「自分の周りに起きた出来事に良いとか、悪いとかってジャッジしたらダメだったですよね?」

 

 

 

ジャッジはしてしまうものだけど、

 

しなくても済むようになりたいものだね。

 

 

 

「ジャッジしても良いんですか?」

 

 

 

良いとか悪いとかと言うんじゃなくて、

 

出来事が自分にとってどういうものか

 

意味付けしようとするから

 

ジャッジしてしまうでしょ?

 

 

 

「どういうことですか?」

 

 

 

例えば仕事しているとき、よろけて

 

手に持っていたたくさんの書類を

 

床にばらまいてしまいました。

 

これって何か思う?

 

 

 

「やっちゃった〜って思います」

 

 

 

それってどういうこと?

 

 

 

「失敗したとか恥ずかしいとか…ですかね」

 

 

 

そうだよね。

 

つまりあなたの認識では

 

良くないことが起こったわけだ。

 

こんなふうに、ほとんどの人は起きた物事に

 

対してジャッジしてるものなんだよ。

 

意識に登らないような出来事でも、

 

心地良いとか何でもないとかって

 

無意識は感じ取ってジャッジしているものなの。

 

 

 

「だからジャッジしても良いってことですか?」

 

 

 

ジャッジする事は、

 

良いとか悪いとかじゃないの。

 

ジャッジするってことがあるだけ。

 

 

 

「あるだけ? それだと何ですか?」

 

 

 

ただジャッジするってことがあるだけなのに、

 

出来事に対して良し悪しや好き嫌いの

 

ラベリングをするようになるんだよ。

 

 

 

「ラベリング?」

 

 

 

この出来事はこれこれこういうことだから

 

良いものですとか、

 

この出来事はこういう結果を招くから

 

悪いものですとかって。

 

 

 

「善悪の判断みたいなことですか?」

 

 

 

判断や決めつけがミックスしたみたいなものだね。

 

 

 

「そのラベリングをすると何なんですか?」

 

 

 

ラベリングは、自分の体験に対して

 

この体験は〇〇だとか、

 

これはそのうち〇〇になるやつだ

 

って意味づけして整理されるの。

 

 

 

「なるほどですね、なんとなくわかります」

 

 

 

このラベリングが固まってしまうっていうか、

 

こういう出来事や物事は〇〇だ

 

って思いや判断が凝り固まってしまうと

 

いろいろな弊害が起きるんだよね。

 

 

 

「凝り固まる?」

 

 

 

認知や認識の中での

 

判断の柔軟性が

 

頑固になるってこと。

 

普段事ならなんてことなく

 

やれていたことも、

 

嫌なこととか苦手なこととして

 

強く固定されてしまうと、

 

柔軟に物事を考えたり

 

対処することが難しくなるだろう?

 

 

 

「そういうものかもですね」

 

 

 

失恋とか苦しみとかもそんなもんだぞ?

 

どうして私はうまくいかなかったんだろう、

 

どうして彼はあんなこと言ったんだろうってね。笑

 

 

 

「やっぱり物事って、ジャッジしたらダメなんじゃないですかぁ」

 

 

 

でも、ジャッジをやめたら

 

恋愛の楽しみとか喜びも無くなるかもよ?笑

 

 

 

「えぇ〜っ。 どうしてですか?」

 

 

 

多くの人が、苦しみや辛さと同じように

 

恋愛の楽しみや喜びにもジャッジしてるし、

 

ラベリングしてるからだよ。

 

今日のデートはうまくいったとか

 

次は〇〇にしようとかって。

 

 

 

「一体どっちなんですかぁ。 ジャッジしても良いんですか? ダメなんですか?」

 

 

 

ジャッジに良いも悪いもないんだってば。

 

ジャッジするってことがただ起きるだけなの。

 

そこに他のことと関連付けて

 

意味付けしたり囚われるから都合悪くなるの。