マモさん

コメントありがとう!

巨人の先輩投手

菅原勝矢さんと

お話しされたようだけど

菅原さん

お元気にされていますか?

 

コメントいただく前にね

ふと、なぜだか

菅原さんの顔を思い浮かべて

元気にしてるかな~ってさ、

だから俺、ビックリしたよ!

 

菅原さんはね

秋田県大館市の出身で

俺の2つ年上のピッチャー

 

結婚してすぐに

中央線沿いの

マンションに住んでさ

 

俺が「山梨に帰るよ~」

とか「東京に戻るよ~」

なんて連絡を入れると

マンションの窓から

俺の乗った電車に向かって

手を振ってくれたり

する人なんだ。

 

俺が入団1年目のオフに

「秋田犬、飼いたいな~」

って言ったらね

菅原さんが

「いるぞ~」って

快く引き受けてくれてさ。

 

でも「8万円」って聞いた時は

当時の俺の給料が

12万だったからね。

「うっ・・・」って一瞬ひるんだよ。

 

しばらくすると

今のうちのサスケみたいな

ちびこい犬を

連れてきてくれたんだ。

 

「こ、これが8万円の犬か・・・」

 

そうしたら

すごい血統証付きで

名前は「萬龍号(まんりゅうごう)」

 

お父さんが横綱犬で

5匹生まれた

その次男だと。

長男っていうのは

その家に置いておくらしいね。

 

丁重に譲り受けて

山梨の実家で

オヤジに

面倒みてもらうことに

したんだ。

 

中型の秋田犬で

色が真っ黒で

精悍だったね。

 

もの凄い頭が良くて

人にはとっても従順

自分からは絶対に

手を出さないけど

噛まれたりして

ケンカを売られたその日にゃ

容赦なかったね。

 

実家の製糸工場のボイラーから

夜中に火が出た時も

真っ先に大声で吠えて

火事にならずに

済んだこともあった。

 

本当に利口な犬だったけど

ただ1点だけ

文句があったな。

 

それはね、

俺が夜中に酔っぱらって

東京から実家に帰るでしょ。

 

鍵がかかってるから

塀をよじ登って入ろうとすると

俺に向かって吠えたことだね。

 

臭いを嗅いだとたん

俺だってわかるらしいけど

その前からわからなくちゃ~

本当は俺が主人なんだぞ!

なんてね(笑)

 

最後はね

オヤジがガンで

1月に亡くなってから

後を追うようにして

死んじゃったんだよね・・・

まだ7歳だった。

立て続けに愛するものを

失って辛かったけど

情というものを感じたよね。

 

 

菅原さんとの

エピソードに話を戻すね、

 

菅原さんは

1964年に途中入団して

2年後にプロ初登板初完封勝利

その後

先発ローテーションの一角として

11勝をあげたり

リリーフとしてもご活躍されて

たった1球で勝利投手になったりも

したんだけどね、

 

俺、忘れもしないよ。

 

1972年 札幌円山球場の

対阪神タイガース戦で

打球が菅原さんの顔面に

直撃したんだよ。

左目のあたりを

何十針も縫う大けが

 

急遽、ピッチャー交代で

俺がマウンドに上がったんだ。

 

すごい急なことで

肩を作ってなかったこともあるけど

 

マウンドに行ったらさ

土をなおしてくれてなくて

血だらけだったんだ。

俺、それ見たら

全然ダメでさ

案の定、打たれたよ。

 

その後どれくらいしてからかな

怪我が治ったからって

練習にきたんだよね。

 

ブルペンで

俺、菅原さんの横で

投げてたんだ。

 

そうしたら

キャッチャーから

緩く投げられた球を

捕球できなくて

空振りしたんだよ。

 

確か、空振りして

またボールを

顔に当てたんだけど

その時は大事に

ならなかったはず。

 

俺、慌ててて

菅原さんに

「どうしたの!?」

って聞いたんだ。

 

そうしたら

「ボールが2つに見えて

どっちが本当のボールかわからずに

空ぶった」って。

 

その後も

復帰を試みて頑張ったけど

目の不調が続いて

1974年に1回も1軍で登板できず

長嶋さん引退と同じその年に

ユニフォームを脱ぐことになったんだ。

 

引退後のある日

ボルボの輸入販売会社に転職しました

っていう挨拶状を頂いて

俺、すぐに電話したんだ。

 

そうしたら

車のセールスマンやってるって

聞いてね、

俺、記念すべき

契約第1号者にしてもらったんだ。

 

その後から

お会いしてなくて

気にはなってたんだ。

 

でもお元気でしたら何より!

マモさん、コメント

本当にありがとう!