前回は『新約聖書』に掲載されている「コリントの信徒への手紙二4章」について考察しました。

 

聖書を読む目的は、御言葉を実践に繋げていくためです。

 

単に、知識を得るためだけに終わってしまっては、宝の持ち腐れになってしまいます。

 

聖書を読むことによって、如何に実践に繋げ、如何に自分の信仰に深みを与えていくかが重要になってきます。

 

単に、物語や歴史的事象を読み解くだけに満足してはいけないのです。

 

如何に己の信仰に活かし、実践していけるかが重要なのです。

 

そのことを、常日頃から教えてくださっているのがRAPTさんです。

 

○RAPT有料記事762(2023年7月29日)全てのよこしまな心をなくし、神様をまっすぐに一筋の心で愛してこそ、真理を無限に悟り、吸収し、サタンに完全に勝利し、偉大な大使徒へと成長できる。

 

 

そのことを念頭に置きながら、今後も聖書紹介に挑んでいきたいと思います。


そこで、今回は、「コリントの信徒への手紙二5章」の本文を紹介したいと思います。

 

コリントは、ギリシアのペロポネソス地方にある都市で、古代ローマ時代には政治の中心地として栄えた所です。

 

コリントの住民としてローマの解放奴隷が入植してきたこともあって、ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人が混住する状況の中、イエス・キリストを受け入れる信徒たちによって共同体がつくられました。

 

しかし、現実にはさまざまな問題や困難があったようで、第一コリントの手紙が書かれた背景には、コリントの共同体の中で不和が生じていたことが挙げられます。

 

そして、第二コリントの手紙では、パウロとその教えを激しく非難する偽教師たちが現れたことにより、パウロは自分が正統な使徒であることをコリントの信徒たちに対して弁護しなければならなくなったことが背景にあります。

 

偽教師たちは、パウロが存命中のイエス・キリストに実際に会っておらず、その弟子でもなかった点を批判の的にしたのです。

 

パウロは直接イエス・キリストから教えを授かったわけでは無いのだから、正当な使徒とは認め難く、彼は大勢いる福音伝道者の一人に過ぎないというのが、彼ら偽教師たちの主張だったのです。

 

そのような批判に対して、パウロはどのように立ち向かっていったのでしょうか?

 

コリントの教会がパウロのことを真の使徒として認め、正しい福音に対して素直な従順さを再び取り戻せるようになって欲しいという彼の切実な願いを感じ取りながら、第二コリントの手紙を読み進めていきたいと思います。

 

以下は、「コリントの信徒への手紙二5章」の本文のみを掲載することに留め、5章の内容についての考察は、次回、このブログで触れることにしたいと思います。

 

(新約聖書〈新共同訳〉より抜粋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コリントの信徒への手紙二 5

1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。

人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 

2わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。 

3それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。 

4この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。

死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。 

5わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。

神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。

6それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。 

7目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。 

8わたしたちは、心強い。

そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。 

9だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。 

10なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 

和解させる任務

11主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。

わたしたちは、神にはありのままに知られています。

わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。 

12わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。

ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。 

13わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。 

14なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

わたしたちはこう考えます。

すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 

15その一人の方はすべての人のために死んでくださった。

その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

16それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。

肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 

17だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 

18これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 

19つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 

20ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。

神と和解させていただきなさい。 

21罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。

わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(コリントの信徒への手紙二5章より)

 

 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.4.30)