『沈むなら、光のほうへ』
1 沈んだ日
真昼のカフェで、雨宮(あまみや)リラはスプーンを持ったまま固まっていた。
目の前のアイスティーは、まだ一口も飲まれていない。
「ねぇ師匠。どうして人って、こんなに気持ちが沈む日があるんですか?」
師匠と呼ばれた男は、年齢不詳の不思議な人物だった。
白いシャツの袖を無造作にまくり、コーヒーの湯気をぼんやり眺めている。
「唐突だなあ、今日も」
「いいじゃないですか、唐突で」
リラは眉を寄せた。
「師匠っていつも、“落ち込めるのは良いことだ”って言いますけど、あれって本気で言ってるんですか?」
「もちろん」
「どうしてです? 落ち込むのって嫌じゃないですか」
「嫌だよ?」
「じゃあなんで良いことなんですか」
「感情があるって素晴らしいからだよ」
「もう意味がわからないです」
師匠は笑った。
「今日も脳みそ絶好調だな、リラは」
「そういうのはいいですから」
雨の音が静かにガラスをなでる。
気持ちの沈みは、どこか底の見えない井戸のように思えていた。
師匠は、熱いコーヒーをひとすすりすると、ゆっくり言った。
「リラ、人生ってね、ひとつの“物語”なんだよ。
気分が沈むのは、その物語にコントラストをつけてくれる大切な装置なんだ」
「でも、ジェットコースターとか映画とは違いますよ? 人生は“本物”じゃないですか」
「本物? どっちもリラが“本物だと思っている現実”だよ」
リラは息をのんだ。
本物と仮想。
境界線は……本当にあるのだろうか。
2 沈みの始まり
その日の帰り道。
リラの心は、いつもよりずっと重かった。
理由はざっと三つ。
1.仕事でミスをして落ち込んだ
2.好きな人に無視された気がした
3.朝からずっと、なんとなく気持ちが晴れなかった
理由は小さくても、沈む深さは比例しない。
むしろ、取るに足らないようなことほど、心の底を冷やしていくことがある。
家に帰り、ベッドに沈み込むと、リラはふっと思った。
(沈むって、世界が色を失うみたい……)
部屋の白い天井。
時計の秒針。
外の車の音。
全部が、遠くて、虚ろだ。
そのまま、リラは眠りに落ちた。
3 夢の国《エモナイル》
目を開けると、見たことのない景色が広がっていた。
空は深い群青で、星が地上に近い。
光の粒が舞い、遠くには巨大な時計塔がぽつんと立っている。
「ここは……どこ?」
足元を見ると、透明な床の下に、映画のような映像が流れていた。
子どものころ泣いた日、笑った日、怒った日――。
そこへ、白いローブをまとった不思議な存在が現れた。
顔は影になっていて見えない。
「ようこそ、感情の国《エモナイル》へ」
「エモ……?」
「あなたの気分が沈んだので、扉が開いたのです」
リラは口を開けたまま、何も言えなかった。
「わたしは“案内人(ガイド)”。あなたの感情の仕組みを管理している者です」
「管理……ですか?」
「はい。すべての人間は、生まれながらに感情の装置を持っています。
そのメンテナンスをわたしたちがしています」
「え? 感情って、メンテナンスされてるんですか?」
「もちろん」
案内人は、軽く指を鳴らした。
すると遠くに、ネオンのように光る大きな看板が浮かびあがる。
《感情管理局 沈みセクション》
「沈み……セクション?」
「ええ。沈み、落ち込み、悲しみ、喪失。
人間が避けたがるあらゆる“下降”の感情を扱っています」
「そんなもの、どうしてわざわざ?」
「必要だからです。
人生を立体にするために」
案内人は、リラの目をじっと見つめた。
「あなたは今日、“沈み”が嫌だと思っていましたね」
「はい……まあ、そりゃ」
「でも、“嫌な気持ちになれること”自体が、とても面白い構造なんですよ」
リラは首をかしげた。
「どういう意味ですか?」
「では、こちらへ」
案内人が歩き出す。
リラは半ば夢中でついていった。
4 沈む装置
巨大な部屋には、いくつものガラスチューブが並んでいた。
その中には、人間の心のような光がゆらゆら漂っている。
「あれは何ですか?」
「“沈みの源泉”です。
人間が“落ち込む”とき、そのエネルギーがここから供給されます」
「供給……?」
「ええ。たとえば」
案内人がひとつのチューブに手をかざすと、中の光が淡く揺れた。
「これは“失敗したときの沈み”。
仕事でミスをしたとき、心が沈むでしょう?」
「……はい」
「あれは、脳だけが反応しているわけではありません。
ここから“沈みの振動”があなたの意識に届いているのです」
「えっ……?」
リラはぞくっとした。
まるで、自分の心が外側のどこかに置かれているような感覚。
「でも、なんでそんな仕組みが必要なんですか?」
「あなたの人生が“平坦で退屈にならないため”です」
「退屈……」
「喜びだけの人生が、ほんとうに楽しいでしょうか?
悲しみがあるから、喜びが輝きます」
リラは思わず黙った。
確かに、何もかも思いどおりの日が続いたら――。
それは最初こそ楽しくても、やがて虚しさに変わるかもしれない。
5 沈みの記憶室
案内人は、奥の部屋へリラを案内した。
「ここが《沈みの記憶室》です」
扉が開くと、無数の本が並んでいた。
すべての表紙には、リラの名前が刻まれている。
『雨宮リラの“沈んだ日” No.001』
『雨宮リラの“沈んだ日” No.122』
『雨宮リラの“沈んだ日” No.304』
「これ全部……私が落ち込んだ日の記録?」
「はい。ひとつずつ読み返してみるとよいでしょう」
リラは震える指で一冊の本を開く。
すると、部屋全体が光に包まれ――。
場面が変わった。
そこは、リラが高校生のころの教室だった。
『失敗した日』
——テストで白紙を出したあの日。
——友達に“真面目すぎる”とからかわれて泣いた日。
「これ……全部、忘れたいことばかりだ」
「忘れたい日ほど、あなたの人生を形づくっています」
案内人は静かに言った。
「たとえるなら“影”。
光だけでは、形は浮かびません。
影があることで、輪郭が生まれるのです」
6 沈む理由
リラは聞いた。
「でも……沈むのって、すごく苦しいです」
「ええ。でもね」
案内人は、遠くの窓を指差した。
「沈むとき、人は必ず“今この瞬間”に戻ってくるのです」
「今……?」
「沈むと、未来は灰色に見えます。
過去は後悔でにごります。
だから人は、強制的に“今の自分”に向き合うことになる」
リラは、胸がどきっとした。
「つまり――
沈むのは、“今ここ”を取り戻すスイッチなのです」
「……そんな意味が?」
「ええ。あなたが沈む日は、“本来のあなたが呼んでいる日”でもありますよ」
リラは言葉を失った。
沈む日を、ずっと悪者みたいに扱ってきた。
邪魔で、苦しくて、嫌で。
でも――。
もしもそれが、自分が自分に戻るための合図なら……。
7 沈みの底にあるもの
案内人は、最後の部屋へリラを連れて行った。
そこは真っ暗な空間だった。
音もなく、光もない。
だけど、不思議と怖くはなかった。
「ここが、沈みの底《ゼロポイント》です」
「ゼロ……?」
「沈みの極限に来たとき、人は必ずここへ触れます。
すると“あるもの”が浮かび上がるのです」
「あるものって?」
案内人は、リラの胸のあたりを指差した。
「あなたの、いちばん素直な願いです」
「願い……?」
「ええ。沈むとき、人は“もう無理”とか“消えたい”とか思いますが……
その奥では必ず“本当はこう生きたい”という願いが生まれています」
リラは息をのんだ。
「沈みはね、自分の願いに気づくための、深い旅なんですよ」
そう言うと、案内人は静かに微笑んだ――
ように見えた。
「では……そろそろ戻りましょう」
8 目覚め
リラが目を開けると、部屋の天井があった。
夢だったのか、現実だったのか、わからない。
けれど、胸の奥が不思議に軽い。
「……沈むって、悪いことじゃないんだ」
リラは、布団の上でひとつ深呼吸した。
今日の沈みは、意味があった。
願いに戻るための旅だった。
そう思うと、久しぶりに心が静かに満ちていった。
9 師匠の答え
翌日、リラは師匠に会いに行った。
「師匠。昨日、夢を見たんです」
「ふむ。どんな夢?」
「感情の国《エモナイル》っていう場所で……沈みの意味を教えてもらいました」
「そうか」
「沈むのは、“今ここに戻るための旅”なんだって」
「いい夢だな」
リラは、少し不安になった。
「師匠、あれ……夢ですよね?
それとも……」
師匠はコーヒーを飲んだあと、こう言った。
「リラ。感情の世界に夢も現実もないよ。
感じたことは、ぜんぶ“本物”だ」
「本物……」
「沈みも、喜びも、迷いも、光も。
その全部があなたの人生を立体にしているんだ」
リラは微笑んだ。
昨日の夢と、師匠の言葉が、胸の奥でやわらかく結ばれていく。
10 光のほうへ
帰り道、リラはふと感じた。
(沈むときって……光を探してるんだ)
沈むから、見える光がある。
沈むから、願いに気づける。
沈むから、人は優しくなれる。
リラは空を見上げた。
雲の隙間から光が差しこんでいた。
「沈むなら……光のほうへ進めばいいんだ」
そのとき、心の奥でそっと何かがほどけた。





