以前に読んだ『ダロウェイ夫人』の記憶もあり、この作品も読むのに苦労するだろうと予想していましたが、案の定、今回も読み終えるのに結構な時間を要しました。
舞台はスコットランドの孤島の別荘で、哲学者ラムジー氏とその夫人と子供たち、そして夫妻が招いた客人たちが登場人物となっています。
ただ、小説の内容は、登場人物たちの内面的意識の流れを追っていくことが中心となっているので、実世界での出来事はこの小説の中ではあまり重要ではないと言えるでしょう。
第1部『窓』は文庫本にして200ページ以上の分量ですが、実世界での時の流れは一日の夕方から夜更けまでの10時間にも満たないものです。
さほど特別とも言えない一日(夕方から家族と近所の人たちや友人たちが集まって食事をするというだけです)の、かつ僅かな時間を描いているにもかかわらず、これだけの分量の小説になっているのは、場面の移り変わりの中で、登場人物たちが見せる微妙な心情の変化を丁寧に叙述しているからです。
舞台設定としては、ラムジー夫人が子どものジェームズに、明日、灯台へ行ける筈だ、と約束するのに対して、ラムジー氏が明日は天気が悪くなる、と言い、客人もそれに同調する、という場面、客人である絵描きの女性が絵を描く場面、登場人物たちが集まった晩餐会が催される場面くらいで、普通の作家では、このような平凡な舞台設定の中でこれだけの小説を書くことは不可能でしょう。
しかし、自分自身が精神を病んでいたという作者ウルフは、人間の心の綾というか、微妙な心理の変化、移り変わりというものに対する感覚が常人離れしていたのでしょう。
おそらく実世界での時間の流れにしたら数分程度の間に登場人物たちが心の中で考えたことが、本当に丁寧に綴られています。
生活のひと時ひと時をこれだけ濃密に感じられる人にとっては、人生は本当に長く感じるだろうと思われます。
第2部『時はゆく』では、いきなり時代が流れ、かつては多くの人々で賑わった別荘に人が寄り付かなくなり、すっかり寂れてしまった別荘の状態が描かれます。また、その間に、ラムジー夫人が亡くなったこともわかります。
第3部『灯台』では、ラムジー氏が2人の子どもを連れて灯台へ向かう場面が描かれており、ラムジー氏が10年越しで灯台行きを実現するとともに、その姿を遠くから見ていた客人の絵描きの女性が絵を完成させるところでこの作品は終わります。
解説等によると、ラムジー夫妻は、作者ウルフの両親がモデルとなっているようです。
一方、ウルフ本人は、作品中では、ラムジー夫妻の子どもたちとして、あるいは絵描きの女性として、いろいろな人の姿を借りて現れているようです。
ラムジー氏に対しては、若干の嫌悪の感情を持つ一方、畏敬の念も抱いていることが読み取れます。また、ラムジー夫人に対しては、大いなる母性愛に対する感謝の気持ちが伝わってきます。
大人の女性が読むと、かなり共感できるのではないかと思います。
それにしても、先程も書いたように、生活のひと時ひと時をこれだけ濃密に感じることのできた作者ウルフにとって、人生とはどんなものだったのでしょうか。
彼女は59歳の時に自殺しています。
実世界での人生は59年間でしたが、精神的な意味で生きた人生の期間は、常人のそれに換算すれば何百年にも及んだのではないかと思いました。