今日から9月

さっき、俺の公式サイトの

ギャラリーページを更新したんだよ。

 

いつもはスタッフから

お知らせさせてもらってるけど

今月は俺から。

 

 

なぜかと言うと・・・

 

 

先月にHiroさんから

「俺が一番記憶に残っている試合は

どの試合か」っていう質問をもらっててね、

俺、ず~っと思い返してたんだよね。

 

 

最近、

思い返すのにも

時間がかかるんだけど(笑)

普段は俺の中に眠っているだけで

思い出すと

1つ1つに俺なりの思い入れがあって

どれも記憶に残る試合だなぁって。

やっぱり一つには絞れないや。

 

 

そんなことを考えながら語った

今月のギャラリーページのテーマ

俺にとっての「V9」時代

 

このお話しをもってHiroさんへの

お返事とさせてもらえるかな。

 

 

なので

今月はブログにも

掲載するね。

 

 

たくさん語ったから

時間がある時に

ゆっくりと読んでもらえると

嬉しいよ。

 

 

堀内恒夫公式サイトより 

【 俺にとっての「V9」時代 】

1972年 V8を決め祝杯をする

(左から)黒江・王・長嶋・堀内・森 

(C)報知新聞社

 

 

 

「V9」1965年~1973年

巨人が9年連続セ・リーグ優勝と

日本一になったことを言うんだけど

今回はその中でも

「V8」1972年(昭和47年)の

お話しをしたい。

 

この年は1年を通して

ものすごい調子が良かった。

 

これからする話

俺の著書で紹介したことはあるけど

初めて聞く人が多いかもしれないな。

 

変なやつだと思われるかもしれんが

事実なのでしょうがない。

 

 

春の宮崎キャンプに行く直前の

多摩川グラウンドで練習していた時のこと。

 

当時ピッチングコーチだった

藤田元司さんから

「ホリ、20球アウトコースの

低めを投げて終わりな」

って言われたんだ。

それを3日連続やれってさ。

 

1日目

あっちこっちいくのが

俺の持ち味なんだから

20球決めるのに100球以上かかったよ。

 

 

それがね、3日目に

なんと20数球で終えられたんだ。

 

 

俺に何が起きたって?

 

 

しつこいようだけど

本当の話だからね。

 

 

投げようとして左足をステップした時に

突然、俺の指先から

2本のラインが浮かび上がったんだ!

 

そのラインは

キャッチャーミットまで続いてね

ここに投げれば

アウトコース低めに投げられる

っていうのがはっきり見えたんだよ!

 

 

えええええ!

 

 

何がなんだかわからんけど

とにかく俺が投げたいところに

ラインが浮かびあがってくるんだからさ

俺はそのレールのようなラインの上に

ボールを乗せるだけでよかったんだよ!

 

 

そうすると

キャッチャーが構えたところに

ビシビシ決まるもんだから

俺自身ビックリしたけど

周りの人達はもっとビックリしたんじゃない?

 

 

 

これはおもしろい!って思ってさ

この感覚を忘れちゃいけない

早く体に染み込ませなくちゃの一心で

宮崎キャンプに行ってから

急に投げ込むもんだから

練習嫌いの俺がどうしたのかって

報道関係の人もビックリしたと思うよ。

 

 

 

俺がこんな体験をするまではね

打撃の神様と言われた川上哲治さんが

「ボールが止まって見えた」

っていう名言を残してるんだけど

その言葉を全然信じてなくてさ。

 

 

だいたい、

ボールが止まるなんてありえない

練習で倒れる寸前までバットを振って

一種の錯覚を起こしたんじゃないか、

って勝手に想像してたけど・・・

 

 

俺も宣言します!

「指先からラインが見えました!」(笑)

 

 

そう言ったわけで

コントロールが俄然良くなった俺は

リリーフで投げても

勝ち投手が転がってきたりと

運も味方になってくれ

シーズン成績 26勝9敗をマーク

25勝以上勝った

最後のピッチャーと呼ばれてるよ。

 

 

シーズンMVPも獲得できた。

「V9」時代のMVP

長嶋さんと王さんの2人以外は

この年の俺だけなんだよ。

 

 

最高勝率・最多勝・沢村賞

ベストナイン・ダイアモンドグラブ

最優秀投手・MVP

そして日本シリーズでも

MVP・最優秀投手

とにかくこの年は凄かったんだ。

俺にとって最高のシーズンだったよ。

 

 

 

でもね、これ、オヤジが

力をくれたと思ってるんだ。

 

 

 

この年の初めに

オヤジが胃がんだって

ことがわかってね

オヤジを山梨から呼んで

東京の日赤病院に入院してもらった。

 

 

東京にいる時は必ず

朝オヤジを見舞ってから球場入りし

試合が終わった後も

オヤジの顔を見てから自宅に帰る。

そんな日を繰り返した1年だった。

 

 

俺、オヤジを喜ばせたくて

1つでも多く「今日、勝ったよ」って

報告したかったんだ、きっと。

 

 

そのシーズンが終わった翌年

1973年1月16日にオヤジは亡くなった。

 

 

なんと、俺の誕生日

 

 

全てはつながってるんだなって思ったよ。