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スタッフのSORAです
本書は現代社会の問題を、
『空海の生き方』から学ぶべきものがないか、
著者の保坂院長が精神科医の立場で取り上げています
本記事は2回目の紹介となります
※本書の引用元は『空海に出会った精神科医』となります
書籍情報
空海に出会った精神科医 その生き方・死に方に現代を問う |
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【著者】 |
保坂 隆 | |
【出版社】 | |
大法論閣 | |
【発売日】 | |
2017年1月10日 | |
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本書の内容紹介
著者が新たな説として提起している、
空海が『うつ病』だったことについて紹介致します
3回目のうつ病 58歳の頃
智泉の死
最澄との訣別や2回目のうつ病を乗り越えて、要職にも就いた空海であったが、
空海が52歳の頃、高弟の
空海は悲嘆の涙を流すも、うつ病にはならなかった
要因
空海がうつ病にならなかった要因として、
筆者の見解では『メランコリー親和型性格』では
なかった為だとしている
その為に、喪失体験はストレスにはならなかったようだ
更に言えば、空海はもう一つのうつ病になりやすい性格の『執着気質』であった。
執着気質はストレスに強い特性であり、
実際にその後の空海は休むことなく精力的に活動している
3回目のうつ病の発症
天長8年(831年)6月14日、空海が58歳の頃、
空海は淳和天皇への「疾に嬰って上表して職を辞する奉状」にて
『然るに今、じ月の心日に心瘡艦に己って口相ぜず。
<中略>
しょしきをるいうれ伏して乞ふ。
永所職を解いて吊に描累にばん。
但愁ふらくは、幸に輪王に逢ひたてまって所願を遂げざらんことを。
いちげこしょう伏して請ふ。』
(引用:最晩年の空海 武内孝善)
要約としては、
『5月30日に
そのため、何とぞ大僧都の職をお解きいただきたい。
さらなるお願いは、密教をお捨てにならないようお願い申し上げる。』
(本書P122)
筆者の見解では、以下の言葉に3回目のうつ病が隠されているとしている
うつ病の要因
悪瘡が先か、うつ病が先か?
悪瘡が体に出たからうつ病になったのではなく、
先にうつ病が発症していたと言えるだろう
うつ病が発症して、その経過で
(本書P122)
発症原因は過重労働
僧侶の管理のような仕事をするのは空海の性分に合わず、
小僧都の地位に就いた際にも職を辞する進言を行っている
しかし辞する事は認められず、空海は小僧都や大僧都の地位に就いたが、
執着気質が災いし、職を全うしたことが、かえってうつ病の原因となった
その結果、免疫機能が弱ったところに悪瘡が合併した、
と考えるのが合理的である
(本書P237)
その後の空海
死を意識した空海であったが同年9月下旬には、
活動を再開しており、悪瘡はその後は増悪せずに、
うつ病も軽快したと考察している
しかし、死期を予測させる後遺症は残ったものと推測される
(本書P123)
以降の空海は、死を意識しながら、
自身の人生設計を修正し、死をプロデュースしていくのであった
所感
空海のうつ病はその人生で3度あったとされるが、
発症要因は全てが過重労働によるものであった。
3回目のうつ病では
死期を悟った空海は現代でいう余命宣告を受けた状態であり、
残された時間の中で、死の恐怖を乗り越えて人生設計を修正し、
やるべきをことをやり遂げた人物であったと言える。
空海のように死をプロデュースすることができなくても、
著者の見解と同じく、エンディングノートを作成することは良いと思う。
※書く内容のポイントは本書P200~P202参照
遺言状のような形式ばったものではなく、
私的かつ気楽にノートに書き出してみることで、
「自分の考え」や「やりたいこと」を整理することに期待できるからだ。
早速、今年の年末にもエンディングノートの作成にとりかかってみたいと思うが、
遅筆の私には著者の勧める家族が揃った正月に披露するのは間に合わなそうだ。
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