果たしたが、

エース・藤本定義を擁しながら、どうしても優勝には手が届かなかった。

松山商時代の藤本定義は、悲運の名投手とも言うべき投手であった。

 

 

<悲運の名投手・藤本定義、痛恨の逆転ホームランを浴びる>

 

1923(大正12)年、藤本定義は、松山商での最終学年を迎えた。

前年(1922年)同様、松山商藤本定義-高橋佳文のバッテリーに、三塁手・林繁尾、遊撃手・森茂雄、レフト・中村国雄などの強力メンバーで、

四国予選では、松山商は丸亀中を9-0、北予中を8-0、坂出商を12-2、高松中を13-1と一蹴し、アッサリと全国大会出場を決めた。

 

松山商は、全国でも屈指の強豪と言われ、

「今年こそ、優勝間違いなし」

と、地元・松山のファンは意気込み、大挙して、全国大会が行われる鳴尾球場へと乗り込んだ。

 

その初戦、松山商甲陽中(現・甲陽学院高)を8回まで2-0とリードし、

藤本が、そのまま完封するかと思われたが、9回表、甲陽中の4番・岡田貴一に、まさかの逆転3ランホームランを浴びた。

結局、松山商は2-3で敗れ、またしても優勝の夢は破れてしまった。

 

(1923(大正12)年夏、松山商を破り、勢いに乗った甲陽中が初優勝

 

 

なお、松山商に逆転勝ちし、勢いに乗った、全国大会初出場の甲陽中は、

この大会、そのまま勝ち進み、決勝では、王者・和歌山中を5-2で破り、まさかの初優勝を飾った。

 

<1925(大正14)年春、松山商、悲願の甲子園初優勝!!>

 

1924(大正13)年、名古屋の八事にある山本球場で、第1回全国選抜中等学校野球大会(春のセンバツ)が開催され、

松山商も、同じ四国勢の高松商と共に、中村国雄-森本茂(後に法政大学)のバッテリーと、遊撃手の森茂雄などのメンバーで出場を果たした。

 

松山商は、初戦の早稲田実業(早実)戦で、0-0で迎えた3回に降雨のためノーゲームとなったが、

その試合で、投手の中村が肩を痛めてしまい、再試合では捕手の森本が登板したものの、

松山商は2-3で早実に敗れた。

 

(1924(大正13)年夏、甲子園球場が完成)

 

同年(1924年)夏は、甲子園球場が完成し、全国大会は初めて甲子園で開催されたが、

松山商は、初戦で秋田中(現・秋田高)を13-1で破ったものの、次戦(準々決勝)では、松本商(現・松商学園)に2-5で敗れた。

 

 

(1925(大正14)年春、松山商は第2回春のセンバツで、甲子園初優勝

 

そして迎えた、1925(大正14)年、第2回の春のセンバツ(初めて甲子園で開催)に、

松山商は、森本茂がエースとなって出場を果たすと、松山商は広陵中を4-3、横浜商を13-5、甲陽中を7-3で破り、決勝進出を果たした。

そして、決勝では、宮武三郎がエースの高松商と対決し、0-2とリードされた7回裏2死満塁の場面で、

松山商は1番・中川武行が、センターの頭上を越える、走者一掃の逆転タイムリー三塁打を放った。

 

その後、森本が最後までそのリードを守り切り、松山商が3-2で高松商を破り、

松山商は、高松商のセンバツ連覇を阻止し、遂に悲願の甲子園初優勝を達成した。

これが、名門・松山商が大正・昭和・平成の3年代で優勝を果たす、記念すべき第一歩となった。

 

なお、殊勲の逆転打を放った中川は、後々まで、

「二塁までは無我夢中で走ったが、三塁までは、まるで雲の上を走っているような夢心地だった」

と、この時の思い出を語っている。

 

<1930(昭和5)~1931(昭和6)年、松山商、強力メンバーで優勝に迫る>

 

(阪神時代の景浦将

 

1930(昭和5)年、松山商は、エースで4番打者の矢野清良、二塁手・寺内一隆(後に立教大学)、三塁手・三森秀夫(後に法政大学)、遊撃手・高須清(後に早稲田大学-イーグルスなど)、センター・尾茂田叶(後に明治大学)などの強力メンバーを揃え、甲子園に春夏連続出場、

翌1931(昭和6)年には、三森がエースとなり、捕手・藤堂勇、三塁手の景浦将(後に立教大学-阪神)、遊撃手・高須などのメンバーで、またしても甲子園に春夏連続出場を果たしたが、

その間、松山商は1930(昭和5)年春に準優勝(決勝で第一神港商に1-6で敗れる)、1931(昭和6)年夏には準決勝で中京商(現・中京大中京)に1-3で敗れベスト4止まりと、惜しくも優勝には届かなかった。

 

(中京商を夏の甲子園3連覇に導いた、大投手・吉田正男(右)。左は、捕手の野口明

 

なお、大投手・吉田正男が君臨する中京商(現・中京大中京)は、1931(昭和6)~1933(昭和8)年、空前絶後の「夏の甲子園3連覇」を達成したが、

中京商と松山商は、その間、死闘を繰り広げている。

 

<松山商、2度目の優勝と、中京商VS松山商の死闘…血みどろの3連戦>

 

1932(昭和7)年、松山商の監督に藤本定義が就任すると、

藤本は、自らが果たせなかった甲子園優勝のために、チームを徹底的に鍛え上げた。

 

(松山商の三森秀夫(左)藤堂勇(右)のバッテリー)

 

同年(1932)年春、松山商は前年(1931年)に続き、エース・三森、捕手・藤堂、三塁手・景浦、遊撃手・高須などのメンバーでセンバツ出場を果たし、岐阜商を8-0、八尾中を8-0で破り、準決勝で中京商と激突した。

試合は2-2の同点のまま、延長戦に突入したが、延長10回、松山商は高須清、尾崎晴男の連打で、中京商・吉田から1点を勝ち越し、

松山商が前年(1931年)夏のリベンジを果たし、3-2で中京商を破った。

 

 

(1932(昭和7)年春、松山商が2度目の甲子園優勝

 

そして決勝では、エース・三森が明石中を5安打完封に封じ、松山商が1-0で明石中を破り、

松山商が、7年振り2度目のセンバツ優勝を達成した。

 

(1932(昭和7)年夏、初戦で松山商は静岡中に逆転サヨナラ勝ち)

 

続く1932(昭和7)年夏は、史上初の春夏連覇を目指す松山商と、夏2連覇を狙う中京商が、優勝候補の筆頭と目されたが、

松山商は、エース・三森と、二番手として、しばしば登板した景浦の快投で、静岡中を2-1、早実を8-0、明石中を3-0で破り、決勝に進出、

一方の中京商も、大投手・吉田の力投で高崎商を5-0、長野商を7-2、熊本工を4-0で破り、決勝に進出した。

 

こうして、同年(1932年)夏の決勝で中京商と松山商の両横綱が激突したが、中京商と松山商は3季連続の対決であり(それまでは1勝1敗)、

当時の中等野球界の雌雄を決する世紀の一戦に、甲子園は立錐の余地も無い、超満員となった。

 

試合は、中京商が3-0とリードして迎えた9回表、松山商が中京商・吉田に襲いかかり、

景浦将の2点タイムリー三塁打と、山内豊のタイムーにより、一挙3点を奪い、松山商が土壇場で3-3の同点に追い付いた。

 

 

(1932(昭和7)年夏の決勝、好投していた松山商のリリーフ・景浦が、負傷で無念の降板)

 

9回裏、松山商は、三森をリリーフして好投を見せていた景浦が、打球を足に受け、以後、続投が出来なくなるアクシデントが有った。

景浦は再び三塁に回り、三森が再登板したが、好投の景浦が降板を余儀なくされた事は、松山商には痛手であった。

 

 

(1932(昭和7)年夏、中京商がサヨナラ勝ちで松山商を破り、夏2連覇を達成

 

そして、3-3の同点で迎えた延長11回裏、三森は、連打でピンチを招くと、

中京商のエース・吉田とバッテリーを組む桜井寅二に、痛恨のサヨナラ打を浴びた。

 

(1932(昭和7)年夏の決勝で、惜しくも敗れた松山商)

 

こうして、大熱戦の末、松山商は中京商に3-4で敗れ、惜しくも優勝を逃したが、

中京商松山商の、3度にわたる激闘は、「血みどろの3連戦」として、球史に残っている。

なお、前述の通り、中京商は翌1933(昭和8)年夏も優勝し、史上初にして、史上唯一の夏の甲子園3連覇を達成した。

 

<1935(昭和10)年夏、松山商3度目の甲子園優勝!!>

 

(松山商の中山正嘉(右)筒井良武(左)のバッテリー)

 

(後列左端が、松山商時代の千葉茂

 

1935(昭和10)年、松山商の監督に、同校OBの森茂雄が就任すると、

松山商は、エース・中山正嘉(後に名古屋金鯱軍など)-筒井良武(後にイーグルス)のバッテリーと、

三塁手・伊賀上潤伍(後に阪神-大映)、レフト・千葉茂(後に巨人)などの強力メンバーを擁し、甲子園に春夏連続出場を果たした。

 

(1935(昭和10)年夏、松山商が3度目の甲子園優勝

 

そして、同年(1935)年夏、松山商は、海草中を3-0、嘉義農林を4-3、愛知商を4-0で破り、決勝に進出すると、

決勝では、松山商が6-1で育英商を破り、松山商は夏の甲子園初優勝、通算では3度目の甲子園優勝を果たした。

 

翌1936(昭和11)年にも、松山商はエース中山と、捕手・佐伯季隆のバッテリーに、三塁手・千葉茂、遊撃手・山田潔(後にイーグルス-大映)、ライト・高久保豊三(後に立教大-名古屋金鯱軍)などのメンバーで甲子園に春夏連続出場し、同年(1936)年春にベスト8進出を果たした。

 

なお、これが戦前における、松山商の最後の甲子園出場となったが、

これまで述べて来た通り、戦前の松山商は、後に東京六大学野球やプロ野球で活躍した、キラ星の如きスター選手達を次々に輩出し、

まさに、黄金時代を築き上げたと言って良い。

 

 

藤本定義は、巨人と阪神の両球団で監督を務めた、史上唯一の人物)

 

その後、藤本定義は、後に早稲田大学で名投手として鳴らし、

戦前は巨人の監督として第1期黄金時代を築き、戦後は阪神を2度も優勝に導くなど、球史に残る名監督となった。

 

早稲田大学を9度優勝に導いた、森茂雄

 

(大洋ホエールズ球団社長時代の森茂雄(左端)。早稲田の後輩・三原脩(中央)を監督に招聘。右は大洋の中部謙吉オーナー

 

森茂雄も、阪神の初代監督を務め、戦後は早稲田の監督として、早稲田を9度も優勝に導くという黄金時代を築き、

更に、大洋ホエールズの監督や球団社長を歴任し、三原脩を大洋監督に招聘、大洋を初優勝させるなど、球界に確かな足跡を残している。

 

(つづく)