33歳 京都府出身
株式会社ビィワンファクトリー(大阪市)課長
5000人規模の出版社。なんと言われようとも、自分のやり方・考え方にこだわる。
峰山の高校を卒業して、ただ都会に出たくて就職した。呉服業界では新しいことに挑戦していた従業員6人の小さな商社。事務所は社長宅。初めての新卒として大切に迎えられ3年間を過ごした。小さな会社で、商売の流れのすべてが見える。在庫とは?
手形の割引とは? クレームへの対応、商社の役割…。
業界の古い体質や将来性に不安を感じて退職。広告業界という華やかな響きに引かれて、従業員数5000人の大手情報出版会社の京都支社に契約社員として入社した。
そこには超有名大学出身者ばかりがいた。切れ者で人間性豊かな上司がぐいぐいメンバーを引っ張り、それぞれの人が自分の個性を活かして朝早くから夜遅くまで働いている。
要領よく、などというレベルではまったく通用しない。「仕事の効率が悪い!」と言われようが、4年間毎日社員たちよりも遅くまで居残って仕事をした。休日もほとんど会社で過ごした。自分のスタイルを変えることなく優良な中堅企業をコツコツ開拓した。
同時に、高卒だからといって自分を低く見る必要もないとも思った。いくら有名大学を出ていても成果が出せない人はいるし、同じような悩みを抱えている。「世の中に出ればみんな同じなんだ」。そう思った。
組織をルールとシステムで動かす会社で、自分の働き方を再確認した。
その会社から独立していた元上司と先輩に誘われ退職。3人で節電・節水器の販売の事業を立ち上げた。まだ26歳、プロ野球選手並みの年収数千万の世界を、今の若さであきらめる必要はない。
しかしその業界には一攫千金を狙った同業者がひしめき、顧客無視の営業が横行していた。いくら営業力に自信があっても簡単には利益は出ない。儲からないからなおさら各人がバラバラの営業をする。組織作りはまったく進まず、これなら一人でいるのと変わらない、と離散した。
「一から地道にやり直そう」と就職した会社は、営業組織をいかにシステムとして機能させるかを優先させる会社だった。自分で考えた方法で、着実に働いてきた自分には我慢ができなかった。
「システムの一部としては、僕は力を出せない」。そんな自分の働き方に気づいた。
誰から何を言われようが自分がやりたい方法で、時間をかけて実績をあげる、それが自分のやり方。
自分らしさを認めてくれる元上司からの期待。それに応えられる自分への自信。
「世界が環境汚染を問題視しはじめた。大手家電メーカーが省エネ機器に乗り出したんだ。この商品に賭けて地道な営業をしている。どうだ、もう一度、一緒にやらないか?」。元上司からふたたび誘われた。
実際に会社に足を運ぶと、若い社員がイキイキと仕事をしている。まだ小さいものの組織ができている。その元上司こそが土居社長だった。
まだまだ夢をあきらめたわけではない。プロ野球選手までとは言わないが小金持ちにはなりたいし、前回の事業の立ち上げは納得して終わったわけではない。自分が役に立つなら…。27歳だった。
入社後は、経理や自社開発の商品の営業など、息の長い積み重ねが必要なセクションにいつも回された。期待されたことにあせらずに応えていく。31歳になっていた。
関東の開拓こそが会社の発展には避けられない。その大役を社長から依頼された。これまではすぐ近くに頼りになる社長がいた。東京では自分がすべてを取り仕切らなければならない。
しり込みする気持ち。自分に務まるのか? 営業力、商品知識、社歴、他の人の転勤できない事情。「自分しかないのか」。そう思って引き受けた。
自分たちの力不足で、せっかくの社長の先行投資を活かしきれていない。そんな想いがあった。関西しか知らない自分の実力を東京で試してもみたかった。
7人の営業所のリーダー。メンバーの育成管理や、営業戦略の立案・実行。代理店との折衝や工事の手配、クレーム対応…。商談相手の年齢は格段に上がった。
はるかに年上の人が、決してへこたれずに精力的に動き回っている。「関西での30歳は、こっちでは25歳くらいの感覚」。東京という土地で改めて「勉強」がスタートした。
明確な結果を出せなかった。そのケジメと同時に、自分にできることを模索した。
売上実績は少しずつあがっていったが人材育成に失敗した。定着しない営業マン、ついに自分で目標を持って営業せざるをえなくなる。所長としての仕事との掛け持ち。
3年間で営業所としては利益を見込めるまでの実績は出した。しかし自分個人の業績は伸びず、全社員が参加する査定会議では、最低点をつけられた。
「むかついた」。目に見える数字や、今の表面的なルールでしか人を評価できない同僚たち。
しかし一方で冷静に考えた。いま会社に何が必要なのか? これまで考えていたこと、3年間ひとり東京ですべてを取り仕切ってみて実感できたことを整理してみた。
「役員から降格させてください」。みずから申し出た。同時に新しいセクションの立ち上げと、そこを任せてもらえるように提案した。
会社は着実に成長はしているが、組織作りは、二歩前進、一歩後退の状態が続いている。ISOや地球温暖化・京都議定書などで、大手企業が環境問題に着手し、そのマーケットの急激な変化に何とか対応してきただけだとも言える。
長年手がつけられずにいた、さまざまな課題を自分が解決する。決して特効薬のあるような課題ではない。ゆっくりと、しかし意志を強く持たなければ、またすぐに元に戻ってしまうような難題。それこそ自分の持ち味を発揮できる、と思った。
4つの会社を経験して、そこから自分らしい働き方を確信できていた。地球の環境問題解決に役立つこの仕事に集中できれば、会社が少しでも世の中に認められていけば、それでいい。
まだまだ33歳。東京では若造の部類。3月からは大阪の本社に帰ってきた。早速多くの打ち合わせが待っている。
大阪本社への転勤。東京でその良さを再確認した「京都」に借りたマンションに、荷物を積み入れた。