スタッフのSORAです

 

今回は歴史上の人物を例に、

ソーシャルサポートの大切さを紹介させていただきます

 


 

  今川義元(1519-1560)

(画像引用元:今川義元桶狭間大合戰之圖

 

川義元といえば、『大軍に胡坐をかいた結果、少数の織田信長軍に討たれた』、

無能な印象を抱いている方もいらっしゃるのではないでしょうか?

 

しかし、実像は異なっており、今川家の繁栄を築いた優れた戦国大名であり、

そんな義元には二人の強力なソーシャルサポーターがついていました

 


 

  ソーシャルサポートとは?

 

(引用:保坂院長講演会資料)

 

現代において3つのソーシャルサポートは健康や生活の維持に重要なものとされていますが、いつの時代でも同じことが言えるのではないでしょうか?

 


 

  今川義元のソーシャルサポート

 

今川義元のソーシャルサポート
  • 情緒的ソーシャルサポート太原雪斎 たいげんせっさい
  • 手段的ソーシャルサポート太原雪斎 たいげんせっさい 寿桂尼 じゅけいに
  • 情報的ソーシャルサポート⇒間者や透波 すっぱ (1)

 


 

  今川義元の強力なソーシャルサポーター

 

寿桂尼 じゅけいに (生年不明-1568年※推定75歳前後)

寿桂尼

寿桂尼

(画像引用元:wikipedia)

 

今川 氏親いまがわ うじちか の正妻で義元の生母とされる人物です

有力な公卿(2)の娘であり、「高い教養」と「京への影響力」を活用して、

今川家4代(3)を支えた女傑であり、戦国時代において最も活躍した女性でもあります

 

若い息子や孫たちに代わり一時的に政務を執っただけではなく、

武田信玄の継室 けいしつ (4)の斡旋や分国法『今川仮名目録 いまがわかなもくろく (5)』の編纂にも携わっているとされています

 


 

太原雪斎 たいげんせっさい (1496-1555)

太原 雪斎像(臨済寺蔵)

太原 雪斎像(臨済寺蔵)

(画像引用元:静岡市豆知識vol.15 今川 義元の軍師のお話)

臨済宗(禅宗)の僧侶

太原崇孚 たいげんすうふ とも呼ばれ、今川義元(6)の教育係を務めていた人物です

 

 

(臨済寺(7))

 

幼少より出家していた今川義元の親代わり的な存在であり、

情緒的・手段的ソーシャルサポートを一手に担っていました

 


 

  今川家の家督争い『花倉の乱』

 

兄『今川 氏輝』の急死

 

1526年に父の今川 氏親いまがわ うじちか が亡くなると、長男の今川 氏輝 いまがわ うじてる が家督を継ぎましたが、

しかし、1536年に跡継ぎを遺さず急死した(8)ことで、家督争いが勃発しました

 


 

手段的ソーシャルサポートと『花倉の乱』

 

(花倉城跡)花倉の乱の舞台となった

 

今川義元(当時は栴岳承芳 せんがくしょうほう)と、異母兄で同じく出家している玄広恵探 げんこうえたん(9)が対立し、

今川家を二分する家督争い花倉の乱が起きました

 

花倉の乱は、義元が勝利して今川家の家督を相続しました

 

 

義元陣営の手段的ソーシャルサポート

  • 寿桂尼 ⇒ 室町幕府・朝廷への根回し(10)
  • 太原雪斎 ⇒ 今川家中の取りまとめ・北条氏(11)へ支援依頼

 


 

  今川義元と桶狭間の戦い

 

太原雪斎の死と三河忩劇

 

太原雪斎のサポートを受けて『甲相駿三国同盟(12)』や『三河侵攻』で勢力を大きく拡大させていった義元でしたが、

1555年に太原雪斎が病死すると、三河国が織田氏優位に傾き始めます(三河忩劇 みかわそうげき (13))

 


 

桶狭間の戦いと情報的ソーシャルサポート

 

1560年の桶狭間の戦いは、2万5千の大軍を率いた今川義元が、

少数の織田信長軍によって討ち取られたことで知られています

 

(画像引用元:桶狹間ノ本陳稲川義元討死圖)

 

桶狭間の戦いで織田信長が評価した一番の功労者は、

義元の『首を取った者(14)』ではなく、義元の『居場所を知らせた者(15)』でした

 

織田 信長
 

人間五十年

下天のうちを比ぶれば

夢幻の如くなり~

織田信長は情報を最重要視して、情報収集や情報管理を徹底していたとされ、

情報的ソーシャルサポート力の差が勝敗を分けた1つの要因とも言えます

 


 

  今川義元亡き後の今川家

 

今川家全体のソーシャルサポーターでもあった『寿桂尼』

 

今川義元戦死後は、息子の今川 氏真 いまがわ  うじざね が後を今川家を継ぐことになりました

その若い氏真をサポートしたのが寿桂尼でした

 

(画像引用元:甲府駅前の武田信玄像)

 

しかし、寿桂尼も1568年に亡くなってしまいます

翌年、武田信玄の『駿河侵攻』によって今川家は滅ぼされてしまったのです

 


 

  教訓

 

複数のソーシャルサポーターを持つことの大切さ

 

今川義元は太原雪斎が存命中は自国勢力を拡大できた一方で、

雪斎一人にソーシャルサポートを依存し過ぎていました

 

その結果が、ソーシャルサポーター不足中に起きた桶狭間の戦いであり、

この敗戦が今川家滅亡の遠因にもなりました

 

このことからも、複数のソーシャルサポーターを用意しておきたいと思える教訓と言えるのではないでしょうか?

 


 

  参考サイト・参考文献など

 

 

 


 

  脚注

 

  1. ^敵国に潜入して情報収集などを担当した人たちのこと
    当時の情勢では『正しい情報を得る』のは困難であった
  2. ^父は名門藤原北家を祖とする中御門 宣胤(なかのみかど のぶたね)
  3. ^(夫)氏親→(子)氏輝→(子)義元→(孫)氏真の4代
  4. ^ 正室は亡くなっている。左大臣・三条公頼(さんじょう きんより)の娘。
  5. ^ 室町幕府から独立した勢力であることを明文化した家法
    編纂当時の今川氏親は病身であり、妻の寿桂尼のサポートがあったとされる
  6. ^ 当時は出家して栴岳承芳(せんがくしょうほう) と名乗っていた
  7. ^ 旧称:善得院(ぜんとくいん)。太原雪斎が建立し、僧侶時代の今川義元が修行した場所とも言われている。
  8. ^ 今川 氏輝の死因は病死や暗殺など諸説あり。同日に弟の彦五郎も死去している。
  9. ^ 今川氏親の側室の子であり、母は今川家臣の福島(くしま)氏
  10. ^ 室町幕府12代将軍・足利 (あしかが よしはる)より『』の字の偏諱を賜ったことで、今川家の家督相続の正当性を得た
  11. ^ 伊勢 いせ 宗瑞 そうずい (後の北条 早雲を祖とする戦国時代に関東一円を支配した一族。
    当時は義元の姉の瑞渓院が北条家3代目当主の北条 氏康に嫁いでいた。
  12. ^ 1554年頃に締結した、斐=武田信玄模=北条氏康駿河=今川義元による三国同盟
  13. ^ 今川家の三河国支配に対する国衆や地侍による大規模な反乱の総称
  14. ^ 毛利 良勝(もうり よしかつ)通称:毛利 新介
  15. ^ 簗田 政綱(やなだ まさつな)

 

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