スポーツ報知の連載終了を

惜しむコメントや

連載がきっかけで

これからは

ブログを読みます

と言って下さる方もいらして

本当にありがたく思ってます。

 

これからも

昔のことや

今のこと

その時に感じたことを

綴っていこうと思ってますので

どうぞよろしく!

 

さて

萩原康弘のことを

お話しした時に

いちごの神様さんから

いただいたコメント

このコメントを読んで

昨年、肝臓癌で亡くなった

山本功児の顔が浮かんだねぇ。

 

功児は後輩で

共通の仲間がいたりして

プライベートでも

親交があった1人なんだ。

 

彼はね

巨人在籍中は

いちごの神様の言うように

左の代打の切り札として

活躍してたけど

 

晩年、30歳過ぎて

ロッテに移籍すると

規定打席に達し

一塁手として

ゴールデングラブ賞を

受賞したからね。

 

環境を変えて

野球人として

一花咲かせたよね。

 

背番号「44番」にも

ものすごい

愛着を持ってたよね。

 

ハンク・アーロンもそうだし

サンフランシスコ・ジャイアンツの

永久欠番「44」の

ウィリー・マッコビーに

打ち方が似てたりしてさ。

 

俺が巨人の監督に

就任することが決まった後に

功児から連絡が

あったんだ。

 

現役引退後

ロッテに残って

コーチなどを歴任し

監督までやった彼が

「今年でユニフォームを

脱ぐことになりました」と。

 

「これからどうするんだ?」

と聞けば

「特にない」っていう話だった。

 

「じゃぁ、巨人で一緒にやらないか!」

と声をかけたのは俺だった。

 

組閣は

ほぼ決まっていたとは言え

ロッテの監督を務めた男に

タダのコーチというわけにも

いかないだろう。

 

二軍監督は一三さんに

決まっていたので

球団にお願いして

二軍に打撃コーチと

兼任ではあるが

ヘッドコーチという肩書を

用意してもらったんだ。

 

熱血漢溢れる人柄でね

スポーツ報知の連載でも

お話ししたけど

 

俺が監督就任した時は

外国人選手のトラブルが多くてね

その度にフロントに

「何、考えてるんだー!」って

怒っていた姿が

今でも忘れられないよ。

 

俺が優勝に絡む

チームがつくれなくて

2年でユニフォームを

脱ごうと決めた時

功児も一緒に脱ぎ

それ以後

現場に復帰することは

なかったよね。

 

息子の成長を

楽しみにしててね

九州国際大学付属高校に

進学するのを機に

夫婦で福岡に移住してからは

残念ながら

会ってないんだ・・・。

 

その人を想い出す時って

近くにいるって

聞いたことあるけど

今日来てくれてるのかな。

 

 

【 おまけ 】

今日はやたらと

チャチャとサスケが

そばに来てくれてるけどね。