こんばんわ
夏に買った
龍角散のど飴~
を久々に食べようとしたら
こんなことに・・・!!!
堀口茉純です。
あれだね、
一回溶けて、くっついちゃったんだね。
油断してました。
こんなところにも季節の移ろいを感じながら、
一個づつもぎ取ってもふもふ食べてます。
さて、
今日は日比谷線にのったので
南千住で途中下車して、
延命寺の首切り自蔵さんにお参りしてきたよ。
日比谷線南千住駅の辺りは江戸時代、
小塚原の仕置き場
(詳しく知りたい方は下の解説を読んでね)
↓
現在の東京都荒川区南千住五丁目にあたる地名で、江戸時代には刑場があった。「こづかっぱら」「こづかはら」とも読む。古くは古岩塚・小岩原・古塚原などとも称し、明和八年(一七七一)杉田玄白らが腑分を参観したころは骨ヶ原と称していた。最初は日本橋本町(中央区)にあった刑場が浅草鳥越橋ぎわ、浅草聖天町西方寺向い(台東区)と再度移転したのち小塚原に移ったという。それは都市の拡大に伴った移転である。刑場は千住街道中小名小塚原縄手の西側にあり、間口六十間余、奥行三十間余であった。ここで行われた刑は獄門・磔・火焙である。安政の大獄のおりには橋本左内・頼三樹三郎ら多くがここに埋葬された。江戸時代の刑場としては品川の大井村鈴ヶ森(品川区南大井二・三丁目)が有名であるが、小塚原を用いた場合が多いといわれる。明治元年(一八六八)刑場は廃止された。
”こつかっぱら【小〓原】”, 国史大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.japanknowledge.com >, (参照 2012-09-25)
があった場所。
赤字部分だけ見てもヘビーなにおいがプンプンしますが、
要は
死刑を執行して、
さらして、
見せしめにするための場所だったんです。
千住宿からほど近い、
この江戸の入り口ともいえる場所で、
刑死者を辱め、街道をゆく人々にみせしめることで、
犯罪の抑止装置としての役割をはたしていたんですね。
そのシンボルともいえるのが、
首切り自蔵さん
刑死者の追善供養のために寛保元年(1741年)
に建立されました。
270年間、刑死者の魂を慰め、
小塚原をみつめていた彼ですが、
実は、
東日本大震災で大変なことになっていたんです。
震災直後の写真。
わかりますかね?
バックショットこちら。
そう。
ずれちゃってたの・・・!!!
もともと28個の花崗岩で組み立てて作ってあって、
将軍が御成りの時なんかは胴体の部分の石を抜いて、
身の丈が1丈(3メートル)以上にならない工夫がされてるんですが・・・
震災後初めて見たときは
「こうゆうのなんてゆうんだっけ・・・
あ、だるまくずしだ・・・
うふふ・・・。」
と、なんか種類のわからない笑みが出るほど驚愕した物でした。
その後、いったん全部解体され、台座むき出しで
地獄の窯のふたが開いたような状態が続いていて、
電車の中から見るたびに、
背筋に寒いものを感じていたのですが、
最近やっと、元の姿に再び組み上げられたんで、
ご挨拶に行ってきたというわけです。
やっぱり首切り自蔵さんがいると、安心しますね~、
どちらでもいいことなのかもしれませんが、、
彼は、この場所になくてはならない存在なんだなぁ。
歴史を知っているとなおさらですね。
日頃は何気なく通り過ぎている駅にも、
下車してみると結構歴史があったりして、
たのしいですね。
・・・。
・・・。
特にオチとかないですけど、
何か問題でも?
笑。