「窓辺の小さな旅人」


第一章 閉じられた世界

春なのに、街は静かだった。

駅前の通りは、いつもなら仕事帰りの人たちでにぎわっている時間なのに、どこか拍子抜けするほど静まり返っている。
空はよく晴れていて、まるで世界が何事もないかのように澄んでいた。

作業療法士を目指す学生、花村ゆいは、小さくため息をついた。

「外出自粛って……思ってたより、きついかも」

アパートの窓を開けると、ひんやりとした風がカーテンを揺らす。
遠くで、どこかの犬が吠えている。

大学の臨床実習は続いているけれど、外出は最低限。
友達と会うことも、街を歩き回ることも、ほとんどできない。

「人って、こんなに外に出て生きてたんだな……」

ゆいはスマートフォンをテーブルに置いた。

画面のニュースには、
「不要不急の外出は控えてください」
という文字が並んでいる。

部屋に閉じこもる時間が増えるほど、なんだか胸の奥がざわざわしてくる。

太陽の光を浴びる時間も減った。
運動も減った。
会う人も減った。

それは、ゆいの想像以上に、心に重たかった。


第二章 入院している人たち

その日の実習で、ゆいはぽつりと言った。

「先生、外出自粛ってストレスたまりません?」

指導担当の療法士、三浦先生はカルテを書きながら笑った。

「どうして?」

「だって……太陽浴びる時間減るし、運動も減るし、人にも会えないし」

ゆいは指を折りながら言う。

「こんな生活続いたら、活動意欲なくなりません?」

三浦先生はペンを止めた。

「ふむ」

そして静かに言った。

「それってさ」

少しだけ、いたずらっぽい目をして。

「入院してる人たちの生活と、似てない?」

ゆいは一瞬、言葉を失った。

「あ……」

確かにそうだ。

病院の患者さんたちは、
自由に外出できない。
会う人も限られる。
生活の範囲も狭い。

三浦先生は言った。

「ストレスになる人もいるよ」

「慣れすぎてしまう人もいる」

「それをホスピタリズムって言うんだけどね」

ゆいは小さくうなずいた。

だけど、先生はそこで話を終えなかった。

「でもね」

にこりと笑って言った。

「世界の広さって、意外と距離で決まらないんだよ」


第三章 海浜公園のすすめ

「君のアパートの近くに、県立の海浜公園あるよね?」

ゆいは驚いた。

「知ってるんですか?」

「このへんの学生、みんなそこに行くから」

先生は軽く肩をすくめた。

「休み時間とかに散歩してきなよ」

「広いし、風も気持ちいいよ」

ゆいは少し困った顔をした。

「でも……外出自粛ですし」

「人が少ないところなら問題ないさ」

先生は笑った。

「それに」

ペンを置いて、ゆっくり言う。

「こういう時こそ、会いに行ける相手がいる」

「え?」

「草花」

ゆいは思わず笑った。

「草花ですか?」

「そう」

先生は真顔でうなずく。

「公園の花壇とか、すごいよ」

「今の季節、新緑もきれいだし」

「普段の生活だと、ほとんど見てないものばかりだ」

ゆいは少し考えた。

確かに。

学校、バイト、友達、スマホ。

毎日が忙しくて、
道端の花なんて見ていない。

先生は言った。

「世界ってさ」

「ちょっと枠組みを変えるだけで、別の顔を見せるんだ」


第四章 芝桜の丘

その日の夕方。

ゆいは海浜公園に来ていた。

「……ほんとに来ちゃった」

春の空気は、少し甘い匂いがする。

海から吹く風が、髪を揺らす。

そして。

「あ」

思わず声が漏れた。

丘の斜面いっぱいに、芝桜が咲いていた。

ピンクの絨毯。

夕陽の光が花びらに触れて、きらきらしている。

ゆいはしゃがみこんだ。

「こんなとこあったんだ……」

芝桜の花は、小さくて可憐だ。

近づくと、ほのかに甘い香りがする。

風が吹くと、花の波がゆれる。

ゆいは不思議な感覚になった。

なんだろう。

胸の奥が、少しだけほどけていく。

「……きれい」

それは、誰に言うでもない言葉だった。


第五章 小さな旅

それから、ゆいは公園に通うようになった。

毎日ではない。

でも、時間を見つけては来た。

芝桜の丘。
桜の木。
芽吹きはじめた若葉。

ある日、ベンチに座っていると、先生の言葉を思い出した。

世界は距離で決まらない。

そういえば。

入院患者の佐藤さんが言っていた。

「昔、北海道を旅したんだ」

病室で。

目を閉じながら。

「ラベンダーの匂いがすごくてね」

佐藤さんは動けない。

でも、その話をしているとき、表情は旅人だった。

ゆいはふと気づいた。

人の心って、どこでも旅できる。

距離なんて、関係ない。


第六章 もし外に行けなくても

ある日、ゆいは先生に言った。

「先生、思ったんですけど」

「なに?」

「もし患者さんが外に行けなくても」

「うん」

「写真とか使ったら、旅行できるかも」

先生はニヤッとした。

「お、いいね」

ゆいは続けた。

「例えば」

「この芝桜の写真見せて」

「ここにはこんな花が咲いてるんですよって」

「ストーリーつけて」

「プチ旅行みたいに」

先生はうなずいた。

「いいね」

「鉢植え置いてもいいし」

「思い出を話してもらうのもいい」

ゆいは言った。

「過去の旅とか」

「思い出とか」

「追体験できますよね」

先生は笑った。

「もう立派なセラピストの発想だね」


第七章 閉じていたのは

実習の最終日。

ゆいは公園に寄った。

芝桜は少し散り始めていた。

風が吹くと、花びらがふわっと舞う。

ゆいは思った。

外出自粛で、世界が狭くなったと思っていた。

でも。

本当は。

狭くなっていたのは、

自分の見方だったのかもしれない。

歩ける距離は変わらない。

空の広さも変わらない。

花も、風も、ずっとそこにあった。

ただ、
自分が見ていなかっただけ。

ゆいは芝桜にそっと触れた。

花びらは、やわらかかった。

まるで、小さな旅人のように。


終章 世界の広さ

その日、ゆいは患者さんに写真を見せた。

「これ、芝桜です」

「きれいだねえ」

「海浜公園に咲いてるんです」

患者さんは目を閉じた。

「昔ね」

「似た花を見たことがあるよ」

話が始まった。

遠い記憶の旅。

北海道。
春の丘。
若い頃の恋人。

病室の空気が、少し変わった。

ゆいは思った。

人の世界って、ほんとうは広い。

歩けなくても。
外に出られなくても。

心が向いた瞬間、

世界はいくらでも広がる。

芝桜の写真の中で、
小さな花が風に揺れていた。

まるで言っているみたいだった。

世界は、いつだってここから広がる。

ほんの少し、
見方を変えるだけで。

『最大八十五万人のくしゃみ』

――数字の森で迷子になった日――


第一章 速報の朝、わたしは凍った

その朝、
わたしはトーストを落とした。

床に落ちたのはパンだけじゃない。
心も、すとんと落ちた。

テレビの画面には大きなテロップ。

「何も対策をしなければ、重症患者 最大85万人」

八十五万人。

頭の中で、数字がぶわっと膨らんだ。
八十五万本のマスク。
八十五万台のベッド。
八十五万人の、苦しそうな呼吸。

胸の奥が、じわりと冷える。

「……怖い」

つぶやいた声は、思ったより小さかった。

そのとき、スマホが震えた。

「暇なら来なさい。数字の味見でもしよう」

差出人は、統計(とうけい)先生。
本名かどうかは知らない。
近所の古書店の二階で、いつも誰かに難しい話をしている人だ。


第二章 最大って、どれくらい最大?

古書店は、古い紙の匂いがする。
少し湿っていて、でもどこか落ち着く。

先生は今日も、湯呑みを片手にのんびりしていた。

「八十五万人って、怖いですよね」

わたしが言うと、先生は首をかしげた。

「何の話だっけ?」

「ニュースです!」

「日本人なんだからニュースくらいわかるよ。
で、最大八十五万人がどうしたの?」

「重症化するかもしれないって」

先生は、ふむ、と小さくうなった。

「“最大”って言葉、好き?」

「好きとか嫌いとかじゃなくて……怖いです」

先生は笑った。

「大学教授ほどの人が言う“最大”はね、
ありとあらゆる可能性を全部のせした、てんこ盛り丼なんだよ」

「てんこ盛り丼……」

「ご飯三合、唐揚げ二十個、カツ三枚。
それを“最大一食分”って言ってるようなもの」

「食べられませんよ」

「でも、“最大一食分”という表現は間違ってない」

先生はさらりと言った。


第三章 数字は、魔法使い

「統計ってね」

先生は机の上の紙に、丸や線を描きながら続けた。

「根拠の置き方しだいで、
ほぼゼロにもできるし、全員にもできる」

「そんなことあるんですか?」

「あるよ。
仮説をどう立てるか。
危険率をどう設定するか。
何を前提にするか」

先生はわたしを見る。

「ニュースでは、そこはほとんど言わない」

「……」

「“最大八十五万人”だけが踊る」

胸の奥で、何かがすうっと動いた。

「それって……」

「怖がらせるには、十分な数字だね」

先生はお茶をすすった。

「統計で大事なのは、
“何を根拠にその数字が出たか”だ」

わたしは、トーストを落とした自分を思い出した。

あのとき、
八十五万人という塊だけが、
心に直撃した。


第四章 数字の森

その夜、わたしは夢を見た。

深い森の中に立っている。

木の幹には数字が書かれている。

「85万」
「1万」
「数千」
「0」

木々はざわざわと揺れ、
わたしを取り囲む。

一番大きな木には、
赤い文字でこう書いてあった。

最大

その下に、小さく続いている。

(条件つき)

でもその小さな文字は、
霧に隠れてほとんど見えない。

森の奥から声がした。

「数字を見るな。
前提を見よ」

振り返ると、
統計先生に似た影が立っていた。

「怖いのは、数字じゃない。
わからないまま飲み込むことだ」

わたしは、目を覚ました。

汗ばんだ首筋に、
夜風がひんやり触れた。


第五章 わたしの中の“最大”

翌日、スーパーで。

「お一人様三点まで」の文字を見た瞬間、
胸がざわっとした。

(なくなったらどうしよう)

“最大八十五万人”と同じ感覚。

先生の声が、頭の中で響く。

「何を根拠に?」

わたしは立ち止まった。

(いま、店には十分ある)

(入荷もある)

(全部が一瞬で消える前提って、どこから来た?)

不安は、少しだけ形を変えた。

完全には消えない。

でも、飲み込まれない。

カゴに商品を入れながら、
わたしは気づいた。

“最大”という言葉は、
外のニュースだけじゃない。

わたしの中にもある。

最大失敗。
最大孤独。
最大拒絶。

いつも最悪を想定して、
勝手に膨らませている。


第六章 テレビという劇場

数日後、またニュースが流れた。

別の専門家が言う。

「対策をすれば、かなり抑えられる」

数字は、ぐっと小さくなった。

あれ?
八十五万人はどこへ?

テレビは静かにチャンネルを変える。

先生は笑った。

「劇場だからね」

「劇場?」

「人は、強い刺激に反応する」

「……」

「でもね」

先生は少し真面目な顔になった。

「対策を取るのは大事だよ」

「はい」

「手洗い、距離、配慮。
できることをする」

わたしはうなずいた。

「でも、無用な心配は、体力を削る」

その言葉は、
ふわりと心に落ちた。


第七章 八十五万人の正体

ある日、
わたしはふと思った。

八十五万人って、
もしかして——

わたしの中の、八十五万個の“不安”じゃない?

過去の失敗。
未来への想像。
他人の目。
自分への疑い。

それらが一斉に重症化したら、
たしかに怖い。

でも。

一つずつ見ると、
案外、小さい。

先生に言うと、
彼は満足そうに笑った。

「やっとわかったね」

「何がですか?」

「最大八十五万人は、
あなたの想像力の上限だ」

わたしはぽかんとした。

「想像力は、敵にも味方にもなる」

窓の外で、風が揺れる。


最終章 数字の向こう側

春は静かに続いている。

テレビは今日も何かを叫ぶ。

でもわたしは、
少しだけ距離を置いて見られるようになった。

数字を見るとき、
その裏を考える。

前提は?
条件は?
誰の視点?

そして、自分に聞く。

(いま、できることは?)

手を洗う。
体を整える。
人にやさしくする。

それで、十分。

八十五万人という数字は、
わたしの心を揺らした。

でも同時に、
わたしに問いをくれた。

怖さを膨らませるのか。
それとも、観察するのか。

帰り道、空を見上げる。

雲は大きいけれど、
ずっと同じ形ではない。

“最大”は、
いつも条件つき。

わたしの不安も、
きっとそうだ。

数字の森を抜けたとき、
そこに残るのは——

静かな呼吸と、
今日できる小さな行動。

八十五万人は、
もう、わたしを飲み込まない。

だってわたしは、
数字の向こう側を、
少しだけ見られるようになったのだから。

『不安テーマパークへようこそ』

――できた人ほど、ジェットコースターに乗る理由――


第一章 「できた人」は、泣かないのか?

春なのに、空はどこか曇っていた。
窓ガラスに映る自分の顔が、いつもより少しだけ不機嫌に見える。

不安(ふあん)じゃない。不破杏(ふわ・あん)。

それが私の名前だ。

けれど私は、昔から「不安ちゃん」と呼ばれてきた。

その日も、私は師匠のところへ向かっていた。
商店街の奥、古びたビルの三階。
表札にはこう書いてある。

人生相談所
ユニバーサルスタジオ俺さま(USO)

——ウソって書いてあるじゃない。

最初に見たときは帰ろうと思った。
でもなぜか、扉をノックしていた。

「どうぞー。今日は晴れのち不安ですねー」

中から、のんきな声。

「師匠、真面目にやってください」

私が入ると、師匠は新聞を逆さに読んでいた。

「できた人って、不安にならないんですか?」

開口一番、私は聞いた。

師匠は新聞をぱたりと閉じた。

「なるに決まってるじゃないですか」

「え?」

「できた人でも不安は感じるぞ。笑」

その「笑」が、いちいち腹立たしい。


第二章 感情は、生涯契約

「できた人でも不安は感じるんですか?」

「感じますとも」

師匠はコーヒーをすすった。

「感情はね、人として生きている限り、死ぬまでつきまとうんですよ」

「じゃあ、ずっと不安と一緒ってことですか?」

「はい。生涯契約です。解約不可」

私はため息をついた。

できれば、解約したい。

「でも、不安な状態って、できればなりたくないですよね?」

師匠は首をかしげた。

「そう?」

「そうですよ!」

「俺は大好きだけどね。不安」

「ええ?」

「山あり谷あり嵐ありの人生。ネズミーランドより楽しいと思うけど」

「ネズミーランドってなんですか」

「テーマパーク。ユニバーサルスタジオ俺さま。略してUSO」

「ウソじゃないですか!」

「ばれたか」

この人は、本当に真面目なのかどうか分からない。


第三章 不安の正体

「で、人はどうして不安になると思う?」

突然、師匠が真顔になった。

「……それが分かれば苦労しません」

「人はね、わかっていることには不安を持たない」

私は黙った。

「確信していること。信頼しているもの。
それらが揺らがない限り、人は安心していられる」

「でも——」

「わからないことがある。
確信できない。
信頼していたものが崩れる。
すると、不安が生まれる」

胸が、ちくりとした。

「じゃあ、できた人って、わからないことがない人なんですか?」

「逆」

「え?」

「“自分にはわからないものがある”と知っている人が、できた人」

部屋が静かになった。


第四章 できた人は、できていない

「私は弱い心を持っている」

師匠はゆっくり言った。

「それを知っている人を、あなたたちは“できた人”と呼ぶんです」

私は目を瞬いた。

「でも、それって“できてない”ってことじゃないですか?」

師匠は笑った。

「できた人は、できてない人なんですよ」

「は?」

「完璧だと思い込んでいる人は、自分の弱さを見ていない。
でも、自分の弱さを見ている人は、もう一段深いところに立っている」

窓の外で風が鳴った。

「じゃあ、悟った人って……?」

「できている人とか、できていない人とか、そういう場所にはいません」

私はぽかんとした。

「じゃあどこにいるんですか」

「ジェットコースターの真ん中」


第五章 不安テーマパーク

その夜、私は夢を見た。

巨大な遊園地。

看板にはこう書いてある。

不安テーマパークへようこそ

入口で渡されたチケットには、私の名前。

最初のアトラクションは
【未来がわからないコースター】

ギィィィ……と不穏な音を立てて走り出す。

隣の席には、子どものころの私が座っていた。

「ねえ、将来どうなるの?」

私は答えられない。

次は
【嫌われるかもしれない観覧車】

頂上で、視界がぐらりと揺れる。

最後は
【自分って何者?ミラーハウス】

無数の鏡に映る私。

笑っている私。
泣いている私。
強がっている私。

その中央に、小さな文字が浮かんだ。

不安を消そうとするな
不安を観察せよ

私ははっと目を覚ました。

心臓は速く打っていたけれど、
どこか静かだった。


第六章 観察席

翌日、私は師匠に夢の話をした。

「良い席に座りましたね」

「席?」

「観察席ですよ」

「私はジェットコースターに乗ってたんですけど」

「同時に見てたでしょう?」

私は思い出した。

怖がりながらも、どこかで
“これを体験している私”を見ていた。

「不安はなくならない」

師匠は言う。

「でも、不安に飲み込まれるか、
不安を観察するかで、人生は別物になる」

私は息を吸った。

不安がある自分を、ダメだと思っていた。

でも。

「不安があると知っている私は、ちょっとだけ“できた人”ですか?」

「やっと入口に立ちましたね」

師匠はにやりと笑った。


第七章 できてない、という自由

数週間後。

私は会社で大きなミスをした。

胃がぎゅっと縮む。

(ああ、また不安だ)

でも、ふと立ち止まった。

(私は今、“評価を失うかもしれない不安”を体験している)

不安は消えなかった。

でも、少しだけ透明になった。

その晩、私は気づいた。

できた人とは、
不安がない人じゃない。

不安を抱えたまま、
自分を責めすぎない人。

弱さを知りながら、
それでも一歩出る人。

つまり——

できていない自分を、許している人。


最終章 ジェットコースターの正体

ある日、私は師匠に聞いた。

「不安って、なくなりますか?」

師匠は即答した。

「なくなったら、つまらないでしょう?」

「え?」

「不安があるから、あなたは考える。
不安があるから、人に会いに行く。
不安があるから、成長する」

私は黙った。

「不安は敵じゃない。
人生のアトラクションです」

窓の外で、春風がカーテンを揺らした。

「ところで師匠」

「なんですか」

「ユニバーサルスタジオ俺さまって、本当にあるんですか?」

師匠は真顔で言った。

「あなたの心の中にあります」

「え?」

「あなたが“不安は嫌だ”と逃げるたびに、
ジェットコースターは止まる」

「じゃあ——」

「不安を感じながらも、観察席に座るとき、
パークは本来の姿を見せる」

私は笑った。

もしかすると。

人生は、安心を目指す場所じゃないのかもしれない。

揺れながら、
怖がりながら、
それでも「これを体験している」と気づく場所。

帰り道。

胸の奥に、まだ不安はあった。

けれどその隣に、
小さな好奇心が芽生えていた。

(次は、どんなアトラクションだろう)

夜空に、月が静かに浮かんでいる。

できた人は、不安にならない?

いいえ。

できた人は、不安を抱えたまま、
そっと笑う人。

そして私は今日も、
ジェットコースターの最前列に座る。

少し震えながら。
でも、目を開けたまま。

『緑色の桜は、なにを見ているのか』

――人生の目的を知る、たったひとつの方法――


第一章 あなたの人生は、どんな人生ですか?

「私の人生って、どんな人生だと思いますか?」

春の朝だった。
空気はやわらかく、喫茶店の窓からは淡い光が差し込んでいた。
カウンター席でストローをくるくる回しながら、**真帆(まほ)**はそう言った。

向かいに座るのは、いつもの老人。
名前は知らない。みんなからはただ「先生」と呼ばれている。

「私はあなたじゃないから、わかりません」

先生は即答した。

「そんなこと言わずに、思ってることを教えてくださいよ」

「知らんがな」

即答、ふたたび。

真帆は唇を尖らせた。
こういうところが、優しいくせに意地悪なのだ。

「自分の人生がわからないから、聞いてるんです」

「わかってますよ」

「え?」

「わかってる。ただ、解釈できていないだけです」

カップの湯気がふわりと揺れた。

「解釈……?」

真帆の眉が、ほんの少し寄った。


第二章 世界は、あなたの見方でできている

「じゃあ質問です」

先生は指を一本立てた。

「今、あなたにとって私はどんな感じですか?」

真帆は即答した。

「いつも優しいけど、意地悪なおじいちゃん」

「はい?」

「だって、優しいこと言うくせに、最後にちょっと突き放すじゃないですか」

先生はコーヒーをすすった。

「なるほど。“いつも”というのは時間軸ですね。
“優しい”は感情の動き。
“意地悪”は、自分が大切にされているかどうかという評価。
“おじいちゃん”は社会的役割」

真帆は目を丸くした。

「そこまで分解します?」

「あなたが無意識にやっていることです」

先生はにやりと笑う。

「では、職場のAくんは?」

「真面目だけど、弱々しくて人の言いなりになる人」

「それはあなたの見方です。他の人も同じですか?」

「違うでしょうね」

「ということは?」

真帆は少し考えた。

「……私の世界は、私の見方でできている?」

「正解」

先生はぱちんと指を鳴らした。

「あなたは常に、自分の価値基準で世界を解釈している。
時間、感情、誠実さ、強さ、優しさ……」

真帆は息を吸った。

その瞬間、なぜか胸の奥がざわっとした。


第三章 人生の目的という、意外な正体

「で、人生ってなんですか?」

先生が突然聞いた。

「え? 人生?」

「さっきあなたが聞いたでしょう。
“私の人生ってどんな人生ですか?”って」

真帆はカップの縁をなぞった。

「何のために生まれてきたのか、とか。
何をすれば一番いいのか、とか」

「つまり“目的”ですね」

「はい」

先生は静かに言った。

「あなたの人生の目的は、
あなたが今挙げた価値基準を体験することです」

「……え?」

「時間とは何かを知る。
過去・未来・今を知る。
男性とは何か、女性とは何かを知る。
自分の感情がどこで揺れるのかを知る。
誠実さや優しさとは何かを知る」

真帆の喉が、ひゅっと鳴った。

「それが……目的?」

「はい。
あなたは“自分の見方”を体験するために生きている」

外で、風が桜を揺らした。


第四章 人生博物館

その夜、真帆は不思議な夢を見た。

巨大な建物の前に立っている。
看板にはこう書かれていた。

《人生博物館》

中に入ると、無数の展示室があった。

【失恋の部屋】
【裏切りの部屋】
【感動の部屋】
【誤解の部屋】
【守られたい願望の部屋】

それぞれの部屋で、過去の自分が体験をしている。

泣いている自分。
怒っている自分。
ときめいている自分。

そのたびに、天井から声がした。

「観察してください。評価しないでください」

気づくと、真帆の手にはメモ帳があった。

そこにはこう書いてある。

あなたは“時間と感情の研究者”です。
あなたの人生は、研究フィールドです。

目が覚めたとき、胸が妙に静かだった。


第五章 ちっぽけな悩みの正体

数日後。

真帆は会社で上司に軽く叱られた。
以前なら一日中落ち込んでいたはずだ。

だが、今日は違った。

(あ、今、“評価されたい私”が反応してる)

(なるほど。私は“認められたい”という感情を研究してるのか)

そう思った瞬間、悩みがすっと軽くなった。

ちっぽけなものが、ちっぽけに見えた。

夜、先生に報告すると、

「もともとちっぽけなんですよ」

と言われた。

「あなたが本来の自分に戻っただけです」

真帆は少し照れた。


第六章 緑色の桜

ある日、先生は公園に真帆を連れて行った。

そこに咲いていたのは、緑色の桜。

「御衣黄(ぎょいこう)というんです」

近づいてよく見ると、真ん中に一輪だけ、普通の桜色の花が混じっている。

「この一輪を仲間外れと思うか、特別と思うか。
それも見方です」

真帆はしばらく黙って見つめた。

緑の花びらは、やわらかく光を透かしている。
指先に触れると、ひんやりして、絹のようだった。

「私は、真ん中のピンクがいいです」

「どうして?」

「特別っぽいから」

「でも緑も文句は言わないでしょう?」

真帆ははっとした。

風が吹いた。
花びらが一枚、肩に落ちた。

「……結局、どれでもいいのかもしれませんね」

「はい。
あなたがどう解釈するか、それだけです」


第七章 迷子になることの意味

「でも先生」

真帆は小さく言った。

「迷子になるときもあります」

「ありますね」

「自分を否定したくなるときも」

「それも必要です」

先生は即答した。

「あなたが自分を知るために」

真帆の目が潤んだ。

「ダメなことなんて、ひとつもありません。
あなたの感性は感度良好。百点満点です」

その言葉は、春の風よりもやわらかく、
けれど確かに胸の奥に届いた。


第八章 人生の答え

数か月後。

真帆はまた、あの質問をされた。

「あなたの人生はどんな人生ですか?」

今度は迷わなかった。

「人に助けてもらいながら、ハッピーに過ごす人生です」

先生は笑った。

「いいですね」

「でも、それも変わるかもしれません」

「もちろん」

桜がまた揺れた。

緑の花も、ピンクの花も、区別なく風を受けている。

真帆は思った。

(人生の目的って、“答え”じゃないんだ)

(私がどんな目で世界を見るか、それを体験することなんだ)

その瞬間、世界がほんの少しだけ透明になった気がした。


終章 あなたは何を見ていますか?

帰り道。
真帆は自分の影を見た。

長く伸びたり、短くなったり。
時間によって形を変える。

(私は、時間を体験している)

(私は、感情を体験している)

(私は、“私の見方”を体験している)

それが人生。

完璧でなくていい。
迷ってもいい。
泣いてもいい。

それらすべてが、研究対象なのだから。

風が吹いた。

緑色の桜が、静かに揺れていた。

その中で、たった一輪のピンクが光っている。

仲間外れか、特別か。

それを決めるのは、誰だろう。

あなたの人生は、どんな人生ですか?

『狼狽する蝋梅(ろうばい)』

――あなたは、本当に怒っているの?


第一章 ワガママ検知アラーム

春なのに、空気はまだ少し冷たい。

カフェの窓際。
ミルクティーの湯気が、ふわりと立ちのぼる。

「私ってそんなにワガママですかね」

目の前の**美月(みづき)**が、ストローをぐるぐる回しながら言った。

いきなりどうした。

「A子さんに、“あなたは自分のことばっかり優先するのね”って言われたんですよ」

なるほど。

美月の眉間には、まだ小さな怒りが残っている。
怒りというより、悔しさのほうが近い。

「そんなこと言われる筋合いないのに、なんだかイライラするんです」

私は言った。

「ワガママなんだね」

「違います!」

即答。

ミルクティーが揺れた。


第二章 心の中の防犯カメラ

「でもさ」

私はカップを置く。

「どうしてそんなに腹が立つの?」

「事実じゃないのに、一方的に言われたからです」

ふむ。

私は少し身を乗り出した。

「あなた、成金趣味だよね。それに美容フェチだし」

美月が固まった。

「……は?」

「どう?」

「何がですか?」

「成金趣味って言われて、どう思った?」

彼女は数秒考え、肩をすくめた。

「別に。私そんなふうに思ってませんし、ピンときません」

私は、にやりとする。

「それだよ」

「え?」

「自分で“そうかもしれない”って思ってないことは、刺さらないの」

春の光が、彼女の髪を透かす。

「でも、“もしかして私ワガママかも”って、どこかで思ってると」

私は、テーブルをとん、と軽く叩いた。

「ズバッと来る」

美月の目が、揺れた。


第三章 弱点センサー

人の言葉は、刃物じゃない。

でも、こちらが“傷”を持っていると、
そこにぴったり入る。

「あなたの中にね」

私はゆっくり言った。

「“ワガママな自分はダメ”っていうルールがある」

「……」

「“自分を優先したら嫌われる”っていう思い込みもある」

美月は、視線を落とした。

「……あります」

小さい声。

「子どものころ、弟が優先で。
私がわがまま言うと、母に“お姉ちゃんでしょ”って言われて」

ああ。

それは、古い約束だ。

ずっと守ってきた、無言の契約。


第四章 怒りの正体

「ねえ、美月」

私はそっと言う。

「A子さんに言われて、何が一番イヤだった?」

彼女は少し考えて、答えた。

「……図星かもって、一瞬思ったこと」

空気が、静かになる。

「自分のこと、優先したいとき、あります」

「あるよね」

「でも、それを出したら嫌われる気がして」

私は頷いた。

「だから、必死に抑えてる」

「……はい」

「その部分を、A子さんは指摘しただけ」

美月は、はっと顔を上げる。

「じゃあ、私が怒ってるのは」

「A子さんじゃない」

私は微笑んだ。

「抑え続けてきた、自分」


第五章 敵か、味方か

「でも、そんなこと普通言います?」

美月はまだ少し納得していない。

「人の嫌がることを言うなんて」

「なかなかできないよね」

私は肩をすくめる。

「だから、貴重」

「え?」

「弱点を教えてくれる人って、実はレアキャラ」

「レアキャラ……」

「うまく扱えば、経験値が爆上がりする」

彼女は吹き出した。

「ゲームですか」

「人生はだいたいRPGだよ」

敵だと思っていたキャラが、
実は重要なヒントをくれることもある。

「友達になれますかね」

「それは、わからない」

私は正直に言う。

「でも、良い関係は誰とでも作れる。
そして、誰とも作れない」

「意味わかりません」

「あなたが、どう受け取るか次第だから」

世界は、いつも主観のフィルター越しだ。


第六章 蝋梅と狼狽

帰り道、公園に一本の木があった。

黄色い花。

「蝋梅(ろうばい)っていうんだよ」

「ろうばい?」

「蝋細工みたいでしょ」

美月は近づいて、花をのぞき込む。

「かわいい」

「でも、漢字だけ見たら“狼狽”みたいでしょ」

「……たしかに」

「狼狽って、不測の事態に慌てふためくこと」

彼女は笑う。

「まさに私じゃないですか」

「言われた瞬間、狼狽した?」

「しました」

私は、花びらに触れる。

ひんやりしているのに、やわらかい。

「でもね」

私は続ける。

「蝋梅は、寒い時期に咲く」

「え?」

「まだ他の花が咲かないころに、静かに咲く」

美月は、黙った。

「あなたの“ワガママ”もね」

私は言った。

「実は、あなたの中で、ずっと寒い場所に置かれてきた花」


最終章 あなたの世界

その夜、美月からメッセージが来た。

今日、ちょっとだけ自分の意見を言ってみました。
そしたら、思ったより普通でした。
世界、壊れませんでした。

私は、笑った。

人は、自分の弱点を守ろうとして、
自分を縛る。

でも、その弱点こそが、
凍ったままの花かもしれない。

誰かの一言で狼狽するのは、
そこに大切なものがある証拠。

あなたが腹を立てた言葉。

それは、本当に相手の問題?

それとも、

あなたがまだ、
許していない自分の問題?

世界は、あなたの見方でできている。

蝋梅は、今日も静かに咲いている。

寒さの中で。

狼狽しながらでも、いい。

花は、ちゃんと咲く。

あなたの中にも。

気づいたときから。

そっと。