余白と表現と得点ーーそこにこそ羽生結弦のスケートの神髄がある | ほりきりのブログ

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 今回は羽生結弦のスケートの神髄のようで、さらに中身が濃い。


 余白。

 うわああああ、ページにコマの中にとにかくなんかを描こうとしていた空間恐怖症だった昔の私に聞かせてやりたい
 そうか、表現の肝は余白なのか。

 容れ物に入っている。
 きれいな水槽の中のきれいな金魚。

 それってリンクだよね。リンクは四角いし。(金魚鉢でなく水槽なのだから四角いリンクはあり)
 きれいな衣装のスケーターがいるじゃない。
 カメラが追っかけるテレビの映像じゃわからない、現地の、特に私はいつもスタンドのてっぺんが多かったから、上から見ると確かに水槽みたいに見えるかも。

 その中で完成してるきれいな金魚のまわりを、見る人の感性で埋めていくってことかしら。

 そういう意識も力もない人が滑ると、リンクという容れ物の中で滑っててもその場所が感じられなくて、その人が動いた線だけで終わってしまうような気がする。 
 羽生さんはなんか時間も空間も支配してまるごとこちらに差し出してくるような感じがするのだ。
 たとえば余白というなら、私は羽生さんのジャンプに感じるな。宙に飛んでふわっと下りてくる時間が止まってるみたいで。下りた瞬間にポッと間を感じて。そこでうおおおおおーーとなるんですわ。この見るものの感情を入れる間があることも、余白だよね。


 人によって、見えているものが違う。
 いつも羽生さんは、受け取り方を見るものに委ねてくれてるもんな。

 そこで「天と地と」
 学校の歴史で習うから教養として上杉謙信を知っている日本人と、ひとの国の歴史はわからん外国人とでは、見えるものが違うと。
 ストーリー性のあるものの知識や素養があるかどうかは上杉謙信に限らないと思うけど。(バレエやオペラや映画音楽にもストーリーがあるから)
 で、さらに私なんかはあいだに新平家を挟まれたおかげで、勝手に壇ノ浦まで夢想してしまうわけですよ。
 だから受け取り方はそれぞれだと。いくつも背景ができていくつも色がはいる。

 そのための余白。


 羽生さんの概念はスケートだけの例にとどまらない。
 水彩画?うん、ここの微妙なにじみ、的な。
 強弱でいったら、漫画の線なんかの、抜きですーっとはらった線の先、みたいな。
 小説ならそれこそ、行間。
 なんか、なんかわかる気がする…

 糸井さんは坂本教授の「音の質」のお話を。
 そうか、音も、線も、文章も、スケートも、質なのか。


 
 そこで質の問題の流れで糸井さんが「4回転ジャンプ」というワードを持ち出した。
 今までお互いに軽快にキャッチボールをしていたのに、この絶好球をバシッと受けて、羽生さんが堰を切ったようにしゃべりだした。


 ジャンプというのは基準が明確だからこそ、高いスコアを出すためにみんなジャンプに集中してる
 でもジャンプにも質があるよね。跳べば下りれば点がもらえるからそこんところがおざなりになるけど、羽生さんはジャンプの質にもこだわっているはずだ。
 そこで出てくるジョニー・ウイアー。
 糸井さんはジョニーと対談してよくご存じだろうから例にも出しやすかっただろう。

 彼のジャンプのよさはランディングの姿勢
 あのきれいな姿勢で、流れを保ったまま下りてくることができる
 あのランディングがあるからこそ、彼の表現したいことが、ジャンプでぶつ切りにならないで、音楽に沿ったままぜんぶつながっていける


 羽生さんが子供の頃から一貫してジョニーが憧れだというのは、中性的な柔軟な演技ができるとかだけじゃなくて、きれいなランディングによって音楽の中にジャンプを存在させることができるからなのか。
 それこそ徹底した基礎の技術に基づいた表現・芸術ではないか。羽生さんの信念そのものだったんだ。

 一方で、もう一人のヒーローのプルシェンコは、決してランディングは美しいとは思わない。高く跳んでドスンと下りる傾向がある。(ネイサンの方がプル様に近いジャンプだと思うよ)でも絶対に転ばない。その強さに憧れていたんだったっけ。

 ジョニーさんが4回転までやれなかった世界。
 プルシェンコさんが4回転3回転3回転とか跳んだりとかしながらもやりきれなかった世界。

 
 だから羽生さんはその二人のいいとこどり、全部どりをしようとしてるんだよね。
 ジョニー+プルシェンコ÷2ではなくて、×2みたいな存在になろうとしている。てかなってきてる。


 ジャンプの質については他にもいろいろ。
 ジャンプの得点は基準が明確にあって、誰かの価値観によって変わるものじゃない(うん、そのはずなんだけどね、加点の仕方は変だよね)
 だけどそういうジャンプにも質というかニュアンスがあって、それこそが余白なのかもしれないけど、

 表現力とか
 スピード感とか
 膝が深いとか
 幸福感があるとか
 劇場的である
 っていうようなことは見る人の感覚や価値観で変わる。


 ほら、これこそ、強いだけじゃ感動しないってやつだよ。人の心に訴えるものはただ跳んでおりて点数重ねるだけじゃないんだよ。点数とは別のところに人々の感動のツボがあるんだ。(そして今あげた全項目、羽生さんのジャンプに当てはまるじゃないか)


 自分が表現したい世界っていうものがしっかりとある
 いわゆるわかりやすい難しさ、普遍的な点数、みたいなものも同時に手に入れて勝ちたい


 どっちも強く強く持っていて、絶対にどっちも手放さないで突き進んできた。
 だからこそ、高難度な技術と至高の芸術を両立させるという奇跡をおこした。
 そうやって、異質で無類の絶対王者ができあがったんだと思う。



 はー、語ってくれたねえ。
 これが羽生結弦のスケートだよ。
 スケート関係者に語ってもきっと理解してもらえない。それは理想であってそんなことができると思えない。もしできる人がいるとしても(いや目の前にいるんだけど)自分は絶対にできないから、そんな存在を認めることができない。それが今のスケート界だよ。
 でもスケートと関係ないところでは言えるんだ。
 それぞれの方法で自分の世界を表現しようとするプロの人になら、その本質が分かり合えて、話すことができるんだよね。


 これ、今現役で試合に出ている若者たちに読んでほしいわ。 
 羽生結弦のスケートの神髄を、本質を、多くの人をひきつける魅力の源を、学んでほしい。

 
 いつも考えてて何度も話していた事柄だろう。
 でも糸井さんという言葉のプロとのやりとりで、的確に誘導されて、表現とジャンプの質と評価とのせめぎあいまで、ぜーーーんぶ喋れたね。

 糸井さんと話せて、本当によかったね。