今日から11月だよ!11月!

早いね~。

って、毎月1日なると

俺、同じこと言ってるけどさ(笑)

 

さて

今日は俺の公式サイト

ギャラリーページの更新日

 

今回のテーマは

「ドラフト会議」

というよりも

巨人に1位指名されるまでの

経緯をお話ししていこうと思う。

 

予告通り

たくさん話したから(笑)

時間がある時に読んでね。

 

【 俺のドラフト 巨人1位指名となるまで 】

 

川上監督が甲府の実家にやってきた!

(C)報知新聞社

 

スポーツ報知の連載の

第2回目にお話しさせてもらった

甲府商業1年時の監督

菅沼八十八郎さん

 

この恩師との出会いが

俺が巨人に入り

活躍できた全ての始まりだった。

 

俺、実はね

高校2年の夏の甲子園予選が

終わった後に

2つの球団から

高校を中退して

プロにならないか、って

声をかけられたんだ。

 

その時提示された

契約金が4000万円

 

当時、埼玉上尾高校の

山崎裕之さんが

プロ野球史上最高の5000万円で

東京オリオンズと契約して

世間を騒がせていたからね

 

プロ野球での自分の価値を

知ったようで本当に驚いたんだ。

 

当時、順調にきていた

オヤジの生糸工場が

時代の流れからか

大変そうなのを

子どもなりに

感じるところがあってね

 

自分がプロでやっていけるのか

という不安よりも

その4000万円があれば

工場が助かるかと思い

俺の心の中では

プロに行きたいと思っていた。

 

でも、両親が

高校ぐらいはちゃんと

卒業しろというもんだから

その話はそれ以上進まなかった。

 

その1年後

契約金の高騰が問題視され

ドラフト制度が実施される

ことになり

契約金は最高で1000万円と

制限されたんだ。

 

あ~俺の3000万円は

どこへいったのだ~(笑)

 

高校3年生になると

甲府にやって来る

プロ野球のスカウトの数が

どんどんと増えていったが

大学に進学するか

プロに入るか

まだ決めかねていたんだ。

 

そしてそこからが

菅沼さんの出番だった。

 

日頃から

「お前はプロに行かせる。

そして全国の野球ファンに

こんな選手がいるということを

みてもらいたい」

と言っていた菅沼さんは

「堀内は巨人にいれる」

ことしか考えていなかった。

 

菅沼さん自身

巨人ファンということもあったが

何よりも、必ず試合が

テレビ中継されることで

俺のピッチングを

全国の人に見せるという思いが

実現するからだった。

 

色々なつてをたどって

情報を集めた結果

どうやら巨人の1位指名は

夏の甲子園で準優勝投手となった

銚子商業の木樽正明が

最有力候補だったらしい。

 

巨人は伝統的にスター選手を

とるのが好きだったから

俺みたいな

甲府の田舎の高校生は

ちょっと違ったんだろうな。

 

しかし菅沼さんは

諦めなかった。

なんとか1位指名候補を

堀内に代える手はないものか。

 

菅沼さんはまず

大学時代の後輩である

明治大学の島岡吉郎監督の

もとを訪れた。

 

島岡さんは最初

俺を明治に入れたいという

相談で来たのかと

思ったらしい。

 

俺のピッチングを見て

知っていた島岡さんは

最初は喜んで

菅沼さんの話を

聞いていたらしいが

蓋を開けてみたら

実はプロに入れたいという。

そしてプロに入れなかったら

俺が早稲田に行きたいと

言ってもきかないと。

 

それを聞いた島岡さんは

「あんなやつが早稲田に

行ったらどうなるんだ。

明治は勝てないだろう。

早稲田に行くぐらいなら

巨人に入れた方がましだ。」と

理由は違えど

菅沼さんの作戦に

賛同してくれることになった。

 

そこで今度は

島岡さんが教え子であり

巨人のスカウトである

沢田幸夫さんに話を

もっていった。

 

沢田さんは

すぐに動いてくれた。

スカウトとして

俺の力を知ってくれていた

ことも大きかった。

 

甲府で菅沼さんと会い

「堀内巨人ドラフト1位指名作戦」

が本格的に始動した。

 

沢田さんはまず

大学に進学させたがっている

両親の説得をし

詰めの段階に入った

巨人のスタッフ会議で

俺を1位指名することを提案した。

 

その時、川上監督に

木樽に全く劣らないこと

そして

もしピッチャーとして

使えなくても

ショートが出来ると説明した。

この一言が効いた。

 

この時

ショートを守っていた

広岡達朗さんが

盛りを過ぎていて

次の人材を探していたところだった。

 

そして巨人は俺を

1位指名でいくことが

決まったんだ。

 

それ後

菅沼さんから

マスコミには

こう話すようにと言われた。

 

「僕は早稲田に行きます。

どうしても六大学でやりたい。

巨人が指名してくれたら

考えますけど

他のチームだったら

早稲田に行きます。」

 

そして昭和41年11月

プロ野球初の

ドラフト会議が行われ

俺の1位指名は

巨人だけだった。

俺の言葉を気にして

ほとんどの球団が

2位指名だった。

 

そしてすぐに

入団となるかと思いきや

菅沼さんは

俺にこう言った。

 

「俺がいいというまで

プロに入ると言ってはいけない。

大学に行くと

言い続けるんだ。」と。

 

どうしてかわからなかったけど

言う通りにした。

 

これも菅沼さんと沢田さんの

作戦だった。

 

沢田さんが

堀内がプロ入りする決心を

なかなかしなくて

自分の手には負えません。

川上監督に説得に行ってほしいと

頼んだそうだ。

 

自分で説得に行ったとなれば

川上さんも俺に対して

自分が入団させた選手という思いに

なるはずだ。

そうすれば目をかけるだろうし

トレードも出しにくくなる、

という考えだったらしい。

 

そして川上監督は

新聞社の車を何台も従えて

甲府の田舎にやってきた。

1時間もいなかったが

「どうだジャイアンツで一緒に

野球をやらんかい」と言いに

やってきたのだ。

 

そして晴れて

入団発表となった。

真新しいユニフォームには

「21」の番号がついていた。

 

もっと大きい番号が

ついているかと思っていたから

すごく嬉しかったのを

覚えている。

 

そのユニフォームを見て

俺の性格を知り尽くしている

菅沼さんはこう思ったそうだ。

 

𠮟咤激励の言葉ではなく

この背番号こそが

俺をエースにして

くれるだろうとね。

 

スーパースター川上監督のお出ましに

実家の周りは黒山の人だかり

(C)報知新聞社

 

 

 

【 掲示板 】

スポーツ報知連載第12回

「今でも悪太郎」