吉良仁吉 | 彫きぬ雑記帳

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山口県山口市の刺青処、日本伝統肌絵芸術の彫きぬこと衣笠新太郎のブログ

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。。。義理の流れは情けの堰(せき)を、
切って落とさにゃ通されぬ。。。

幕末期に、三州吉良の没落武士の子として生まれた吉良の仁吉という博徒がいた
無口だが腕っ節と相撲が強かったらしく
18歳から3年間を清水次郎長の下で過ごした

のちに次郎長と兄弟の盃まで交わす仲となり
地元の吉良に帰り吉良一家を興した

慶応2年、
穴太(あのう)徳次郎という博徒が、仁吉の兄弟分だった神戸長吉の縄張りであった伊勢荒神山を奪ったので
仁吉は荒神山に乗り込んだ
俗にいう荒神山の決闘であり、
仁吉は鉄砲で撃たれた上、斬られて死んだ
享年28

仁吉の死の報に兄弟分の清水次郎長は東海道の博徒480余名を動員し
伊勢の神社湾(かみやしろわん)に2隻の船を乗りつけた
(このとき次郎長は船内に鉄砲数十丁を用意している)

安濃徳と後盾である伊勢古市の丹波屋伝兵衛に決戦を挑むが、
両者とも謝罪したため和議をする
清水一家と穴太徳の正式な和解は明治の2年頃行われたとされる

荒神山の喧嘩相手の穴太徳次郎の妹お菊は、仁吉の女房だったが
仁吉は喧嘩の前にお菊に離縁状をだす
この場面が芝居や浪曲などのシーンに登場し
視聴者の涙を誘うのである

🐱女房の兄が喧嘩相手になろうとはねえ。。
🐶神戸長吉も仁吉に頼り過ぎたしなぁ

この別れの場面を藤圭子さんが歌ってるので
お聴きください