今回は、「ガラテアの信徒への手紙3章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「ガラテアの信徒への手紙3章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「ガラテアの信徒への手紙3章」では、一つ目は「律法によるか、信仰によるか」、二つ目は「律法と約束」、三つ目は「奴隷ではなく神の子である」というテーマで書かれています。

 

まずパウロは、神様の“霊”を受けたのは、律法によるのではなく信仰によるものであることを、旧約聖書に登場するアブラハムを引き合いに出して教え諭します。

 

アブラハムは、「信仰の父」と呼ばれる人で、信仰によって義とされることを体現した人であり、それによって神様から何度も祝福を受けた人です。

 

そしてその祝福の際に、神様がアブラハムに交わされた約束が永遠の契約と呼ばれるものであり、それはユダヤ人だけでなく異邦人にも関係する真理であることが下記(3章1〜14節)から読み取れます。

 

(3章1〜14節)・・・

律法によるか、信仰によるか

1ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。

目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。 

2あなたがたに一つだけ確かめたい。

あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。

それとも、福音を聞いて信じたからですか。 

3あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。 

4あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。

無駄であったはずはないでしょうに……。 

5あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。

それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。 

6それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

7だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。 

8聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。 

9それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。 

10律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。

「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。 

11律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。

なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。 

12律法は、信仰をよりどころとしていません。

「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。 

13キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。

「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。 

14それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。

・・・・・・・・・・・

 

ここでパウロは、非真理に惑わされ、真理を悟ることができないガラテアの信徒たちに苛立ちを隠せない様子です。

 

しかし、決して頭に血が上った状態ではなく、むしろ冷静沈着に自論を展開しています。

 

そして、見逃してはならないのは、神様とアブラハムとの間で交わされた契約が、決してユダヤ人だけの特権として与えらえられているわけではないという点です。

 

すなわち、その契約は異邦人にとっても開かれたものであることを彼は主張しているのです。

  

それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。 

聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。 

それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。(3章6〜9節)

 

それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。(3章14節)

 

以上の聖句を知るまでは、私自身も真理を悟ることができていなかったことに気づきました。

 

神様とアブラハムとの間に交わされた契約は、アブラハムと彼の子孫であるユダヤ人のみに有効であり、まさか異邦人に及ぶものとは考えていなかったのです。

 

信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。(3章7節)

 

このパウロによって述べられた真理は、私にとっても大きな衝撃を与えました。

 

アブラハムの直系の血を引き継ぐユダヤ民族でなくても、信仰によって生きるならばアブラハムの子であると認められるという真理に、私は感動したのです。

 

異邦人であっても信仰によって生きるならば、アブラハムのように神様から祝福が与えられるのです。

 

逆に言うと、たとえアブラハムの子孫であっても、信仰につまづいて神様の御心から外れる道に進むのであれば、神様からの祝福を得ることはないのです。

 

では、アブラハムの子孫であっても、信仰につまづいて神様の御心から外れる道に進んだ者とは、一体誰のことでしょうか?

 

それは、ユダヤ教徒であり、イスラム教徒です。

 

彼らは、アブラハムの子孫でありながら、信仰につまづいて神様の御心から外れる道を選んだのです。

 

1948年5月14日パレスチナ(カナン)の地に、ユダヤ人にとっては悲願の国家「イスラエル」ができました。

 

しかし、そのことが原因で、現在も解決していないパレスチナ問題が生じてしまいました。

 

このパレスチナ問題も元を糺せば、神様とアブラハムとの契約の真意を悟ることができなかったが故に、起こるべくして起こったと言えるのかもしれません。

 

信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。(3章7節)

 

ユダヤ人たちは、この真理を悟ることができなかったのです。

 

パレスチナ(カナン)が、ユダヤ人だけのユダヤ人のための聖地であるという特権意識を持ったこと自体に間違いがあったのです。

 

アラブ人たちも、パレスチナ(カナン)が、自分達だけの自分達のための聖地であるという特権意識を持っていたのですから、話がこじれないわけがありません。

 

これによって、アラブ人とユダヤ人の領土問題に発展し、今では世界各国を巻き込む国際紛争と化しています。

 

これは明らかに神様の裁きです。

 

神様は、あえてこのパレスチナ問題による紛争を許諾されたのです。

 

いまだにパレスチナ問題が解決しないのも、人々が神様の御心に立ち返り、真理を悟ろうとしないのが原因です。

 

彼らが神様の御心を悟って悔い改めない限り、パレスチナ問題の解決の糸口は見つからないということです。

 

すなわち、イエス・キリストこそがアブラハムに与えられた契約を引き継ぐ使命者であると認めない限り、神様の裁きが解かれることはないのです。

 

神様の御心に適う真理は、律法(トーラー)でもなくコーラン(クルアーン)でもないのです。

 

聖地エルサレムは、ユダヤ人とアラブ人たちだけの閉鎖的な領域ではないのです。

 

本来なら聖地エルサレムは、世界中の信仰によって生きる人々のために開かれた、愛と平和

で満たされた地上天国を具現化する場所としてあるべきなのです。

 

今こそ、神様の御心に立ち返り、神様とアブラハムとの間で交わされた契約(約束)の真意を理解する必要があるのです。

 

パウロが述べる真理に、真摯に耳を傾ける必要があるのです。

 

(3章15〜20節)・・・

律法と約束

15兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。

人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。 

16ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。

この「子孫」とは、キリストのことです。 

17わたしが言いたいのは、こうです。

神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。 

18相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。

しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。 

19では、律法とはいったい何か。

律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。 

20仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。

約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

・・・・・・・・・・・

 

ここで注目すべきは、(3章16節)です。

 

ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。

この「子孫」とは、キリストのことです。 (3章16節)

 

何度も言いますが、神様とアブラハムとの間で交わされた約束は、複数の「子孫たち」(ユダヤ人やアラブ人たち)ではなく、一人の「子孫」(イエス・キリスト)に引き継がれるという解釈が正しいのです。

 

そして律法は、イエス・キリストが現れるまでの、言わば「呪いの書」みたいなものであって、その「呪いの書」に従わなければ天罰が降るという恐怖心を与え、罪に走らないように抑制するのには効果があったということです。

 

勿論、神様は人々をいつまでも恐怖心で呪縛することを望んではおられませんでした。

 

イエス・キリストが現れるまでの一時的な応急処置として、律法を利用されたのです。

 

神様の本意は、人類と愛を成すことです。

 

決して、人類を奴隷のごとく拘束することを神様は望んでおられないのです。

 

心から相手を愛し、心から相手を信頼する関係を人類と結ぶことを望んでおられるのです。

 

だから、いつまでも律法にしがみつくことは、かえって神様の御心に背くことになってしまうのです。

 

せっかく目の前に真理を説くイエス・キリストが現れたのに、そのキリストの教えに耳を傾けず、いつまでも「呪いの書」にしがみつくような愚を犯してはならないのです。

 

イエス・キリストを信じることで義とされ、律法の奴隷となることから解放されるのです。

 

(3章21〜29節)・・・

奴隷ではなく神の子である

21それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。

決してそうではない。

万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。 

22しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。

それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

23信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 

24こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。

わたしたちが信仰によって義とされるためです。 

25しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 

27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 

28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。

あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 

29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

・・・・・・・・・・・

 

神様とアブラハムとの間で交わされた契約は、イエス・キリストに引き継がれました。

 

そして、世界中の人々がイエス・キリストを信仰し、神様と愛を成すことに専念すれば義とされ、神の子として認められるのです。

 

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。

あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 

あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(3章28〜29節)

 

当然、この真理は成約時代に生きる今の私たちにも引き継がれています。

 

アブラハムやイエス・キリストのように、私たちも信仰によって生きるならば、約束による相続人と認められ、神様の祝福に授かることができるのです。

 

信仰によって、神様の力と権能を授かることができるのです。

 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介します。

 

○RAPT有料記事859(2024年8月12日)神様の愛と力を信じてこそ、心が安定し、人生も安定する。そして、神の力と権威が宿り、祈ったことは全て叶えられ、サタンもその人を見て恐れをなして逃げていく。

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを、以下に転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

神様に対する信仰がなければ、実際に神様の力を体験することはできません。
 
世の人々の中には、「神がいるなら、なぜ世の中には様々な災いが起きるのか」と文句を言う人がいます。
 
しかし、人類が神様の存在をはっきりと信じ、神様の愛と力をはっきりと信じなければ、神様の力がこの地に働くことはありません。
 
この地に災いが絶えないのは、神様を信じて祈る人がそれだけ少ないからであり、もしこの世に神様を信じて祈る人たちが大勢いるならば、彼らのその信仰によって、サタンや悪人を滅ぼし、彼らが起こす災いを止めることができたことでしょう。
 
しかし、そのようにはっきりした信仰をもって神様に祈る人が余りにも少ないので、神様の力がさしてこの地に働くことがなく、災いの絶えない世界となってしまうのです。
 
そして、信仰というものは、鍛えれば鍛えるほど強くなっていきますし、信仰が強くなった分、その人の祈りはより強力に叶えられるようになります。
 
祈っても叶えられないのは信仰がないからであり、そのように信仰のない人に限って「祈っても叶えられないから、神はいない」などと言ってブツブツと文句を言います。
 
そして、そうしている間にも、真に信仰をもって祈る人は次々と神様に祈りを叶えてもらい、祝福に満ちた生を生きているのです。
 
皆さん一人一人が真に強い信仰をもって、神様から沢山の祈りを叶えてもらう、祝福に満ちた生を生きられますことを心から祈ります。

 

**********(転載ここまで)

 

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聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、アブラハムの直系の血を引き継ぐユダヤ民族でなくても、信仰によって生きるならばアブラハムの子であると認められることを悟りました。

 

そして、神様とアブラハムとの間で交わされた約束は、複数の「子孫たち」(ユダヤ人やアラブ人たち)ではなく、一人の「子孫」(イエス・キリスト)に引き継がれるという解釈が正しいことを知りました。

 

聖地エルサレムは、ユダヤ人とアラブ人たちだけの閉鎖的な領域ではないのです。

 

本来なら聖地エルサレムは、世界中の信仰によって生きる人々のために開かれた、愛と平和

で満たされた地上天国を具現化する場所としてあるべきなのです。

 

今こそ、神様の御心に立ち返り、神様とアブラハムとの間で交わされた契約(約束)の真意を理解する必要があるのです。

 

どうか神様、パレスチナ問題が一刻も早く解決に向かうように心から祈ります。

 

そして、私たち一人一人が信仰によって約束による相続人と認められ、神様の力と権能を授かることができる者となれますよう心から祈ります。

 

どんなにサタンに攻撃されて、否定的に考えるしかないような状況に陥っても、常に神様の愛と神様の力を信じ、神様が必ず自分を助け、幸福にしてくれると信じることができる者にしてください。

 

どんなときも物事を肯定的に考え、希望的に考えて、神様と波長が噛み合う者となれますよう心から祈ります。

 

どうか神様、多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神様に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。

 

サタンや悪人がすべて滅び去り、この世から全ての悪が消滅し、この世が神様の統治する義なる世界となって、千年王国の歴史が速やかに成されていきますことを心より祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.8.13)