「人って寂しい気持ちになるときがあるじゃないですか? 寂しくなったり辛い思いをしなくっても済むようにならないものでしょうかねぇ」

 

 

 

なる人はなるし、

 

ならない人はならないね。

 

 

 

「そういうことじゃなくって、寂しくはなるんだけど、そうならないようにする方法ですよ」

 

 

 

他人とかに頼らないことだね。

 

 

 

「他人に何を頼らないんですか?」

 

 

 

自分の気持ちの在り方を

 

周りの人や事に頼らない。

 

 

 

「自分の気持ちは自分の中から湧いて出てきますよね? 他の人に頼ることなんてないですよ?」

 

 

 

そうだろうね。

 

なのに解決策を求めて

 

自分の外に探してしまうだろう?

 

 

 

「それは元々の原因が外にあるからじゃないですか?」

 

 

 

自分の内側から湧きあがってくるものの

 

原因が外にあるわけないじゃん。

 

外にあったのはただのきっかけ。

 

せいぜい出来事が起こっただけでしょ?

 

 

 

「その出来事をどうにかしたいわけじゃないですか」

 

 

 

出来事はどうにもなりません。

 

あなたが寂しい思いや辛い思いをする

 

って感じたり思ってるのは、

 

その出来事への解釈の仕方そのもの。

 

あなたの解釈次第で変わるものなの。

 

出来事は、いつだってニュートラルにしか

 

起こらないって普段から言ってるじゃん。

 

その出来事に、嫌だなぁとか

 

辛いなぁとか寂しいなぁって、

 

あなたの意識をとおして

 

解釈付けしてるんだよ。

 

 

 

「出来事そのものが寂しいんですよね?」

 

 

 

出来事を受け取った自分の反応なのっ。

 

多くは身体的な反応に対して

 

これは寂しい気持ちだとか

 

辛い気持ちだって解釈してるってこと。

 

そういう時のあたなって

 

自分の内側のこと見てるみたいだけど、

 

自分から離したところにある

 

反応している自分の方を見てるでしょ?

 

 

 

「自分から離れた自分?」

 

 

 

客観的っていうか、

 

自分のことを私は〇〇だって解釈してるでしょ?

 

解釈した途端に

 

自分ってものが解釈される対象になっちゃうじゃん。

 

 

 

「何がですか?」

 

 

 

自分のことが客観視の対象になってる。

 

 

 

「客観的に見たらダメなんですか?」

 

 

 

そうじゃなくって、

 

客観的に見れる自分って

 

ホントの自分じゃないじゃんね。

 

見てる自分の方が自分じゃん。

 

あなたは、

 

寂しい反応をした自分を見てるわけ。

 

観ている自分は寂しかったり辛かったりする?

 

 

 

「自分が寂しいんですからね」

 

 

 

そこに多くの人の勘違いがあるだろうね。

 

 

 

「どういう勘違いですか?」

 

 

 

見られている自分も見ている自分も

 

同じ自分だって言う勘違い。

 

両方とも自分って言う括りで

 

理解している存在なんだろうけど、

 

見られている方の自分っていうのは

 

反応してる自分が作り出してる

 

自分イメージのことだよ。

 

極端な言い方すると偽物なの。

 

こんなふうに自分の外側にある他の人や、

 

作り出した自分に対して

 

何とかなりたいとか

 

何とかしてほしいとか

 

って思うものなのさ。

 

 

 

「それが勘違いなんですか?」

 

 

 

だって自分で作り出したり解釈しているものを

 

外側にあるものに頼ったって変わるわけないじゃん。

 

頼るべきは本当の自分自身じゃない?

 

 

 

「辛い時に、そんなこと気が付きませんよね?」

 

 

 

辛いのは、見ている側の自分じゃなくって

 

見られている側の自分だってこと

 

に気づくことが解決への道筋じゃないかなぁ。

 

気持ちが動揺しているときには

 

なかなか難しいだろうけど、

 

何でもないときに振り返る

 

練習とかしてみたら?