いつか東大が優勝する日 ~東大野球部の苦闘の歴史(前篇)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

東京六大学野球のファンで、東大野球部を嫌いな人は居ない。


どんなに弱くても、負け続けても、歯を食いしばって戦い続けている東大野球部の事を、東大以外の五大学のファンも、心の何処かでは

「東大、頑張れ!」

と、ついつい応援してしまっているのではないだろうか。


東京大学は、言わずと知れた、日本の最高学府であり、

その入学試験は超難関であるが、東大で野球を志す選手は、

その狭き門を突破して初めて、東大野球部に入る事が出来る。


従って、野球推薦などで入ってきた猛者を揃えている他の五大学に比べて、

東大が苦戦してしまうのは、どうしても仕方が無いところである。

しかし、それでも東大は歯を食いしばって戦い続けている。


今回は、そんな東大野球部にエールを送る意味も込めて、

東大野球部の苦難の歴史をまとめてみた。

 

それでは、まるで殉教者のような、東大の苦難の道のりを、とくと御覧あれ。

 

 

<東大野球部の創部>

当ブログでも、何度か書いてきた事だが、日本の野球の歴史上において、最初に黄金時代を築いたのは、旧制第一高等学校(一高)である。

 

日本国内で、長らく無敵の強さを誇った一高は、輝かしい歴史を持っているが、その流れを汲む東大も、その事は誇っても良さそうであるが、現在の東大野球部では、旧制一高の歴史の事は、一応切り離して扱っている。 

 

というわけで、東京帝国大学(東大)に野球部が誕生したのは、1917年の事であった。

これは、京都帝国大学(京大)から野球の試合の申し込みが有ったため、急遽組織された、即席の野球チームであったが、ともかく東大に初めて、野球部らしき組織が誕生した。


この時は、東大が京大に2-6で敗れているが、

これが、東大野球部としての初めての試合として、記録に残っている。

 

その後、1919年に正式に東大野球部が発足した。

 

 

<東京六大学リーグに加盟>

1925年、早稲田、慶応、明治、法政、立教の五大学リーグに、東大が加盟し、東京六大学リーグが誕生した。

(その際に、早慶戦が19年振りに復活したのは、別の記事でも何度か書いてきた通りである)

 

東京六大学リーグの発足は1925年秋だが、同年春、東大はリーグへの加盟テストも兼ねて、早稲田、慶応、明治、立教とそれぞれ対戦している。

 

結果は、明治6-3東大、慶応4-2東大、東大3-1立教、早稲田9-1東大(法政とは対戦せず)と、東大はかなりの健闘を見せたため、これで東大は正式に加盟を認められた。


この時は、東大に東武雄、清水健太郎という名バッテリーが居たため、東大はかなり強かったが、この二人が卒業してしまえば、大幅な戦力低下と、弱体化が予想されていた。


そのため、連盟は「どんなに弱くても、絶対に脱退しない」という条件を東大に飲ませ、それにより東大の加盟が実現した、という経緯が有った。

なお、この約束は、今日に至るまで厳格に守られている。

東大は、加盟時の約束を、頑なに守り続けているのである。


東大の初代野球部長・長與又郎も、東大の選手達に、


「どんなに苦しくても、絶対にリーグを脱退しない事」

「加盟した以上、一度は必ず優勝する事」

 

という二点を説いていたそうである。


一番目の誓いは守られ続けているが、二番目の誓いはまだ果たされていない。

いつか、その誓いが果たされる日はやって来るのだろうか?

 

 

<東大、六大学リーグ初期に大健闘>

1925年秋、東大の六大学リーグの初戦の相手は法政だったが、

東武雄-清水健太郎バッテリーの活躍で4-1で勝利し、東大は記念すべき初戦を白星で飾った。

 

更に、東はこの試合でホームランを放ったが、これが東京六大学野球史上、記念すべき第1号ホームランである。

東の投打にわたる大活躍で、東大は幸先良いスタートを切った。


そしてもう一つ、この試合で敗れた法政高橋一投手は、その後、法政を中退し、旧制五高に入学、その後、東大に入り、東大のエースとなった。

つまり、法政と東大の二校で出場したという、物凄くユニークな経歴の持ち主となったが、六大学史上、複数の学校で公式戦に出た選手というのは、勿論、この高橋一ただ一人である。

 

今、こんな選手が現れたら、世の中は上を下への大騒ぎとなるであろうが、当時は呑気な時代だったのであろう。

(今は、複数の大学での公式戦出場は禁止されているので、こんな選手はもう現れないだろうが)

 

なお、東大は、この1925年秋のシーズンは5勝7敗2分の4位と大健闘した。

ちなみに、最下位は法政で、10連敗(1分)を喫し、一つも勝てなかった。

 

その後、東大は東と清水の活躍も有ったが、1925年秋~1932年秋までの15シーズンで、最下位になったのは僅か4回という健闘を見せた。

六大学初期の東大は、優勝こそ出来なかったが、決して最弱チームではなかったのであった。

 

なお、東武雄は、東大在学中に通算16勝32敗という成績を残している。

通算16勝は、東大史上2位の通算勝利数である。


 

<東大の苦難の歴史、始まる>

しかし、1933年(この年と1934年は1シーズン制)~1938年秋にかけて、東大は10季連続最下位と苦戦した。

 

更に、1941年春~1942年秋も東大は4季連続最下位となり、ここで六大学リーグは戦争のため中断。

 

リーグ発足当時は、旧制高等学校の名選手達が数多く活躍していた事もあり、健闘を見せていた東大も、戦争が激しさを増す時期になると弱体化し、けるのが当たり前の東大、という状態になってしまった。

徐々に、他の五大学との実力差がはっきりと表れるようになった、という事であろうか。

 

 

<戦後初のリーグ戦で、あわや東大初優勝の快進撃>

1946年春、戦後初めての六大学リーグ戦は、物資不足や球場難(神宮球場はアメリカに接収されていた)により、各校一本勝負によるリーグ戦を行った。

つまり、各校とも全5試合というリーグ戦である。


この戦後初のリーグ戦で、東大は山崎諭投手、山崎喜選手らの大活躍で、何と初戦から4連勝し、最終戦の慶応との試合に勝てば初優勝、という所まで漕ぎ着けた。


東大の初優勝という歴史的快挙成るか、と大いに注目されたが、東大は慶応に0-1で惜敗し、惜しくも優勝を逃してしまった。

結局、慶応が5戦全勝で優勝し、東大は2位に終わったが、東大の2位というのは後にも先にもこの時だけである。

 

東大が「勝てば優勝」という試合を行ったのはこの時が最初で最後であるが、それだけに返す返すも惜しい敗戦ではあった。

しかし、ともかく東大の大躍進はリーグを大いに盛り上げ、戦後の六大学の再建に大きく寄与したのであった。


その後、東大は山崎諭投手の活躍もあり、1946年秋~1947年秋まで3季連続4位と健闘した。


山崎諭投手が卒業した後の東大は、苦戦が予想されたが、1949年春は慶応、法政から勝ち点を挙げ、早稲田、明治からも1勝ずつを挙げ、5勝7敗で慶応と同率5位、同年秋は、慶応と立教から勝ち点を挙げ5位になるなど、簡単には負けないしぶとい野球を見せていた。


こうして見ると、この頃までは、東大は時として他校を食うほどの健闘を見せ、ただ弱いだけの東大ではなかった、というのがよくわかる。

振り返ってみれば、この頃の東大は、優勝してもおかしくないぐらいの充実した時代だったのではないだろうか。


 

<14季連続最下位、50連敗…再び苦難の時代が始まる>

しかし、戦後の強かった東大の時代も終わりを告げ、再び東大は長いトンネルへと入ってしまった。

 

1950年春~1956年秋にかけて、14季連続最下位という大苦戦であった。

しかも、1953年春~1955年秋にかけて50連敗を喫した。

 

1957年春に明治との最下位争いに勝って5位となるが、翌1957年秋~1960年春には6季連続最下位と、すっかり「東大=弱い」という図式が定着してしまった。

 

しかし、そんな中、1960年の東大は岡村甫投手の活躍で、久しぶりに神宮を沸かせた。

1960年春、東大は岡村の活躍で21季ぶりに立教から勝ち点を奪うと、

続く早稲田との1回戦で岡村が完封し、東大は3連勝した。

 

早稲田との2回戦は、東大では異例の5万人の観客が押し寄せたが、岡村の力投も空しく、東大は0-1で惜敗した。

その後、東大は一つも勝てず、最下位に終わったが、この東大の活躍は大いに話題を集めたのであった。

 

更に、東大は1960年秋には岡村の活躍で明治との争いを制して5位に浮上し、最下位を脱した。

この岡村甫は、東大では史上最多となる通算17勝(35敗)を挙げ、東大野球部の歴史に輝かしい一ページを加えた。


 

<苦戦が続くも、2人のプロ野球選手を輩出>

その後、1961年春~1965年秋に10季連続最下位、1970年春~1975年春に11季連続最下位になるなど、相変わらず東大の苦戦は続いていた。

 

しかし、その間、いくつかの特筆すべき出来事もあった。

 

まず、1961~1964年にかけて東大に在籍し、通算8勝43敗という成績を残していた新治伸治投手(この4年間で東大が挙げた白星は全て新治が記録)が、東大野球部史上初のプロ野球入りを果たした事である。

 

新治は、東大を卒業後は、1965年に大洋漁業に入社していたが、同社が経営する大洋ホエールズ三原脩監督の要望により、出向という形で、大洋漁業本社からホエールズへと入団した。

 

これにより、新治は東大初のプロ野球選手となったが、大洋でも通算9勝(6敗)を挙げる活躍をした。

これは、未だに東大出身のプロ選手としては史上最多のプロでの勝利数である。

 

その後、1963~1966年にかけて東大のエースとして活躍した井手峻投手も、東大の選手としては初めて、ドラフト会議で指名され、中日ドラゴンズに入団し、東大出身としては二人目のプロ野球選手となった。

 

この時期は、東大野球部全体としては、相変わらず弱かったのだが、時折、世間をあっと言わせるような活躍を見せた。

 

1974年秋、法政の怪物・江川卓が華々しい神宮デビューを飾っていたが、開幕から3連勝していた江川に3-2で勝利し、江川に初黒星を付けたのは東大であった。

しかも、これが江川が同シーズンで喫した唯一の黒星であった。

 

更に、1975年秋には、前シーズンの覇者・明治に開幕シリーズで連勝し、波乱を巻き起こした。

そして、1977年春には、エース・西山明彦投手が、東大の投手としては史上初めて、2試合連続完封(立教戦)を挙げるなど、慶応と立教から勝ち点を挙げ、30年振りに4位に浮上した。

 

もう一つ、特筆すべきは、1969年には東大闘争の激化で、東大の入試が中止されてしまい、東大に新入生が一人も入って来ない、という非常事態になったのだが、東大に限り、留年生もリーグ戦への出場を認めるという、六大学連盟の特例措置は有ったとはいえ、東大は、この苦しい時期をどうにか乗り切った、という事である。

 

何が有っても、六大学リーグからは脱退しないという、東大野球部の連盟加盟時の約束は、長い年月が経とうとも、固く守られていたのだった。

この事を見ても、弱いけれども、東大野球部の根性は素晴らしいと、私は思うのである。

 

(つづく)