母は、父の家族と同居しながら療養していた。
ストレプトマイシン、PASの併用と、療養で母の結核は治った。
調べてみたら,母が言う通り,母が結核を患った昭和30年代にようやく,結核は治る病気になった。
その前は,結核は死を覚悟する病気だった。
もうちょっと早く母が結核になっていたら、
ここでも、
わたしは生まれなかったのかもしれないのだ。
つくづく,色んなありがたい奇跡で自分は生まれることができたのだと思う。
母は、まだ療養中ではあったものの、父の兄が結婚することになり、両親は実家を出ることになった。
母の父,福重おじいちゃんの土地に,大工の音吉おじいちゃんが小さな家を建ててくれた。
比べるのもなんだけど、福重おじいちゃんは、雅吉おじいちゃんと真反対だった。
福重おじいちゃんは働き者で,荷車を引いて,荷物の運搬をしていた。
今の宅急便みたいな仕事だが、なんだって「荷車」
それも、夜通し走って朝になって荷物を届けるなんてこともよくあったらしい。
そして、おじいちゃんのすごいところは,お金が貯まると、すぐに土地を買った。
思うに,家もあるし,畑もあるし、鶏もヤギもいる。
鶏はたくさんいて,卵をポコポコ産んだ。
そんなわけで,生活費はそんなにかからなかったのだと思う。
だから、せっせと土地を買った。
まぁ その一つの土地を貸してくれたわけだ。
おじいちゃんの姓は、「堀野」という姓なのだが、父に、「堀野」を名乗れば,土地代はいらないと言ったそうだが,父はそれを断り,少しづつ土地のお金を払っていたそうだ。
家はけっこう隙間はあったらしいが、なんとか住めるものだった。
おじいちゃんたちのおかげで,両親の住む家ができ上がった。
父は,よくわたしに「お父さんたちは親の世話にはなっていない。一から始めたんだ」と言っていたが、どう考えても,かなりお世話になっていると思う。
おとなになって、わたしは父に、「お父さん、おじいちゃんたちのおかげでこの家に住めるようになったんじゃないの?感謝することだと思うけどなぁ‥」と言ったら,父は黙ってしまった。
遠い昔,お世話になったことを思い出したのかもしれない。
さて、
おじいちゃんたちのおかげでできあがった,その小さな家でわたしは誕生することになる。
続く‥