昨日のスポーツ報知の記事

タイトルは

「10月3日最終戦は

菅野→マイコラス必勝リレー

伝説の10・8再現」

 

「伝説の10・8」とは

1994年(平成6年)10月8日

ナゴヤ球場で

中日VS巨人の最終戦のこと。

 

この試合は

日本プロ野球史上初めて

69勝60敗

同率首位同士のチームによる

優勝決定戦でもあったんだ。

 

今度の試合が「再現」に

あたるかどうかの

議論はちょっと置いておいてね(笑)

今日はこの「10・8」の試合について

俺目線で少し

お伝えしようと思う。

 

 

最後にきて

「追いついた」中日と

「追いつかれた」巨人

そして敵地・ナゴヤ球場での試合

試合前のムードから言えば

巨人が少し劣勢にも思われたね。

 

当時

ヘッドコーチだった俺は

試合の前日

名古屋入りした夕方に

長嶋監督に呼び出された。

 

明日の最終戦

誰を投げさせるのか。

 

俺は長嶋さんに

「3人でやります」と告げた。

 

槙原寛己

斎藤雅樹

桑田真澄

 

当時の3本柱だ。

 

投げる順番も

この通りでいきたいと。

 

そして

先発槙原を

打たれるまで投げさせ

その後に斎藤

斎藤が崩れたら桑田

という考えではないこと。

 

3回×3回×3回

仮に調子が良くても

3人で3回ずつで行きますと。

 

「よし、わかった。」

長嶋さんは俺の構想に

すぐに合意してくれた。

 

この構想で

ポイントになるのが

投げる順番だ。

 

最後は

しびれるシーンになるだろうから

3人目のピッチャーは

精神的にタフでなければ

到底務まるはずがない。

 

俺は迷わず桑田を選んだ。

理由は

彼の今までの経験をみてのことだ。

 

桑田は

PL学園高校時代から

マスコミに注目され続け

甲子園でも

プレッシャーのかかる試合を投げ勝ち

そして頂点まで登りつめた経験がある。

 

3人の中で一番若かったが

槙原と斎藤にはない

修羅場をくぐり抜けてきていることが大きい

と俺は判断した。

 

ただ単に

ストッパーの役割としてみるならば

それまで

桑田は1セーブしかしていなかったが

そんなデータ

この時は必要ないと思った。

 

今、最も必要なのは

強固な精神力だけだ。

 

長嶋さんは

全てを受け入れてくれた。

後は決戦を待つのみ。

 

しかし

夜10時頃

俺の部屋の電話が鳴った。

電話の相手は長嶋さんで

ピッチャーの確認だった。

俺は「間違いないです」と

念を押した。

 

そして

試合当日の朝7時頃

俺の部屋の電話が鳴った。

 

またしても長嶋さんからだった。

「これで大丈夫なのか?」

ピッチャーの確認だった。

俺は長嶋さんの心情を察した。

 

そして、こう答えた。

 

「これしかありません。

これで負けたら

うちはしょうがありません。」

 

そして試合直前

今度は俺が

長嶋さんのところに行き

「これでいきます」と

最後の

本当に最後の確認をした。

 

俺は中日の先発

今中慎二さえ

打ってしまえば

後に投げるピッチャーは

いないと踏んでいた。

 

しかし

点を入れれば

入れられてと

ヨロヨロした展開となり

槙原は

2回を投げ切ることなく

早めに斎藤にいかせる事態となった。

 

斎藤は5回に内転筋を痛め

テーピングでぐるぐる巻きにしながら

予定の6回までを投げ切ってくれた。

斎藤は周りから

「気が弱い」などと

言われたこともあったが

彼にとってこの経験は

本当に大きかったと思うよ。

 

そして

7回からは桑田が

きっちり0点に抑えてくれて

見事、優勝を飾ることができた。

マウンド上での

桑田のガッツポーズ

いまだに目に焼き付いている

ファンも少なくないと思うよ。

 

 

8回には中日の立浪和義が

一塁にヘッドスライディングして

左肩を脱臼したりと

両チーム

絶対に負けられない気迫と緊張の中

スタンドのファンまでもが

同じ雰囲気に飲み込まれての

試合だった。

 

こういう試合を体験できたこと

俺は誇りに思ってるよ。

 

 

さぁ、巨人も残り3試合

可能性がある限り

CS進出は諦めたくないよね。

 

毎回こんな試合をしてたら

さすがに体がもたないけどさ

ここぞ、って時は

死にものぐるいで

食らいついてもらいたいね。

 

 

がんばれ!

ジャイアンツ!