安東流お片付けでお家丸ごとスッキリ!
神奈川県在住、片付けの伝道師・安東英子先生認定の「美しい暮らしの空間アドバイザー」の堀江麻衣です。
お片付けにお困りの方のご自宅に訪問して、アドバイスとサポートをいたします。
活動範囲は神奈川県と東京都です。
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皆様こんにちは!
ご訪問いただき、ありがとうございます。
前回の記事で
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私の父について書いたのですが、本日も続きといいますか、私が高校生の頃の父との思い出話です。
立て続けに「思い出話」になってしまいますが、最後までお付き合い下さると嬉しいです。
中学生のころは大きな問題も無く、平穏に過ごしておりました。
「青年海外協力隊員になりたいという将来の夢」を持っており、目の前の高校受験に向けて自分なりに一生懸命取り組んでいました。
(青年海外協力隊に関しては、またブログに書かせていただきます。)
その後、無事高校に合格し、半年くらいたって新生活に慣れたころのことでした。
なぜだか日に日に学校へ通うのがつらくなっていったのです。
青年海外協力隊員になるには何らかの技術を身に付ける必要があり、当時は農業大学に進もうと心に決めていました。
将来の夢を持ち、目標達成に燃えていたはずなのに、はたと行き詰まってしまったのでした。
高校には自分の座席が用意されており、友人もみんな仲良くしてくれていましたし、出席すべき授業もありました。
それなのになぜだか、自分の席に座っていても落ち着かなくて、息苦しくて、逃げ出したくてたまりませんでした。
教室が灰色の四角い箱に思えてきて、そこに閉じ込められている気分で・・・
自分で選択して入学した場所なので、そんな風に感じるのがおかしいというのも分かっていました。
誰に押し込められているわけでもなく自分の意思でここにいるのに、それでも苦しくて苦しくて、授業中寝ているふりをしながら机に突っ伏して毎日泣いていました。
高校を辞めるかということも考え、求人情報誌も読み漁りましたが、そのとき載っていた求人は「高卒以上」というものばかりでした。
学歴は関係なく働ける仕事があることを現在は知っていますが、そのときは「高校も辞め仕事も見つからないのでは、いったいどうしたらいいのだろう」と八方塞がりの気分でした。
自分の思いを誰にも話せず胸のうちに溜め込んでいたのですが、ツラい状態が数か月続いたある日、とうとうパンクしてしまいました。
その日は土曜なのに珍しく授業があって、高校の公衆電話から自宅に電話をかけました。
自分の気持ちを父に聞いてもらいたかったのです。
父は中学生のころから「生きること」や「人生について」の私の疑問に向き合ってくれて、そういった話をよくしていました。
たまたま電話をとったのが父だったので、しゃくりあげながら
「お父さん、もう高校やめたい・・・」
とどうにか伝えました。
父はすぐ車で迎えに飛んできてくれて、自転車を積み込んで二人で河原に向かいました。
小学生のころから、家族で毎週末のようにキャンプに行っていた河原です。
川面を眺めながら、ぽつり、ぽつりと自分の気持ちを父に話し始めました。
「毎日がつらく、高校を辞めたいけれど、中退しても仕事も見つけられないかもしれなくて、数か月ずっと悩んでいて、パンクしそう。」
と、ティッシュの箱を抱えて泣きじゃくりながら、自分の気持ちを少しづつ吐き出しました。
私の話を聞いた父は
「麻衣ちゃん、ぼく、高校を辞めてもいいと思うよ。」
と想像していなかった返事をしました。
自分で「辞めたい」とは言いましたが、まさか「辞めてもいい」なんて父が言うとは思っていなかったのです。
「やっぱり君が大切だから、君自身が壊れてしまいそうなら、そんな思いをして高校に通い続ける必要はないと思うんだ。
今は休む時なのかもしれない。
高校だって、仕事だって、またいつかその気になったらどうにかなるもんだし。
君はきっと大丈夫だと思うよ。
何が大切なのかを考えると、分かると思うよ。
自分が壊れてしまいそうなら、高校なんて辞めたっていい。」
と父。
この言葉を聞いて、またまた 涙があふれてきました。
ティッシュ一箱を使い潰して、落ち着くまで数時間河原で過ごしてからようやく家路につきました。
「辞めてもいい」と言われたあとは不思議なもので、「いつ辞めてもいいなら、もう少しだけ続けてみようかな」という気持ちになっていきました。
もう少しだけ・・・
と思いながら通いだしたその後の高校生活は、「不真面目な生徒」そのものでした。
高校を辞めようかと悩んでいたときは、無遅刻・無早退・無欠席の皆勤賞でした。
しかしその後は遅刻・早退・サボりを繰り返し、出席日数はギリギリで・・・。
授業数の三分の一以上休むと留年してしまうのはわかっていたので、それぞれの先生に
「私、今学期は何回休んでいますか?」
と聞きに回る始末で、先生方の呆れ顔が忘れられません。
父と話をした後、高校1年生の終わり頃に陶芸や英会話に出会ったので、そちらの方は熱心にやっていました。
高校をサボって陶芸教室に入り浸り、一日中器を作っていました。
私の母は子どもの学校のことには無頓着なところがあって
「今日は記念日でお休みだよ」
「今日の学校は半日で終わりだよ」
というとあっさり信じてくれて、一緒に仲良く陶芸に行っていました。
そんな母にも、高校3年生のときに先生からの電話でとうとう私のサボりがばれましたが、私が高校を辞めようか悩んでいたことを知っていたためか、そんなに怒られませんでした。
もう少し、もう少しだけ通ってみよう・・・
というのが高3まで続き、どうにか高校を卒業することに。
母がおおらかで、私の高校の授業予定を把握してなかったことが、救いになっていた部分もあります。
母に全て管理されていたら、私はきっと高校を卒業することはできなかったと思います。
途中、私の将来の夢も青年海外協力隊員から陶芸の道へと変化し、農業大学ではなく美術大学へ進みました。
河原で聞いた父からの言葉は、その後も何度か救いの手を差し伸べてくれました。
何が本当に大切なのか、しっかり考えるように。
こうしなければいけないと決めつけず、大切なことを見極める力が必要なのだと思います。
父と語った河原は、今は夫や子どもたちとよく遊びに行っています。
私も父のように、子どもたちとしっかり向き合っていけたら・・・と思っております。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
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