明治の「人間力野球」の源流を作り上げた故・島岡吉郎監督の生涯にスポットを当てている今回の記事であるが、
前篇では、島岡が明治の監督に就任し、猛烈な逆風の中、明治を優勝に導き、調布・つつじが丘に明大グラウンドを築き上げるまで、を描いた。
今回は、島岡監督のその後の人生を描いてみたい。
<高田繁、星野仙一の時代>
自らの手で明大グラウンドを築き上げ、文字通り、明治野球部のために心血を注ぎ込む島岡の下へ、1960年代に、二人の個性派選手がやって来た。
一人は、通算127安打という、今も残る六大学の通算安打記録を打ち立てた高田繁選手、もう一人は星野仙一投手である。
島岡は、鉄拳制裁も辞さない熱血指導で知られていたが、
この二人だけは、遂に一度も殴られる事は無かったという。
その理由として、高田は「全てにおいて優等生で、殴る理由が無かったから」であり、星野は「要領が良かったから」とも言われているが、
自ら合宿所に寝泊まりして、選手と起居を共にし、選手達のそれぞれの個性をよく知り尽くした、島岡ならではの考えが有ったと思われる。
それはともかく、高田や星野も、島岡の熱血指導の薫陶を受け、島岡に大きな影響を受けた。
島岡は、とにかく明治野球部のために全てを捧げる生活をしていた。
スリッパに「早稲田」や「慶応」と書いて、それを踏みつけて「打倒早慶」の意気を普段から示すなど、兎角に精神論を重んじる面は有ったが、その情熱は選手達にも確実に伝わっていた。
そして、あまりにも有名なエピソードであるが、こんな事件が有った。
六大学の試合で、明治が無様な負け方でもすると、合宿所に帰った後、すぐに島岡の怒声が響いた。
「全員、グラウンドへ集まれ!!」
そして、部員達がグラウンドへ集合すると、島岡は部員全員をパンツ一丁にさせた。
勿論、島岡自身もその姿であった。
すると、島岡はグラウンドへ正座すると、そのまま土下座し、
「グラウンドの神様、申し訳ございません」
と、謝ったのである。
島岡がそうする以上、部員達も従わないわけにはいかない。
その場に居た全員で、
「グラウンドの神様、申し訳ございません」
と、ひたすら謝り続けるという、異様な光景が現れた。
星野などは「何でこんな馬鹿馬鹿しい事をしなきゃいけないんだ」
と、最初は思っていたというが、やがて誠心誠意、謝り続けている島岡の姿を見ていると、本当にグラウンドの神様に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていたというのだ。
これを馬鹿馬鹿しいと捉えるか、凄い事だと捉えるかは人それぞれだろうが、島岡の野球に対する、そして明治野球部に対する真剣さが伝わるエピソードとして、私はこの話がとても好きである。
そのような精神論一辺倒ではなく、島岡は、人が嫌がるトイレ掃除を、下級生ではなく、必ず4年生にやらせたり、最後まで自分に付いてきた部員達全員の就職の面倒を必ず見る(しかも、裏方や控え選手を優先した)など、明治の野球部を束ねるために、誠心誠意、尽くしたのであった。
島岡は怖い監督だったのは間違いないが、それでも多くの部員達が島岡に付いて行ったのは、島岡の人間性に魅力が有ったから、というのは間違いない。
しかし、高田や星野が在学していた1960年代中盤~後半にかけては、法政や早稲田などが強く、残念ながら彼らの在学中は、明治は一度も優勝出来なかった。
高田や星野は、それが今でも心残りだというが、それでも星野などは
「俺は明治大学野球学部島岡学科の出身だ」
と、胸を張って答えているという。
島岡監督の下で過ごした選手達は、皆そのような気持ちを持っていたのではないだろうか。
そんな島岡監督は、いつしか、畏敬の念をこめて「御大」と呼ばれるようになっていた。
<島岡野球、花開く~明治の執念の優勝~>
高田や星野の在学していた期間は、一度も優勝出来なかった明治であるが、彼らが卒業した後の1969年春、明治は粘り強く戦い抜き、遂に8年振りとなる優勝を果たした。
1点差試合を勝ち抜いて行く、しぶとい野球で勝ち点を4つ重ね、最後に、勝ち点3で優勝の可能性を残す、法政との対決になった。
明治は、ここでも3-2、4-3で辛くも法政に連勝、ここに8年振りとなる優勝が達成された。
最終戦も、リードされた8回裏に逆転し、9回表には無死満塁という大ピンチを切り抜けるという、薄氷を踏むような展開だったが、その修羅場をくぐりぬけて栄冠を掴み取ったのであった。
明治の優勝が決まった瞬間、興奮した明治ファンがグラウンドへなだれ込み、大変な騒ぎとなったが、その興奮も頷けるような、見事な明治の戦いぶりであった。
この明治の最後まで諦めない野球というのは、現代にもちゃんと受け継がれていると、先の法明決戦を見て、つくづく思ったものであった。
この明治野球の真骨頂とも言えるのが、1975年の春秋連覇であった。
前年、法政に江川卓らの甲子園のスター軍団が入学し、
「これで暫くは法政の天下が続くだろう」
と、誰もが予想していた。
実際、1974年秋に、法政は江川達の活躍で優勝していた。
しかし、法政に独走させてはならじと、島岡は打倒法政に執念を燃やした。
主力選手が大量に卒業し、ただでさえ下馬評が低かった1975年春の明治であるが、丸山清光投手の活躍もあり、しぶとく江川に食らいついた。
そして、誰も予想していなかった打倒・江川を果たし、見事に完全優勝、世間をあっと言わせたのであった。
同年秋には、東大に連敗するという苦しいスタートを切りながら、そこから諦めずに勝ち進んで優勝、春秋連覇を果たすなど、明治の底力には誰もが驚かされたのである。
その後、1976年春~1977年秋に法政は四連覇を果たすが、明治はその間は2位と4位の繰り返しで、法政には勝てなかった。
しかし、江川達が卒業した後の1978年春、明治は高橋三千丈、鹿取義隆両投手の大活躍で法政の五連覇を阻止、完全優勝を果たした。
このように、最強の法政に食らいつく、明治のしぶとさにより「血の法明戦」は数々の名勝負を生み出して行ったのだった。
<法政との名勝負を繰り広げた1980年代>
法政が、1970年代に引き続いて、最強の名ほしいままにしていた1980年代、明治もまた法政に挑み続けた。
そして、1980年代前半は、常に明治と法政で優勝を分け合っていた。
その頃の両チームの順位は以下の通りである。
1980年春 ①明治③法政
1980年秋 ①法政③明治
1981年春 ①明治②法政
1981年秋 ①法政②明治
1982年春 ①法政④明治
1982年秋 ②明治③法政(優勝は早稲田)
1983年春 ①明治②法政
1983年秋 ①法政③明治
1984年春 ①法政②明治
1984年秋 ①明治②法政
1985年春 ①法政④明治
1985年秋 ②法政③明治(優勝は慶応)
1986年春 ①法政③明治
1986年秋 ①明治②法政
見事なまでに、明治と法政で常に優勝争いを繰り広げているが、
島岡率いる明治と、スター軍団・法政の戦いは、神宮の名物となって行った。
島岡監督は、今に続く熱い法明戦を演出した監督でもあった、とも言えるわけである。
ちなみに、この間は、広沢克己、竹田光訓などの選手が島岡の薫陶を受けている。
この頃のエピソードとしては、広沢と竹田がトイレ掃除をさぼっているのを見抜いた島岡は、お仕置きとして彼らが大嫌いだという大福を食べさせ、白状させた、という物が挙げられるが、
常に合宿所で過ごしていた島岡にとって、選手の行動などは全てお見通しだったわけである。
トイレ掃除といえば、島岡はトイレ掃除をさぼっている選手を見つけると、
自らが率先して「トイレ掃除は、こうやってやるんだ!」という、お手本を見せたという。
そうなると、選手としても、ちゃんとやらないわけにはいかないではないか。
全く、見事な人心掌握術であった。
<明治野球部に全てを捧げた生涯を閉じる>
こうして、明治のために全てを捧げた島岡も、1980年代には体調を崩してしまう。
最後は、車椅子に乗って、野球部の指導を続けたというが、1988年を最後に監督を勇退した。
そして、1989年4月11日、島岡は77歳でこの世を去った。
島岡監督は、まさしく明治大学野球部のために全身全霊をかけた生涯を送り、最後までそれを全うしたのであった。
まさに「御大」と呼ばれるに相応しい人物だったと、私は思う。
島岡は、まさに明治のために生き、そして明治に殉じた男であったが、
全く見事な、素晴らしい一生だったのではないだろうか。
これだけ一つの事に信念を持って打ち込める人生というのは、とても素晴らしいと思うのである。
なお、島岡は1991年に野球殿堂入りを果たしている。
そして、思い出多き、つつじが丘の明大グラウンドは閉鎖されたが、
府中に「内海・島岡ボールパーク」という、島岡と内海弘蔵(明治の初代野球部長)の名を冠した新たなグラウンドが作られ、明治野球部の新たな本拠地となった。
今春の法明決戦で見せた明治の勝利への飽くなき執念は、まさに島岡が作り上げた明治魂が今も生きている、という事を示していたのではないか、と私は思っている。
というわけで、これからも、明治は島岡監督の「人間力野球」を継承し、いつまでも法政の良きライバルであり続けて欲しいと願い、この稿を締めくくりたい。
島岡吉郎監督の通算成績:
監督在任37年間 通算435勝331敗44分
リーグ優勝15回、全日本大学選手権優勝5回